砂塵と星空夕暮れ時、広大なダナ砂漠の片隅にある小さな野営地。
その焚き火の傍らでは、その日の食事を担当する帝国の宝珠――ワダツミと、イーラの秘宝と呼ばれる白銀のブレイド、シンの姿が忙しなく動いている。そこには金色の目立つ少女――天の聖杯――ヒカリが何やら割り入って声をかけていて、シンは少し鬱陶しげに彼女をあしらい、ワダツミはというとその彼を見て笑いながら手際よくミツマタナズナを刻んでいる。
凄まじい力を持つとされる、三人のブレイド達。けれどもそうして料理をしている姿だけを見れば、彼らが大国の至宝として扱われるような存在であるなど、知らぬ者なら気づけはしないのかもしれない。
若きスペルビア皇帝、ユーゴ・エル・スペルビアは、そんな三人の姿を少し離れた場所からぼんやりと眺めていた。アデルとの明日の予定のすり合わせが終わり、彼は時間を持て余していた。かといって、料理に関して門外漢であるユーゴは彼らの手伝いをしようにも大したことは出来ない。彼は徐々に日の落ちていくダナ砂漠を一瞥すると、焚き火から離れた位置にあった、固く座り心地の悪い丸太の上に腰かけた。
「あ、ユーゴ」
そこにいた先客が、明るい声でユーゴの名を呼んだ。シンのドライバーである傭兵の女性、ラウラ。彼女は手製のチャームの仕上げを行っているところだった。丈夫な紐で形作られた花を色鮮やかな鉱石が彩っていて、それは殆ど完成しているようだった。
「ラウラ。もう暗くなってきましたよ?チャームを作るなら焚き火の側の方がいいのでは」
「んー、大丈夫。あとこの端の余り紐を切れば完成だから。ユーゴこそ平気?砂漠だもん、夜は冷えるよ」
「いえ、ご心配なく。それにワダツミやシンの邪魔になってはいけませんから」
そう彼は小さく笑い、一つため息をついた。ラウラは小刀でチャームの紐を切ると、それを膝の上に置いてじっとユーゴを見た。
「……どうかした?あんまり元気ないね」
「……今日はモンスターとの戦闘も多かったですから。少し張り切り過ぎたようです」
「そう、かな。……本当にそれだけ?」
ユーゴはそのラウラの言葉に僅かに顔を俯けた。ラウラは心配げに眉をひそめ、彼の様子を伺っていた。彼はしばし沈黙していたが、やがてためらいながらもその口を開いた。
「……独り言だと思ってくれて構わないんですけど。時々思ってしまうんです。私は……カグツチとワダツミに相応しいドライバーなんだろうか……と」
ラウラはユーゴの呟きによってぴたりとその動きを止めた。
なだらかな砂漠を冷え始めた風が吹き抜けていく。遠くには巣に帰っていくローグルの羽ばたく姿があって、空は深い藍色へと近づき、夜の帳が下りようとしていることを告げていた。
「……以前お話ししましたね、私が二人との同調権を得た理由。私の兄に資質がなかったからです。それ以上でもそれ以下でもない。『スペルビアの皇帝には帝国の至宝たるワダツミとカグツチのドライバーたり得ることが求められている』……。だから私は彼らと同調できた」
ラウラはただユーゴの「独り言」を黙って聞いていた。だがユーゴの瞳はラウラを捉えていない。移ろいゆく空とイーラの地に、ただぼんやりと向けられていた。
「兄は優れた人です。兄はこの世界の力になりたいと告げた私を快く送り出してくれた。『民を守るための戦い』に身を置くことを許してくれた……。そして私はその兄に国を任せ、今ここにいます」
遠くでパチパチと爆ぜる焚き火の音が聞こえた。その焚き火の音にすら負けてしまいそうな小さな声で、ユーゴは独り言を呟き続ける。普段は穏やかで辛抱強さも持つ彼は、珍しくやや陰った表情を見せていた。
