黒姫-特異点の片耳処女律-(ウラ良) ―その肉体は存外入りやすかった。あの赤鬼が先に棲み処を慣らしてくれたからだろう。それでなくとも精神の吸い付くように適合できるすぐれた器は、繋がるごとに、天然性の包容力で心地の好い繋束感を齎した。
その肉体は、寛容に自分を受け容れた。散りばめられた猜疑の中でも揺るぎなく、異物に侵されるのを決して恐れることもなく。
その肉体の持ち主は、『空間』という漠然としたこの世界そのもののように茫洋としている。僕らをまるごと呑み込むような巨大な瞳で何を視て、幾つこうして受け容れて来たの。
[黒姫 -特異点の片耳処女律-]
ふわふわ夢見がちな微笑みを、枕の中に半分埋めるかわいい子。愛しく優しく手を伸ばし、耳にかかる黒髪をサラリ撫ぜるように掻き上げる。漸く顔を覗かせたひどく内気な耳朶に、キスをしかけた。だけれども。―目に飛び込んだ小さく丸い、赤い痕。塞がりかけたピアスの穴を突きつけられて、思わず閉口させられた。咽元まで出掛かったたった二文字が小波のように、心の奥底に逃げていく。
胸にチクリと引っ掛かった。あからさまな釣り針を、けれども回避出来ずウラタロスは、良太郎の耳朶に飾られた赤い誘惑にそれと気付いて釣られてやった。唇で優しく包むはずだった柔らかな耳朶に軽く触れ、すぐさま穢れと手を切るように離し、淡々と言葉を落とす。
「…驚きだね、リョータローの耳にこんなものが明いてるなんて」
柔らかな微笑を僅か困ったものに変え、良太郎は頼りなげな声音で応えた。
「…前 付き合ってた人に、無理矢理 明けられちゃって…」
返ってきたその答えに込み上げた嫌悪のような感情をウラタロスは作った微笑の中に押し隠した。
放っておけばそのうち塞がってしまうだろうたかだかピアスの穴を不純だのと騒ぐつもりはないし、そんなものすら許せないほど生真面目な生き方は自分とてしていない。しかし清く正しく大人しい良太郎についたその赤い痕は本人の印象とあまりに掛け離れて、ゆえに衝撃的だった。その痕が他人の強引な手によるものだと知れば尚更、『人の家』どころか神の聖地でも土足で踏み荒されたような忌まわしさを覚えてしまう。
「…それこそ驚きだよ。恋の『こ』の字も知らなさそうな顔して付き合ってた人がいたなんて。一体どんなヒトかな、リョータローに愛されてたっていう物珍しい人間は」
蟠りを誤魔化すように良太郎の髪を、子供の悪戯のように掻き回した。良太郎は乱れた髪を自分の手でそっと梳くと、相変わらずののんびりとした声で言う。
「…別にそんな、好きっていうのじゃなかったけど…。いつの間にかそーゆー事になっちゃってて、……拒む理由もなかったし」
「ふーん…そんなもん? リョータローって、そーゆー理由で誰とでもこーゆー事ができちゃうんだ?」
良太郎の顔を見下げたウラタロスが毛布の下で腰を揺らすと、良太郎は片眉を顰めて、指先で軽くシーツを掻いた。
「は、初めはちょっと乱暴みたいな感じだったし、ちょうどモモタロスみたいに強引で気性が荒かったけど…でもね、僕には割と親切にしてくれた先輩だったんだよ」
む、っと挑発されたのは。ウラタロスの知り得ない過去への嫉妬とそして昔の男(話の筋から察するに、女性ではありえないだろう)の話をしながらあの赤鬼について惚気られたような気がした、嫉妬。
―ちょうどこんな気分だったかもしれない。いつか良太郎をこうして敷いた先輩とやらも、力ずくでこの柔らかく初心な耳に自分の証を残しながら、焦がれるような気持ちでいたかもしれない。―針を突きつけて、犯すように無理矢理、貫く。ぶつりと切れる耳朶の感触を想像して、ウラタロスはますます気分が悪くなった。こんな耳、引き千切ってやりたい。もう誰の誘惑にも耳を貸さないで。…自分の黒い偽りにも汚れない純粋さで、ただ微笑んでいればいいものを。
「…あ、…痛、いよ…ウラタロス……っ」
