ある姉の話「僕は絶対に許しませんよ」
話は終わり、と席を立った僕の目が、男の顔を捉える。……何を途方に暮れたような顔をしている?僕にこう言われることくらい、始めから分かっていただろう。
そう思うと、やはりこの男と話すことなど何も無いように思えた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。話はまだ、……パパ!」
非難するような声が僕の背中に飛んだが、僕は構わずリビングを後にした。
アズール・アーシェングロット。43歳。実業家。
好きなことは子どもたちの成長を見守ることと、朝息子が起きてくる前に妻とコーヒーを飲みながら語らうこと。
好きな食べ物は妻の作る唐揚げ。
愛する女性の夫であり、独り立ちした娘といたずら盛りの息子を持つ父である。
妻とは、学生時代に出会った。
全寮制の魔法学校(しかも男子校)で恋に落ちるだなんて変な話だが、事実なんだから仕方がない。事実は小説よりも奇なり、ということだろう。
妻のユウは、闇の鏡の選定事故——彼女をよく知る人たちの間では、あれは事故などではなかったという見解で一致している——でツイステッドワンダーランドではないどこかから迷い込んできた異世界人であった。
紆余曲折を経て僕らは恋に落ち、これまた色んなことがあって娘のグレイシアが誕生したが、僕らの戸籍が今の形に収まったのはそれから14年後のことだった。
この時の話は、長くなるからまたいずれ。
翌年、長男が誕生。
僕らは四人家族になった。
5年前にグレイシアが就職し、家を離れてからは、妻と息子の三人で暮らしている。
複雑な事情の家庭で育ったというのに、娘は非行に走ることも無く、真っ直ぐ立派に成長してくれた。きっと彼女の母——僕の妻が、溢れんばかりの愛情を注いで育ててくれたからだろう。
そんな妻の愛情深さを受け継いだのか、たまに反抗しつつも僕を父親と受け入れてくれた娘の気遣いは海の魔女に勝るとも劣らず、息子の誕生に一役買うことになったのも、また別の話である。
一方、息子。
僕の特徴を強く受け継いだ娘と反対に、妻の特徴を多く受け継いだ彼は、名をサクヤと言う。
何とも不思議な響きだが、妻の故郷で朔夜……新月の夜を指す言葉らしい。
彼女とよく似た、まるで夜を切り取ったような黒い瞳が特徴的な彼にピッタリの名だ。
分娩室で彼と出会ってから、はや10年。
僕たち家族は、新たな局面を迎えていた。
そう、娘の結婚である。
息子が誕生した時には15歳だった娘も今や25歳。適齢期と言えば、たしかにそうだろう。
だが、まだ早すぎるのでは無いか?
就職して5年。仕事もようやく脂が乗ってきたところだろう。
それに妻によれば、相手の男とはまだ2年しか付き合っていないのだという。
たった2年で、うちの子の何が分かるというのだ。
娘の魅力を語らせたら、僕ならノンストップで3年はいけるぞ。
これで相手の男がグレイシアの価値観に合わなかったらどうする。
せめてあと2年は様子を見るべきだ。いや、3年でもいい。なんなら永劫も可。
だが一番気に食わないのは、これだ。
「妊娠と結婚の順序が逆になってしまい、誠に申し訳ございません。グレイシアさんもこれから生まれてくる子どもも、一生幸せにする所存です」
なんとこの男、僕の大切な娘を、あろうことか結婚前に妊娠させやがったのである。
避妊もまともにできない男が、グレイシアを幸せに出来るはずがないだろうが!
