あなたの陽だまりになりたい『あなたを、お慕いしております』
自分を恋慕っていると、まるで吐露するように想いを吐き出した彼は、とても辛そうな顔をしていた。怯えていた。────一体、何にだろうか?
(理由も経緯も違えど、似ているのかもしれません。わたくし達は)
天霧からの告白を受けたあの日より、玉響菊花は己の内側で考えを煮詰め続け、時には他者に寄り掛かり、相談をしながら悩み続けた。
そうしていたら、結論を出した現在に至るまでに二週間近くを費やしてしまった訳なのだが。
白蛇姫からの提案と、冨子の暖かな支えと、緋姫からの力強い後押し────彼女らの言葉は、態度は、誠意は。確実に玉響菊花という一人の刀神の中で何かを変えた。若しくは、本人が気づいてすらいなかった"何か"を呼び起こした。
身になるものは少なからずとも得たつもりだ。と言うよりも、少なからず所では無いほど、彼女らから大きなものを賜ることが出来た。
返答に悩む期間にも天霧を遠目に見かけることやすれ違うことは幾度かあったが、本当にそれだけで、それ以上の事は起こらなかった。玉響が天霧を避けている訳でもなければ天霧が玉響を敬遠している様子もなく。ただ、お互いがお互いへの言葉を切り出さないだけで。
告白の日を皮切りに、仲の良い友人からただの顔見知りに戻ってしまったようで、玉響自身歯がゆい気持ちは大いにあれど、今は、今は……と、結論を急いてしまう事だけはしなかった。そうしてしまえば半端な気持ちで天霧と向き合うことになってしまいそうだったから。
あの日あの時損なってしまった距離感は、まだ己の誠意と態度で取り戻せると、言葉でわだかまりを解けるはずだと、玉響は勝手ながらにそう信じている。本当に自分本位で勝手極まりないのだが。
────きっとまだ、それが可能な領域に自分達は居るはずなのだから。
だからこそ待っていると伝えた。思いの丈を伝える為、二人で最後にお茶を楽しんだあの場所で、わたくしは貴方様をお待ちしています、と。
手元では紙袋がかさ、と音を鳴らした。上質で滑らかな紙で折られた贈り物用の袋だ。
赤く細いリボンで口が留められたそれを、玉響はまるで柔らかいものをすくい上げるように、大事に、大事に持ち上げた。
「いってまいります」
「行ってらっしゃい、玉ちゃん」
玄関に立つ玉響はバディに見送られながら、春の日光が降り注ぐ暖かい世界へと歩み出した。
待ち合わせはいつもの一室────だった場所。そこの窓際にあつらえられた席。
最後にここを訪れて天霧と卓を囲んでから経った時間は二週間ほどだというのに、かなり久しぶりに訪れる場所のような、そんな気すらした。
あの日、茶と茶菓子とミモザの花で賑やかだった卓上には、今は何も置かれていない。ただ、卓を挟むようにして椅子が二つ備えられ、ちらちらと宙の埃を煌めかせながら窓より陽が差し込むのみ。光のせいで白いクロスが余計に白んで見える。それだけは何も変わっていない。変わったのはきっと自分達の距離感だけなのだ。
玉響は茶を淹れる準備の前に陽を遮るべくカーテンを閉めようと紐タッセルの先に手をかけた。が、
(今はいい……今は)
と、変に暗くない方が気持ちは落ち着くと、静かに手を降ろし、持ってきていた紙袋をテーブルの上に一度置いた。
天霧はまだ来ていないのだろうか──。そう思い、壁掛けの針時計を見てみれば、約束の時間はまだまだ先だった。自分の方が急いで先に来てしまったようで、玉響はふ……と笑う。それも自嘲気味に。自分は一体何を危惧し、何を焦っているのだと。静かな室内にため息だけがやたらと大きく響いて、それがなんだか滑稽で仕方ない。
太い針があと一つ歩を進めるまでここで待とう。向こうは自分のことを二週間も待ってくれたのだから。
「……さて」
紙袋の中から湯呑みを二つ、次いで急須を一つ。更には用意してきた────もとい、玉響の相談を受けた緋姫が「ほんのお節介です」と、そう言って預けてくれた和菓子を丁寧に編みかごに並べて……手をピタリと止めた。もう一度、時計を見た。
