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    shioko_3

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    8/3 オールジャンル墓参りWEBオンリー あなたに会いに来ましたにて公開している一次創作
    (約10000文字)
    後日微調整してpixivに上げます

    木箱の珊瑚木箱の珊瑚

     わたしが地元の少々特殊な墓地で案内のボランティアを始めたのは、元々そこで案内ボランティアをしていた祖母が昨年に腰を痛めたことがきっかけだった。その頃のわたしは大学生になって二度目の夏休みで、アルバイトしかやることがなく、暇つぶし感覚で祖母の代打を勤めた。一度きりの代打だったはずがどうしたことか、一年たった今でもなんとなくボランティアを続けていた。
     墓地といっても寺に隣接した単なる墓地ではない。
     その昔、この国に軍隊が存在していた時代に用意された軍人専用の軍用墓地だ。これがなぜか公園に隣接していて、しかも誰でも自由に入れるようになっているせいで、小さい頃のわたしは何の疑問も持たずに友だちとこの墓場で鬼ごっこに興じていた。成長して墓地が何のためにあるのかを知ると近寄らなくなったが、そんな場所でボランティアをすることになるとは奇妙な縁もあるものだ。
     広い敷地の隅には、昭和の香り漂う木造平屋建ての事務所が建てられている。漆喰で塗り固められた壁にはアルミサッシの引き戸がはめ込まれていて、カラカラと懐かしい音を立てる引き戸を開けると、壁も床も板張りの古めかしい事務室が現れる。
    「おや、今日も当番かい」
     電気のついていない事務所の奥から顔を出したのは初老の女性だ。わたしは靴を脱ぎながら彼女に会釈をした。
    「精が出るね」
     彼女は小島さんといってこの墓地の維持管理団体の人だ。主に事務室の鍵の管理や墓地の掃除を担当している。
    「夏休みの大学生は暇を持て余してるんですよ」
     わたしがそう言って笑うと、彼女は目元に皺を寄せて柔らかな笑みを見せた。
    「今日の案内は?」
    「4時から一人だけ」
    「そのためだけに来たの?」
    「家から歩いて5分もかからないし、平気ですよ。テレビつけてもいいですか」
    「時間まで座ってゆっくりなさいな。お茶も淹れてあげようね」
     彼女の気遣いにお礼を言うと、小島さんはわたしの代わりにテレビをつけて台所へ戻っていった。
     小島さんが持ってきてくれたお茶とお菓子を口にしながら、事務所の隅の椅子に座り、机に肘をついてぼんやりとテレビを見る。
     テレビでは、昼の情報番組で地球温暖化の防止のためのプラスチック削減に取り組む高校生の活動を紹介していた。お昼の情報番組らしいつまらなさだ。
     地球温暖化だの温室効果ガスだの、大げさに地球の危機が叫ばれているものの、今のところ日本はまだ8月が終わると途端に涼しくなる。けれど室内は締め切っていると少しだけ暑く、わたしは腰を上げて窓を開けた。
     少し前まではぎらぎらと突き刺すような日差しだったのが、この頃はずいぶんとやわらいで過ごしやすくなった。まだ木々は青い葉をつけているが、これもじきに色を変えて、街中を赤い絨毯で彩ってくれることだろう。
     吹き込む涼しい風が前髪をさらって額を撫でていく。
     窓の外には見渡す限りに大量の墓石がずらっと整列している。等間隔に並ぶ墓石は、すべて、この国を守るために死んだ軍人の墓なのだそうだ。
     わたしが生まれるずっと前にこの国に存在した軍は、戦没者を埋葬するための墓地を全国各地に持っていた。
     日本各地に存在する軍所有の墓地は元は陸軍省の管轄だったが、例によって戦争に負け、陸軍が解体すると財務省の管轄となった。といっても、財務省は実質土地を所有しているだけであって、維持と管理は地元の法人団体である運営委員会が担っている。この運営委員会というのが墓地の清掃や墓地の案内会などを行っていて、その手伝いをするのがわたしたちボランティアの仕事だ。
     わたし自身は、これといって戦争や歴史に興味があったわけではない。
     もともとボランティアをしていた祖母が腰を痛めたとき、わたしは祖母の腰に湿布を貼りながら「そもそもなんでそんなボランティアやってんの」と聞いた。