「二人と同調できたことを後悔しているのではないんです。……ですが私は戦士としてはまだ未熟です。戦場に立ったのもこれが初めてといっていい。傭兵であった貴女のように、そして抵抗軍のリーダーであるアデルのように、多くの戦いに身を投じてきた訳ではありません。それでもここに来られたのは、私が『帝国の宝珠のドライバー』だからです。帝国最強のブレイドと同調した私が、帝国にとっての最大の戦力だから。あの二人と出会えたからこそ、私はこの戦いに身を置くことが出来ている。けれどこんな未熟者に付き合わされる二人は……どう思っているでしょうか。頼りない存在だと不安に思っているかもしれない。……僕は……本当に、あの二人のドライバーでいいんでしょうか。二人に『相応しいドライバー』であるのか――」
「ユーゴ」
日の落ちかけた野営地の外れに、透き通るような呼び声が響いた。ユーゴはその声に言葉を止め、ラウラを見て一つ瞬きをした。ユーゴが振り向いて見たラウラの顔に微笑みはなかったが、彼女は真剣な眼差しをユーゴへと向けていた。
「……あのね、ユーゴ……」
「は、はい」
「……ユーゴは……、カグツチとワダツミのこと、大事だって思う?カグツチとワダツミの二人と一緒にいたいって、思う?」
紡がれた言葉に息を止めたのは、今度はユーゴの番だった。
「……それは……」
「答えて」
言い淀むユーゴに、ラウラはただ静かに請う。ユーゴは彼女に気圧され、困惑したように眉を下げた。
「…………そう、ですね。大事です。失うわけにはいかない。二人は大切な『帝国の宝珠』ですから――」
だがラウラは、その彼の返答に首を振った。
「ユーゴ。そういうことじゃないの。……貴方は、……皇帝だもん、貴方やアデルが背負ってるものって、私みたいな庶民とは全然違うんだよね。でもね、これだけは分かっていてほしいの。ブレイドとドライバーって共に歩むものなんだよ」
「共に歩む――?」
ユーゴはその言葉に息を呑んだ。
「私もね」
ラウラが語る。
「ユーゴの言うこと、分からない訳じゃないんだよ。シンの……ドライバーだから」
十七年前のある日。イーラのとある辺境の村、粗末な家の片隅であった出来事。トリゴ村での一件の後、あまり良い思い出とは言えない己の過去を、彼女はとある野営地で少しだけユーゴ達に語ったことがあった。
「……ゴウト。覚えてるかな。トリゴ村にいた義手の男。前に少し話したっけ。……昔から態度の悪い横暴な男で、母さんは時々やってくるあいつに殴られることもあった。でもずっと何も出来なくて。ただの、平民の……、十歳の子供で。けど私、母さんが辛そうなのを見てられなかった。そしたら気づいたの。あいつの持ち物の中にコアクリスタルがあるって。私、その時の現状を変えたかった。同調しようって思ったわけじゃなかったけど、コアクリスタルがあれば何かできるんじゃないか……って、そう漠然と思った。だからその一心で……コアクリスタルに触れて、シンと出会った。そしたらシンが私を守るためにあいつを斬っちゃって。母さんは私に逃げなさいって言って……、怖くなっちゃった私はそのまま逃げて、彷徨うことになって。……結局、同調したことで母さんの助けになることはできなかった」
ラウラは言葉を切った。幼い頃の、数奇な出会い。感動的とは到底言えないその邂逅の時を語るラウラの表情も、明るいものではなかった。だが彼女がそれを語るのはただの昔話をユーゴに聞かせるためではなかった。胸の前で強く握られた彼女の手のひらを見れば、それはユーゴにもすぐ分かった。
「……ゴウトが『あの日』に言ってたことと、逃げ回る中で聞いた噂で、シンが国の宝になるくらいすごい『イーラの秘宝』なんだってすぐ分かった。だからずっと素性を隠して色んなところを渡り歩くしかなくて……。……でもね、私はシンと出会えたことを間違いだったなんて思ったことないよ。シンは色んなものを私にくれるから。ずっと私の側にいてくれるから。ただ縮こまって震えてるだけの子供だった私を、あの場所から解き放ってくれたの。そうやってシンと一緒に過ごしていく中でカスミとも出会えた。だからカスミと出会えたのだってシンのおかげ。貴方達とこうして旅を出来るのだって、シンが、それにカスミがいてくれたからなんだよ。だから私は二人が大事だって思うし、二人に出会えて嬉しいって思わなかった日は一日だってない。だからね、私。カスミとシンの、二人のドライバーになれて良かったって思う」