―この身体は存外、入りやすかった。誰かが先に慣らしたのだろう気配があった。頑なで純潔な清らかさを疑ったことなどなかった。…先の男の匂いに冷たい排斥感が込み上げる。種を持つ雄は、他の雄のそれを厭う。―こんな行為に種も何もあったものではないけれど。
過去の熱、過去の感触、過去の痕を掻き出すように大きく抽挿すると良太郎は震えた声を上げた。簡単に泣き言を上げる細い身体をそれでも『強引に』揺さぶり続ける。
―あぁ結局、…同じことを繰り返すのだ。
「もっとやさしくして…」
虐げられた小動物のように か弱く愛らしく懇願する。―けれどもこの身体は、痛みすらすぐに寛容し、甘い悲鳴を上げるようになる。元々が受け容れやすく出来ているのだから。
「…痛くても何でも、いつだって喘いできたんだろう?」
滑らかだけれど吸い付くようにウラタロスを包み込む。慎ましい花のようで強欲な華のようなそこは、囚われたが最後、快楽の園に男を迎え入れて放さない。その入口の花弁を咎めるように狭められ、ウラタロスは中で数滴 精子を零した。
射精感が高まって動きを止めたウラタロスを、不思議そうに見上げる良太郎。
余裕のなく、なっている自分を『どうしたの?』なんて。『キミらしくないよ』なんて。心配そうに見詰める瞳に苛立ちが湧き起こる。
乱暴にしたい。…自分だけを植えつけたい。
―きっとこの少年を前にして、誰もが同じことを繰り返す。
そんな誰をも、この身体は受け入れ許容する。
「…やさしくなんかしたくない。…僕なんか受け容れて、誰でも受け容れるリョータローは嫌いなんだ」
良太郎はふわりと切なく微笑んで。
そのトゲすらあっさり飲み込んでしまう。
「…でも僕は、ウラタロスの事キライじゃないよ」
静かに瞳を閉じた良太郎を引き裂きたい。…けれどもウラタロスはそっと、良太郎の耳に飾られた赤い挑発を彼自身の柔らかな髪で隠して、身を屈めた。
細い脚を持ち上げて奥まで腰を入れる。近い絶頂を感じながら。―反対側に反らされた良太郎の首筋を眺めて、そして乱れた髪の中に半分埋まる柔らかな耳。咽の奥に飲み込んだ罵倒の言葉を白い濁りに代えて吐き出す前、
ウラタロスはそこを指先で撫で、唇を寄せた。
くすぐったそうに良太郎はふわふわと笑って枕の中に顔を埋める。―僕だけの君ならよかった、なんて言えない詐欺師の捻くれたキス。
優しく愛しく口付けたかった。
貫通のない、このキレイな右の耳朶にだけ。
The End.
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『―ねぇ、どうして抵抗しないの?』
問う声は頭の中、冷たいさざなみのように響く。
[黒姫 -路地裏の透明性致死毒-]
どん、と薄汚れたコンクリートにぶつけられた、後ろ肩に鈍い痛みが走る。そこをさすって和らげる隙もなく、乱暴な手に押さえつけられ、…眉を顰めて見上げた人影は高圧的に覆い被さってきた。
たまに車の走る音がする、高架下には人気がない。時間を持て余した若者の溜まり場に相応しく、じめじめとしたコンクリートの壁には感情をあざとく塗りたくったような鮮やかな色彩で、…世界を嘲るような捻くれた文字で、隙間なく落書きされていた。
腹に拳が当てられ、良太郎は身を屈めた。しかし崩れることを、髪を掴むことで止められ、続けざまに膝が入れられる。
痛覚はある、けれどもそれに抗えるだけの腕力は持たず、良太郎はただひたすら与えられる衝撃に耐えた。一頻りの暴力が加えられ息が上がる頃、地面に張り付けにされて、
不気味に口角を歪める幾つかの黒い顔が良太郎を見下ろしていた。
笑い声や、『順番』を決める相談の声。浴びせかけられる侮辱のような嘲りのような、不愉快な言葉と。迫り来る容赦のない手。
まだ重い感触の残っている腹に馬乗りになった1人が良太郎の衣服を捲り上げ、中の肌に触ってきて 良太郎はざわりと背を粟立たせた。―これから与えられる暴力の種類にはここまでくれば容易に想像がついた。…すでに諦めていた。