この時ばかりは自分がまだ学生だった妻を妊娠させ、苦労を余儀なくさせたことなど、すっかり頭から抜け落ちていた。
娘のこととなると、僕は冷静さを失うらしい。
「パパ、待って!」
リビングの扉が開いて飛び出してきたのは、そのグレイシアであった。
「ねぇ、パパ。お願いだから、あの人の話を聞いてよ」
「話をする必要など無いだろう。彼やあなたが何を言っても僕の答えは変わらない」
「そんな……まだ何も……!」
「はぁ……。グレイシア、新しい命を授かった以上は、僕らもあなたをサポートします。だが、あの男との結婚は別だ。あの男ではあなたを幸せに出来ない」
「……どういうこと?パパがあの人の何を知っているの?」
「一通りのことは。ジェイドに調べさせましたから。娘の結婚相手なんです、相応しい人間か確かめるのは当たり前でしょう」
「な……信じられない!こそこそ探るような真似して……!私が選んだ人なのよ?私を疑うつもり!?」
「……お前はまだ子どもです。それに恋は盲目なんて言うでしょう」
「私もう子どもじゃないわ!25歳よ!子ども時代に一緒に過ごした時間が短かったからって、いつまでも子どもでいることを押し付けないで!」
「——ッ!……とにかく、僕は絶対に反対だ。勝手に結婚しようなどとは考えないことです。骨折り損になるだけでしょうから。いいですね、グレイシア」
「ちょっと、パパ!」
これ以上は喧嘩になるだけだ。そう判断して、僕は未だ訴えたりないらしい娘の話を遮るように書斎の扉を閉ざしたのだった。
その直後、グレイシアの絶叫がうち中に轟いた。
「この……わからず屋——!」
*
僕、サクヤ・アーシェングロット。10歳。
エレメンタリースクール四年生。
得意な教科は錬金術と魔法薬学で、好きな食べ物はたこの唐揚げ。
アーシェングロット家の長男だ。
どうして姉のグレイシアとこんなに歳が離れているのかって?
その話は長くなるから、また今度ね。
姉さんは僕が5歳の時に就職して家を出たのだけど僕に会いたくてしょっちゅう実家に帰ってきていたから、今回もそうだと思っていたのだが……。
「この……わからず屋——!」
父と姉の言い争うような声が聞こえていたかと思ったら、次の瞬間にはこんな絶叫が廊下の先から聞こえてきた。
……父さんと姉さん、また喧嘩してるよ。
ふたりは似た者同士だからか、しょっちゅう喧嘩になるのだ。
「あらあら」
母も慣れっこなので、特に気にした様子もなく、落ち着かない様子の客人を宥めている。
「せっかく来ていただいたのに、ごめんなさいねぇ。うちの人、グレイシアを取られたみたいで拗ねているだけだから、気にしないでくださいね」
「い、いえ……。反対されて当然です。お父様からしたら僕はリスク回避も満足に出来ない男で、グレイシアさんにはもっと相応しい男性がいるとお考えになるのも無理はありません」
この人は、姉さんが連れて来た男の人で、姉さんと結婚したいんだそうだ。
でもこの人、どこかで会ったことあるような……?
「うーん、そうねぇ。それもあるかもしれないけど……、ふふ、大丈夫よ。私に任せてくださる?」
「え?」
「とっておきの話法があるのよ」
戸惑いの表情を浮かべる男の人に、母さんが楽しげに目配せしたその時、リビングの扉が音を立てて開いた。
「パパのバカ!もう知らない!」
姉さんだ。
それを聞いた母が「トトロみたいね」なんて意味の分からないことを言った。異世界の何かかな?