     それくらい、戦争にも、歴史にも、祖母のボランティアにも興味がなかったのだ。
     ところが祖母は少しだけ考え込むと、突然昔話を話し始めた。
    「昔ここらが空襲で燃えたときのことよ、おばあちゃんはお母さんに手を引かれて逃げていたの。あなたにとってはひいおばあちゃんね。あちこちに焼夷弾が落ちて、家が燃えていて、人も燃えていて、爆弾が背中から刺さって倒れる人もいてね。そんな光景を見ながらおばあちゃんは死に物狂いで逃げていたんだけど、ふと水たまりに小さな靴が片方だけ落ちているのが見えたの。小さな赤い、赤ん坊の靴よ。片方だけ水たまりに浮かんでいたの。おばあちゃんはね、あの景色がなぜか忘れられないでいてね。あの靴を落とした赤ん坊はどうしたんだろうか、生きているのか、死んでしまったのか。戦争が終わっても、あの靴のことがなぜだか忘れられなくてねえ」
    というのが、わたしの質問に対する祖母の回答だった。
     答えになっているんだか、いないんだか、よくわからない返答だったのだ。
     祖母は今まであまり戦時中のことを語らなかったのだが、そんな話を聞いてしまったわたしはなんともばつの悪い気持ちになって、思わず言ってしまった。
    「わたしが代わりに行ってくるよ」と。
     それから祖母の代打だったはずが、いつの間にかわたしも本格的にボランティアに参加するようになって今に至る。
     ぼんやりと墓地を眺めていると、背後のテレビがポーンと時報を鳴らした。
     振り返って画面を見れば、情報番組が夕方のニュースに切り替わるところだった。
     先ほどまでの情報番組の気さくな雰囲気が打って変わり、ぴっちりとスーツを着たニュースキャスターが国外のニュースを読み上げる。すぐに映像が切り替わり、画面に映ったのはアメリカの大統領だ。大きな星条旗を背後にはためかせながら、何やら演説をしている。字幕によると、戦争の大義名分を叫んでいるらしい。
     私は戦争を知らない。
     けれどいま、海の向こうでは戦争が起きている。
     正直なところ、戦争の原因だとか情勢だとか、小難しいことはわからない。
     けれどつい数ヶ月前、アメリカという大国はイラクと戦争を始めたのだ。その事実は確実に、わたしがこの墓地でのボランティアをする理由のひとつになっていた。
     さて、今日のわたしの仕事は来客の対応だ。
     約束の時間は16時。テレビの時刻テロップが16時を1分すぎたとき、控えめに事務所の扉が開いた。
    「あの、すみません、連絡していた蓮田と申します」
     事務所を覗き込むようにしながら入ってきたのは眼鏡をかけた、物静かそうなおじいさんだ。グレースーツと、綺麗に色の抜けたシルバーヘアの相性がよく、おしゃれに見えた。
    「お待ちしてました、蓮田さんですね」
    「はい、ここにあの人が眠っているかもしれないと聞いて参りました」
     玄関に駆け寄ったわたしが会釈をすると、蓮田さんはそう言って柔らかく微笑んだ。

     太平洋戦争末期に戦局が切迫すると、軍用墓地の敷地は不足した。墓地が足りなくなるほどに死者が出たのだ。敷地が足りなくなって困った国は、納骨堂を作り、続々と届く遺骨をそこへ安置することにした。
     わたしたちボランティアの活動の一つに、戦没者の遺骨の管理と遺族への引き渡しというのがある。というのも、太平洋戦争の終盤にもなると、この納骨堂に戦死者が眠ること自体、遺族に知らされなかったそうだ。だから、現在もこの納骨堂には8000を超える骨壷が安置されているのだが、当の遺族はこの墓地の納骨堂に戦死した家族の骨壷が置かれていることすら知らないことが多い。
     蓮田さんもそのうちの一人だった。
     わたしは靴を履いて、蓮田さんとともに外へ出る。
     日の傾き始める時間は先月に比べればすっかり早くなったものの、裏の公園からはまだ子どもたちの遊び声が聞こえていた。
     太陽はすっかり傾いていて、空は焼け爛れたような赤。幾重にも重なる小さな綿雲の影は濃い紫色に染まっている。不気味な色合いだ。けれどどこか神秘的な空の色だ。
     この時期の夕焼け空を見るとき、いつもわたしは「ああ、夏が死ぬのだなあ」と思うのだった。