それぞれが良太郎1人の腕より強く、それが複数人。誰ひとりとして理性を保とうとする気配がなく辺りには助けを呼べる人もいない。そんな状況を冷静に判断したつもりだったが、腹に乗った男が良太郎の下衣を剥ぎ取り、自身のベルトを寛げようと金属音を鳴らす時、良太郎の頭に声が響いた。
『―ねぇ、どうして抵抗しないの?』
淡々と問いかける声は、良太郎の知る青いイマジンのそれだった。
彼がこの状況を察知している。その事実にハッとしたが、すぐに落ち着きを取り戻し、良太郎は瞼を伏せて呼びかけてくる彼の意識に集中した。
『このまま大人しく輪姦されるつもり? それともリョータローは、こういうのが好きなわけ?』
―いやじゃない、…わけじゃないけど。
『だったら少しは、』
『…抵抗しない方が割合、早く済むんだ』
呆れた声を遮るように、言い訳をする。
ウラタロスに起こった棘のような苛立ちを、良太郎は精神を通じて感じた。同じようにしてこちらの状況が通じてしまうならいっそのこと、遮断してやるべきか。迷ううちに指が挿れられ荒らすように弄られて、良太郎はそちらに意識を奪われた。
『…―呼ばないんなら、…助けてあげないよ?』
呻きを上げながら、頭に響く声に良太郎は小さく頷く。
『今はモモもクマも、…寝ちゃってるんだよ』
―平気だよ、ウラタロス。
物理的な暴力には慣れていた。同じような目に遭ったことも何度かある。理由はわからないが良太郎の大人しい性格が八つ当たりの対象として適しているのかもしれないし、それとも自分の視えない身体の何処かに『捌け口』とでもラベルが貼られているのかもしれない。抵抗を試みようとする事も最初のうちにはあったけれど、結局は好きにさせておくのが最も自分にも害がないということを、悟った。
非力さは誰の所為でもなく、だから、助けがない事も誰の所為でもない。誰の所為にもしない。
ウラタロスはすっかり口を閉ざし、…それとももう呆れて彼の方から、絶っているのかもしれない。
いつの間にか割開かれた脚の間に男が入っていて、硬く勃った性器で貫かれた。無造作に揺すられ顔を険しく歪めると、その眼が気に喰わないと頬を張られる。
気を失いかける寸前、髪を掴んで頭を持ち上げられ、唇に苦味のある熱い楔が、押し当てられるのを感じた。
*
暗く深いところに沈んでいた意識がふと戻ってきた時、自分の身体は勝手に頼りなげな歩を刻んでいた。目に映る景色は最後に見たそれとは違う。何処かの路地裏のようだった。
この身体を操る、自分のではない意識がある。
―ウラタロス…?
控え目に呼びかけると身体は止まり、気付けば、手は震えていた。
ずき、と痛んだ手の甲が良太郎の知らない擦り傷と僅かな血に汚れている。
―…助けてくれた、の?
答えてはくれなかった。
でも多分、…面倒くさがりのはずの彼が身体を張ってくれた事はなんとなくわかる。自分の身体がそう言っている。
良太郎は、不意に自分の目からボロリと零れるように涙が落ちるのを感じて驚いた。泣いているのは、…自分ではなくウラタロスだ。
―どうしてウラタロスが…?
ウラタロスはグイッと腕で拭うと、気丈な声音を作った。
『ちょっと暴れすぎて気持ちが昂っただけだよ。』
―…ごめん。
『…何で謝るの。リョータローは助けてくれなんて一言も言ってないし? …でもこの身体、他人に好き勝手されて後で困るの、僕だからさ。』
―…ごめんね。
今 胸が痛むのは、…自分ではなく彼が、痛んでいるから。
それに気付くと良太郎は反省した。自分はあれくらいのことでは傷付かない。けれどその痛みを代わりに受け止めてしまう存在が今はある。その存在は何だかとても、透明で。捻くれているけれど濁りがなくて。
淀みを孕んだこの器に受け容れるには小奇麗すぎて。
胸が詰まる。
―君が傷付いた表情をするなら、もうやめる。
―またこういうことがあったら今度はちゃんと、…拒むから。
澄みきった致死毒のようだ。
厄介で、いとおしいほどの。
良太郎はやんわりとウラタロスの精神を追い出して、服の埃を叩き落した。ひりひりとする手の甲の傷痕を頬に擦り寄せ、口付ける。
彼の零した、海の味。
The End.