「まぁまぁ、落ち着きなさいグレイシア。パパには私から言っておくから」
「ママ……」
「だから今日のところは、帰って休みなさい?」
「うん……。……ねぇ、ママ。パパ、本当に許してくれないのかな……」
先程までの威勢はどこへやら、姉さんは肩を落としてしゅんと俯いた。
そう、喧嘩ばかりだけど、姉さんは父さんのことが嫌いな訳では無いのだ。母さんに言わせれば、喧嘩するほど仲がいいということらしい。
昔はお互い気を遣って喧嘩どころでは無かったそうだから、喧嘩する二人を見守る母さんはいつも楽しそうだ。
すっかり落ち込んだ姉さんを、母さんが抱き締める。
「大丈夫。アズールさんはきっと分かってくれるわ。だってあなたのお父さんなんだから」
「ほんと……?」
「ええ。本当の本当の本当」
「分かった……」
姉さんは小さく頷くと、彼氏さんとしっかり手を繋いで帰って行った。
——その晩。
どうしてもトイレに行きたくなってしまった僕は、ベッドを抜け出した。
用を済ませて部屋に戻ろうとしたところで、両親の寝室から光が漏れているのに気が付いた。
「全く、あの頑固娘め……。一体誰に似たんだ」
口から出かかった「父さんだろ」という言葉をかろうじて抑え込む。……いや、母さんも相当な頑固者だから、姉さんはふたりの頑固レベルを受け継いだスーパーハイブリッド頑固者ってわけだ。……僕?僕は素直だよ。
「僕は絶対に認めないからな」
「私は素敵だと思ったけれど。爽やかで、しっかりしてそうな人じゃないですか」
「どこがです。嫁入り前の娘を妊娠させるなんて、ろくな奴じゃない。妊娠のリスク管理も出来ない男があの子を幸せするだなんて、信じられるわけないだろ」
「ふふ、それは分かりませんよ。たとえ順番が違ったって、人は幸せになれるものです」
「だけど、根拠がない。あの子がちゃんと幸せになれるっていう根拠が」
どうやら母さんは父さん説得の真っ最中らしい。
もはや、どこかへ眠気は吹っ飛んでいた。
「ここにあるじゃないですか」
「え?」
「ね、アズールさん。私は今、幸せよ?私も嫁入り前の妊娠だったけど、今はあなたがいて、グレイシアは立派に育ってくれて、サクヤが生まれてきてくれて、毎日とても幸せなの。ほら、いい証拠でしょう?」
「そ、それは……」
扉の向こうで、父がたじろいだ気配があった。
普段は弁の立つ父さんだが、母さんを相手にすると父さんはいつも実力を充分に発揮できなくなる。
今日もまたいつも通りみたいだ。
「それにね、私グレイシアが彼を選んだ理由がなんとなく分かるわ。それが根拠の二つ目ですよ」
「ど、どういうことです?」
「だって彼、似てるじゃない?」
「似てるって……誰に」
まるで分からないと言うように問い返されて、母さんはふたりで父さんにいたずらを仕掛けた時みたいな声で笑った。
「うふふ……あの子の父親に、ですよ」
その言葉を聞いて、僕まで納得してしまった。
あの彼氏さんに会うのは初めてのはずなのに、ずっとどこかで会ったことがあるような気がしていた。でもそれは、きっとあの人が父さんと同じ雰囲気を纏っていたからだ。
なるほど、父さんが彼氏さんに冷たく当たっていたのは、いわゆるドーゾクケンオってやつらしい。
だが父さんの方にそんな自覚は一切無かったみたいで、「は、はぁ!?」と素っ頓狂な声をあげて早口で否定を捲し立てた。
「全っ然、似てません!むしろ、どこが似てるって言うんです!?」
「うーん、なんて言えばいいのかな……」
似ているところを上げているだけなのに、もはや父さんの褒め殺しになっている。
「分かった、分かりましたから!」
結果、父さんが折れた。多分今の父さん、顔真っ赤だと思う。
そこへ母さんは容赦なく王手を差した。
「それに、女の子は父親と似た人を好きになるって言うんですよ。きっと安心するんでしょうね」
「ングゥ……」
ゲームセット。勝者、母さん。
聞こえるはずのないゴングが鳴った気がした。
「ね?これでもまだ、あの子の幸せを信じられない?」
「………………考えてみます」
「ふふ、良かった。グレイシアも喜ぶわ」
僕はこの日初めて、かつてナイトレイブンカレッジで“猛獣使い”の名をほしいままにした母の手腕を目の当たりにしたのである。
それから数か月後。
姉さんの結婚式で誰より泣いている父さんの姿があったのは、また別の話だ。