INEVITABLE1.バスケが上手い子
1986-87シーズン、レイカーズが80年代で4度目の優勝を果たした。
マジック・ジョンソンのNBA8年目、5年間で4度目のアシスト王、初のレギュラーシーズンMVP、Golden Eraと呼ばれるに相応しいシーズンだった。
しかし、部室のパイプ椅子に置かれたバスケ雑誌の表紙を飾るのはジョンソンではない。同年、トップスコアを叩き出し、オールスターウィークエンドに行われるスラムダンクコンテストで優勝をしたマイケル・ジョーダンだ。
メディアの偏りを感じるほど彼のいるチームは一際注目を集め、その人気に引けを取らない傑出した身体能力とゲームコントロール。にわかになるのも頷ける若きスターの誕生をバスケに熱中する者全てが目にした瞬間だった。
そういったヒーロー的な存在に影響されてなのか、彩子がいる富ヶ丘中学校バスケ部は例年より入部が多かった。
男子はまだしも、女子は全中へ出場できるほどの強豪ではなく、県予選の初戦敗退、勝ち進んでベスト16が最高成績だった。
部活動の中でも特にバスケ部は一番練習がきつく、ミニバス経験者が多い。だから未経験の生徒が多く入るのはNBAの盛り上がりの影響もあるのだと、少なくとも4月の仮入部の時点はそう思っていた。
「もう流川くん来てるって」
「嘘!今日隣のコート男バスだっけ?」
バッシュの紐を結びながら最近ハマっている歌を口ずさんでいた彩子は後輩の色めき立った声に思わず口を閉ざした。
耳にタコができるぐらい聞いた「流川くん」こと流川楓は男子バスケットボール部の新入部員だ。
1年生にして170cm以上ある身長を持ち、仮入部時点で2、3年生に混じりミニゲームで2桁得点を決めたと、4月はその噂で持ちきりだった。彩子もその姿を何回か目にした事があったが、遠目から見ただけでも存在感は圧倒的だったのを鮮明に覚えている。
1年生の練習はランメニュー、フットワークで始まる。そこからハンドリングやドリブル練習で徐々に体を慣らしていくが、流川はその基礎が既に備わっていた。
実力者であるというのが一目で分かる綺麗なシュートフォームは足の位置からタイミング、ボールの軌道からフォロースルーまでも完璧で、ミニゲームで無双ができるのも頷ける得点能力を秘めていた。
シュートフォームが安定していない事で苦戦している自分とは天と地ほどの差だ。
『流川楓。バスケが上手い子』
その時から彩子が流川に抱いた印象は実にシンプルだった。
2年の夏は今まで経験した事がないぐらいの猛暑だった。30度に迫る気温での体育館練習は地獄のようで、体調不良で早退する部員もいた。
体育館屋根の軒下には日陰がある。海風が入ってきて、涼むには最適の場所だった。練習終わりに同学年の女子たちが集まって他愛無い話をしていたが、まだ暑さで頭が回っていなかった彩子はその会話をただ傍観する事しかできなかった。
テレビ、アイドル、好きな人、愚痴や噂話。耳に入ってくる情報は夏休みに突入しても学校にいるような感覚になる。
止まないお喋りは駅前のファーストフード店で続けるようで、彩子も誘いを受けたが、聞いているだけで疲れてしまったので「まだ練習をしたい」と理由をつけて断った。
「彩子、まだ残るなら体育館の鍵閉めお願いしても良い?男バスも練習終わってみんな帰っちゃったから」
「あ、はい!大丈夫です!」
思いの外長くそこで涼んでしまったようで、非常口から顔を出した先輩が体育館の鍵を差し出してきた。
日が暮れ始めて体育館には照明が点いていた。日中の茹だるような暑さが嘘みたいに和らいで、練習に集中するには最適な気温だ。
鍵を職員室へ返却する門限までまだ時間がある。そう思った彩子は転がって仕切りのネットに絡まったままのボールを手に取った。そのままジャンプシュートでゴールを狙ったが、無意識に肘を下げてしまっていた所為で軌道が乱れ、ボールはリングに弾かれてしまう。
フリースローラインのあたりでバウンドしたボールを再び手に取って何本かシュートを打った。数分続けると息が上がって、額から汗が滴り落ちてくる。
最後にレイアップシュートの練習を少しして帰ろう。
そう決めて転がったボールを拾おうとした瞬間、彩子よりも先にそれを拾う手が視界に入った。
「あ、流川楓!」
(ヤバ)
無意識にフルネームを言ってしまい、慌てて口元に手を当てた彩子に当の本人は目を丸くしている。
練習着にスポーツバッグを肩に掛けた姿を見れば、彼も今から帰るところなのだろうと予想がつくが、誰もいない体育館に引き返してきた理由までは分からなかった。
ボールを持ったまま無言の流川は何を考えているのか分からないほど無表情だった。思い返してみれば、体育館に響く掛け声の中に流川の声が混じっているのを聞いた事がなかった。試合運びも淡々としていて、他部員とコミュニケーションをとっているような姿も見た事がない。
グラウンドでの走り込みもしているはずなのに、日焼けとは無縁だと言わんばかりの白い肌に、均整のとれた顔立ちは黒い髪の毛と相まってはっきりとしている。何よりも印象的だと思ったのはその瞳だった。鋭い線を描いた切れ長の瞳はやや三白眼気味なのか、黒い瞳に力強さと冷たい印象を与える。
「えーと、何か忘れ物?」
あまりに無言が長すぎて、気まずくなった彩子は体育館を見渡して流川がここに来た理由を探した。相変わらずがらんとしていて、綺麗に片付いた体育館には見る限り何もなく、強いていうなら流川が取ったボールが片づけ忘れた唯一のものだ。
「別にそういうんじゃない」
そう素っ気なく口にした流川はようやく拾ったボールを彩子に手渡した。
受け取ったボールを抱えながら、彩子は唖然とした。
理由がはっきりしていない事よりも、当たり前のようにタメ口を使われた事に衝撃を受けたのだ。
部内での上下関係はかなりハッキリとしている。これは勿論バスケ部に限った事ではない。練習で1年生がしばらくボールを触らせてもらえない事や、挨拶をする時は学校ですれ違った時も、頭を軽く下げる必要性があるとシビアなルールが敷かれているぐらいだ。その中でも敬語は基本中の基本だった。
(バスケの才能はズバ抜けてるけど、それ以外は無知みたいね)
「戸締りするから早く帰ってくれると有難いんだけど」
「……アンタは」
「アンタ?!」
相手は同じバスケ部でも男バスだし、これから先関わる事もないだろうからと先輩らしい態度をとるのを諦めてスルーしようと思っていたが、流石の彩子もアンタ呼ばわりは見逃せなかった。
盛大にため息を吐いて呆れている彩子とは対照的に、何も察していない流川の態度は相変わらず飄々としている。練習試合を見ながら1年生とは思えないぐらい堂々としていると、感心していたが、もしかしたらバスケ以外の事には無関心で鈍いのかもしれない。
「彩子って名前があるの。それと、先輩には敬語は使わなきゃダメじゃない。せっかくバスケが上手いんだからそういうとこ勿体無いわよ」
「別に俺は…」
「なに?この期に及んで言い訳しようってわけ???可愛くない」
流川楓がどんなにバスケの上手い子だったとしても、彩子にとってはただの後輩なわけだし、少しぐらい先輩らしい注意をしてもいいのではと思った。
(こういうタイプには何言っても響かないか。)
「いいから早く帰って。忘れ物したわけじゃないんでしょ」
「肘」
「?」
「利き手の肘はもっと内側に閉めたほうがいい…っす」
小さく頭を下げて去っていく背中を彩子はしばらく放心状態で見つめた。
部室からわざわざ体育館に引き返した理由がまさかフォームのアドバイスの為だとは流石に考えなかった事だ。いかにも他人に無関心そうなのに。なぜよりによって喋った事もない自分なのか、検討もつかない。
持っていたボールに視線を落とした彩子はゴールに体を向けて、一つ息を吐く。そのまま持ち上げ、アドバイス通り肘を閉じてシュートを打つ。
綺麗な弧を描いたボールはリングの中心に落ち、ネットを揺らした。
それは悔しいことに彩子バスケをやっていて一番迷いや不安がない、確信を持てたシュートだった。
2.プレイヤーとマネージャー
彩子にとって湘北への入学はあまり計画的なものではなかった。
成績はそれほど悪いものでもなく、もっと上の高校へ行けるのに、と担任の先生に他の高校を勧められはしたものの、どれも魅力を感じられず、自宅から安心して通えるという単純な理由で決めたのが湘北だ。
バスケ部の引退と同時に本格的に受験生になると、放課後に聞こえてくる部活動の掛け声さえも懐かしいものとなっていた。
引退試合を終えた夏の悔し涙も、バスケが好きだという気持ちも本物だったが、高校では続けないつもりでいた。
プレイヤーとして単純に向いていなかったし、やはりする事よりも見る事の方が好きだと3年間で痛感したのだ。
「この間海南の関係者が来てたらしい」
「でもあいつまだ2年だろ?」
その頃になると流川の知名度はさらに上がっていった。スコアラーとしての才能にさらに磨きをかけた男は、強豪校が喉から手が出るほど欲する逸材。早々に口説きにくるのは頷けるほど富中ではずば抜けていた。
シュートフォームのアドバイスを受けてからすれ違うと挨拶を交わしたり、時折彩子からコミュニケーションをとったりと、ただ名前を知ってる人から同じ部の先輩後輩ぐらいには関係性にも変化があった。
それに最初の尖っていた印象とは違って流川楓は案外面白い男だった。
無表情なのは変わらないが、校門で会うとかなりの頻度で寝癖をつけていてぼけっとしている事が多い。試合に寝坊で遅刻した、と同学年の男バスから聞いた事があったが、朝がめっぽう弱いのは本当のようで、それはバスケに集中している時と真逆の雰囲気を纏っていた。
それでいて、かなりの負けず嫌いだった。チームプレイには欠けるが、勝ちにはかなりのこだわりがあるようで競り合っている時の状況であるほど穏やかではないのが目に見えて分かる。
