ペールブルーの嫉妬 所用――とは名ばかりのマーヴェリックに関する小言で呼ばれた説教時間も終わり、グースは教官の執務室から廊下へ続くドアを開いた。再度室内に向き直り敬礼をしたところで、パタパタと忙しない音が近づいてくることに気づく。音の方向で小さな頭が上下しているのが可愛い、と緩みそうになる頬を引き締めるためにぐっと眉間に皺を寄せようとして失敗する。普段の虚勢を張った姿から一変して、とてとてとこちらに向かうマーヴェリックはとても二十代の男とは思えない程にあどけなかった。ほんの数十分離れていただけの愛おしい存在に、グースは結局己の頬がだらしなく笑みを作ることを許した。
「マー……」
ヴ、と声を掛けようとして、ふわふわとマーヴェリックの首元を彩る鮮やかなスカイブルーが視線を奪う。
そんなもの、さっきまで着けてなかっただろ。
今しがた感じていた甘い心地が濁りを帯びる。自分の見ていないところでマーヴェリックが己以外の何かに染まることが許し難くて自然と顔が険しくなるのを感じ、慌てて普段と変わらない笑顔を作ろうと苦心する。いつからマーヴェリックに対してこんなにも狭量になったのかわからない。或いは初めから、この危なげな一匹狼を手元に置いた瞬間から、すっかり心の広いニック・“グース”・ブラッドショーではいられなくなったのかもしれない。
マザー・グース、なんてよく言ったものだ。
「グース! 終わった?」
帰ろうぜ、と嬉しさを顔中に散らした眩しい笑顔を向けてくるところはいつものマーヴェリックと何ら変わらないのに、異物のように絡みつく一片の青いリボンが煩わしくて仕方がない。軽やかに翻る愛らしいリボンなど微塵も似つかわしくない場所で、服装で、硝煙とオイルと汗や埃に塗れた俺たちの中で、その色だけが、異質だ。
「グース?」
マーヴェリックと離れていたのは、たった数十分の空白の時間だった。
俺が離れている間に、誰がお前に触れたんだ?
見覚えのある色がちらついて、焦燥を掻き立てる。
「グース? 帰らない、のか?」
不安げに見上げてくるくらいなら、そんなもの着けなければいいのに。
苛々とささくれ立つ己の心を慰めたくて、マーヴェリックの腰に腕を回し抱き寄せる。近づいたつむじに触れるだけのキスを落として、何でもない風を装うために深呼吸がてらひとつ溜息を吐いた。眼下に映る青いリボンの下から覗く赤い痕は、昨夜戯れにつけたものに間違いはなさそうだったけれど。如何せんそれを隠すようにして結ばれた頼りなげな細い紐が気に入らない。
あぁ、いつ、咎めてやろうか。俺以外の男に触れさせたことを。
「いーや、帰る。さっさと帰ろうぜ。俺もう腹ペコペコ。飯食いてぇ」
マーヴェリックの少し硬い髪の毛をくしゃくしゃに掻き混ぜれば、不思議そうな瞳が上目遣いにグースを映した。小さめの手のひらでおざなりに髪を撫でつける姿は、この男を年齢よりも随分幼く見せる。それが庇護欲を誘うのだからたまらなく愛おしくて、そのことがグースの心に灯る不安をも大きくしていた。
「うん……? どっか食いに行く?」
「んー……、お前んち、行っていい?」
「え、でも、何もないぞ?」
きょとんとする仕草さえ可愛くて、これだから少しの間でも手放すことが恐ろしくて、どれだけ周囲を牽制したって足りない。
マーヴェリックの言う「何もない」が、本当に他意なく食べるものなど何もないと言っているとわかっているのに、後ろめたいことでもあるんじゃないか、なんて考えるのは紛れもなく言い掛かりだった。マーヴェリックが懸想している相手が己であることなどグースは疾うに知っているくせに、何もしないまま放っておくのも狡いのかもしれない。
だけどそれなら、お前が誰かに触れるほどの距離を許したことは咎められることじゃないのか。
「何か買って帰ればいいだろ」
「でも、」
「俺が部屋に行ったらまずい?」
「んなことはないけど……」
頭上に疑問符を浮かべたマーヴェリックが「まぁいいけど」とぼやきながらぎゅっとグースのフライトスーツを握った。頼りない指先が布地に絡む。不安を感じたマーヴェリックが無意識にする癖だった。
そんな不安な顔をさせたいわけじゃない。ちゃんと安心させてやりたいのに、どうしたって嫌な予感が奥の方から心をチクチクと刺激して上手くいかなかった。どうにかやり過ごそうとして再度漏れそうになった溜息を飲み込む。
「じゃあ決まりだな」
ニカッと笑って頭を撫でてやる。不安げに眉を寄せていたマーヴェリックがほっとした表情を見せたのも束の間、何か違和感を覚えているのか震える指先がグースを離すことはなかった。
―――
「それで……。マーヴ、俺に何か言うことは?」
適当に見繕って購入した食材をテーブルの上に乱雑に投げたままマーヴェリックの腕を引いてソファに座らせる。揺れるアースアイが縋る視線を寄越すけれど、何ひとつ弁明になっていない。
「何か、って、……? えっ、と、」