「今用意したら冷めてしまいそう……。お茶の方もまだにしておきましょうか……」
独り言をそう呟き、せっかく広げた茶器だったが、一つずつ割れないよう、丁寧に中に緩衝材の仕切りを作った紙袋へと引っ込めた。そして一度、紙袋の口を結び直した。細くて赤い、シルクのリボンをきゅっと結んで。
もとより大して前置くものは無いものの、天霧を待つための準備が出来た。
しかし玉響は先に席に着くことはせずに立ったまま───そのまま彼女は、自分が呼んだ待ち人がここへ来るのを瞳を伏せ、静かに待ち続けた。
秒針が規則正しく時を刻む、その音に黙って耳を傾けながら。
今すぐにでも聴きたい、あの低い声が耳に届くまで。
===
「───────……玉殿……?」
瞼を開けると、数歩先の目の前にその男は立っていた。彼はいつものように濁った虚ろな目をしてそこに居て。そして、窓からの陽光を背にその場に佇む玉響をじっと見つめていた。
「……お待ちしておりました。どうぞ、そこへ掛けてくださいな」
その姿を見て、玉響はにこりと微笑む。目が合うと、天霧の左の紅が僅かに揺らいだように見えた。
「……ええ。では、失礼します」
杖を床に突きながら。天霧は玉響に案内されるままに席につく。天霧が歩く度に杖と履物のソール部分がツカツカと床を鳴らした。
「来てくださってありがとうございます。天霧様」
「……呼ばれましたから。あなたに」
「ええ。……呼びました。この前のお返事を、させて頂きたくて」
瞬間、僅かにだが天霧の右肩が上擦ったのを玉響は見逃さなかった。緊張しているのだろうか。世辞にも良いとは言えない血色をした顔はどんより曇ったまま変わらないが、軍帽の下で瞳が伏せられ、薄い唇はきゅっと結ばれ、右の拳は親指を内側に丸め込んで微かにだが揺れていた。
玉響も、そんな彼の挙動を確認しつつ、後に続いて席についた。
「お返事、と言いたいところなのですが、まず先にお伝えしたい事がございますゆえにどうしても回りくどい返答になります……聴いてくださいますか?」
天霧がふ、と顔を上げる。彼はそのままこくりと頷いて膝に右手を当てる仕草をした。
「……ええ。聴きます。どんなに長いものでも。私には時間ならたっぷり、ありますから……」
「わかりました。わたくしの方も本日は非番ですので。……では……先ず時を幾ばくか───今より三百年ほど遡ります」
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これは、玉響菊花という愚かな女の昔話。
そして、玉響菊花という刀神が土地を護り人々を慈しんだ愛しき時間の追憶。そのわずか、一端である。
「わたくしは、はるか昔に一人の人間に恋をしました。妖刀"玉響菊花"の主だった方です。叶うはずのない恋でした。叶えてはならない恋でもありました。その人間がやがて寿命を迎え、結局は何も伝えられぬまま、わたくしと主様はお別れとなりました……」
今でも忘れることはなく、この先も決して忘れる事はないであろう人間との数十年間。村の人々の暖かさや自然に抱かれ過ごした愛しき日の数々のこと。
玉響は淡々と言葉を紡ぎ、なかば緊張しながら話を進めるが、それでも天霧から決して目を離すことなく、しっかりと彼の紅い左目を見据えて己のことを語り進めた。
「わたくしは……貴方様の想いに応えれば、当時のわたくしが抱いていた恋心を裏切ることになると。あの時はそう考え、天霧様からの告白を頂いた際にあのような……酷いことをしてしまいました。本当にごめんなさい。どっちつかずのようで最低だと思います。ですがわたくしは……」
「玉殿。それは────……いえ、続きを……」
どうぞ。と。
それだけ言って、天霧は出しかけた言葉を今は引っ込めた。玉響はそれに甘えて頷き、再度小さな口から言葉を紡ぎ出す。