    「ご無理をお願いしてしまい申し訳ありませんでした」
     外に出て事務所の引き戸を閉めると、蓮田さんはわたしに向かってそう言った。
     正確にいうと蓮田さんは遺族ではないらしい。
     遺族ではないが、親友がこの墓地に眠っているという噂を聞いたから案内してほしいと問い合わせてきたのを、維持会本部のスタッフが快諾したそうだ。
    「家族でなくても、お墓参りをしたいとやってくる方はおられますから」
    「いえ、本当は彼の家族が来るべきだったんです。けれどご家族はすでに鬼籍に入っておられるし、彼に妻や子どもはいませんでしたから」
    「そうでしたか」
    「彼は南方で戦死したと聞いていたので、遺骨も遺品も、何一つ戻っては来ないだろうと覚悟はしていました。でもまさかこんなところに帰ってきていたとは」
    「はい、遺骨や遺品がここに眠っていることすら遺族には知らされなかったそうです。……ひどい話ですよね」
     どうやって突き止めるのか、この墓地へ遺骨を引き取りに来る遺族の中には、戦時中の日本政府のことを敵のように思っている人もいる。
     そりゃあ大切な家族が戦死したというのに、その遺骨の在処すら教えてもらえないとなれば無理もない。案内をしている途中で声を荒げて当時の国のあり方を批判する人も多い。
     しかし蓮田さんは、どこか懐かしそうに微笑んで言った。
    「仕方ありません、そういう時代でしたから」
     わたしは何と返そうか一瞬だけ迷って、けれどいい返事が何も思いつかず、ただ頷くことしかできなかった。

     右にも左にも、前にも後ろにも無数の墓石たちが静かに佇んでいる。わたしたちはそんな墓石と墓石の間の、まるで迷路のような細いあぜ道を、納骨堂に向かって歩く。ぎりぎり二人並んで歩ける程度の道幅なので、私が蓮田さんを一歩先導する形だ。
     事務所は敷地の南端に位置するが、納骨堂は北側の塀に面している。墓地は基本的に腰くらいの高さの墓石がずらりと立ち並ぶだけなので、わたしたちの視界の先には四角い平屋建ての納骨堂がよく見えていた。
     納骨堂の向こうには近代的な高層マンションが幾棟もそびえ立っている。最近この辺は開発が進んでいて、やたらと高さのあるマンションが増えつつあるのだ。
    「この辺りも随分と様変わりしましたね」
     蓮田さんは墓地の周囲に立ち並ぶ高層マンションを見渡し、相変わらず柔和な笑みを口元に浮かべて口を開いた。
    「この辺に住んでおられたことがあるんですか?」
    「今は隣県に住んでいます。昔はこの近くに住んでいました。この町に大規模な空襲があったことはご存知ですか?」
    「祖母から聞いたことがあります」
    「おや、おばあさまはこの辺りの方ですか」
     おばあさまという慣れない響きにむず痒さを感じながらも、わたしは頷いた。
    「そうでしたか。なら、もしかすると子どもの頃にあなたのおばあさまとどこかで会っているかもしれませんね。僕は病気があって現役の兵隊にはなれなかったので、この町を襲った最後の空襲まではずっとここで過ごしていたんです。最後の空襲で焼け出されてしまって、引っ越すことになりましたが」
     たくさんの家が燃えたというのは聞いたことがあった。わたしの祖母も、半分が燃え落ちた家で暮らしたことがあったそうだ。若い男性はみんな戦争へ駆り出されていて男手が少なかったから、後片付けもたいへんだったらしい。
    「結局、病気のことがあって戦争へは行けなかったので軍需工場で働いていましたが、当時はそれが恥ずかしくてね」
    「恥ずかしいんですか?」
    「そうです、いっぱしの男にはとうとうなれなかったと思いました」
    「……そういう時代ですか?」
     わたしがそう聞くと、蓮田さんはいたずらっ子みたいな顔で笑って頷いた。
    「僕の名前ね、梢というんです」
     女性のような名前だ。けれど蓮田さんの、もの静かで穏やかな雰囲気にはぴったり似合っているような気がした。
    「女の名前でしょう。体が弱い男児だったから長生きするように女の名前をつけられました。母がそういう風習のある村の生まれだったんです」
    「そういう風習、聞いたことあります。子どもの頃から体が?」
