きみをつれて 我が家の扉を開けると、好きな人が立っていた。
すきなひと。
コイビトとか、パートナーとか、他の呼び方もあるけれど、流川にとって彼はいつまでもずっとシンプルに、すきなひと、だ。
まだ学生服を着ていた頃。ひたすらに長くまどろみの中にあった日中の授業と、またたく間に過ぎ去ってしまう放課後の部活動だけが生活のすべてだった、あの日々からずっと。
ドアを開けてすぐのところに当たり前の顔をして彼が立っていることを、たまに不思議に思う。現実だろうか、と。ここは流川と三井の家だからなんの不思議もないのだけれど。
「おかえり、楓」
やわらかい声とすこしばかりかさついた手に包まれて、頬にくちびるがくっつく。間近で見る三井の口の端が上がり、鼻孔がひくりと動いた。なにか楽しいこと、面白いことを言いたくてうずうずしている表情だ。流川が仕事に行っている間に、今日は何があったのだろう。
「なんかいいことあったすか」
むふふ、と耐え切れず声を漏らす三井の手を引かれてリビングまで連れて行かれたら、答えがわかった。
「……こたつ」
「おう、これがこたつだ」
この家を建てるとき、流川が場所を決めた。あとは庭にハーフコートを作ること。それ以外は三井の好きにしてもらった。間取りも、壁紙も、家具も家電も。だから、抑えた色調と木目のインテリアでまとめたリビングのど真ん中に突然こたつが鎮座していても、流川にはなんの反論もないのだが。
「なんだよ、文句あんのかよ」
「いや、ないけど。なんでこたつ?」
「そりゃおめー、あれだ。日本人の年末年始はコタツにみかんて決まってんだろ。コタツに入って大晦日は紅白見て年越しそば食べて、正月は朝から酒飲みながら駅伝見んだよ」
日本人として決まっているらしいことを、自分たちはしたことがなかった。ひとつひとつ、叶えていこうということなのだろう。
「こたつ入ったらすぐ寝るかも」
「だろうな。いんじゃね? それもこたつの醍醐味ってやつだろ」
豪快に笑う三井の目尻の皺を見て、すこしの陰りもないことを今日も確認する。カラ元気や体裁を繕っているわけではなく、一緒に暮らし始めてからこの人はいつも幸せそうだ。それがこの上なくうれしい。そして流川の中には、言いようのない不安が雨漏りのしずくがバケツに落ちるように、ぽつんぽつんと溜まっていく。
流川は昨シーズンの終わり、今年の夏の初めに現役引退を決めた。三井はそれより二年早く、現役を退いていた。三井が引退してから一緒に時間をかけて建てたこの家は、海が見える高台に建っている。あまり便利な場所ではないけれど、それがかえってよかった。
学生時代から、ずっとずっと離れて暮らしていた。会えるのは短い夏の間だけ。それでさえ、代表活動で顔を合わせて合宿と試合をこなして、ほんの数日の逢瀬だけで過ぎたオフシーズンもあったくらいだ。
──俺らってコイビトらしいこと、まったくしねーよなあ。
いつだったか、三井がつぶやいた。何年も前の話だ。
──クリスマスも正月も試合だしなあ。誕生日も電話するくれーで。
その通りだった。日本にいたってアメリカにいたって年末年始も誕生日も互いにシーズンの真っ最中。試合がない年はない。思えばよく働いてきたものだ。冬に長い休暇が取れないことはもう当たり前になってしまっていた。
「したいすか、ぽいこと」と尋ねれば、「まあな、でもそれはあとの楽しみにとっておこうぜ」そう笑った三井の、さみしそうなのに曇りのない表情を覚えている。
あとの楽しみ、のひとつが今なのだろう。なんの予定もないクリスマスと年末年始をこの家で過ごす。贅沢だと思う。
コートを脱いで手洗いとうがいを済ませてくると、三井が流川を呼んだ。こたつに入って、機嫌よくにこにことしている。
「外、寒かったろ。ココア淹れた。なんかこたつってコーヒーよりココアが似合うよなーって」
こたつの上にはマグカップがふたつ並んでいる。ひとつは三井の前に、もうひとつはこたつに入る流川を待っていた。いそいそと三井の横に潜り込んだ。両足を入れて、すぐに両手も入れた。帰宅したばかりで冷えていた体が末端からじわっと痺れるようにあたたまる。
これは、かなり、けっこう、いいものかもしれない。
「腹減ったか? 夕食、途中までは用意してっけど、もうちょっとあとでいいか?」
「うん、まだいい」
片手だけ出してミルク色をしたマグカップのふちに口を付けると、とろりとした甘さが舌の上に転がった。
