夢56:夢
―何を壊したかったのか。
…いいや、何も。
―何を消したかったのか。
……いいや、何も。
―取り戻したかったのか、何かを。
………いいや、何も。
―何も、喪いたくなかった、それだけだ。
*
『悪いけど時間は消させない』
したたかな目をした少年だった。
気に喰わない瞳をした少年だった。
噂に聞いた『電王』とやらは、掴めばそれだけで折れてしまいそうな細い腕と、頼りない腰つきをした、けれども生意気な眼差しをした、少年だった。
牙王は白い空間にいた。
雪原よりも白い一面。 壁もない。
ほかに存在はない。 広さも判らない、しかし切り取られた小部屋のような閉塞感のある、靄のかかった空間に、ひとり居た。
舞い上がる燐粉のようにきらきらと散っているのは塵だ。電王にやっつけられた牙王自身の残骸だ。牙王の腕、…腕と言わず体中が妙な輝きを放ち、細微な粒子を空間に撒き散らしている。それと同時に牙王は、自身の体がだんだんと『減っていく』のを感じていた。
牙王を牙王たらしめる 人としての肉体、その外側の形にはさほどの変化はない。ただ 軽くなっていく自覚がある。足を下に着けたまま浮き上がっていくような、 …おそらく肉体よりも魂から先に蒸発されていっているのだろう。これが、消滅だ。
やがて、そう遠くない時間、牙王のすべては粒子になりきってこの白い空間の中に消えるだろう。そんな理解があった。それは死とも言えない、消滅だ。けれども悲しさはない。
墓に入れないのなら、消えた方がいい。この記憶の片隅に蹲っているたった一つの、『思い出』 と呼べるイメージの中で笑う女と子供。最早 土の中ですら彼らとともに眠れないなら、いっそ消えた方がマシだった。
あと何分。それとも何時間。 いつになるともしれない消滅の時を待つのもひどく気だるくて、牙王は白の中を歩き出した。足音がしない。どれだけ荒くブーツの足を下ろしても床を踏んだ感触がない。辺り一面、指標になるものが何もないので己が果たして順調に進んでいるかもわからない。その中をあやふやに進んでいく。消えながら。
どれだけ歩いたのか知れない。歩けたのかすら知れない。随分と靄の中を移動したようで、一歩も動いていないような気にもなる。それとも進んだところから元の場所に戻されているような気にすらなってくる。どれだけ経ったのかも知れない。時間があるのかも知れないこの場所で、けれども、音もなく歩き続けていると小さな点が浮かび上がった。
ぽつり。雪の中に落ちた胡椒粒のような、遠くに視えた黒い点が、だんだんと大きくなってくる。自分が近づいているのか、向こうから近づいてきているのか、何にしろ、瞳の中に膨らんでいく存在は、確かに人影だった。
『泣いている』 。その人影を見てそんな風に思ったのは、小柄な、――おそらく自分の子供であるそれが背中を丸めて蹲っていたからだ。その背中が悲しく見えたのは、 そうだ、自分の記憶の中にいるあれくらいの子供が、いつだったかあんな格好で、めそめそと泣いていたからだ。
「何を泣いてる?」
その子供に近付いた時、不思議と牙王の消滅の進行が緩和した気がした。体中からこぼれていた命の粉は、ふわりと牙王を包んだまま止まっている。思わず声をかけたのは、消滅まで待つにはあまりにこの無の空間が退屈だったからだ。
牙王が声をかけると、泣いていたと思っていた十くらいの少年は、どこか見覚えのある眼差しで牙王を見上げた。
「泣いてなんかないよ。泣いたことなんてない。 だけど何だか、さみしくて」
辺り一面の白。
まるで心の病に侵された人の、頭の中のような白。
牙王ですら孤独を意識せずいられない空間の中で、子供ひとり。
