準多面体 おれを選んでくれてもいいだろ。
マーヴェリックは己の胎の底から時々湧き上がるどす黒い感情が恐ろしくて堪らなかった。
グースのことが大好きで、幸せでいてほしくて、きっとその形はもう体現されていて、それはグースとキャロルとブラッドリーという完璧な家族の形なのだった。仲睦まじい三人を眺めると、まるで自分も“家族”の一部を構成する何かになれたように感じた。実際にそうだと手を取られても、どこか内心で否定してしまうくせに。「あなたも家族よ」なんて心温まる言葉に、曖昧な笑顔で応えることしかできない。謝意を抱きながら、頑なな心がズシリと重くなる。
グースがキャロルの腰を抱いて口づける光景は美しかった。ブラッドリーを抱え上げて鼻先をくっつけるのは慈しみに溢れていた。
大好きで大切なグースが、大好きで大切な家族に囲まれている。こんなに幸福なことがあるだろうか。
おれだって、グースに、選ばれたい。
「マーヴ」
差し伸べられる手が嬉しくて、それなのにこの手のひらはおれだけを抱きしめるのではないという事実を快く思っていない己に気づく。どうして大好きな人の好意に喜ぶだけの人間になれなかったのだろう。どうして愛しい人の純粋な幸せを心から喜べないのだろう。浅ましい願望が胎の奥深くに根付いている。
キャロルの腰を抱いていた手が離れたことに安堵する。か弱き小さな者を愛する伴侶に託して近づいてくるグースの姿に仄暗い充足を感じる。
最低だ。
「マーヴ、ほら」
来いよ、と伸ばされた手を取っても、連れて行かれるのは煌びやかな家族の中だろう。彼らの輪に入ることがどんなに乾いた心を満たして、どんなに多くの傷を刻まれるというのか。
傷つくのは身勝手だった。
感謝すべきだとわかっているのに。与えられる善意に、濁った感情が蠢く。
いつの間にか自分が望んでいるものの姿は歪んでしまっていて、見て見ぬふりをするにはあまりにも奇妙な歪さだった。いつまでも美しい家族と愛するグースの幸福だけを祈っていたかった。
(おれを、選んで、)
「飲みに行こうぜ。その後お前んちに泊まるから。いいだろ?」
友人同士が交わす他愛もない言葉さえ嬉しかった。
まるで、グースに選ばれたような錯覚。
「……しょーがねぇなぁ」
(お願い、)
手のひらを重ねる。ぎゅう、と握られた手に心ごと救われる。
(おれを、)
握り返す。グースの笑顔が一際明るさを増した気がした。
(お願い、グース。世界で一番、幸せになって)
瞳の中には、おれしかいない。
(どうかあなたの幸せを願わせて)
―――
マーヴェリックの願いが“グースが世界一幸せになること”だと気づいたのはいつだったかとグースは思考を巡らせた。
しかしそんなことをいくら考えたところでマーヴェリックの願いが他に向く兆しはなく、それはグースの願望を実現するための一番の枷だった。
俺は、お前を選びたいんだけど。
最低だった。妻がいる。息子がいる。あたたかな家庭がある。
キャロルとの出会いはもうずっと前だった。昔馴染みで古い付き合いがあった。狭い田舎暮らしで、彼女と平凡だけれども幸福な家庭を築くことはごく自然な流れだった。
妻を愛している。息子を愛している。
「グース、つまみはどうする?」
「マーヴが食いたいものは?」
「パンケーキ!」
「……つまみか?」
幼いやり取りは無邪気で無垢だった。愛おしいという感情がぴったりだった。
マーケットでの買い物では、はぐれないようにと手を繋いだ。何度も訪れている馴染みの場所ではぐれる可能性など万に一つもないくせに、己の手のひらが一回り小さなマーヴェリックのそれにぎゅうと握り返されるのが嬉しくてやめられない。小さな指先がきゅっきゅと力を籠める度にマーヴェリックの純粋な好意を想った。
マーヴェリックが少なからず自分に懸想していることは雄弁な瞳と子供じみた態度でわかっていた。それなのに気持ちを押し殺して“グースの幸せ”を願っているマーヴェリックがいじらしくて堪らなかった。言葉にならない「おれを選んで」を何度聞いただろう。
それならば、とグースがマーヴェリックを選んだ態度を示そうとしたことは数えきれないほどあった。その度に受け入れられることのない行動だと簡単に予想できてしまい、二の足を踏み続けている。グースがマーヴェリックを選ぶことを、マーヴェリックは“グースの幸せ”を壊したと絶望するからだ。
絶望はマーヴェリックを俺から遠ざけてしまう。最も危惧することだった。俺の傍から、手放したくない。
「なぁグース。今日、泊まるのか?」
「そう言っただろ」
「へへ、そっか」
ふにゃふにゃに蕩けた頬が柔らかそうで、実際につまんでもやっぱりやわらかくて、これは俺だけのものに違いなかった。俺以外のものにするわけにはいかなかった。
きっと俺が手放すことさえできればマーヴェリックは他の幸せを掴めたかもしれないのに、それを赦せない。俺はマーヴェリックみたいに純粋に愛する人の幸福を願えない。俺の傍で幸せになってほしい。俺が、幸せにしたい。
「ひゃにすんらよっ」
「ははっ、やわらけ~」
「ぐーすっ!」
今宵も抱きしめて眠るのだ、この愛おしい存在を。やわらかな頬に口づけて、あたたかな体を胸に抱いて。
お前が幸せな夢を見て安らかな眠りにつけるようにと祈りながら。
妻を愛している。息子を愛している。
免罪符のように繰り返す。偽りのない気持ちだった。
けれど永遠の愛を誓ったその後に、一層愛おしい存在に出会ったとき、人はどうすれば良いのだろう。
敬虔な十字架は今日も胸元で鈍く光っている。
ズシリ。重さが増した気がした。