こたつテーブルは楕円形をしていた。角が尖ってるのがいやだったから、丸っこいのにした、と三井は言った。グレーのチェック柄のこたつ布団からは、嗅ぎなれない新品の匂いがする。
もういない祖母の家に、こたつがあったことを思い出した。潜り込んでこんこんと眠った。起きたら全身に汗をかいていた。ほっぺが真っ赤だよ、お水飲みな、と祖母の手が流川の頬をやさしく包んだ。
「なあ、クリスマス、なに食べたい?」
今は三井が流川の手をこたつの中でやさしく擦る。
「チキンて言ってなかったすか」
「それだけじゃ足りねーだろ」
「……ピザ、とか?」
「おまえ今、単なるイメージで言ったろ」
テレビボードの横には立派なおおきさのクリスマスツリーがあった。もちろん三井が購入し飾り付けたものだ。オーナメントも一個ずつこだわって選んだらしい。飾り多くないすか、と言ったら、オーナメントな、と叱られた。
クリスマスプレゼントは予算三千円のものを用意して贈り合う。これも三井が決めた。金額上限を決めないとなんでもありになってしまうから、あえて低予算で相手がよろこぶもの、楽しんでもらえるものを選ぶ、という趣旨だ。そのあとにすぐ訪れる流川の誕生日には、べつに何かプレゼントを用意してくれているらしい。
クリスマスイブまであと三日。難題すぎて流川はまだ準備が出来ていない。思いつくのは三千円分のギフトカードだが、それを贈ったら三井は間違いなく味気ないとむくれるだろう。
街は冷え込むほどにイルミネーションが映え、家の中はあたたかく清潔で、心地よい季節感にあふれている。これ以上どうやって幸せを具現化していいかわからないくらい、ここにはなんでもある。それなのにどうしてだろう、どうしようもなく心細くなる瞬間がある。幸せに置いて行かれているような瞬間が。
飲み終えたココアのカップをテーブルに置き、ばたん、と体を仰向けに倒した。キルティング生地のラグが流川の背中と後頭部を受け止める。
「どした、浮かない顔して。俺、騒ぎすぎか?」
「……んなことねえ、けど」
「たまにそういう顔するよな、おまえ」
三井が自ら作り出す日々の幸せに影を落とさなければいいと思っていた。でも、気づかないひとじゃない。
自分には今、なにもないと思っている。
誰にでもいつかは訪れる瞬間だった。流川が辞めると決めたとき、三井はすこしだけ泣いた。安堵の涙だと言った。もうおまえがケガとかコンディションに悩まされなくてよくなるからほっとしたのだ、と。
三井はすでに未来に向かって邁進していた。今は出身大学のバスケットボール部のアシスタントコーチをしている。コーチライセンスも段階を踏んで取得していて、はっきり聞いたことはないが、将来的にはプロリーグのコーチをしたいのではないか。流川にはそう見えていた。
一度季節が巡ったら、なにも持っていない、自分の戦場で競うことをやめたつまらない男のことを三井はどう思うだろう。もういらないと思うのではないか。きっと手放したくなるだろう。そう思えて仕方ない。
「クリスマスも、年末年始も、準備してはしゃいで、大げさだって思うか? おまえの誕生日はもっと盛大に祝うつもりだけどな」
手が伸びてきて、流川の前髪を梳いた。ゆっくりと、目を閉じた。
「……ふたりでやったことないこと、ぜんぶやったら、次からはもういいってならないすか」
「もういいって、なんだよ」
「飽きない? ってこと」
「飽きる? おまえに?」
三井の声は平坦だった。感情の揺れのない、いつもと同じようによく通る声を目を閉じたまま聞いていた。
まだ子どもといえる年齢のころから、ずっとこの人だけが好きだった。アメリカに行くとき、本気でつれて行きたいと思った。叶うはずもない、口にしたこともない、ばかな願いだ。今だって、いつまでもどこまでも、この人をつれて行きたい。ひとり占めして隠しておきたいからふたりしか知らない遠い場所に行きたい。南の島なんて柄じゃないから、どこか寒いところ、くっついていなきゃ凍えてしまうような寒い国がいい。
あー! と、三井が急に叫んだ。驚いて目を開ける。
目の前にぬっと被さってきた三井の顔を認める前に、頬をぎゅうっとつねられた。左右同時にだ。わりと、本気で、痛かった。
「俺はバスケじゃねえぞ、楓」
その表情は天井から照らす照明の影になっているのに、三井の瞳の中に確かな光が見えた。怒ってはいない、けれど真剣だった。
「追いかけて、しがみついて、努力し続けなきゃおまえから離れていくもんじゃねえだろ」
ひくり、と胸のまんなかが痙攣した。