冷めてそうに見えて時折見せる人間味みたいものが、彩子はとても気に入っていた。
(きっと凄い男になるわね)
何よりも彼のプレーを見るのは楽しかったし、成長を見られないのは少し残念だ。
久しぶりに体育館の近くを通った彩子は開いた扉から聞こえてくる男バスの掛け声に足を止め、少しだけ覗いてみた。
つい最近までここを利用していたのに、まるで遠い昔の事のように思える。
音も匂いも全てが懐かしい。
何も変わっていないのに、少なくとも彩子が最初に目にした時から流川の動きは成長している。
シュート練習で体育館に響き渡るドリブル音が激しくなると、リングから弾いたボールがいくつか飛んできた。慣れた手つきてボールを取って、コート側の下級生の方へ投げると「ありがとうございます!」と元気な声が返ってくる。思わず口元を緩めた彩子の前に再びボールが転がってきて、それを拾い上げると突然目の前に大きな影がぬっと現れた。
流川だ。
無表情で見つめる黒い瞳と、ボールを拾う光景には既視感がある。立場が逆転した事と、人がいるというだけで、シュートフォームを指摘されたあの時と似ている状況に思わず笑いが溢れた。
「頑張ってるじゃない、流川」
「…チワス」
相変わらず愛想のない挨拶だったが、初期に比べると随分と後輩らしい。
片手から軽く投げたボールを受け取った男は早々に練習に戻ると思ったが、なぜかその場に立ち止まったまま動こうとしなかった。
「?何よ、何か言いたい事でもあんの?」
「どの高校のバスケ部に行くんすか」
まさかそんな事を聞かれるとは思わなかった。初対面の人間にタメ口を使ったり、アンタ呼びしたり、シュートフォームを指摘した時もそうだったが、彩子がどの高校でバスケをするのかなんて興味がなさそうなのに。
「湘北が第一志望。でもバスケはしないつもり」
「元々センスがなかったしね。あんたもそれ分かっててシュートフォーム教えてくれたんでしょ?」
「そういうつもりで言ったんじゃない」
即答の低い声が廊下に響き渡って、思わず体がびくりと反応してしまう。
見上げると流川は自分が思った以上に大きい声を出したことを自覚したのか、途端に気まずそうな表情をした 。
もしかして自分の所為で辞めると思わせてしまっただろうか。
「嫌になったとかそういうんじゃなくてさ。辞めるのは前から決めてた事なんだ」
「あんたの事はこれからも応援してるわよ!頑張ってよね!!」
持ち前の明るさで笑いかけた彩子が腕をぽんぽんと叩くと、流川は静かに頷いた。
彩子がプレイヤーとしてではなく、マネージャーという位置で湘北バスケ部に入部したのは自分でも想定外の事だった。
「バスケが好きなのか?」
男子バスケ部マネージャー募集の要項が目について思わず立ち止まった時、背後から大柄の男子生徒にそう話しかけられて、あまりの迫力に息を呑んだのを覚えている。
そして彩子はクラスのNBA好きな男子が言っていた事をすぐに思い出した。
『「2年にデビッド・ロビンソンばりの体格を持ったセンターがいるらしい」』
すぐにその人物だと一目で認識することができた。高校生とは思えない貫禄にしばらく言葉を失っていたが、真剣な眼差しにハッとす
「富中でバスケ部でした。見るのは好きです」
「2年の赤木剛憲だ。もし興味があるのなら、マネージャーとして来てくれると助かる。全国制覇を目指してるんだ。練習に集中できる環境を整えたい」
マネージャーがいないというのは聞いていたが、募集したい理由に「全国制覇」を出されるとは思ってもみなかった事だ。
彩子が出会う人はどうしてこうもバスケに真っ直ぐなのだろう。流川もそうだったが、出会ったばかりの赤木もだ。その瞳は真っ直ぐで、大きな目標であっても自分にはできると信じて疑わない。
もしかしたら、プレーするわけでもなく、ただ見ているだけでもなく、何か違った形で力になるのではないか。引退してからのもやもやとしていた感情が一気に晴れていくような感覚があった。
『 「どの高校のバスケ部に行くんすか」』
あの時、流川にそう聞かれて正直後ろめたさがあった。
こんなところで諦めるんだ、そういう風に思われたくはなかった。一生懸命頑張っていたからこそ芽生えた自尊心。彩子は少なからずバスケに対しての未練があったのだ。
「先輩、入部って今からでも間に合いますか?」
思わずため息を溢した。
入学してまだ一月も経っていないというのに、すでにその視線のおかげで落ち着かない。
彩子は正面を向いていた体をその元凶へ向けると、机の上に頬杖を付いて慌てた様子の男をじとりと見つめた。
「なによ、じろじろと。落ち着かないんだけど」
「あ、いやっ。あははは」
後ろ髪を掻きながら顔を赤らめたり、にやついたりしている男、宮城リョータ。
クラスでも既に目立つ存在の彼は入学早々バイクで校舎に入り、生徒指導を受けた強者だ。周囲の男子と比べるとやや身長は低いが、右耳につけたあピアス、フェードカットにパーマというビジュアルでクラスの一部からは恐れられている。既に高学年の不良からは目をつけられているようだし、彼がバスケ部入部希望者というのは俄かに信じがたかった。
「アヤちゃんはバスケ部だったんだよね?なんでマネージャーなの?」
数日の停学を受けていて、ようやく登校してきたかとおもえば、個人的な自己紹介をしてきたり、電話番号を聞かれたり、誕生日、趣味、好きな音楽、果てには好きな男のタイプまで、人懐こい犬のように彩子に積極的に話しかけてきた。
しかし、宮城はこの日初めて彩子にバスケの話を振ってきたのだ。
机の横にかけてあるバッシュは年季が入っているし、没収を免れたバスケ雑誌は相当読み込んだのか、既にボロボロだ。どうやらバスケが好きなのは事実らしい。
「センスがなかったから中学で辞めたの。ただ見るのはすきだったから。それで」
「じゃあ俺のプレーみて!実力は試合でも通用するからさ!」
「まだ入部もしてない癖に何言ってんだか」
「俺はいずれ神奈川No.1ガードになる男だからね」
あまりの自信に呆れ果てたが、その一言で素行の悪さはともかくバスケに対しては実直な男であると言うのが分かった。
「流川が湘北?!」
口にしたばかりのアイスティーを飲み込んで、声を上げた。
流川とはあの自分がよく知っている流川の事か、と至極真面目に質問をする彩子に友人は「流川と言えば流川楓しかないでしょ」と偏向的な返答を口にした。
休日の昼下がり、ファーストフード店で他愛無い話をしていたのだが、ここ最近で1番衝撃的なニュースが飛び込んできて動揺を隠せない。
彩子もマネージャーとしてバスケ部に入って、かなり慣れてきた頃だった。インターハイが終わり、3年生が引退し、肌寒さを感じるようになって選手が受験に舵を切る時。
高校生活でも湘北近隣のバスケの話題となると必ずと言っていいほど流川の名前が出された。大舞台での活躍、試合に勝つたび更新される1試合の最多得点、注目選手として雑誌で紹介、スター性を秘めた彼だからこそニュースはその都度流れ込んできた。
どう考えても流川ほど選手であれば強豪校から引く手数多でスポーツ推薦でどこでも入れるはずなのに、湘北を選ぶ理由が彩子には分からなかった。
「よかったじゃない。流川が来ればかなりの即戦力になるし」
「彩子も可愛がってた後輩だしね」
そういう問題じゃない、と口にしそうになったが、よく考えてみれば友人のいう通りだ。
インターハイ神奈川県予選の初戦敗退 を繰り返さないためにも即戦力に期待している節は少なからずあった。実力はあると自負しているから余計に悔しい気持ちが彩子にもあって、そんな中で流川が湘北に来るというニュースはあまりにも心強いものだった。
3.赤と黒
あっという間に2年生になり、流川が入学したと聞きつけると、バスケ部内では入部に期待を膨らませている者がちらほらといた。
しかし、部員募集開始の週始め、流川と同学年の男が彼よりも注目される事となる。
鮮やかな赤髪に赤木に劣らない頭身、身体能力の高さを秘めたバスケ未経験者の不良、桜木花道だ。
よりによってあの厳格で品行方正な赤木に喧嘩を売るなんて、と思っていたが、どうやら彼の妹である赤木晴子に誘われて入部をする事になったらしい。流川とは対照的だし、調子がよさそうなところとすぐムキになるとこは宮城に似ているが、問題児という点では赤木の頭を悩ませる存在である事は確かだ。
「あ〜だめ。思い出してまた笑っちゃいそう。気をつけなきゃ」
不謹慎ながら赤木と桜木の対決を目にしていた彩子は度々そのシーンを思い出してしまい、笑いを堪えられなかった。
制服から部活用の練習着に着替えてスポーツバッグと救急箱を抱えた彩子が少し遅れて体育館に入ると、見慣れない顔がずらっと並んでいた。新入生部員が入部する日だった。
「どーもスイマセンおくれちゃって!!あっ、新入生入ったんすか!」
「おう、おせーぞ彩子」
どこか緊張気味の新入生を前に彩子は元気よく挨拶をする。あまり畏まると余計に緊張をさせるかもしれないと「ヨロシクね」とカジュアルに言ったつもりなのに、返答はおろか、顔を合わせようともしない。
「オラオラ、ヨロシクっていってんでしょ!!」
持ち前のフランクさで距離を詰めると慌てた様子で声を張り上げた。どうやら元気はあるようだ。
そうそう、よしよしと感心していると次に目に留まったのは全く緊張感のない男の顔だった。
「おう流川入ったか!」
久しぶりに見る流川は相変わらず無表情だったが、明らかに身長が伸びているのが分かった。右肩を叩くと、より体格の成長を感じる事ができる。
「チワス」
愛想のない挨拶までも昔のままで懐かしい。
「あんたには赤木先輩たちも即戦力として大いに期待してるからね!頑張ってね!」
「余計なこと言うんじゃねえよ」
「あっ…スイマセン!今のウソ!図にのらないよーにな!」
「のってねーよ」
