メロウ、メロウ、トラッシュトーク もはや我慢ならぬとばかりに🌸はシーザーの背後から飛び掛かった。飛び掛かりたかった。しかし彼女は小さくシーザーは大きく、何より彼女は飛びつくだけの体力気力も尽きていた。
* * *
彼女は今日とても疲れていて無性にシーザーにくっついていたくて、しかし彼は今日に限って良いひらめきを得たのか一心不乱にこちらを構うこともなくフラスコや試験管、試薬を並べては傾け薬液をかき混ぜている。いつもなら時折こちらを見てはシュロロロと何か言いたげな、平たく言えばろくでもないことを考えていそうな笑いを浮かべたり、何なら実験を切り上げてベタベタと怪しげな手つきで構いに来たりするものだった。
世の中ままならないもので、シーザーにとっては今日はそういう気分の日ではなく、🌸にとっては今日はとりわけそういう気分の日だった。しかし🌸とて特別な能力を持たずとも狂気の天才シーザー・クラウンとつるむような娘だったので、ままならないとただ嘆くような人間でもない。
ままならない、だからと言って諦めない。己の手で掴み取るのみ、時は満ちたりいざ参る――と、一段落したのか器材を片づけている白衣の背中に向かって飛び掛かったものだった。
その背中は近いようで遠く……ひたすら高かった。
「ぐえッ」
ドシャ。何か床に落ちる音と同時に、シーザーは背骨が反る形で後方に引っ張られ喉の締まるようなうめき声を上げた。何事かとアクロバティックな姿勢のまま首を巡らせれば、白衣に爪を立てるかのようにしがみ付く🌸が床に倒れこんでいた。
「いきなり何すんだ! 動けねェだろうが、つーか痛え!」
「いやだ……動かない……」
🌸は縋るように白衣を握りこもうとしてなおも引き寄せる。身長の差は歴然だが、裾がどんどん床に突っ伏す彼女の方へと引っ張られていきシーザーは次第に立っていられなくなる。どんな力だと少し引いたが、🌸が珍しく不貞腐れたように要領を得ない言葉しか返さないので面白くなった。
「ったく、一体どうしたってんだ今日は。おれの白衣がそんなに好きか? 揃いの白衣作ってやろうか、シュロロロロ」
「ちーがーうー。ちがうってば。白衣は欲しい」
いよいよ不貞腐れた様子に俄然面白くなってきて、シーザーの紫のリップをひいた唇がニィィと吊り上がり、きろりと金の両目が光る。掴まれたまま動ける範囲で身を屈め彼女を振り向いてみれば、床に伏して白衣を両手に握って縋る🌸の姿は泣き疲れた子供のようだ。子供の生態など被験者のそれしか知らないが、多分こんな感じだろう。
このまま引っ張られて転ぶ前にシーザーは白衣を掴む彼女の両手を黒手袋の指先でちょいちょいと撫でてやり、離せと言葉にせず問うてみる。彼女の小さな両手は握ったままだ。
今日の🌸は妙に意地を張っている。少しばかり真面目に攻略してみようと考え直し、シーザーは長い指で彼女の手首から甲を撫で、指の間を軽く引っ掻くようにくすぐってみた。
「んぅ。やめてよ、くすぐったい」
「やめろって話ならまずお前なんだよ、人の白衣を掴むなって教わらなかったか?……なあ、後ろで掴まれたままじゃ顔も見れねェ、それじゃあ寂しいじゃねェか。おれを脱がしたいってんなら止めねぇけどな! シュロロロロロロ!」
「そういうのいいから! そういうのじゃなくて、違う、ほんっとデリカシーないなぁシーザー最悪」
調子に乗った台詞にさすがに🌸も顔を上げて即座に否定してきて、そこまで否定しなくてもと少し傷ついたような気分になったが自分の方が大人なので譲歩しよう。何より唇を尖らせ眉を寄せた🌸の拗ねた顔が見れたので気分が良い。
さあ、と指先で促せばだいぶ緩みつつあった彼女の両手はとうとう開いて白衣を解放した。少しばかり皺ができたがこの程度どうとでもなる。改めて床にしゃがみこんで向き直り――体躯に見合う長い脚を左右に広げつつ折り曲げてしゃがんだものだから見るからに柄が悪い――よく“M”を演じるそれとは少し異なるやわらかい声色で🌸に問う。
「それで、いきなりおれの背中にひっついてどうするつもりだったんだ。薬持ってたら危ねえだろうが」
「…………」
