上へと沈む夢 薄らと瞼を開けると、まず目に付いたものは視界一面に広がった「赤」だった。
ごぼ、と口から泡ぶくが吐き出される。大きい泡は金糸の前髪をかきあげるように、小さな泡はひときわ早く小刻みに揺れるように。矢継ぎ早に上へ上へと昇ってゆく。
ここは何処だろうか。
水の中に居るのだろうか。
視界が一面赤黒い。身体は地に足をつけたまま浮き上がらない。足に分銅や鉄塊でも括られたかのように自然に立っていられた。
けれど、目に映る景色はまるで水中である。口は泡と一緒に言葉を吐き、髪が藻みたいに水流に揺れていた。
「また、これか……」
首切迅雷は時折、まるで人間が見る夢のようなものを見る。─────見るようになっていた。
関ノ胎での長期遠征任務の後、なんの前触れもなく同じ光景をたびたび見るようになっていった。それは生活の中で突然だったり、一人で黄昏ている時にじわじわとだったり。法則性などは無いけれど、まどろんで眠りに堕ちるように、夢を見るみたいに意識がここへとたどり着く。
すぅと水の中で手を動かすと、いつもと変わらぬ三指の掌が見えた。自分の手。それを二度三度と握って感覚の有無を確かめ────やはり、感覚は正常なようだった。
顔を上げておっかなびっくり、そろりそろりと歩を進めれば、地上を歩くのと変わらぬ感覚で歩くことができるが、本来は空気であるはずのものが水として身体にまとわりついてくる。鬱陶しいなと思いつつ水を肩で掻き分け、膝で蹴り上げ、首切は得体の知れない水底の世界を行くあても無く進んで行く。
(まるで、血の色だな……。血液を薄めたみたいな色してやがる)
腕に、頬に、しつこくまとわりついてくる水は確かにそんな色をしていた。しかも妙に重たい気がする。自分は血の海の底に、気味の悪い赤黒い世界にたった一人で居るとでも云うのだろうか。
(……首斬刀にはお似合いな色か)
思わずハッ……と息をついた。行き場の無い自嘲と、自己嫌悪感とが織り混ざった短いため息だった。
自分の事がきらいだ。
自分の経歴がきらいだ。
過去を割り切れない自分がきらいだ。
何も捨てられずに十字架を背負ってしまう自分が大嫌いだ。
──なのに、自分が刀神に昇華する原因を作った男の事だけは、どうしてもきらいになり切れなかった。
「なあ、居るんだろう? 関ノ胎の後からこうなるなんて、どう考えたってアレが原因なんだから」
彷徨うように一歩ずつを踏みしめながら、首切迅雷は何も浮かばぬ虚ろな水中に話し掛ける。
何故、己がここへ呼ばれるのか。確信は持てないが見当はついている。ここに『何かが居る』ことも分かっている。だから出て来い。姿を現せと。むかしむかし、勝手に死んで決別した筈の人間に首切は語り掛ける。
「…………いい加減に出てこい。甲斐性なしの臆病者」
喋る度に泡が吐き出されてすこし耳障りだが、ノイズを振り切りながら首切は水中に語りかける。
「なあ? なぁ? サルカゲが手前に化けた時、おれはどんな気分だったか解るか? 最悪な気分だったよ。なんも身構えてねぇとここまで手前のツラ拝んで最悪な気分になるなんて思わなかったよ。きっと、おれの中に残ってる汚ぇモンがグツグツ煮えてっからそうなったんだ、なぁ?」
なぁ? 反芻するようにもう一度、首切は小さく呟いた。
「おれは今さ、手前が死ぬ前願った通りに幸せに生きてる。信頼できる奴が居て、友達も沢山居る。幸せになって欲しい奴らもすぐ近くに居るんだ。いいだろ? そうやって立派に刀神やってんだよ。なのにさ────今さらおれに何の用だよ。 直継」
その名を静かに、だが怒りも込めて呼んだ。キリキリと噛み締めた八重歯が音を立てる。赤黒い水中はただただ虚ろで、何かを答えてくれる事は無かった。
「……今度、ここに招待するならちゃんと出てきてくれ。話くらいさせてくれよ。おれだって……」
────今になっても分かんない事だらけで辛いんだ。
……。
…………。
「……ぁ…………」
薄らと目を開けると、目の前に見知った顔があった。
顔の右側に眼帯を被せた人間の娘が、心配そうにこちらの顔を覗き込んで来ている。寝かされた後頭部は暖かくて、柔らかくて。
「……おはようさん。朱理」
「お、おはよう……あんた大丈夫? うなされてたわよ?」
「あぁ、まぁ……。大丈夫じゃねーの? たぶん」
「たぶんって、それは」
朱理が何かを言いかけた所で、彼女の同居人であり同棲相手でもある男がリビングのドアを開けて入ってきた。
「首ちゃん起きた? マジで大丈夫なの、それ? 刀神がそんな風に寝るの初めて見たんだけど……」
「あっ、捷八! うーん……。最近あんまりこうなる事も無かったんだけど。……慢性的な症状ならやっぱり峰柄衆で診てもらう方がいいかしら」
捷八と呼ばれた男が朱理のすぐ隣にしゃがんで首切の顔を覗き込む。眉根を寄せる程度であまり顔色は変えないが
、眠りこいてうなされる首切を心配はしていたのだろう。ぼそっと「大丈夫か?」と聞いてくる彼に首切はヘラ、と笑いかける。
「大丈夫、大丈夫。つーかひらピー悪いねェ。おめーの特等席取っちゃって」
「や、膝枕なんてやんないし……。いや、そうじゃなくてさ。そんな話でもないでしょ今」
「そうよ首切。あんまりふざけた事言ってるとぶん殴るわよ」
「いやーんこわぁい~。おれを心配しながら言うことじゃなくねぇ?」
「なー。朱理怖いなぁ首ちゃん」
「あんた達ねぇ…………?」
冗談めかしていつも通りのやり取りを三人でしながら、首切はのそり、と朱理の膝の上から頭を退かし起き上がった。未だ少し目眩に近い感覚が残っているが、立って歩くくらいは問題無くできそうだった。数分もすれば、いつものように動けるようになる事だろう。
「おれはさァ、大丈夫だからよォ」
もう一度ヘラヘラと笑った。
なんでもないから、大丈夫だからと。朱理だけではない自分自身に言い聞かせるように。
こんなふうに。ただただ過ぎていくアタリマエと生きていたい。
何にも害されず笑っていられる生活が愛しくて惜しい。
根源として内側に眠るものと向き合う勇気なんか、いまはとても持つことができなかった。