    「ええ、痩せっぽっちで病気がちな子どもだったのでよくいじめられていましたよ。いじめられていた僕に初めて、やり返せ、情けないと言っていじめっ子たちをタコ殴りにしていたのが彼でした」
     蓮田さんが彼と指した人が、今から会いに行く遺骨の彼だと気づくのには数秒かかった。
    「それで仲良くなったんです。5歳とか、6歳とか、そのくらいの頃だったかな。初めて、わたしに合わせて遊んでくれた人でした。彼が出征するまで、ずっと彼の後をそれこそ雛みたいにくっついていましたよ」
     戦争が終わって60年近く経っても、隣県からやって来るくらいだ。本当に仲が良かったのだろう。
    「健康になるには生卵がいいだのなんだのと言って、毎朝ぼくに生卵を飲ませに来たりなんかしてね」
    「生卵って健康にいいんですか?」
    「栄養はあるんでしょうが、僕は毎朝それでお腹を壊していましたよ」
    「ダメじゃないですか」
     思わずわたしがそう言えば、蓮田さんは声を上げて笑った。
    「まあ当時の医療では病気は治らなくて、徴兵の検査も落ちました」
    「徴兵の検査って落ちるとか受かるとかあるんですか」
    「健康でないと兵隊はつとまりませんからね。まあ落ちたといいますか、丙種合格というんです。現役兵としては不適だけれど国民兵役には適するという基準で、まあまともに戦える兵隊がいなくなって最後のほうに駆り出されるようなものです。結局僕が戦場へ行くことはなくて、でも彼は、僕のふたつ年上で、僕が徴兵の検査を受けるより先に戦地へ行ってしまった」
     大学生になるまで平和な時代の平和な国で暮らしていたわたしに言えることなどなく、ただ黙って蓮田さんの話を聞いていた。最後のほうは彼も声がしぼんでいて、なんだかひとりごとのようでもあった。
     スニーカーの底で砂利を鳴らしながら歩いていくと、ぱっと道が開けた。両脇に並んでいた墓石群が途切れ、観音扉のついた納骨堂が目の前に現れる。
    「ここが納骨堂です」
     わたしがポケットに入れていた鍵を取り出すと、蓮田さんの顔から柔和な笑みが消えた。代わりにその唇はぎゅっと弾き結ばれる。
     わたしは大きな観音扉の錠前を外した。重い扉を片方だけ開くと、夕日が納骨堂の中に差し込んで、モルタルの床が血に濡れたように赤く染まった。
    「仏壇があるんですか」
     納骨堂は三つの部屋でできている。観音扉を開けた真正面には、仏壇を置いた、いわばロビーのような部屋が。そしてさらに左右に木の扉があり、それぞれが骨壷を安置している広間へと繋がっている。
     わたしは仏壇の裏に周り、小箱から線香を持ち出して蓮田さんに差し出した。
    「よければお線香を」
    「ありがとうございます」
     蓮田さんはまだ少し頬の辺りを強張らせたまま、線香を受け取った。
     わたしは蝋燭とマッチを取り出して、燭台に立てられたままの蝋燭に火をつける。そのまま蓮田さんにマッチの火を差し出すと、彼はわたしの手のマッチから線香へ火を移して香炉へそっと線香を立てた。
    「おりんを鳴らしてもいいでしょうか」
    「もちろん、どうぞ」
     ちーんと清浄な鈴の音が響く。蓮田さんはしばらく仏壇に両手を合わせてから、わたしに頭を下げた。
    「とても、丁重に扱っていただいてるようで……本当に……」
     先ほどまで朗らかだった声は震えていて、わたしの胸には言いようのない寂寥が広がっていった。
    「お堂へ、入りますか」
    「はい」
     顔を上げた蓮田さんは、皮膚の薄そうな唇を噛み締め、けれどしっかりと頷いた。
     蓮田さんが探しにきたという彼は、向かって右側のお堂に祀られている。蓮田さんから連絡が来た際に、戦没者の名前を聞き、本当にこの墓地に骨壷がある人物かどうかを維持会本部のスタッフが照合していたのだ。
     わたしは骨壷を安置している広間へ続く木戸に手をかける。この扉を開く瞬間は、いつも少し緊張する。わたしは蓮田さんに悟られないように小さく深呼吸をして、ドアノブをひねって扉を押し開けた。
     扉の向こうには暗闇が広がっていた。
     納骨堂には窓がない。室内にはまともな電気がついておらず、部屋のあちこちに裸電球を後付けしただけの状態だ。
     扉のすぐ側にある安っぽいスイッチを押すと、部屋の電球たちがオレンジ色の光を灯し、淡い光が照らし出すのは木棚が等間隔に並んだ図書館のような光景だ。