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―海に、さよなら。
[黒姫 -純水魚棲息領域-]
水槽の中で生まれた気泡が上へ上へと昇ってゆく。水面まで届くと静かに消滅するそれは次から次と生じては、また消えた。
限りある硝子ケースの中をゆったり泳ぎ、壁にぶつかりそうになってはクルリと身を翻し。小さく息する熱帯魚たちを覗き込んで、ケースに映ったブルーのメッシュを瞳の端に留めたウラタロスが、やがて身を起こして呟いた。
「…なんて窮屈そうに生きてるんだろうね」
ともすれば聞き逃しそうだった独り言のようなそれに、気付いた良太郎は瞬時に、自分の身体を乗っ取るウラタロスに集中した。
「かわいそうな話だと思わない? 人の勝手でこんなケースに閉じ込められて、広い海の自由を知らないサカナたち。彼らの真珠のような呼吸は、観賞用に生まれた短い命を哀しみ嘆く涙に見える」
青い瞳の真摯に見詰める、魚の零した水泡をともに眺めて良太郎は心持ち眉を寄せた。
ウラタロスは女性とのデートを楽しんだ後たまに、こうして水族館やペットショップの水槽の前に1人佇むことがあった。その行動は単純に静かな空間に癒されたがるようでもあったし、―彼こそがまるで海を懐かしむ魚のようでもあった。
淀みのない碧の水に揺れる海草。彩りの美しい熱帯魚。綺麗な海の世界を再現された硝子の中の小さな景色が、良太郎は嫌いではなかった。
そこに泳ぐ魚たちの無感情な静けさは良太郎の目にも心にも平静とした癒しを感じさせたし、薄く厚い硝子を境界として俗世間から隔離されたその中はある種の自由空間を思わせた。
だが今、ウラタロスの口から『窮屈』という感想を聞いて、そんな自分がこの魚たちを狭い世界に閉じ込め不幸にしているのだろうかと少し思った。…魚の気持ちは分からない。
良太郎は自分の意思で腕を動かし、暗く静かな水槽に触れた。
「…だって、ウラタロス? この内の魚たちは、外の海を知らないのに。―広い世界がある事を知らないのに。憧れたりするのかな?」
―何より此処には敵がいない。この水槽の中は、争いも何もない、人に守られ飢えすらない、理想的に優しく穏やかな世界に視える。
良太郎は硝子ケースに映った自身の(ウラタロスの)姿をぼんやりと見詰めた。
「何かを観るって言うのは、そこに反映された自分自身を観てるってことだと思うんだ。だってそこにあるものの気持ちなんて、…僕たちみたいに繋がってるならともかく 分かりようがないでしょ。 例えば捨てられた縫い包みや使い古した靴なんかを見て『可哀相』とか思うのって、自分が捨てられた時の気持ちで考えちゃうんじゃないかな。 …ウラタロスはこの水槽の中の魚を、窮屈そうだって思うんだね…」
見詰めながら自身の姿が、ウラタロスの憑依したそれから普段の、真実の、『野上良太郎』に戻っていくのを何処か他人事のように遠く感じていた。
「…僕はこの水槽の中しか知らないこの魚たちを、広い海に放してしまう方が、こわい気がする。…きっと生きられないよ」
*
それから帰宅しようと良太郎がペットショップを出た時だった。穏やかな男性の声に呼び止められて、良太郎は振り向いた。
「―キミ、良太郎くん、…だよね?」
自分の名前を知っている。声もそうなら表情もおどおどとした、その男性の顔は見知っている。
記憶を掘り返して彼が昨年、姉の店に頻繁に出入りしていた客だと気付くと、思わぬ再会に驚き、良太郎は瞳を丸めた。
「久し振り、…元気だった?」
何処か気恥ずかしそうにはにかむ彼に、良太郎は微笑を返しながら心の裏では少し気まずく、また、後ろめたい焦りを感じた。
仕事の具合がどうだとか、近況を述べてくる彼に相槌を打ちながら足は早く彼の前から去りたがって落ち着かない。