同中の後輩が入ってきて、少しテンションが上がってしまった。よく考えてみれば流川への期待は確かに周囲や本人への配慮がなかったかもしれないと反省していると、隣にいた赤髪の男が目に入って思わず叫んでしまう。
「桜木花道!!」
「な、なぜオレの…」
その姿に結局笑いが抑えられず、慌てて口を塞いだ。
まさか本当に入部するとは思ってもみなかったが、赤木との対戦で異次元の跳躍力をみせた彼の秘めた才能にも期待ができる。
同学年の流川と花道、あまり相性は良くなさそうだが、うまくいけば良いコンビになるだろう。
その時はそんな風にポジティブに考えていた。
結果から言ってしまうと想像以上に二人は仲が良くなかった。
しばらくは彩子がつきっきりで基礎的な練習を行ったが、明らかな不満が顔に出ていて、彼の視線の先には常に流川がいた。
いつまでこんな事を、とぶつぶつ文句を言う花道にあれこれとそれらしい理由を並べてやる気を奮い立たせようとするのは大変だった。よく考えてみれば彩子の周りは元々バスケをしていた人が多かった。そういう人達を見てきた所為で花道のように何もかも初めてで、何もできないと言うのは普通の事だというのを思い出した。彩子が中学時代そうであったように。
「仲良しこよしまでとは言わないけど、二人ともチームプレイってのを考えなきゃよ」
カゴから出したボールをバウンドさせて渡すと受け取った流川は綺麗なフォームでシュートを打った。同じ動きを何度も何度も繰り返す練習でも相変わらず淡々としている。それでも彩子の話に一応耳を傾けたのか、明らかに面白くなさそうな顔をした。
「関わりたくない」
「そんな事言ってられるかしら?吸収力がすごいからあんたより凄い子になるかもしれないのに〜」
意地悪で言ったつもりだったが、彩子が口にした言葉は事実でもあった。
初心者とは言え、元々日本人離れしたフィジカルの持ち主である桜木は新入生でありながら赤木に競り合えるディフェンス力があると見ていた。パワーもスタミナもあるし、あの頭身でスピードもあるとなれば3年でかなりのプレイヤーに変貌してもおかしくはない。
(晴子ちゃんも見る目あるわね、マネージャーに入ってくれればいいんだけど)
恐らく花道の体格を見て、バスケに向いていると勧誘したのだろうが、彼女のおかげで思わぬ即戦力を入部させる事ができた。きっと晴子がいなければバスケ部に入ろうなんて考えもしなかっただろう。
ふと視線を上げると、そこにはムッとした表情の流川がボールが来るのを両手を出して待っている状況だった。
「あ〜ごめんごめん、はいラスト!」
彩子が投げたボールを受け取ると先ほどよりも離れた位置で膝を曲げ、真っ直ぐと飛んだ。目の前で綺麗な弧を描いたボールはリングに入り、ネットが揺れる。
「ないっしゅー!!」
手を叩いてゴールを褒めたが、流川は無反応だ。それが通常運転であることは分かっているつもりだったが、背中を向けて離れていく姿が何故か拗ねているように感じた。
宮城と三井が戻った。それだけで湘北のオフェンスが圧倒的に変わる。
彼らが戻ってくる前の陵南戦でも様々な課題が見えて、それぞれが闘志を燃やす中あっという間にインターハイ県予選が始まる。
三浦台、角野、高畑、津久武、そして翔陽、海南。勝ち進んでいただけあって、神奈川覇者である海南との試合は一筋縄ではいかなかった。何よりも神奈川No.1と言われているキャプテン牧紳一は湘北の実力者4人をでようやく得点を抑えられる程のスター選手。
そんな強豪相手に臆することなく一人で25得点を叩き出した人物が流川だった。富中時代から上手かったが、何段にもレベルを上げてきた流川は牧にも負けないスター選手の素質がある。
(あたしってばこんな男を『バスケが上手い子』だなんて言ってたんだ…)
上手いとは確かに思っていたが、そういう簡単な言葉で表していい選手ではない事を思い知って、その様子に目を見張った。
『「チームプレイってのを考えなきゃよ」』
同時に彩子は以前流川に口にした言葉を思い出した。
能力が高い人物がボールを持つ時間、シュート本数が多くなることは必然的になってしまう。正直、どれだけ凄い事だとしても、今の流川がワンマンプレイと言われても仕方がないだろう。
仲間意識も大切だが、この試合は勝てなきゃ意味がない。複雑な気持ちになりながらもその様子を固唾を呑んで見守った。
赤木の怪我で他の選手のメンタルを心配した彩子だったが、思いの外2、3年生よりも1年である流川と桜木の方がよっぽど肝が据わっていた。二人の覚悟と勢い、ブランクのある三井の粘り、僅差に迫ったその時まで目が離せなかった。
桜木のパスが海南の高砂に渡り、試合終了のブザーが鳴った瞬間、思わず息を止めた。
試合に負けた悔しさもあるが、何よりも桜木の後ろ姿が目に入ると、胸が引き裂かれるような気持ちになったのだ。
彩子にも試合で負ける悔しさや、自分のミスで勝敗が決まった時の罪悪感は経験がある。高校のインターハイ県予選、それにかける赤木の想いを汲み取った桜木だからこそ尚更その重さを痛感しているはずだ。
涙を流す桜木と、それを支える赤木を見て彩子はぐっと拳を握りしめた。
近所の文具店で墨汁を購入した彩子はふと桜木の存在が浮かんで、ため息を溢した。
かなり責任を感じているらしく、練習には来ていない。学校もサボっているようだし、繊細で優しい男にとって海南戦はトラウマものだろう。
文具店から出て、しばらく歩いていると学生が多く利用するゲームセンターが通りにあった事に気づく。
(やらかした)
24時間営業のゲームセンターは不良の巣窟とされていて、カツアゲは日常茶飯事、喧嘩による流血事件で警察が介入するなど、何かと治安が良くないことで知られている。
体育館での騒動で頬を打たれた事もあって、そういう場所には近づかないように一応注意しているつもりだった。
引き返せないところまで来てしまった彩子は自分が湘北の制服だった事も気がかりで、出来るだけ早歩きをした。
「あれ湘北だろ?いい女じゃん」
「話しかけろよ」
(あ〜もう最悪)
出入口でバイクに寄りかかって屯っている不良集団の会話が耳に入ってきて、思わず眉を顰めた。
「ねえ、何年生?」
先に話しかけてきた男が大きな声をあげると、そばにいた二人が面白おかしく笑った。
不快な気持ちになりながらも立ち止まってしまった彩子はこのまま逃げるように走って追いかけられたら、乱暴されたら、瞬時に頭で色々な事を考えた。
「2年生ですけど。なんでそんな事を聞くんですか?」
結局彩子が出した答えは堂々とする事だった。
「今から俺らと遊ばない?バイク乗ったことある?」
「遠慮しておきます。これから家の用事があるので」
「じゃあ家まで送ってくよ」
そう言われ、肩に手を置かれると、思わず身震いがした。
ナンパの不快さを痛感して、少なからず恐怖も感じている事が悔しい。
どうやって躱そう。
困っていた彩子の耳に随分と聞き慣れた声が入ってきた。
「何してんの」
自分を囲んでいた男達が声に反応して僅かに退くと、そこには流川の姿があった。
海辺も近いし、この辺をランニングでもしていたのか練習着姿で少し額に汗をかいているのがわかる。
耳からイヤホンを外しながら、彩子を見る様子は心配というよりも言葉通り「何してるのか」に近い。
今にでも「いいところに来てくれた!!!」と叫びたかったが、出来るだけ穏便に済ませたかった彩子はぐっと堪える。
「誰「こいつら誰」
「ちょっ」
明らかに相手の発言を遮って、純粋な疑問を投げかけた流川。この時点で穏便に済ませるという計画が水の泡になってしまったことに気づいた。
「コイツら」発言に気を悪くしているのは見なくてもわかる。
流川も少なからず敵視はしているのか、眼差しに鋭さを含んだのが分かって、いよいよまずいと彩子の脳が警鐘を鳴らす。
こう見えて短気で売られた喧嘩は買ってしまう男だ。宮城や桜木に負けず劣らずの問題児であった事を思い出して彩子は構わず流川の方に駆けて、グッと手を引っ張った。
「やだ楓!!ここまで迎えに来てくれたの?!わざわざごめんね!お母さん帰ってくるの遅いから早く晩御飯作らなきゃなのに…」
その時の流川の顔は恐らく一生忘れられないだろう。
彩子は不穏な空気を晴らす為、大きな声で笑って見せた。
「走ってまで迎えに来るなんて!いい弟を持ったわ!!」
もうどうにでもなれ、と思い口にした言葉に流川は衝撃を受けていた。
「まあまあ、それぐらいで拗ねない拗ねない!」
「拗ねてねえよ」
(拗ねてるじゃん)
「でもああでもしないとしつこくて撒けなかったんだから、仕方ないじゃない。」
うまいこと逃げる事ができて晴れ晴れとした表情の彩子とは対照的に、流川は面白くなさそうだ。
「後輩だし、弟みたいなもんでしょ」
飛躍した考えだったかもしれないが、流川は湘北で唯一、同中の後輩だ。どういう性格なのか知っているつもりだし、慕うまでとは行かないが、彩子の事を同郷の先輩だと思ってくれてはいるはず。
だから他の部員より少し、ほんの少しだけ可愛がっている自覚があった。
弟がいたらこんな感じなんだろう、そんな風にふと思って口にしたが、どうやらその言葉はピリついた空気を緩和させるどころか、余計に悪化させるものだった。
隣を歩いていた流川が歩みを止めたのが分かって、すぐに振り返った。
沿岸が近い事もあって、随分と風が強い。髪の毛を風に取られながら指でそれを掻き分けると目の前に立っていた流川の強い瞳が彩子を射抜いた。
「俺は先輩を姉みたいに思ったことないスけど」
妙にハッキリとした口調でそう言われて、彩子は一瞬驚いた。
流川が自分を姉のように思ってるなんて考えた事もなかったから、それは勿論理解している。わざわざ全否定する必要性もなかったと思うが、やはり彼は馴れ馴れしい絡みは好かないようだ。
(また余計な事言っちゃったか)
「そっか」
上手い言葉が見つからず、彩子が口にした返答は素っ気ないものになってしまった。