     明かりがつくと、室内の異様な雰囲気にたいていの人は息を呑む。わたしも初めてこの部屋を見たときは言葉を失った。
     広い室内は人が歩ける通路の幅だけを確保して、びっしりと、壁にも、床から天井まで隙間なく木棚が設置されている。
     棚には等間隔に小さな箱が置かれていて、白い箱は電球の光を反射して、暗い部屋の中からぼんやりと浮かび上がっているように見えた。
     この小さな箱のすべてが骨壷だった。
    「これが、全部……」
     わたしのあとに室内に入った蓮田さんが絶句した。
    「はい。すべて、墓地に納めきれず、ご遺族のもとへも還れていない人たちだそうです」
     背後で蓮田さんが息を震わせた。
    「こちらへ」
     わたしは扉の内側にかけられている懐中電灯を手に取り、足元を照らしながら棚と棚の間の狭い通路をゆっくりと進んでいく。墓地を歩く間ずっと和やかに話をしていたはずの蓮田さんは、一言も声を発さずにわたしの後ろをついてきた。
     部屋中にびっしりと並ぶ骨壷は、扉に近い棚のものは陶器が多いが、奥へ進むにつれて簡素な木製の箱になっていく。
     陶器にも木箱にも、幅2センチほどの縦長の紙が名札のように貼り付けられていて、それぞれに等級と名前が書かれている。中には保存状態が悪かったのか紙が破れたり、字がにじんだりして名前が読めないものもあった。
     目当ての骨壷は、扉から一番遠い壁の棚に置かれていた。
     下から七段目。ぴったりわたしの視線の位置だ。蓮田さんからは少し低く、隣に立った彼は少しだけ腰を屈めた。
     その木箱は、静かにそこへ鎮座していた。
     わたしは懐中電灯を棚へ置き、そっと両手で木箱を取り出す。木のささくれが手に当たってざらざらと不快な感触がした。
     持ち上げて、あまりの軽さに思わず鼻の奥がつんと痛んだ。
    「お名前はこちらで間違いありませんか」
     わたしは木箱の名札の貼られた面を蓮田さんのほうへ向ける。
     彼は眼鏡のブリッジの部分を指で押し上げ、目を細めて睨むように木箱に貼られた名前に視線を走らせた。それからぐっと唇を噛むと、震える息を吐きながら静かに頷く。
    「開けますか」
    「開けても、いいのですか」
    「ええ、ですが……、その、言いづらいのですが、中身が……」
     それから先は何と言っていいのかわからず、わたしは言葉に詰まってしまった。
     事前に確認をしたから、わたしはこの木箱の中にまともなものが入っていないことを知っていた。
     納骨堂に安置された骨壷の中身はたいていそうだ。まともな遺骨が入っているものはほとんどない。戦争も終盤の、激戦地から持ち帰られたものが多いからだそうだ。骨の欠片や遺髪が少しでも入っていればいいほうで、紙に包まれた木の枝や布切れだけが入っている骨壺も存在する。
     しんとした沈黙が、わたしと蓮田さんの間を駆け抜ける。わたしは蓮田さんの目を見ていることができなくて、視線を落とした。
     これまで何度か骨壷の引き渡しを経験したが、箱を開ける瞬間はいつも心が乱れてうまくいかない。おばあちゃんならこういうとき、もう少しうまい言葉をかけられるのだろうか。
     わたしは何を言おうかしばらく考えあぐねていたが、先に沈黙を破ったのは蓮田さんだった。
     彼は大きく深呼吸をすると、穏やかな声でゆっくりと言った。
    「大丈夫です。お気遣いをありがとう。覚悟はしていました。開けてください」
     視線を上げると、蓮田さんは口元に柔らかな笑みを浮かべていた。
    「わかりました、それでは開けますね」
     薄っぺらい木蓋に指を引っ掛けると、箱は簡単に開いた。
     中身は何かを包んだ小さな白い布がひとつだけ。
     わたしは箱だけを棚に戻し、白い布を自分の手のひらに乗せて、ゆっくりと開いていく。
     布に包まれていたのは、骨と見紛うほど真っ白な小枝のようなものだった。
    「これは……」
    「珊瑚だそうです」
    「珊瑚……」
    「はい、維持会の調査員の方の話によれば、亡くなった方の遺骨や遺髪が何らかの理由で持ち帰れない場合、その方が亡くなった場所にあったものが骨壷に入っていることがあるそうです」