とりとめのない、時間的にはものの数分だったろう会話も ひどく長い憂鬱を良太郎に感じさせた。―最後に今の連絡先を教え手を振りながら明るい笑顔で彼が別れの挨拶を口にした時、心底安堵した。
改めて帰り道を、心なしか足早に歩く良太郎に、呼びかけてくる頭の中の声。
『―今の誰?』
それは先刻まで良太郎の身体に憑依していたウラタロスのもので、感の鋭い彼からの詮索に良太郎は少しの失望感を感じた。
正直に答えるのは嫌だった。…けれど嘘をつくのはもっと嫌だ。だから触れて欲しくなかったのだ。それは、きっと、彼の世界を窮屈なものにしてしまうから。
『…前よく店に来てたお客さんだよ』
『―それだけ?』
『…姉さんに恋してた1人』
『―どっちかって言うと、その弟に気がありそうだったけど?』
『……』
良太郎は苦い記憶に思いを馳せると眉を顰めた。
良太郎がウラタロスに答えた事は偽りではない。―彼は確かに姉・愛理を目当てに店に通ってきていた常連客の1人だったし、数多いるそういった種類の客たちの中でも特に真摯で一途な想いを姉に向けていた1人だった。
殆どの客たちがただの発作的な興味で終わる偶像的な憧憬の中、気の弱く真面目な彼のそれは紛れもない恋だった。
気が合って話を聞いているうちに良太郎の心には彼に対する同情と罪悪感が芽生えていた。応援したい気持ちを持ちながら一方で良太郎は、その頃純恋愛のさなかにあった姉とその恋人・桜井の事を心から祝福していたのだ。
『…かわいそうだって、…思ったんだ』
『……』
『―あんなに真剣に、一途に想っているのに、姉さんは決して彼に振り向かない。…あんまりだと思って、…傷付く前に彼の方から姉さんのことを諦められたらいいんだって思って、』
『……』
『それとなく僕から誘って、一度だけ寝た』
その時の同情は、ウラタロスの魚たちに見る親身なそれとは種を異にする、ともすれば傲慢な感情だった。
彼は『自分に慰められることがあるなら』と切々申し出た良太郎を姉の代わりに抱きながら、高揚に身を預け、…少しだけ泣いた。おそらく彼は良太郎の誘惑を故意であるものと知らずに、愛理とその大事な弟、そして自身の心を裏切ったという呵責に苛まれ、後に店への足を絶やした。
『…それだけだよ』
―ウラタロスは沈黙する。
失恋から救おうとして結果、別の形で傷つけた、浅はかな少年であった自分。割合、神経質で潔癖なウラタロス。
『―…モモタロスたちには黙ってて?』
気まずさを埋める為にそんな願いをかければ、少しだけ険を帯びた声が応えた。
『…リョータローはそうやって、あいつにはキレイなところばかり見せるんだ?』
そんなつもりで、言ったのではない。
…でも、そうだ。こんな自分を極力彼らには知られたくない。―知られる必要は感じない。大事な事は、ちゃんと話したいけれど。
『…モモタロスはなんだか純情で…びっくりしちゃうくらい正直で、穢いこととか、ずるいことは見せたくないって思う』
『僕にはキタナイモノを押し付けて?』
『―キミはなんだか透明すぎて、…キレイな事とかキタナイ事とか色んな事に敏感で、…それなら、』
『……』
『…―隠された方が傷付くかなって、…思ったんだ…』
良太郎は先刻の水槽を思い出して、深く瞳を閉じた。
―この世界のあちらこちらにこんな穢れが散らばっているとして、優しく純粋な詐欺師はそれらすべてを苦しげに嚥下し、もしくはキレイに澄んだ水の中だけを選びながら泳ぎ続けているのかもしれない。
せめて一縷の潔白を、彼の海に与えたい。
『キミには、嘘をつきたくないと思って、』
もしかしたら君の心は窮屈で、窮屈で、…窮屈だから、『この世界でも呼吸が出来るよ』って、…自分に嘘が必要なんじゃないかって。
―ふと思っただけだけど。
The End.
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―それなら僕はもう二度と、呼吸が出来ない。
うつくしく淀みを鎮めた、狭い器の中でしか。