けほけほと喉から押し出される空気の塊がぼんやりと熱を持っているのを自覚して、アルハイゼンは溜息をついた。普段体調管理を怠らないからこそ慣れない体の不調が煩わしく、高熱はアルハイゼンの冷静で整然とした思考を攫って水キノコンのようにふわふわと漂わせる。風邪をひくのはいつぶりだろうか。教令院に入ってから体調を崩した覚えは無い。最後に風邪をひいたのは……そうだ、まだ祖母が生きていた時分で、幼かったアルハイゼンが眠るまで、とん、とん、と一定のリズムで祖母は背を撫でてくれた。少しカサついた温かい手が額に浮いた汗を拭って──……
ベッドから見上げる祖母の優しい顔を目で追ったところで、それはぼんやりと揺れる金髪に入れ替わった。ゆっくりと瞬きを繰り返すと、熱で潤んだ視界にスピネルの大きな瞳が像を結ぶ。どうやら一瞬のうちに記憶と夢の世界に入り込んでいたようだった。
「あ、起きた」
目が合ったことに気がつくと、同居人は指先でアルハイゼンの額に張り付いた髪を優しく払って、そっと手のひらを額に押し当てる。記憶の中とは違い、カーヴェの手は心做しか少しだけひんやりとしていた。
「うーん、まだ熱は高そうだな……リンゴ、持ってきたけど食べられそうか?」
「……もらおう」
目が回らないようアルハイゼンが慎重に上体を起こすと、カーヴェはフォークに刺したリンゴを差し出してきた。なんのこだわりか、赤い皮にV字の飾り切りが施されている。アルハイゼンの視線に気づいたのか、カーヴェは得意気に口角を上げた。
「かわいいだろう!この前旅人に会った時に教えてもらったんだ。稲妻ではリンゴの皮を兎に見立てて切るのが一般的らしい」
皮をV字に切り取っただけのそれは、アルハイゼンにはうさぎだのかわいいだのといった要素も、わざわざそうする意味も理解し難いものだ。ただ、そういうものにいちいち目を輝かせるところは彼らしいと思う。
「俺は味が良ければそれで構わない」
「君って本当に情緒が無いな……」
じとりと不満げな顔をするカーヴェを横目に、差し出されたそれを受け取ろうとすると、カーヴェはサッとアルハイゼンの手が届かない位置にリンゴを遠ざけた。
「……なんのつもりだ」
「一度やってみたかったんだ。弱ってる恋人に手ずから手料理を食べさせるあれ」
所謂、『あーん』とかいうやつだろうが、アルハイゼンとしては面倒だという感情しか湧いてこない。しかし妙にやる気に満ち溢れているカーヴェにその非効率さを説くのも、熱でぼんやりとした頭では億劫に感じてアルハイゼンは大きく溜息をついた。
「ちょっと君、そんな大きな溜息つかなくったっていいだろう!?」
「……したいなら勝手にすればいい」
「……え」
断られると思っていたのかぽかんとするカーヴェに少しの苛立ちと後悔が胸を過ぎる。面倒なことをわざわざ受け入れるなど、自分も大概熱でおかしくなっているのかもしれない。
「しないならこのまま貰うが」
「や、する!!するから!!」
はい、と改めて口元に差し出されたリンゴに、落とさないようゆっくり齧り付く。タイミングを見計らって、慎重に離れていくフォークを確認して咀嚼すると、爽やかな甘さと共に冷たい水分が口の中にじゅわりと広がった。味はなかなかに悪くないようだ。
「美味いだろ?」
「……ああ」
「露店のお嬢さんに貰ったんだ。荷物を運んだお礼にって」
カーヴェの言葉を聞いて、アルハイゼンの眉間に僅かに皺が寄る。どうやらこの男はまた持ち前の行き過ぎた思いやり精神を発揮してきたらしい。
「君はまた余計なことに首を突っ込んできたのか?」
「な……っ!余計なことなんかじゃない!困っている人が居たら助けるのは当たり前だろ」
「そういったことは自分の生活に余裕があって自己管理のできる者が無理のない範囲で行うものだ。君にそれが出来ているとは到底思えないが」
「うぐ……っ」
先週過労で風邪をこじらせたばかりのカーヴェが言葉を詰まらせる。悪天候の中毎日遅くまで仕事をこなしながら、帰宅の道すがら歩くのも大変そうなご婦人を家まで送り届けたり、巣から落ちた雛を高い木の上に戻してやったり、酒場の扉の建付けが悪くなってきたからと、その場で修理を頼まれて夜中に帰ってきたこともあったか。他にも思い出せばキリがない。一度気になってしまうと手を貸さずにはいられないのはこの男の悪癖であり、アルハイゼンが何を言おうと変わることが無いことは長年の付き合いで理解している。それでもアルハイゼンは苦言を呈さずにはいられなかった。