4.真のエースの覚悟
がけっぷち、と書をしたためた彩子は体育館で目につきやすいところにそれを貼った。
桜木は覚悟が固まったのか、トレードマークだったリーゼントを丸め、シュート練習に明け暮れた。余程集中していたのか、それは武里との試合に遅れるほどだった。
無事に勝利を収めた試合だったが、海南と陵南の試合で次の相手が陵南であると判明した時、安西先生が倒れてしまう。驚いた事に桜木が迅速な対応をしたらしく、無事ではあったが、大一番の試合で安西先生が不在という状況になってしまった。
神奈川上位の強豪校、陵南。魚住や仙道の入学でさらに力をつけ、海南と並び優勝候補に上がっている。湘北とは練習試合の経験があり、部員たちもライバルとしてかなり意識していた。
特に仙道彰、彼はスコアラーとしての才能もありながら、パスを出すタイミングと正確さ、ディフェンスでも卒なくこなすオールラウンド選手だった。流川がマッチアップする相手でもあり、ライバル視する相手でもある。
試合の流れは陵南ペースだった。大量得点で勢いをつける福田、巨体でチームの為に身体を張る魚住、そして仙道。試合は激しさを増し、ファウルトラブルで選手交代の不安も抱えていた。
負けていい試合などないが、絶対に勝たなければいけない試合はある。それが陵南戦だった。
疲労とパスミス、赤木のファウル4つ目、三井の交代、完全に追い込まれてしまった状況で彩子は桜木のスティールに目を奪われた。ついこの間までバスケ素人だったのに、彼のディフェンス能力は陵南相手に劣っていなかったのだ。
海南戦後のメンタルを心配していたが、それを払拭するようなプレーから目が離せなかった。
諦めていないのはみんな同じだ。特に3年生の気持ちは計り知れないものがある。
桜木から木暮にパスが渡った瞬間、先輩たちの様々な努力が頭に走馬灯のように流れてきて、綺麗な軌道を描くボールがネットをすり抜けるその瞬間まで口を開かなかった彩子はスリーポイントが決まった瞬間思わず歓声を上げた。
最後の最後で桜木のダンクが決まり、「戻れ!」と声を上げた様子には同じ過ちを繰り返さないという強い意思が感じられた。
勝利が決まり、インターハイに出場できると分かった瞬間、彩子が感じたのは喜びと幸せだった。
バスケでは常に本気の男だが、ここまで気合いが入っているのは初めて目にする。
彩子は練習試合中の流川の様子を見てそんな事を思った。
何か覚悟が決まったような思い切りさと、負けないという気迫が感じられて、そういう熱い部分もあるのかと新たな一面を目の当たりした。
桜木の急成長も目を見張るものがあるが、あれだけの実力があってなお、流川は日々成長を遂げていた。これまでの試合内容を思い返しても湘北のエースと呼ぶに相応しい。
「ちょっと流川!いつまで寝てんのよ。もう駅着いたわよ!」
「…ん」
寝る子はよく育つというが、それにしても寝すぎではないかと呆れてしまう。
インターハイ10日前、湘北は静岡の常誠高校と合同で1週間の合宿を行う事になっていた。神奈川から東京までの電車、東京から静岡までの新幹線、一度も目を覚ます事なくぐっすりと眠っていた流川を起こすのは彩子の役割だった。
眠りに入るのが早く、寝起きはあまり良くないのかまだ完全に起きていない男は開ききっていない目を擦ってノロノロと立ち上がった。案の定、荷物置きに頭をぶつけしまう。
新幹線の向こう側で「間もなく発車」とアナウンスが聞こえると座席の窓ガラスから三井と宮城が焦り顔で大きなジェスチャーを向けてくるのが分かった。
「んもう!何してんの!」
スポーツバッグを持とうとする行動のとろさに我慢できず、代わりに彩子がそれを肩にかけ、腕を引いてなんとか発車前に間に電車から降りる事ができた。
静岡駅は最終駅ではない為、乗り過ごすと名古屋方面へ向かってしまう。後部座席で寝ている流川に気づかなかったらどうなっていた事か、考えただけでゾッとする。
「まったく…」
「何してんだお前は」
「アヤちゃんに迷惑かけるんじゃねえぞ流川!謝れ!」
桜木がいたら盛大にバカにしただろうが、生憎彼は安西先生とマンツーマントレーニング予定で合宿にはいない。
先輩たちにお叱りを受ける流川だが、まだぼーっとしていて、誠意の感じられない「サーセン」という謝罪を口にした。
「先輩、ごめん」
「なさい」
「…なさい」
ぼーっとしながらも彩子が荷物を手渡すと彩子にも直接謝罪を口にした。
「やれやれ」
普通の部活動と違い、学業を除いた分みっちりと練習ができる合宿は目的を持って行われる為、安西先生指導のもときちんと練習メニューが組まれていた。
選手も大変だが、それにつきそうマネージャーの仕事も勿論楽とは言えない。幸いにも合宿所は設備がそれなりに整っていて、食堂があるおかげで随分と気が楽だが、ビブスの洗濯に加えて練習着までこちらでやらなければいけない為、重労働だ。
練習が終わり、部員たちが全員体育館から出ていくのを見送るのは彩子の役目になっている。
人一人いない体育館は先ほどの賑やかさとは打って変わって驚くほど静かだ。虫の音が良く聞こえて、風は比較的穏やか。山が多いからか、のどかで、妙に落ち着く。波の音や電車が線路を走る音がする彩子の地元とは対照的だ。
体育館についていたドアの鍵がきちんと閉まっているのかの確認をし、倉庫に不備がないか見まわすと、片付けられたばかりのバスケットボールが目に止まった。
「…」
カゴの中から一つ手に取った彩子は思わずその場でドリブルをした。大勢で練習している時の音と違い、やけに響く。
プレイヤーとして3年以上もバスケから離れている。ドリブルをする手つきも心なしか下手になっているような気がした。
そのままコートの中を走り、レイアップシュートをしてみたが、体はそれなりに覚えているのか、なんとかリングの中に入ってくれた。
ブランクとは恐ろしいもので、あれだけ練習に打ち込んだというのにフォームはガタガタで、踏み込みのタイミングも最悪だった。
湘北やインターハイ予選で上手い人を沢山みてきている所為で目が肥えてしまった事もあるのか、1年生より全然できていない。
「ヘタクソ」
突然背後からボソリとそんな声が聞こえて振り返ると、流川が立っていた。
人がバスケをする時に必ず現れるのは何故だろう。ふとそんな事を考えたのは彩子が富中時代にシュートフォームをアドバイスされたのを鮮明に覚えているからだ。あの時は少なからず直接的な言葉は言われなかったけど、今流川が口にした「ヘタクソ」は自分でも認めざる得ない。
「確かに昔の方が動けてたかもね」
今度はジャンプシュートでゴールを狙ったが、リングに弾かれてしまう。
「あの時は今よりマシだった」
「あんたってほんと嘘がつけないのね!まあ知ってたけど!」
だからと言って最低だとは思わない。彩子の性格上、顔色を伺うために思ってる事とは違う事を言われるのはあまり好きじゃないからだ。
流川のように正直過ぎるのもどうかと思うが、今は不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
ドッ、ドッとドリブルの音が響く中で、彩子は気になっていた事を口にした。
「最近いい感じじゃない。気合いが入ってて。何か心境の変化でもあったの?」
手におさまったボールをそのまま何も言わず流川の方に投げると、当たり前のように受け取った流川がそのままボールを構えてジャンプをせずにスナップだけでシュートを打った。
「日本一になる」
シュートが決まると同時に聞こえてきた言葉に彩子は視線を上げた。
不思議な事に流川の口からそういう言葉が出てくるのに驚きはなかった。彼なら出来てしまうのではないかとさえ思わせてくれる。
「良い目標!やっぱり高みを目指さないとね、あんたも桜木花道も!」
「なんでアイツ…」
桜木の名前を出したのが気に食わなかったのか、すぐにムッとした表情に変わった。
インターハイで注目を集めるだろう流川は日本一、インターハイで急成長を遂げるだろう桜木はどこまで行けるのか予測不可能。湘北のルーキーたちは揃って問題児であり、救世主でもあった。
「でも同じ湘北で、同中でもある流川が日本一になるんならこんなに誇らしい事はないかもね」
可愛い後輩だから、という言葉を飲み込んで笑った彩子に流川は「絶対になる」ともう一度覚悟を口にした。
インターハイ第一回戦、豊玉。
トラッシュトークとラフプレーに煽られ、冷静でいられる人物が湘北にはほとんどいない。弱いところを突かれ、序盤から大きく点差を開かれてしまう。
チーム内には悪い空気が流れていた。そこに追い打ちをかけるように流川の負傷。倒れた瞬間、思わず立ち上がった彩子よりも先に桜木がファウルをした相手、南につかみかかりそうになり、すぐに「桜木花道!」と声を上げた。
ついさっき宮城の名前を呼んで落ち着かせようと思ったのに、気の短い男たちはすぐこれだ。
三井と安田がすぐに駆け寄り、レフェリーの判断でタンカが運ばれると彩子はすぐに流川のそばに近寄った。
「脳震盪じゃねえ」
この状況でそんな言葉を口にした流川は彩子に訴えかけるような視線を送る。左目が赤く腫れていて、ほとんど開いていない。
「それはあんたが決める事じゃないわ」
マネージャーになって、彩子が最も覚えた知識はスポーツ医学に関してだ。身体の使い方、怪我をした時の対処法、初歩的な事は試合で起きそうな事を予想してバスケットボール協会が発行しているマニュアルを頭に入れていたのだ。
救護室のベットに座った流川はまだ衝撃の余韻を感じているのか、額を抑えたまま俯いている。
首の痛み、物の見方、手足の痺れ、症状の確認を淡々と質問する彩子に流川は時折面倒くさそうに「問題ない」と返答する。そうやって何項目かの質問を終えた時、流川の片目がまっすぐ彩子を見つめた。
「戻る」