「わたくしは……玉響菊花は、刀神。土地を護り人々を慈しむ守護の象徴──あの地とあの地に生ける人々にとってのそういう存在でした。主様も最期までわたくしを神様として扱いました。ゆえに、わたくし共は人の子と刀神。……それでいいのだと。そう考えるべきだと言う結論に、ようやくたどり着けました」
『本当にそうか?未練は無いのか?』 と。
目の前で向かい合う天霧が玉響へそう問うてくることはなかったが、他ならぬ玉響自身が己へそう問いかける。これは自己の意思への最終確認であり、自分自身が過去へ施す最後の線引きになるだろう。おそらくは、きっとそうだ。
────だが、もう答えは見つけた。割り切り方も知った。
この男へ抱く本当の気持ちにも、気が付くことができた。
今日のこの選択を悔いる事のないように、前を、未来を見て生きると既に決めた。
「ずっと抱いていた想いは蓋をするべき記憶でもなければ、天霧様からの想いを己から遠ざける為のものでもなかった。あの時代、あの地でわたくしが過ごした時間は、悲しい恋の記憶などではなく、"護り刀の刀神が人を慈しんだ思い出゜としてこの胸の中にしまっておくべきものだと、そう思うことにしました」
──それが、導き出した過去への解。
辛いものしか残らない決別ではなく、護り刀"玉響菊花"の糧となるもの。村を護った誇りとして、背負ってゆくべき宝物として、永久にこころに残すと決めたのだ。
この決断は未練から思い出への変換だ。玉響菊花なりの「覚悟」の証なのだ。
──そして、導き出した未来への解は。
「既にこころは決めました。歩む道を決めた以上、わたくしはもう、迷いません。今のわたくしが向き合うべき方と、きちんと向き合います」
そう言って、言い終わると。玉響はおもむろについていた席から立ち上がった。彼女がとった突然の行動に天霧は少し驚いたような顔で玉響の姿を目で追った。彼女を追う視線はすぐ目の前で止まった。
「座ったままでいて。天霧様が立つとわたくしの背丈では届きませんゆえ」
「は、はい……」
席に座る天霧と、正面から至近距離に立つ玉響。これで目線の位置はほとんど変わらない。
そのままこちらを向いて? と促せば、天霧は椅子に腰掛けたまま、素直にこちらに向き直った。
土色でいかにも血色の悪い肌が、窓より差す光のせいかより白く脆弱なもののように見えてしまう。玉響にとっては天霧のそんな所も愛しいのだ。揺らぐ紅い瞳だって切なく、少しばかり頼りなくて、自然とこの方を護らねばならないと思えてしまう。刀神としての力なんて異能の面でも性能の面でも天霧の方が強い筈だから、おかしな話だろうとは思うが。
玉響は天霧の左目を正面から真っ直ぐ見据え、左手で天霧の大きな右手を、右手で空の左袖を取り、袖口の左、腕の右、と二つを順に重ねてから、白い布手袋に包まれた手の甲に口付けを落とした。ほんの数秒、その無骨で大きな手を持ち上げ、指の付け根にもう一つキスをした。
「……わたくしは今より刀神としてではなく唯一人のおなごとして、貴方様をお慕い申し上げます。天霧様と共に生きて、他愛のない話をして、お茶を楽しんで、天霧様をもっと、もーっと笑顔にしたいのです……! 天霧様にもっと笑って欲しいと、以前より願っておりましたから……」
驚く程にするすると自分の口から言葉が飛び出してくる。きっと、己の内で覚悟を決めた時から既に抱えてきた迷いは消えていたのだ。玉鋼の如く硬く、混じり気ない決意が、今は自分の芯にある。
口付けした手と袖口を握りしめれば、天霧の右手の親指が玉響の細い指の上で僅かに動いた。そんな、繭のゆりかごに包まれ蛹が蠢くような挙動が、それすらも愛おしく思える。
「以上が、天霧様より頂いた想いへ、わたくしからの答えです。貴方様に酷いことをした上ここまで待たせてしまったわたくしですが────どうか、これからも貴方様の傍に在ることをお許しください」
顔を上げ、玉響はもう一度天霧の瞳にたたえられたその紅を見つめた。
雲の掛かった曇天を穿つ陽光のごとく、淀んだ紅を射抜くよう、まっすぐと。
黄金の瞳は、もう迷わない。