全く心当たりがないのか大きな眼で困惑を伝えてくる。雄弁な瞳が「どうしたらいい? どうしてグースは怒ってる?」と問いかける。懸命に答えを導きだそうとしているマーヴェリックがウロウロと視線を彷徨わせる度に、涙の膜が少しずつ広がっていく。声にならない吐息が乱れて二人の間を不規則に湿らせた。
「これ、何だ?」
「っ、ぁ……、」
マーヴェリックの首に巻き付いている薄青の紐をグイと引っ張れば、頬を赤く染めたマーヴェリックがはくはくと口を開閉させて言葉を探し始めた。顔を赤らめて釈明の弁を見つけようとするマーヴェリックに、グースの腹の奥でずっと燻っていた苛立ちが再び頭を擡げようとしている。
「誰が着けた?」
お前が自分で? とリボンを引く力を強めて問えば、ふるふると首を横に振られる。
「カザンスキーが……」
ほらみろ。
不機嫌を隠すなどという無駄な努力を諦めたグースが、大きく嘆息してリボンから指を離した。
「ぁ、ちが……っ、グース、違う。ごめん、違うんだ」
「は? 違うって、何が? 俺はまだ何とも言ってないけど」
「そ、そう、だけど……」
えっと、だから、と口籠るマーヴェリックの姿が、まるでアイスマンを庇おうとしているように見えて腹立たしさが増す。
このリボンの入手経路はわからないし、こんなものをアイスマンがわざわざ大事に持っていたとは考えられない。どうせ何かの包装の一部だとか、そこいらにあった紐の切れ端なんだろうし、大きな意味なんてひとつもないのだろう。マーヴェリックの首を彩ったのだって、きっとスライダーなんかとの悪ノリの延長だと容易に推測できる。
それでも。
鮮やかなスカイブルーが、アイスマンの透き通る瞳を思わせる色が、一種の宣戦布告なんじゃないか、と嫌な予感を抱かせる。
これをマーヴェリックの首に巻きつける時に、首筋に残るキスマークに気づかなかったとは考え難い。付けられていたマーキングの上にわざわざ重ねてマーキングする自己主張の激しさ。
全く、これだからアビエイターってやつは嫌なんだ、と不貞腐れがちに考える。RIOが見えないところから指示をして手を回す存在なら、パイロットは自らの手で敵を討ち取ることさえしてみせる。手を下す決定権は、いつだってパイロットが握っている。
敵だ、とは思いたくないけれど。
「グース? えと、違う、ん、だ。カザンスキーが、グースに、プレゼントって」
なかなか言い出すタイミングがわからなくて、と言い訳をするマーヴェリックは、この一連の出来事に対して全く何も疚しさなど思い至っていないのだ。
グースはマーヴェリックのその鈍感さに救われるようで、同時に簡単に他の男に近づかせた距離感が心配になる。お前はもっと警戒心が強い狼だっただろ。もっと大袈裟に「俺のものだ」って書いておかないとわからないのか?
「マーヴ。これ、解くぞ」
「ぁ……、うん、」
「他の男に貰った物を身に着けるな」
思いのほか不機嫌に低い声が、ぶっきらぼうな言葉を一段と嫉妬に塗れたものにさせた。
シュル、と滑らかな音をさせて解けたリボンの後に見える赤い印が昨夜よりも薄くなっているのが気になって、舌を這わせてちゅう、と強めに吸いつく。彩りを取り戻したそこを更にひと舐めする。
「そもそも、プレゼントってどういうことだ? なんであいつからお前を貰うんだよ。お前は俺のものだろ」
「……う、うん……そう、だよな……」
頬を染めて涙で目尻を湿らせた潤んだ瞳が光を反射した。
「マーヴ?」
「おれ、グースのもの、だよな?」
喜びと不安が綯い交ぜになった涙目に囚われる。
そうだろ。他に何があるって言うんだ。あぁ、まさか、そんなくだらないことで。
「当たり前だろ。お前、俺じゃない誰かのものになるつもりなのか?」
ちゅ、ちゅ、と安心させるように涙が溜まった目元に口づける。少しずつ蕩けていくマーヴェリックが、小さく「よかった」と吐息を零した。
明確な愛の言葉のひとつもかけてやれなくて、だけどお前は俺のものだって傲慢な独占欲だけを口にする。手放すつもりなんて更々ない。それだって、本当はマーヴェリックが許すのなら、いくらだって愛してるって言ってやりたいのに。
「ううん。おれ、グースのもの、だから」
えへへ、と嬉しそうに笑う姿は、俺の前だけで見せてくれたらいいんだ。
子供をあやすように額にそっと唇をあてる。
だから、他の奴に、こんな距離を許すなよ。
お前は俺のものなんだから。こうやって、俺だけを視界に映していればいいんだ。
どうやって殊更大きくマーキングしようかとマーヴェリックの唇に指先を触れさせたところで、安堵したマーヴェリックの腹が鳴った。これ以上マーヴェリックに負担をかけるのも申し訳なくて、グースはこれから訪れる長い夜の前に腹拵えをすることにした。マーキングについては、腹を満たしてからゆっくり考えればいい。
テーブルの上では放っておかれた鮮やかなチョコミントフレーバーのアイスクリームがすっかり歪に溶けてしまっている頃だ。
あぁ、馬鹿な奴だな、と誰に向けるでもない苦笑がグースの口元に浮かんだ。