幸いにも脳震盪の症状はほとんど見られない。しかし、選手生命に関わる事かもしれないという心配がまだあるのも事実だ。彩子にはマネージャーとして、選手をサポートする義務がある。同時に湘北のメンバーとして試合に勝ちたいという気持ちもあった。
流川の表情や姿勢を見れば試合に出る気でいるのは分かるし、引き留めてもいう事は聞かないだろう。
「待ちなさい。その左目、恐らく今日一日は無理よ。アイシング作るから、せめて直前まで冷やして」
「…」
驚いた表情をする流川を見るに、出ないように言われるとでも思ったのだろう。しかし、彩子にはそんな権限はない。後の判断は安西先生に託すしかなかった。
「日本一になるんでしょ、なら試合に勝たなきゃね」
作ったアイシングを手渡すと、それを左目に当てた流川はこくんと頷いた。
豊玉戦の流川は正真正銘のエースだった。
片目の状態でのフリースローの動きを見た瞬間、入るという確信が持てたのは彩子が何年も見てきた綺麗なフォームだったからだ。
恐らく何百本、下手したら何千本も打っているかもしれない。体が覚えている感覚、それをインターハイという舞台でやってのける度胸。
そして流川と同じ舞台で驚異的な成長を見せる桜木。彼のジャンプシュートに目を見張った。軽いジャンプでの跳躍力。最高到達点でリリースされたボールは驚くほど綺麗なものだった。
少なくとも序盤の悪い空気は払拭されていた。
赤木、三井、宮城もそれぞれ気持ちを切り替えたようで、残り5分で同点追いついた。
ー一度あきらめてしまうと、それが癖になる。絶対にあきらめるな。
バスケの神様と言われている男の言葉を思い出した。
湘北には諦めている人間は一人もいない。それぞれが自分の能力を高く見ているし、自信を持っている。
ようやく追い越したその数字、それでも試合終了の合図が鳴るまで、誰もが気を抜かなかった。
5.眩しい男たち
インターハイ三連覇を成し遂げている東北の強豪、山王工業は高校界の絶対王者だ。
去年のインターハイの準決勝で海南に30点差をつけて勝っている実績もあり、正直実力に関して言えば湘北とはかなり差があると考えていい。それだけではなく、チーム自体にファンが多く、週刊バスケットボールで特集を組まれるほど認知度が高い。だから会場の空気で圧倒される事は分かっていた。
実力者揃いだが、その中でも沢北栄治は1年にして高校生No.1プレイヤーと言われている。1on1のスキルが高く、マッチアップする流川が同学年の彼にどこまでやれるのか、試合前から注目を集めていた。
誰もが難しい試合になるだろうと予想していたし、実際そうだった。前半こそ競り合った試合内容だったが、後半は苦しむ展開になってしまう。
山王のお家芸、フルコートゾーンプレス。コート全体を使って積極的に相手にプレッシャーを与え、ミスを誘う守備だ。しつこいプレッシャーによって奪われたスペースで、パスを誘発されれば、オフェンスは上手く動けず体力だけが奪われてしまう。
システムへの理解、連携、スタミナ、全てを兼ね備えていないとできない難易度の高い守備で、仕掛ける事に慣れている山王と違い、慣れていない湘北にとって苦しい戦術だった。
スコアラーである流川が動けず、キャプテンである赤木が立ち向かうが、同じく山王キャプテン河田の壁は驚くほど高かった。ベンチからでもあの赤木が戦意喪失しているのが分かって、たまらず安西先生がタイムアウトを取る。
彩子に目に映る面々はこれまでにないぐらいに気持ちが落ちて見える。会場の歓声もあってか、完全アウェーの空気だ。
しかし、その中でも諦めていない男がいた。桜木はアウェーという空気をもろともせず、会場に向かって「山王に勝つ」と宣言したのだ。
長くバスケに関わってきた彩子でも桜木のような男を見たことがなかった。未経験からの急成長、緊張で初歩的なミスをして会場から笑われた頃を考えると、チームの即戦力として機能しながら強豪相手に倒すと口にできるメンタリティは上位相手にも劣らない。
桜木の覚悟を機に徐々に風向きが変わり始めると、目に見えて数字も僅差に迫ってきた。
彩子は隣に座る安西が流川と桜木の動きをよく見ている事は分かっていた。きっと思っている事も同じかもしれない。そんな風に思うほど、二人の活躍はずっと目にしていたい気迫と輝きがあった。
流川が目指す「日本一」、その位置に君臨する沢北という男が目に前にいる。この事実に流川が穏やかでいられるわけがない。そんな流川の闘志とは裏腹に沢北はどこか楽しそうに見える。相手の勢いに再び点差が開くが、彩子の目に映る流川は決して臆してはいなかった。
沢北と流川の1on1、ドライブの動きから0になった瞬間、手のボールが線を描いた。
(パス…!)
流川のパスが赤木にわたり、ゴールに繋がった。
常に得点を稼ぐ事にまっすぐだった流川はフィニッシュ以外の選択肢を増やしたのだ。チームプレイを、と流川に口にした事を思い出して、今度こそいう事がなくなってしまった後輩の完璧な姿に彩子は興奮を覚えた。
しかし、全国の舞台はあまりにも無情だった。ルーキーの活躍で5点差に縮めたところで彩子は気づいてしまう。
「どっか痛いの?桜木花道」
選手の輪からやや外れた所で歩いている花道の動きに違和感があったのだ。先程から何かを気にしているような素振りで、体がこわばっている。
「いや、ちょっと背中が痛くて」
「背中のどこ?!どんな痛み?!」
「時々ピキッと痛くなるだけっすよ、大丈夫」
彩子は自分が持っている知識をできるだけ頭から引っ張り出し、その症状が極めて良くないものかもしれないという答えに辿り着く。流川が脳震盪を起こした時とは違う不安でやけに心臓が早く脈を打った。
「選手生命に関わるわよ…」
できる事ならこんな事を口には出したくなかった。勢いに乗ってこれからガンガン攻めていこうという時に、この試合で誰よりも活躍していた桜木にこのタイミングで伝えるのは心苦しかった。
桜木は彩子の言葉を聞いてしばらく固まっていた。どういう事なのか必死で理解しようとしているようだった。その姿を見て、彩子は変に動揺させてしまった事を悔いた。打撲の可能性だってまだ残っている。それでも、もしもの事を考えた。桜木にはできるだけ長くバスケをやってもらいたい、もっと見せてほしい。その気持ちがあるからこそ、小さな違和感を見てみぬふりは出来なかったのだ。
結局試合が開始されて、決死の思いでボールを叩き込んだ桜木はそのまま倒れ込んでしまった。
しばらく起き上がれない状態が続いて、うつ伏せになる彼の横で彩子は考えた。自分の判断がどこまで正解だったのか。
しかし、どうやらその事で悩み、後悔したのは彩子だけではなかったらしい。
安西先生はようやく立ち上がった桜木の隣で白状した。異変に気づいていた、気づいていながらも、どんどん良くなる君のプレイを見ていたかった、と。
「オヤジの栄光はいつだよ…全日本の時か?」
「オレは今なんだよ」
その決意を目にして、誰も桜木を止められなかった。
試合が再開し、山王の攻撃耐えると桜木の決死のブロックでボールが宮城に渡る。しかし宮城には深津と河田の2マーク。それでも彩子は宮城を信じ切っていた。神奈川県の2年生で最も実力のあるポイントガードだと思っているからだ。
山王の二人に阻まれた宮城は得意のスルーでフリーだった三井にパスを出した。三井は一度踏み込み、フェイクを入れてモーションに入るとすぐに戻った松本に押し込まれるようにしてシュートを打った。スリーだ。
そこからファウルでワンスロー。これを綺麗に決めた三井のゴールで一気に4点の追加点。思わずガッツポーズをした彩子は会場の声援に「湘北」という声が混じるのが聞こえた。
試合内容に圧倒されたのは自分だけではない、観客も同じだ。
一点差までに迫った試合はお互いが点を譲らない攻守が続く。
沢北に食らいつく桜木の満身創痍のディフェンスにオフェンスで応える流川。ようやくゴール前に追いついた彼の前に立ちはだかる大きな壁、振り落とされたボールはすでに戻っていた桜木の身を犠牲にしたダイブとパスによって再び流川につながりゴールとなる。
最後の最後まで決して諦めない山王と湘北、沢北のゴールが再び決まると桜木が勢いよく走るのがわかった。時間がない。1秒ごとに確実に減っていくタイム、ボールを持った赤木に流川が自分にパスを出せとジェスチャーで伝える。パスを出し、受け取った流川がゴールまで一直線で向かうが沢北がそれを追い、さらに一人と2マーク。
ジャンプシュートを狙う流川に山王のブロック。しかし、沢北の死角には桜木が立っていた。
それは彩子がこれまでみたシュートで1番綺麗なフォームだった。
レフェリーの笛の音、湘北79ー山王78の文字、一瞬止まった空気と、そして目を合わせた桜木と流川のハイタッチ。
会場が響めくのと同時に彩子は他の部員と一緒に彼らの元に駆け寄った。
言葉で言い表せない、息が止まるような試合。そしてそれは湘北の歴史をも変えた。
6.JAPAN
嫌な事があると時折、湘北時代の事を思い出す。懐かしむほど時間が確実に進んでいるということで、あの時のように体育館で声を張り上げ、汗に濡れたビブスを回収して、パス練習に付き添う彩子の姿はない。
単位を取るために勉学に勤しみ、適度に遊び、それなりに恋愛もして、大学生活を大学生らしい形で過ごしていた。
「流川くんと沢北くん帰国してるんだって」
「日本代表の合宿でしょ?」
「今度代々木第一体育館観に行ってみる?」
食堂で腹ごしらえをしていた彩子の耳に入ってきた会話には耳馴染みのある男の名前がある。湘北として全国制覇には一歩届かなかったが、2年、3年と着実に実力をつけ、沢北と肩を並べる高校生プレイヤーになった流川は高校を卒業するとすぐにアメリカの大学へ行くために渡米した。
元々学力に難があった為、部活の合間に彩子や晴子に勉強を教えてもらいながらも、英語は自力で覚えたようで、出国前にはある程度のコミュニケーションが取れるような状態にまでなったと晴子から聞いていた。