流川の顔色が変わったからだろうか、三井が頬を掴む指を離した。三井が傷めつけたのに、いたわるように手のひらがするすると流川の顔を往復する。
「俺がおまえと一緒にいたいからいるんだろ。これは俺の意志。飽きねーし愛想もつかさねーよ」
「……でも、俺、なんもねーす、今」
自分でも驚くほどにか細い声だった。かすれて、今にも途切れそうな。
「寿さんにかっこいいところ、いっこも見せらんねー」
できることならいつまでも現役でいたかった。三井と出会ったころと同じ情熱、同じ速度でずっと走っていたかった。好きになってくれたのは、流川楓というバスケットボールばかりを一心に追いかける男ではなかったか。
ばかだな、と三井は笑った。泣き笑いみたいな顔をして。
「いっぱい休んだよなあ、楓。やりたいことあんだろ? 俺、おまえが言ってくれんの待ってんだけど」
願いはあった。夏の間に考えて、秋になったら気持ちが固まって、冬になってすこしずつ動き出していた。それを三井にぶつけていいかは、ずっと迷っていた。
伝えても、いいのだろうか。
流川を覗き込む三井の目が、怖がらずに言ってみろよ、と言っていた。
まさかこんな、こたつに入って寝転んで、自分の弱いところ剥き出しで。すこしはかっこつけさせてくれたっていいのに。
すうっと息を吸い込んで、肺に空気を溜めた。
「──俺、バスケのスクールを、やりたい。子どもを教えたい。ずっとあとでいいけど、専用の体育館、作ったりもしたい。寿さん、俺のこと、ずーっと手伝ってくれる……?」
三井はぱちぱちと二度瞬きをして、ニカッと笑って見せた。
「いいな、それ、すっげー面白そう」
「今の仕事、辞めるのやじゃねえの。トップチームのコーチ、やりたいんじゃないすか」
ラグの上に散らばる流川の髪を、ぐしゃぐしゃと三井がかき混ぜた。
「おまえが俺になんか頼んだのって、ワンオンワンと、一緒に住もうってのと、今のだけだろ。たったみっつ、そんなの、全力で叶えてやるに決まってんだろ」
今度は額にデコピンを食らって顔をしかめているうちに、三井ははーっと大きく息を吐きながら流川の横に寝転がった。
「なんでこんな簡単なこと、言わねーとわかんねーんだよ」
うん、ほんとうにそうだ。ばかだから、言われないとわからなかった。それ以上に、叶う願いも言わなければ届かない。手の中からこぼれ落ちそうだと思っていた幸福という名のきらめきたちは、三井が丁寧に拾い集めてくれていた。
「あーもうだめだ、好きだ、すげー好き。楓、かわいすぎだろ。好きすぎて溶けそう」
いきなりなにを、と問うより先に流川の腕に絡みついた三井が肩口にぐりぐりと額を押し付ける。
あまりに好きになりすぎると形が保てなくなるというなら、それは流川の方だろう。
「スライムみてーにどろどろんなるかも」
「なるの?」
「そ、だからまだ俺が人の形を保ってるうちに抱いておけよ」
急に三井の浮かべる笑みの種類が変わった。上目遣いはなしだと思う。いや、あり、だけど。それより反則なのは、こたつの中だった。つま先を器用に動かして流川の靴下を脱がしはじめるのだ。手は当然のように下半身をまさぐる。
この人は、あの手この手で流川を誘う。何千通りの手管を持つのだ、敵うわけがない。
唾を飲み下しながら顔を上げて、今? と聞けば、流川の胸板に顎を乗せた三井がはしばみ色の目をゆっくりと細めた。腕を使って伸び上がった三井に上からくちびるを塞がれる。床に体を投げ出したまま、キスを受けた。こたつであたたまっていたせいか、三井の口の中もやわらかく熱くとろけるようだった。
「こたつってまったりするせいか、おまえ無防備になんだな。たまんねえ」
三井がふたりで過ごすために用意してくれたものすべてが、流川をほんのすこしだけ切なくさせる。こたつのぬくもりが流川に気持ちを吐露させたのかといえば、それだけではない気がしたが、キスが気持ちよかったからもういいかと思った。
三井の頭に両手を回し、指で耳のおうとつをなぞる。くすぐったそうにもぞもぞと体を捩るのがいつも健気でかわいいから流川は夢中になってしまう。
キスを深めながら、唐突に、クリスマスプレゼントは花にしようと思った。
三千円でどんな花束が買えるのか流川は知らない。種類はたくさん選べなくても、色は選べるといい。三井には何色が似合うだろうか。何色の花を抱きしめて笑う三井を、自分は見たいだろうか。
今まで考えたこともないことをひとつずつ、情けないほどにすこしずつ、考えていこうと思う。今よりもっと幸せな場所に好きな人をつれて行けるように。
(了)