ラウラはそこまで言うと、ふっと優しく微笑んだ。彼女はいつのまにか、隣に座っていたユーゴの手を握っていた。
「――ラウラ」
冷たい微風が砂漠の白い砂を撫でていった。だが、それに吹かれたユーゴを包むラウラの手はあたたかかった。そのあたたかさに、ユーゴは小さく息を呑んだ。
「ユーゴはどうかな。皇帝としてじゃなくて、ユーゴが。貴方が二人のことをどう思ってるのか……私はそれが知りたいの」
「僕が……ですか?」
ラウラは頷いた。その優しい黄金の瞳が、瞬き始めた星の光を微かに映し出した。
「僕は……。二人のことを大切だと思います。だって僕の事を、同調した時からずっと支え続けてきてくれたんですから。兄に代わってドライバーとなり、国の盾となることを望んだ僕を……見守ってきてくれた――」
ここまで口にしたところで、ユーゴの表情が変わった。
「……ありがとうございます。どうやら僕はつまらないことを考えていたみたいです」
カグツチと、ワダツミ。二人は代々スペルビアに受け継がれてきた至宝――『帝国の宝珠』。皇旗だ。けれども、それ以前に二人は、人と共に在る存在――『ブレイド』であるということ。相応しいか、相応しくないか。それは重要なことではなかった。そう、受け継がれてきた国の宝だから二人が大切なのではなかった。自らを支え、受け入れ、そして自身と共に生きてゆく存在、それが彼らであるのだということ。年若き皇帝は、そんな単純極まりない一つの事実を忘れてしまっていたのだと己を恥じた。
「……ラウラ、僕は二人と一緒にいたい。出来ることならば、これからもずっと」
ユーゴが笑う。それに安堵したのか、ラウラもまた笑みを深めた。
「ありがとう、ユーゴ。じゃあ約束してくれる?貴方と共にいるカグツチとワダツミのことを……、一人のドライバーとして、大事にしてあげて」
ユーゴは頷いた。若きドライバーの少年の顔からは、押し殺してきた不安の陰りは消えていた。辺りはすっかり深い紺に染まっていて、満天の星空にはうっすらとオーロラのたなびく姿が見え始めていた。
「――ユーゴ様、こちらにおられたのですね。ああ、ラウラも」
と笑っていた二人の元に、聞き慣れた蒼炎のブレイドの声が届いた。
「ああ、カグツチ。おかえりなさい」
「はい、ただ今戻りました。見回りの結果、この辺りは現在警戒すべき危険なモンスターはいないと判断しました。ですからゆっくりお休みいただけるかと。それからお食事の用意ができたとワダツミから」
「そうですか。ご苦労様でした、カグツチ」
そう言ったユーゴにカグツチは一つ礼をした。ユーゴは立ち上がる。
「では行きましょうか、二人とも」
「うん――あ、私カスミ達を呼んでこなきゃ。二人は先に行ってて!」
そう言うとラウラは、ミノチと共に荷物の整理をしていたカスミの方へと向かって駆け寄っていった。ユーゴはそれを見届けると、小さくため息をついた。だが、ラウラの隣で漏らしたそれとは違うものだった。
「……ところでユーゴ様。ラウラと何かお話を?」
カグツチはいつも通りの落ち着き払った顔のまま主へと問うた。
「ええ、ちょっとしたことです。けれど……、とても大切なことを思い出せました」
「大切な――?」
「はい、大切なことを」
ユーゴはそう言うと、隣に立つブレイドの顔をまっすぐ見た。カグツチはその若きドライバーの顔を不思議そうに見返す。ユーゴは少しためらい、それから微笑んで言った。
「カグツチ、私は――貴方達のドライバーになれて良かった。だからどうか、これからもよろしくお願いしますね」
そうカグツチに言ったユーゴは、穏やかに目を細めてカグツチへと手を差し伸べた。空の星と、オーロラと、カグツチの淡い蒼炎の光が、そのユーゴの顔を照らす。カグツチはその言葉に少しだけ驚く顔を見せた。しかし彼女はすぐさま跪き、眼前のドライバーに向けて深々と頭を垂れ、答えた。
「もちろんです、ユーゴ様。私は、私達は……これからもずっと――貴方と共に在りましょう」