長い話カルデアが賑やかなのはいつもの事だ。
赤い弓兵のお節介も、青い槍兵の兄貴肌も、駆け回る子らの笑い声も、もはや日常だと処理できる程度にはハインもこの暮らしに慣れていた。食事は美味しく、施設の充実具合も素晴らしく、数多の英霊が集っても余る程に広いカルデアは住み心地が良い。窓から見える景色は万年吹雪だったが、そこは別に気にならなかった。むしろ大海原が広がろうものなら、きっと今頃は部屋から一歩も出なくなっている自信がある。目も耳も全てを閉ざし、幻聴となって久しい波の音の遮断を試みたはずだ。
もしかすると案外、さっくりと発狂していたかもしれない。現役時代の自制心と理性を再度抱き直すなど今となっては難しすぎた。必要に迫られれば否応なしに鎌首をもたげる気もするが、自ら進んで抱くには一昼夜以上の時間を要する気がする。
まぁ考えるだけ意味のないこと。
今のハインはカルデアの一住民に過ぎず、施設内の衛生を保つ役目以外担っていない。各所の簡単な清掃と植物の水やり、たまにカルデア職員の手伝いをする程度。何か変化は?と聞かれれば…最近はなんやかんやで知り合った海賊連中に誘われて、フィットネスジムに通い始めたくらいだろうか。外見に見合わず面倒見の良い黒ひげが、着心地のよいジャージとワイヤレスイヤホンをくれたので、とりあえずオススメされた音楽やラジオを聴きながらのウォーキングを試している。
(お昼は後でいいか…。)
蛾の目の腰布を手に廊下を歩いていたハインは、賑やかな食堂をチラリと見る。丁度昼時のため、食堂は英霊と職員でいっぱいだ。この光景も慣れたものだが、しかし一つだけ気になる点がある。どうにもカルデアは薄着の英霊が多いのだ。誰がデザインしたのやら原色そのままのシャツを着ている者もいる。別に他人の服装に興味はないが、名高き英雄や神々があのような格好をしているとは驚きだった。
「海兵の君、お昼まだだろう。通ったついでに食べていくといい。いつも通り今日のオススメでいいか?限定メニューもまだ残っている。どちらがいい?」
「後でオススメを食べにきますね。」
「それなら用意しておくが…体調が悪いなら、些細だと思っても医務室に行くべきだ。来た頃の君には手を焼いた。食事だけはしっかりとってもらわないと…。」
「レオナルドに呼ばれたのです。」
「ふむ…仕事熱心なのは素晴らしいことだがね。他の連中も見習って欲しいが、君はもう少し…。」
「ちょっと話してきて、すぐ戻りますから。」
ハインが召喚されたのは、比較的初期の頃である。カルデア内部の施設やら人員やらがやっと安定し、マスターも己の役割を自覚し始めた頃のことだった。勝手に呼ばれ、一緒に戦って欲しいとマスターから頼まれ、レオナルドに状況を説明されて出た言葉は『拒否権は?』だ。
馬鹿げてるとも思った。
「あっ、いたいた!ハインさんこっちこっち。中央管制室は初めてだよね?案内するよ。」
「ねぇマスター、エミヤは子離れできないタイプですよね。」
「あはは。」
一応、拒否権は認められた。
召喚されたが最後、英霊はカルデアに付き合うしかないものの、戦闘への不参加が例外的に認められたのである。後から聞いた話、拒否を認めるに至った要因は幾つかあるらしく、その一つが〈カルデアのシステムがエラーを吐いた〉からなのだとか。
レオナルドいわく、カルデアには召喚した英霊のプロフィールや詳細なデータを生成する機能が備わっていて、これを元に戦略を組んだり、レイシフトに連れていく英霊達の相性を考えたりするのだと言う。しかしハインが呼ばれた時、この機能が何かに妨害されたかのように働かず、名前と性別以外のデータが得られなかった。ジャンクと化したデータを解析しても、解凍しようとしてもそれは変わらず、科学の粋を集めた設備に頼ってもどうにもならなかったのだと言う。挙句にハイン自身が己のことを『非戦闘員です』と言い張ったので、カルデアの頭脳達は拒否権を認めざるを得なかった。
まぁそれも過ぎ去ったこと。
ハインは特異点やら人理修復やらに一切関わることなく、夢に見た平穏を楽しんでいた。楽しんではいたが、カルデアの状況はそれとなく察している。
マスターはよく笑っている。