「ずっと前に死んでしまった父さんと母さんのこと、憶えてなくて、どんなに思ってみても泣けない自分が、さみしいんだ」
そう言った少年の瞳が翳る。
喪うという事に、年齢は関係ない。
こいつも俺と同じか、――そう思った時、牙王はこの世界のように空白だった胸の中に、ひとつだけ記憶を蘇らせた。
今では最早 覚えていない。どれくらい昔(過去)のことだったか。どれくらい大事な思い出だったか。特別な記憶ではない。家族でテーマパークに遊びに行った日の事でも、母親(妻)が張り切ってご馳走を拵えていたクリスマスの日の事でもない。息子と庭で、キャッチボールをした。 そんな些細でくだらない、記録するほどのものでもない思い出だった。
……遠い昔に喪った。
今では思い返して泣く事もない、遠い遠い昔の話。
「お母さんの声は少しだけ憶えてる。お父さんは どんなひとだったかな。姉さんは、お父さんと動物園やアスレチックに行った思い出を時々、僕に話してくれるんだ。だけど お父さんのことをどんなに聞いても思い出せない。姉さんはお父さんとお母さんの話をするといつも泣いて、僕は少し、姉さんがうらやましい」
少年は俯いて、小さな背中を更に小さく丸める。
同じだ、と、思った。――何かが。この少年と自分は、似ている。
それきり沈黙してしまった少年を、同じく沈黙したまま牙王はしばらく眺めていた。まるで小鳥のような、細い手足。 鈍くさくて、キャッチボールが下手そうだ。――それは かつて居た、牙王の息子を連想させる。
自分と同じならばこの少年も、死んだのだろうか。じきに消滅するのだろうか。
この空間にはほかに何もない。…誰の命もない。
「ちょうど、お前くらいだった」
牙王が呟くと少年は再び牙王を見上げる。
「俺の息子だ」
その隣に薄ぼんやりと女の亡霊が寄り添ってまた消えた。
「…おじさんも、大切なひとが死んでしまったの?」
いつだったか最早、数えられぬほど昔の日。
牙王は愛する妻と息子に取り残された。事故だった。
彼らを喪い、生への希望が潰えて、泣く事にすら飽きて悼む事もなくなると何もする事がなくなった。それから牙王は時の盗賊になった。
「さみしいね」
少年が同情的に眉を顰める。
ほかに何もない白の空間。
ほかに何もなく、
牙王は少年と対峙した。どれだけの時間が過ぎたのか、時間は過ぎたのか、知る由もないままに。
「…此処が何処だかわかるか?」
牙王がぽつりと尋ねると、少年は答えた。
「――わからないけど、もしかしたら、僕の夢なのかも。」
「……そうか、此処は夢の中か」
寂しいなどと、感じた事はない。 いや、いつからか、感じなくなった。
肉体からは少しずつ、少しずつ粒子が散っていく。怖くはない。ひとり土に眠るよりもずっといい、けれども消滅はまだ訪れず、
牙王は感触のない床にどかりと胡坐をかいて座ると、少年を呼んだ。
「座るか?」
しゃがんでいた少年が戸惑いに瞳を揺らす。
言われた意味が少年にはわからないのか、(牙王にすらそう口走った自分の意味が、わからなかったが、)牙王は自身の脚を叩いて促した。
「父親がいなかったんだろう?」
――どれだけ時間が。過ぎたのか、
迷いの末に少年が、立ち上がり、また、牙王の膝に腰を降ろす。椅子に寄りかかるように牙王の胸に背を預ける。その背は軽く、熱かった。
少年が牙王の膝に座った時、少年は父親に甘えるような気恥ずかしさに頬を染め、 牙王はもういない自身の息子を掴まえたような気分になった。忘れていた息子の重みを思い出し、それをいつまでもこの膝に乗せていたかったと思う。馬鹿な親の願いだった。