中高と流川の噂は学内で聞いていたが、日本代表となった今、どこでもその名前を耳にする事ができるほど知名度は上がっていた。
(ってことはリョータももう帰国してるんだ)
同じく日本代表に選抜されている宮城に関しては流川よりも先に渡米をしている。山王に勝ち、次戦でボロボロにやられ、2年のインターハイが終わると3年の宮城は神奈川県内のポイントガードで最も実力がある選手として名が上がっていた。当初はキャプテンになることに不安を抱えていたが、ポジション柄コート全体の流れをみることに長けているおかげか、動きに的確な指示を出せ、後輩に慕われるキャプテンにまでなったのだ。
同学年の沢北が2年の途中からアメリカへ、そして1年先輩の宮城もアメリカで、内心そのことでやきもきしていただろう流川は安西先生の指示のもとしっかりと高校3年間を日本でのバスケに費やし、目標通り日本一の高校生となって渡米したのだ。
そんな流川に出国前、言われた言葉は『先輩。おせわになりました。』だ。
別にお世話をした覚えもないのだが、そばにいた三井からは「1番お前に懐いてたからな」と笑われたのを覚えている。
しかし、そんな可愛い後輩も今やジャパンである。
NBAでのマイケル・ジョーダンの活躍やシカゴ・ブルズのスリーピート達成で空前のバスケブームの今、日本では沢北の渡米から始まり、宮城、流川と異国の地で活躍する日本人たちが目立つようになってさらに国内人気は加速した。特に沢北、流川の同年コンビは元の顔の良さから女性ファンも多い。彼らがアメリカから帰国すると成田空港には人が押し寄せたと記事になっていた。
アクセスの悪い成田空港に出待ちなんて正気の沙汰じゃないと思ったが、ポールマッカートニー以来の出待ちだったと友人に聞いて「それは嘘」と腹を抱えて笑ったのを覚えている。
実際には本当に数百人が詰めかけたようで、彩子はその事にひどく驚いた。
流川は彩子が湘北を卒業したその瞬間からあっという間に遠い存在になっていた。出国の時に見たのが最後でそこから1年ほどは活躍を聞くのも雑誌やテレビ、時折会う湘北時代の友人から。すっかり同中高の後輩から、有名人になってしまった。
一時期帰国した時があったらしく彩子が何をしているのか気にしていたと三井から聞いたが、もしかしたら三井が気を使って優しい嘘をついたのかもしれないとさえ思った。
流川は彩子が何をしてるかなんて気にする男じゃないからだ。
東京に移り住んで早1年が経過したが、時折海が恋しくなっている自分がいた。ビルに囲まれた狭い空に、忙しなく行き交う人、遊ぶには最適な場所だが、決して休まるような場所ではない。
教材に顔を突っ伏していつの間にか眠っていた彩子は、全く書き進んでいないスポーツマネジメントのレポートを見下ろしてため息をこぼした。
CDプレーヤーで流しっぱなしだったボディーガードのサウンドトラックはもはや擦り切れるほど聴いているが、いつも寝落ちをしている為、後半の音楽を聴き逃している。つけっぱなしだった電源を消して横に乱雑に積み上げられたケースにディスクをしまうと、椅子の上で背伸びをした。
「お腹すいた」
冷蔵庫に何もないことを自覚しているので、これから買い物に出なければいけないのは知っている。
出来るだけ自炊を心がけているつもりだが、今日ばかりはそういう気力が起きなかった。
彩子の頭に近所のファミリーレストランの存在が過った。美味しい、楽、すぐ食べれるの3つが揃う魅力的な場所だ。この状況で行かない選択肢はない。
適当に髪の毛を結び、腕時計をつけると書きかけのレポートと教材を手にジャンパーを羽織ってすぐにアパートを出た。
「父親の事で色々ショックだったんだろ」
「でも野球選手はねえよ」
ファミレスに行く前にコンビニで切らしていた赤ペンを購入して、教材の一部をコピー機でコピーしていると彩子の耳に入ったのは男性たちの会話だった。
この年、シカゴ・ブルズが1960年代のボストン・セルティックス以来のスリーピートを達成している。
ジョーダン全盛期とも言われている中で、「引退」を表明した時は衝撃が走った。バスケファンにとってはショッキングなニュースで、連日日本でもメディアで多く取り上げられ、それは今でも若者の話題の一部となっている。
しかし、更なる衝撃は彼がMLBの転向すると言うニュースだった。バスケから野球という違う競技への挑戦なんて誰も予想していなかったはずだ。
彩子が富中時代から彼はすでにNBAで活躍していたが、それから今までずっと一線にいた事は誰にも成し得ない事だろう。その偉大さには「凄すぎる」と言うありきたりな言葉しか思い浮かばない。
メディアの圧力に悩んでいるようだったし、やはり人気選手というのは大変だなと痛感してしまう。
すっかり会話に気を取られて、コピー機の前で説明書を読むような素振りをしていた彩子だったが、お腹がぐうと鳴るのが分かった。
「ついてくるな」
「俺も用があっただけだ」
コピー用紙を手に、コンビニから出ようとするとやけにでかい男性二人が出入口を塞いでいた。
(ちょっと、言い争うなら他でやってよ)
「あ、すみません」
片方の男性が彩子の存在にようやく気づき、謝罪を口にして退いたが、顔を見る必要性もなかった為、そのまま横を通り過ぎた。
「先輩」
(苛立ちと空腹で幻聴まで聞こえてきたじゃない)
ぐうぐうと追い討ちをかけるように鳴るお腹を抑えて歩く彩子の耳に何故か流川が自分を呼ぶ声が聞こえて、乾いた笑いがこぼれた。
「先輩…彩子さん」
はっきりとそう自分を呼ぶ声、背後から手を取られて振り向くとそこにあったのは流川の顔だった。
「る、流川?!」
彩子と同じく流川も驚いていた表情をしている。この男の目が見開く瞬間をあまり多く見たことがないから、その様子を見て、これは現実なんだと実感した。
確かに帰国したとは噂で聞いていたし、合宿で都内の体育館を使用しているのは分かっていたけれど、ここは彩子が一人暮らしをしている地区だ。観光名所よりも、住宅、公園、教育機関が多く、今出てきたコンビニも近隣の住民の利用がほとんどだ。
「誰だ?流川の知り合いか?」
という事は、と流川の背後に視線を向けると、やはりその人物は流川と一緒に帰国した沢北だった。
よりによって顔の認知度が高いバスケ日本代表の大男たちが一番利用者が多い時間帯のコンビニに出かけているなんて。バスケを知らない人でも流石にこのオーラは顔を覗き込んでしまうに決まっている。
「中高の先輩。マネージャーだった」
「え、湘北の…」
随分と簡素な紹介をした流川だったが、恐らく沢北は彩子が湘北のマネージャーをしていた事など覚えていないはずだ。
「挨拶するのは初めてですよね。沢北栄治って言います」
それでも当時の高校No.1プレイヤーと言われていた男は体格こそ違うが、はっきりとした顔立ちはあの時と変わっていない。顔も知らないであろう彩子にも礼儀正しく挨拶をした。その表情は確実に高校生の時より自信に満ち溢れている。
差し出された手はアメリカ仕様なのか、一先ず握手を返すのが礼儀だろうと思い、手を差し出したその瞬間、二人の間に流川が入り込んできた。
「ここは日本だから握手は必要ない」
唖然としたのは彩子だけではない、挨拶を遮られてしまった沢北自身も流川の行動に目を丸くしている。
富中時代の時は確かに礼儀のない男だったが、彩子が度々注意したのと、湘北で先輩の赤木や三井、宮城に度々怒られていたのもあって結構マシになった方だと思っていた。どうやらアメリカへ行ってまた戻ってしまったようだ。
「それはあんたが答える事じゃないでしょ。せっかく挨拶してるのに」
肘で突くような仕草をして睨んだ彩子に流川は何故か面白くなさそうな顔をした。
「彩子よ。NCAAでの活躍は聞いてるわ、向こうでも活躍できるんだもの、元高校No.1プレイヤーは伊達じゃないわね」
「ありがとうございます。NCAAの知名度はそこまで高くはないと思うんですけど、嬉しいな」
(やっぱり手が大きいわね)
軽く握手をしただけでもその大きさを感じられて、これが代表レベルかと感心してしまう。
ふと視線を上げると相変わらずむっつりとした表情の流川がそっぽを向いていて、呆れ返った。素直で愛想の良い沢北とは真逆だ。
試合で高め合っていた二人だからアメリカでも仲が良くなっているのだろうと思ったが、この男の態度でそれを感じる事はできなかった。
7.バスケしかなかったはず
「ちょっと屈んで」
注がれる女性たちの視線に耐えられず、彩子は小声で目の前の流川に訴えかけた。
「?」
大人しく前屈みになった流川のフードを引っ張って頭に深く被せると、ようやくメニューを広げた。
急にフードを被された流川はやはり周囲の注目を気に留めていなかったようで、キョトンとしている。
ただ夕飯を食べに来ただけなのに、まさかそこに流川がついてくるとは思っても見なかった。どうやら泊まっているホテルが近くにあるらしく、練習終わりに沢北とコンビニに行っているとこ遭遇したようだった。明日の朝練までスケジュールがないと口にして、彩子についてきた流川だったが、ちゃっかり沢北だけは帰らせている。
「あんたは?何か食べたいものないの?」
「ない。ホテルで食べたんで」
「じゃあ私は遠慮なく食べさせてもらうからね」
よく考えてみれば日本代表には専属の栄養士がつくし、きちんと栄養管理が行われているはずだ。少なくともアメリカよりは日本人に合った食生活ができる。
食べたいものが決まって店員に伝えると、ようやくホッとする事ができた彩子はドリンクを口にした。
ふと視線を上げると目の前の流川がジッとこちらを見ているのが分かって思わず咽せそうになる。
「な、何よ人の顔じっと見て」
(まさかメニューを見ている間、ずっと見ていたわけじゃないわよね?)