そもそもアルハイゼンが珍しくこうして風邪をひいたのも、そうして体調を崩したカーヴェの看病で風邪が伝染ったことが原因だ。小言のひとつやふたつ、許されて然るべきだと思う。
「……そりゃ、君に迷惑をかけたことは悪いと思ってるけど……でも、放っておけないだろ」
「そうやって自らの限界も見極めず頼まれごとを増やした結果をもう忘れたのか?どうやら君の記憶力は本当にキノコン並に退化してしまったようだな」
「君は本当にいつも一言余計だな!!」
カーヴェがキノコンというよりは風スライムのようにふくれる。慌ただしく騒がしいこの男をうるさいと思う時も多々あるが、アルハイゼンは彼がころころと表情を変える様を眺めるのが、不思議と嫌いではなかった。
諦めたように特大の溜息をついたカーヴェが、ずいっと目の前に半分になったうさぎを差し出す。
「減らず口を叩けるくらい元気で何よりだ。ほら、残りも食べてくれ」
「……ん」
ひと口大のそれを今度は全て口内に迎え入れる。
カーヴェがそっとフォークを引き抜くと、静かな室内にしゃくしゃくとささやかに咀嚼する音だけが転がった。束の間の沈黙にふとカーヴェを見遣ると、カーヴェは穏やかな表情で、リンゴを咀嚼するアルハイゼンをただ静かに見つめていた。
「……君は他人の食事を鑑賞する趣味でもあるのか」
「はあ?違うよ。……ただ、……暖かいなって……」
ぼんやりと呟いたカーヴェはこちらを見ているようで、どこか遠くを見ているようでもあった。一緒に暮らし始めてからというもの、ふとしたときにカーヴェはここではないどこかをぼんやりと見つめていることがある。
アルハイゼンは軽く息を吐くと、カーヴェの手首をぎゅっと握った。
その感覚にぱちりとカーヴェの瞳が瞬いて、目の焦点が戻ってくる。
「ん?どうした、アルハ……んっ」
そのままカーヴェの手首を引き寄せて、アルハイゼンは軽く唇を合わせた。
アルハイゼンから恋人らしい触れ方をするのは、これが初めてだ。
どうしてそうしようと思ったのか、不思議と今はそれを自分自身に問う気分にすらならない。やはり熱でどこかおかしくなっているのかもしれなかった。
突然のくちづけにこぼれそうなほど大きく見開かれた瞳の赤が、動揺したように微かに揺らぐ。アルハイゼンは無防備に固まるカーヴェの唇を戯れのようにやわく食んで、小さな音を立てながらそっと離した。
長く生え揃った睫毛のひとつひとつが見えるほど近くで覗いたカーヴェの瞳は、くっきりとアルハイゼンだけを映していた。
掴んでいた手首をそっと離して傾けた体を元に戻すと、ふたりの間に再びの沈黙が落ちる。
目が合ったまま逸らせないでいたカーヴェの顔が徐々に赤みを帯びて、耐えきれないとでも言うように、先に口を開いたのはカーヴェだった。
「……な、君……っ、なんて顔してるんだ……!」
「なんて顔とはどんな顔だ」
「自覚がないのか!?」
自覚がないのかと言われても、特に意図して表情を変えたつもりもなければ、ここには鏡も無い。アルハイゼンは訳が分からず眉間に皺を寄せた。
「問題があるなら具体的に言ってくれないか。時間の無駄だ」
「問題があるとかそういうのじゃなくて……ああ、もう元に戻った……」
なにやら俯いてぶつぶつと呟くカーヴェにますます首を傾げる。やがてカーヴェはふいにこちらに視線を戻すと、アルハイゼンの汗で湿気った髪に優しく手を差し入れて、顔を寄せてきた。反射的に目を瞑ると、ちゅ、という軽い音と共に眉間に何かが触れる感触がして、すぐに離れる。
「……おかえし。僕は少し出かけてくるよ。残りのリンゴはキッチンにあるから、好きな時に食べるといい」
「……ああ、分かった」
ぱたりと音をたてて閉まったドアを見つめながら、アルハイゼンは出掛ける直前のカーヴェの表情を思い出していた。
「……ふむ、なるほど」
カーヴェのいう「なんて顔」がどんな顔だったのか。
結局自分で確かめることは出来なかったが、眉間にくちづけを落とした彼の顔が、まるで直前のアルハイゼンを写したかのように、なんとなく正解を告げているような気がした。