この何もない空間に同じ境遇のふたり。――それとも、喪ったふたりだからこの世界に同じくして迷い込んでしまったのか。此処は夢の中。何でも叶って、何ひとつも叶わない場所。
少年は初めて乗る『父親』の膝元に、そわそわと落ち着かずいる。
けれども慣れてくるとやがて綻んだように笑い、牙王の膝の上で動くようになった。
「おとうさん」
ふわりと、呟く。
「おとうさん、」
「…ああ、」
こうして呼ばれていたかった、いつまでも。
そして、呼ばせていてやりたかった。…いつまでも。
それだけがすべてだった。
時の盗賊となって、何かを壊したかったのか。彼らのいない時間を? ――ちがう。何を消したかったのか。彼らのいない世界を? ――ちがう。 退屈だっただけだ。
退屈だった。
…退屈だったのだ。
―牙王がじわりと深い瞬きをしていると、
「えいっ」
ぽすり、
少年が牙王の膝から降り、そして牙王の腹に精一杯の拳を打ち込んだ。牙王の腹は貧弱なそれを難なく受け止めたが、腹を抱えると『ぐうっ』と唸り、苦しい振りをした。
少年はきゃらりと笑い、ぽすり、もうひとつ牙王に拳を向ける。
「お前は強いな、 何者だ?」
腹を押さえて牙王が問うと、少年はえっへんと胸を張る。
「仮面ライダー、電王!」
牙王はハッとし、少年に目を見開いた。
瞳の中で、牙王の見つめる少年から、自身の息子の面影が分離し、蒸発してゆく。――…ああ、そうだ。
息子に似た少年の、似ても似つかぬ強かな瞳。
この子供は、自分を倒した、あの英雄だ。
理解した。自分の息子はこの世にはもう居ないのだと言う事を。さっきまでの短い時間、忘れていて、しかし思い出した。
「…俺は牙王だ」
「がおう?」
「…悪い悪い、盗賊だ」
時の海賊となり、時を走る列車を奪って、けれど何を取り返したいわけでもなかった。時など永遠に帰る事はない。――彼らは還って、自分は、ただ、喪いたくなかった。しかし退屈を埋める為だけに盗賊と成り果てても、何故か退屈は埋まらなかった。埋まるまで悪行に身を窶し、時間を食い潰そうとしていた。そのうち神が怒りこの命を、さっさと奪えば良いのだと、心の端で望みながら。
「…お前が居なくなったから、俺は悪者になった…」
亡き息子に思い馳せ、牙王が片手の平で顔面を覆うと、
ぽすり、牙王を最後にやさしく殴って少年は言った。
「それじゃあ牙王が悪いひとになったら僕がやっつけてあげる」
きらり、弱そうな少年の瞳が生意気に耀く。
「お父さんが悪いひとになったら、きっと、牙王の息子は かなしいから」
かわいそうなひとはみんな僕が、倒してあげる。
こいつなら救えるだろう。…この世の中の『かわいそう』を、幾つも倒して行くのだろう。――だが、しかし、この世界にはほかに何もない。白だ。
どうして元の世界に戻れるか、その術も知らない。
牙王が少年と対峙しているとやがて時は動き出した。牙王の体からきらきらと粒子が零れ、上へ上へと昇っていく。消滅していく。時の猶予が終わった。
その様を不思議そうに眺める少年に、牙王は呼びかけた。
「お前、誰もいないなら俺と来るか?」
少年はにこりと笑って、首を振る。
「ううん、明日、ともだちと遊ぶ約束してるから」
「そうか…」
その瞬間に、理解した。
退屈だったのは、自分に誰もいなかった所為か。
俺は、孤独だったのか。
…けれどももう、そんな孤独に振り回されることもない。餓えもなく、退屈もなく、愛する妻と息子のいる、満たされた場所へ逝く。
自分を倒したあの少年も。 ――電王も、…そうか、昔に喪ったのか。
それでも騒がしい連中に囲まれて、退屈ではないのだな。
ここは夢の中だった。
何ひとつ叶わず、何もかもが叶う場所。