それは流石に自意識過剰すぎるか、と思ってはいるが、何も言わずにジッと見られているのは妙に落ち着かない。
「別に」
「別に何もないんなら人の顔をジロジロ見るもんじゃないわよ、あんただってあたしにジロジロ見られたら嫌でしょ」
「俺は嫌じゃないスけど」
「…….…
…あんたも変わってるわね」
確かに女子たちが練習に集まっていても気に留めている様子は見られなかったが、まさかそれが嫌じゃないとは。
その事に少し違和感を感じたが、注文した料理が到着するとすぐに意識がそちらに向いた。
流川と他愛ない話をするのはなんだかとても新鮮だ。
富中時代も湘北時代も常にバスケがそばにあったし、話す会話もほとんど部活での事だった。流川がどういう人間であるのか分かっているつもりだったが、プライベートな事は何一つ知らなかったらしい。
「大学でスポーツ学を学んでるの。明確にこうなりたいってものはないんだけど、昔から興味があってね」
イタリアンハンバーグとスープにサラダ、ライスにデザートまで平らげるとようやくお腹が満たされた感覚があったが、同時に感じるのは若干の罪悪感だった。胃に入ってしまったものは仕方がないから明日からまたダイエット開始だ。
そういえば流川には大学の話を一度も話した事がないと思い、話題を振ったのだが、反応が意外なものだった。
「三井さんから聞いた。レポートとフィールドワークで忙しいって」
流川が一時帰国した時に三井に聞いたのは本当だったらしい。その事に驚いて彩子は目を丸くした。
一応先輩を気に止めてくれていた、という事実はなんだか嬉しい事だ。他人に無関心そうだから、てっきり大学で何をしているのかも分からず、興味もないのかと思っていたが、案外そうでもないらしい。
「でもあんたの方が大変でしょ、学業とバスケの両立をアメリカの大学でなんて」
「どっちもうまくやってる」
大変だったと口をしないところはなんとも流川らしい。慣れない地で、しかも日本人がほとんどいない環境で、最初からうまくいくはずがない。みんながみんな優しいわけではないだろうし、バスケ本場だけあってきっと日本よりもシビアだ。
「NCAA…」
「え?」
「さっき沢北に、活躍知ってるって」
NCAAとは全米大学体育協会のことで、いわゆる大学のスポーツ協会と呼ばれるものだ。幅広い競技が管理されていて、その中でも有名なのがNBAの登竜門と言われているカレッジバスケットボールのNCAAだ。
流川や沢北が所属している大学もトーナメントで上位に食い込むチームなので、活躍すれば知る事ができるが、まだアメリカの大学におけるバスケに関しては日本で知名度がそれほどない為、NBAよりも情報を入手するのが困難だ。
「留学生でミシガン大学から来た子がいるの、その子に向こうの雑誌見せてもらってね」
「…」
「もちろんあんたの活躍も聞いてるわよ!マーチマッドネスの初戦で大活躍だったらしいじゃない!アメリカの地で1試合20得点なんて」
「20点は沢北。俺は22点」
「…っぷ、っぷはははは」
あの時と全く変わらないムッとした流川の表情に思わずお腹を抱えて笑った。
アメリカの大学へ行っても、日本代表になっても流川は流川だった。どうやら沢北へのライバル視は本物のようで、負けず嫌いな部分は何一つ変わっていない。
「高校卒業してからも身長伸びたの?」
ファミレスから出てしばらく歩いていたが、隣にいる流川の頭の位置が当時よりもなんとなく上がっているような気がして、彩子は疑問を口にした。
「少し。フィジカルで押し負けないように体大きくするための重量トレーニングもしてる。スピード落ちるからつけすぎないように気をつけてるけど」
「なるほどね、だからか」
次元の違う事を口にしているのに、数時間も一緒にいた所為か、今は遠い存在だった流川がやけに身近に感じる。彼の気取らない態度がそうさせるのか、空気感がそうさせるのか、彩子には理由がわからなかった。
恐らく今日ここで別れたら、次はいつ会えるか分からないだろう。
「先輩、日曜日、空いてる?」
「ん?日曜日?今週の?」
「ん」
「空いては…いるけど。何、あんたまだ日本にいんの??」
「日本で自由に過ごせる日がその日しかない、次の日が出国」
「なるほど、随分とタイトなスケジュールなのね」
そう返答して、彩子の頭にハテナが浮かんだ。
なぜそんな事をあたしにいう?という純粋な疑問。しかし、珍しく言葉を詰まらせている流川を見るに、例え話しをしているわけでも、冗談を言いたいわけでもないことは分かる。
日曜日の予定をわざわざ彩子に聞いているのだから、一緒に何かしたい事でもあるんだろう。
(流川が?あたしと?一体何を)
「どこか行きたいとこでもある?東京なら詳しい自信あるけど、案内しようか?」
「違う」
「違う?」
「海が見たい」
コンビニでコピーした資料の右下に赤ペンで記された文字を指でなぞった。日付と時刻、「東京駅南口」と記された文字はあの後流川が書いたものだった。
海が見たい。
その言葉はあまりにも魅力的だった。彩子が日常茶飯事に思う事だったからだ。
でもせっかくの貴重な休日なのに、なんで自分なんだろうという疑問がまだあった。中高は確かに一緒で同じバスケ部という共通点があったし、家も割と近所で、恐らく流川の中で数少ない女性の先輩だったかもしれないが、特別仲が良かったわけじゃない。
それをいうなら3年間一緒に過ごしていた同学年の桜木や晴子の方がいいのではないか、と思ったが流川に誘われたのは彩子なのだから、それを全力で否定しようとするのもおかしい。
(まさかあたしの事好きなの?)
実のところ会った時から違和感を感じていたのだ。
彩子を呼び止めた時の見たこともない驚いた表情、沢北との間に遮るように入ってきた時も、その沢北を帰らせ、一人ファミレスについてきた事も、その時の視線や、見られるのは嫌じゃないという言葉、あの時確か彩子は「あたしにジロジロ見られたら嫌でしょ」と聞いたのだ。三井に彩子が何をしているのか聞いた事だって。NCAAの話題を出したのもそうだ。
全ての出来事を自分に焦点を当てて考えると、それは十分すぎるアピールに思えて、これがそうでなければ自分は思い込みの恥ずかしい女だし、流川も酷い思わせぶりな男だ。
だとしたら一体いつから?