    「それで、珊瑚ですか。そうか、あの人は海辺で……」
     蓮田さんの声はとうとう湿り気を帯びた。
    「はい、それからこの方の場合、あまり他には例がないそうなのですが……」
     まだだ。まだもうひとつ、蓮田さんには見せなければならないものがある。
    「珊瑚を包んだ布のここ、見えますか?」
     わたしはそっと珊瑚を指先でつまみ取り、白い布を広げた。
     懐中電脳の明かりに透かすようにしてみせれば、ハンカチサイズの布の隅に何か文字が書かれているのが見えた。
    「これ、お名前が書かれているんです。他にこういう例がないそうなんですが、もしかしたら直筆の署名なのではないかと思いまして」
     横線が全て右上がりに傾いた、豪快な文字だった。
     なぜこの布に名前が書かれているのかはわからない。そもそも珊瑚を拾った人が書いたのかもしれないし、この箱を持ち帰った誰かが書いたのかもしれない。
     けれどわたしは、この数十分の間に蓮田さんから聞いた話から、なんとなくこの名前の持ち主本人が書いた文字なのではないかと思い始めていた。
     蓮田さんが60年も前の友人の文字を覚えているかどうかはわからない。けれど、それくらいの奇跡は許されてほしかった。
     蓮田さんはわたしが指し示した文字をまじまじと見つめ、それからぐっと目を見開いた。
    「ああ、これ、これです。覚えていますよ、読み書きが苦手だった彼の字の練習に付き合ったのは僕なんですから」
     蓮田さんはわたしの持つ布の端をそっと持ち上げて、名前の書かれた部分を何度も指でなぞった。
    「めんどくさがりだから、どうしても文字が走りがちになる癖がありました。もっと落ち着いて書けと言っても聞かなくて」
     それからぽつりと、名前の主に話しかけるかのように小さな声で呟いた。
    「僕はね、ずっとあなたに会いたかったんですよ」
     今度こそ視界が潤んできてしまったわたしは、唇の内側を噛み締め上を向いて耐えた。きっとここはわたしが涙をこぼしてはいけない場面だった。
     蓮田さんは思い出があふれて止まらないのか、歓喜と興奮が混ざったような少し上擦った声で話し始めた。
    「当時の世間は、出征する人がとても生きて帰ってくるなんて言えない雰囲気がありました。ただ彼は出征の前夜、僕の部屋へ忍び込んできて、すぐに敵兵全員倒して帰ってくるからそれまでに病気を治しておけよと、おどけて言ったんです。けれど一向に帰ってこなくて、遺骨も戻ってこなくて、戦死扱いでしたが、彼の家族は最後まで彼が生きていることを信じていました」
     あなたは?とは聞かなかった。大切な人の遺体が帰ってこない場合、その人がどこかで生きていることを信じたくなる気持ちは想像に難くないからだ。
    「ご家族がいらっしゃれば、この箱はお返しできるんですが……もう亡くなっておられるんですよね?」
    「ええ、残念ながら。僕が家を失った空襲で彼の家族は全員亡くなりました」
    「そうでしたか」
    「僕は家族ではないから彼を連れては帰れません、そうでしょう」
     家族以外に遺骨は引き渡すことができない。そういう決まりになっている。
     心苦しく思ったわたしが「すみません」と謝れば、蓮田さんは首を横に振った。
    「いいえ、いいえ。いいんです、ようやく会えました。それだけで、本当に」
     見上げた蓮田さんは眼鏡の向こうの瞳を潤ませながらも、どこか満足げに見えた。

     納骨堂を出ると、外はすっかり薄暗くなっていた。
    「また来てもいいですか」
     観音扉に錠前をかけているわたしち、蓮田さんはそう言った。
     わたしは鍵をかける手を止めて、彼を振り返る。
    「いつでもどうぞ。お電話いただければ納骨堂は開けられますし、墓地の敷地だけならいつでも開放されていますから」
    「今日は本当にありがとうございました」
     蓮田さんはわたしに深々と頭を下げた。
    「おかげで僕はあの人にまた会えました」
    「いつでもいらしてください。お墓参りなら、いつでも」
     頭を上げた蓮田さんは最初に会ったときと同じ柔らかさで微笑んだのだった。
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