この期に及んで自分の問いにまともに答えない🌸に、これは駄目だと判断する。あるアプローチが不可となれば別の方向から目的に向かえば良い、としゃがんでいた腰を床に降ろして折り曲げていた脚を🌸の方に広げた。そして軽く腕を開いてやれば彼女のための椅子のできあがりというわけだ。
今日の🌸にはこれが覿面に効いて、床に伏せていた彼女はのそのそとした動きで這うように長い手足の内側に入ってきて――腿のあたりに座るかと思ったら、あろうことか半分床に寝そべったまま腰に腕を巻き付けてきて腿に顎を乗せてしまった。
「どこに顔置いてんだお前も大概デリカシーねーな! ああいやもうこの際それで良い、それでどうしたんだ」
「……特に、何かあったわけじゃないんだけど。疲れた……つかれた? さびしい? 何か、胸がね、きゅーってなって、くっついていたくて。そういう時に限って、シーザー構ってくれないし」
訥々と言葉を零している間にも、彼女はシーザーの腹にぐりぐりと額を擦りつけている。本当に今日の🌸はどうかしているし、これで抗えず生理的な反応をしたところで彼女は素っ気なく「そういうんじゃない」どころか「えっなんで反応してるの」などと言うと思うとやるせなくなる。そして今日のシーザーはささやかな実験が仮説の通り終わり次の過程に進めるからか、日頃からは考えられないほどに慈悲深く、遠い場所に置き去りにしていた思い遣りなる感情さえ連れていた。要するに双方どうかしていたのだ。
「そりゃ悪かったな。それならそうと構ってくれって言や良いだろうが。話すのも面倒なくらい疲れてんのか? ンン?」
正直今の拙いしゃべりでの甘えた物言いは思いのほか良かったのでもっと言わせたい――慈悲と思い遣りの心とて所詮シーザー・クラウンのそれなので合わさったところで思考の方針は変わらない。となれば彼女の言葉を引き出すべく、目を細めていかにも優しげに甘く甘く声を作り、猫でも構ってやるかのように指先で🌸の耳のあたりを軽く掻くように撫でたり髪を梳いたり甲斐甲斐しく触れてやった。そうして触れられるのを、目を閉じて心地よさそうにすらしていた彼女は、まんまと術中に嵌ってぽろぽろと言葉を引き出される。
「だって構ってなんて、子供じゃあるまいし。そんなのみっともない、恥ずかしい、だめだよ。邪魔になる、そんなの……分かってる、ちゃんと。わかってる……けど。ぅう……くっついてたい~……ぎゅうってしたい気分なんだよ~もういやだあぁ」
酔ってでもいるかのように堂々巡りの独り言と化しているくせに妙な遠慮が多いのが🌸らしい。常日頃、何事にも我慢をあまりしないシーザーにはそれが不思議でならないが、我慢しないその言動を被っているからこそ彼女はその鬱陶しさが身に染みているなどとは思い至らない。
「それで、だからどうしたいんだよ。言えばいいじゃねェか面倒くせえ」
思い至らないし背中を押すことも厭わない。
「――……、……かまって、ほしいぃ……ううぅ」
蚊の鳴くような声だがしっかり聞こえて、彼女は言うと同時にシーザーの腰に絡む腕にぎゅうと一層力をこめた。照れ隠しらしいが逆効果だと分からないものか、上機嫌でシーザーは笑って🌸の腕をほどいて引いてやりながら腰を上げる。
「シュロロロロロロロ! 最初っから素直になりゃいいものを時間掛かったなァ! 構って欲しいんならそれくらい聞いてやるってのに」
ずっと研究所に籠りきりのくせにそれなりに力のある腕で抱き上げた体ごとぐりんとその場で一回転して彼女を立たせたら、遠慮なくその頭をかき混ぜるように撫でまわし、さてどうしてくれようかと考える。
「うぇっ、……ちょっ、髪、ぐしゃぐしゃになるー!」
🌸はシーザーの手の届く範囲から逃げようと身を引きかけ――高い高い位置から見下ろしてきていた両目が、身を屈めて随分近くから覗き込んできたものだから結局また彼の腕の中にぼすんと収まった。
「その、構ってくれるのはうれしいけど、ほんとに、本当にそういうんじゃないからね?」
「ハイハイ」
そういうのじゃないとは言うものの、もしかしたらどうにかなるかも知れないなんて思っていても言えやしない。ただ、構って欲しいと言ってしまって当然のように構われるのが今は無性に嬉しかった。
――1時間もしないうちに「だから! そういうのじゃないって言ったのに!」と叫び声が響いたのだけど。