1年も顔を合わせていないのに、再会した途端性急になるもんだから全く頭に整理がつかない。少なくとも先輩後輩と過ごした4年間のどこかにきっかけがあったのかもしれない。
しかし、それはあまりにも想像のつかない事だった。
あの時は本当にバスケしかなかったから。
8.直感を信じる女
あの日から3日経過した約束の日当日。結局あれこれ考えても無意味だった為、悩んで寝れないなんて事はなかったが、連日日本代表の合宿の様子が耳に入ってきて妙な気持ちになってしまったのは事実だ。
その日本代表である流川とごく普通の学生である彩子がこれから一緒に海に行くなんて、彩子自身も想像しなかった事だ。
ただ海が見たいと言っているわけだし、デートというわけでもないから、気負いせずにデニムにTシャツとキャップというスポーティーな格好で家を出た。
流川のこれまでの寝坊癖を踏まえて、待たされる事を想定内として頭に入れていたので、音楽を聴きながら気長に待とうとウォークマンをポケット入れて再生ボタンを押した。そして同じタイミングで視線が目立つ頭身の男に引き込まれてしまう。
「嘘…」
キャップにマスクという姿にも関わらず、彩子には遠目からでもそれが流川だと分かった。
雑誌のモデルと言われても信じてしまうだろうスタイルは行き交う人も視線を向けている。変装したつもりなのだろうが、あれではむしろ逆に怪しまれるだろう。
ウォークマンの停止ボタンを押し、イヤホンをポケットにしまうと、いまだに信じ難い光景だと思いながらも待ち合わせ場所に佇んでいる男の元に駆け寄った。
「おはよう流川」
「…っス」
覇気のない挨拶で、やはりまだ眠そうだ。
「あんたどうしちゃったの?寝坊すると思ったのに!」
「それは失礼」
「だって」
彩子の知っている流川は大舞台でも遅れてくるような男だ。流石に湘北に来てからは少なくなったが、それでも普通の人よりは寝坊の回数は確実に多い。
「これ」
感動している彩子に流川が差し出したのは往復切符だった。その行き先にはやはり地元の駅名が書いてある。
「やっぱ地元の海だったのね、見たかったのって」
「それ以外にない」
「そっか」
彩子もしばらくの間地元へ帰っていない。いつでも帰れる、と思いながら気づくと半年以上帰っていない時があるし、海が恋しいと思う事はあっても気軽に行ける距離感でもなかった。
財布からお金を取り出そうとした所で、流川の大きな手がそれを制止するように乗せられて驚く。視線を上げると黒い瞳が彩子に注がれた。
「いい、もう払ったから」
「でも」
「いいって言ってる」
強めに言い方を変えた流川は、そのまま改札の方へ歩いていく。
「あ!ちょっと!」
空いていたボックス席に座って数分も経っていない。窓枠に肘をついて車窓から景色を見つめている彩子の左肩には重みがあった。視線を落としてもキャップの鍔しか見えないが、流川はぐっすりと眠っている。おそらく駅に着くまで起きないだろう。
「可愛いねえ」
途中駅で目の前の席に座った年配の女性は彩子の肩で眠っている流川を見つめながら微笑んだ。無愛想で大柄な男にはおよそ似つかわしくない言葉に思わず笑ってしまった。
「疲れちゃったみたいです」
恐らく待ち合わせ時間より早めに来るのは慣れていないだろうし、合宿もハードだったはずだ。帰国してからゆっくり休める時間が今日だけしかないのは酷だが、寝れる時に寝てほしいと思う。
車両から徐々に人が減っていき、地元の駅まであと一駅という所で流川の肩を揺すると、一瞬ビクッと体を揺らして頭を僅かに上げた。
「もう少しで着くわよ」
「…」
僅かに左肩が軽くなるのが分かって、ようやく起きるのかと彩子も体勢を変えようとしたが、再び肩に寄りかかってきそうな気配を感じたので思わず頬に手を当てた。
「ちょっと、いつまで寝るつもり?」
「もうちょっと」
こうやって普段も2度寝をしているのだろう。安易に想像がつくが、そろそろ左肩が限界だし、電車が閉まりそうになって慌てるのはごめんなので、多少強引ながらもそのまま頬が乗せられた手をグッと押し退けた。
なんとか眠りにつくことを諦めてくれた流川は猫のように背中を伸ばして、欠伸をする。
ようやく地元駅に着き、電車から出ると吹き抜ける風から海の香りがした。発車ベルの音と、景色がひどく懐かしい。
彩子が地元にいた時はなかった自動改札機がいつの間にか出来ていたが、それ以外は何一つ変わっていない。
「電車じゃなくて、歩きでいいすか?」
「勿論。あたしも歩きたかったし」
駅から海岸近くまで、乗り換えで電車を使えば早いが、歩きで行ける距離でもある。
学生時代は駅を使わずに海沿いを歩いたり、ランニングしたりしていたし、何度か同じ道で流川とすれ違っている。その事を鮮明に覚えているのから、今隣で一緒に歩いている事が俄かに信じられなかった。
真っ青な海が視界に広がると、耳にも波の音が入ってきた。彩子が慣れ親しんだ場所がすぐそばにある。
「懐かしいでしょ?」
隣にいた流川に視線を向けると、いつの間にマスクを外していたのか、整った横顔が目に入った。視線は真っ直ぐと海を見つめていて、その口角は僅かに上がっているのが分かる。
二人でしばらく海岸側の歩道をゆっくりと歩いていたが、少し座ろうと提案してきた流川に付き添って砂浜に足を踏み入れた。そのまま柔らかい砂の上になんの躊躇もなく座る流川はキャップを外してサラサラとした黒髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「少しだけ風が冷たいけど、気持ちいいわね」
あまりにも身近な場所だったから、何もない時にこうやって足を踏み入れるのは少しだけ新鮮だった。
流川の隣に座って、目の前の海をしばらくじっと見つめていた。
「なんであたしとここに来ようと思ったの?」
打ち寄せる波を見つめながらポツリと口にした言葉に、流川の視線が向くのが分かった。
「…」
「別にあたしじゃなくたっていいじゃない?1年も会ってなかったわけだし、親しい人ならもっといるでしょう」
「ここに来るなら先輩とが良かった」
黒い瞳と交わった。それが思いの外真剣な眼差しで、思わず視線を逸らしてしまう。ほとんど意識していなかったはずなのに、流川と再会した日の夜に悶々と悩んでいた事を思い出した。
時間がそれなりに経った所為か、あの時「自分が好きなのかもしれない」と結論づけてしまった自分が恥ずかしい。
海に誘ってくれるほど後輩が純粋に慕ってくれているのに。
確かな言葉を引き出そうとするのは良くないと直感でそう思った。きっと流川は嫌がるだろうし、彩子も今のままで満足している。
今まで通りがいい。そうだ、今までみたいなのが一番落ち着く。
そう覚悟を決めた彩子の頬に少しだけ冷たい指先が触れた。流川の手だ。
突然頬を撫でられた事に驚いて固まっていると、唇がゆっくりと開いた。
「先輩は嫌だった?」
「い、嫌じゃ…ない…」
けど、という言葉は波の音と柔らかい壁に塞がれ、かき消されてしまった。自分の頭から帽子が落ちるのと、目の前で黒い前髪が風に靡いているのが分かる。
伏せられた長いまつ毛が揺れて、それがゆっくりと離れていくと唇が徐々に熱を帯びていくのを感じた。
長い指先が名残惜しそうに彩子の唇をなぞる。その手つきは自分の知っている流川ではなかった。
「あんた、あたしの事好きなの?」
これ以上の言葉が口から出てこなかった。
数秒前まで言わないでおこうとせっかく呑み込んだばかりなのに、予想外すぎる行動で聞かないわけにはいかなくなってしまった。
「好き」
しっかりと頷いて、あっさりと肯定を口にする流川の姿に今度こそ衝撃を受けた。
ようやく自覚をした心臓が忙しなく動き出す。嘘だ、どうして、いつから、さまざまな疑問が思い浮かんでは消えていく。彩子の気持ちも考えずに突然キスをした事に怒らなければいけないのに、全然嫌じゃなかったから余計に頭が混乱した。
「わかんないけど、しんどい時、先輩の顔が浮かんでた」
「ずっと会いたかった。だから次チャンスがあったら逃したくないと思った」
「いつでも会えるわけじゃないから」
しんどい、なんて口をした事にも驚いたが、その言葉を彩子に口にするぐらい真剣であるという事は伝わってくる。
会いたかった。逃したくない。いつでも会えるわけじゃない。その言葉一つ一つがストレートで心に響く。
だから余計にいつから好きだったのか、と小さな事を気にする自分が馬鹿馬鹿しく思えた。
膝を抱えて砂浜に視線を落とす男を見つめて、彩子はこれまでの事を思い出していた。バスケの才能がなくて少し落ち込んでいたときも、バスケから離れられない中途半端な気持ちだった時も、再び新しい位置でバスケに関わった時も、試合で負けた時も勝った時も、彩子の近くには必ずと言って良いほど流川がいた。
もう関わる事はないと思っていても、結局流川は彩子の前に現れる。
彩子にとって流川は目を逸らせない男だった。
無意識に動いた手で頬を包んで強引に此方を向かせると切れ長の瞳が見開いた。
何も言わず今度は彩子の方からキスをすると僅かに流川の体が強張るのが分かる。
「あやこさん」
顔が離れる間際に呟いた流川の掠れた声が甘く聞こえるのは、名前を呼ばれたからだろうか。先輩、と呼ばれるのもいいが、下の名前で呼ばれるのも悪くない。
その愛おしさに思わずちゅ、とリップ音を立てて頬にもキスを残すときょとんとする流川に笑いかけた。
「こう見えて直感は信じる方なの」
3月中旬から4月上旬にアメリカの大学の頂点を決めるバスケットボールのトーナメントが行われる。これを人々はマーチ・マッドネスと称していた。3月の熱狂という意味だ。そこで1試合25点という得点を一人で叩き出した日本人がいた。xxx大学2年生、沢北栄治。昨年のシーズンベストを更新し、アメリカの地でもその名を轟かせている。
しかし、書店に並べられたバスケ雑誌の表紙を飾るのは沢北ではない。彼と同い年で、同じアメリカの地でさらに4点上の点数を出し、ベストパフォーマンス賞を受賞した流川楓だった。
" 進化する若きスター "
デカデカと書かれたキャッチコピーに、彩子は富中時代に部室のパイプ椅子に置かれれいたバスケ雑誌を思い出した。
「流川くん日本帰ってくるんだって」
「嘘!親善試合って日本で開催されるんだっけ?」
雑誌を手に取って興奮気味に話す女性たちの会話に自然と笑みが溢れてしまう。
彼の才能は海を飛び越えて、バスケの本場アメリカでも通用している。中学の時はそんな事まで考えていなかったはずだ。
『流川楓。ずっと見ていたい男』
あの時の印象は随分とガラリと変わって、もっと感情が含まれている。
今、彩子は流川に恋をしているのだ。