しかし肩にのしかかる責任と期待に耐えながら、凡人類史のために日々戦っていた。レイシフト先での詳細は知らないが、ハインが先輩と読んでいる英霊、クーフーリンから話は聞かされている。まぁ話自体は『久しぶりに良い戦いだったぜ』と雑なものだが、戦場を知るハインであれば何となく理解した。中央官制室にある戦闘データにアクセスできれば、より一層深く理解できる気もしている。
「ここが中央管制室。えーっとセキュリティカード…あった!今開けるね。」
ピッとカードが認証され、スライドドアが滑らかに開く。ドアの先では沢山のモニターが膨大なデータを映し出し、見たことのない機械がずらりと並んでいた。ケーブルは地面を這い回り、壁は打ちっぱなしのコンクリートだ。へぇ…と一瞥するに留めたハインはカツンと軍靴の音を響かせて、部屋の中央にいるレオナルドへと歩み寄る。
「お呼びですか。」
「お昼時にすまないね。君に少し教えて欲しいことがあるんだ。いいかな?」
あれを見てくれ、と言って万能の人は大きなスクリーンを指さす。他の職員達もそれを見上げ、ハインも倣って視線を向けた。
「!」
数秒のノイズが流れ、画面いっぱいに映し出されたのは青い青い大海原だ。マスターはわぁっと声を上げ、美しい景色だとの評価を述べる。他の職員達も同じような反応を示し、どこかからは『久しぶりに海行きたいなぁ…』との声も零れた。ただハインだけは黙ったまま、少し不愉快そうに目を薄めている。
波間に浮かぶ血肉と脂。
それが一番最初に、ハインの脳裏を駆け抜ける。
モニターの映像が切り替わり、続いて映し出されたのは大戦と呼べるだろう争いの現場だった。画面越しにも息が詰まる砂埃に職員達は口を閉ざし、轟く砲撃音にビクリと肩を跳ねさせる。風が吹き荒れ擦れ合い、幾万の笛が細く鳴り響くような不協和音となって空高くに響き渡った。
「…。」
海が干上がり、村一つが竜巻を受けて壊滅し、泣き叫ぶ幼子を前に海兵が剣を振るい続けている。海に溶岩が流れ出し、泡の中に悲鳴が混ざり、それらを踏みつけて一匹の竜が歩いていた。
「君のプロフィールや、英霊としてのデータを編集するつもりはないよ。ただこれがカルデアのシステム不良ではないと証明する必要があって、君の世界圏を調査させてもらった。システム的な問題でデータの生成に失敗したのか、それとも君の作りあげた神話が詳細の観測を拒んだのか知りたくて…。」
「ご要件は。」
「おっと、このダヴィンチちゃんに免じて怒らないでくれ。けれど分かったよ。単刀直入にいこう。人工的な神話の構築方法と、神話の破壊方法を教えてほしい。我々の探している答えへの手掛かりを、君が持っている可能性が高い。」
「……資料を見せてもらっても?」
「もちろん。」
深いため息が零され、ハインはゆっくりと椅子に腰を下ろした。静まり返った管制室には機械の稼働音だけが聞こえる。精神的負担への配慮なのだろう、モニターの音は消され、ハインの記憶にある風景だけが流されていた。
他の職員は妙な緊張感をまといながらそれぞれの仕事に戻り、時折チラチラとダヴィンチ達の様子を伺う。
カルデアの中で、ハインの現役時代を知る者はいない。海で生きていた英霊はいるが、それは別の海であり、やはりハインの生きた海ではない。彼女がどう言う軍人であり、どういう仕事をしていて、何を背負っていたのかを明確に知る者はいないのだ。だからこそ本人的には気が楽だった。
だと言うのにカルデアは。
「立夏君の現在の立ち位置が、あまり良くない将来を呼んでしまうかもしれない。これだけ多くの英霊を呼び出したマスターだ。本人自身が英霊となる条件は満たしているし、それ以上の何かになる可能性も否定できない。」
「神になってしまうかもしれないと。」
「そうなんだよ…。」
ダヴィンチは複数の資料を手にそう話す。
ハインは足を組み、茶煙草を片手にモニターを見上げたまま、久し振りに動き始めた思考回路を加速させ続けていた。
「なればいい、とは言わないんだな。君なら言うかと思ったのに。」
「なりたいなら、なればよろしいかと。人類の一定数は神に憧れることくらい知っていますよ。」
「立夏君は嫌がってる。」
「嫌がる選択肢が残されている、です。」
「そうとも言う。」
ダヴィンチに多くを説明する必要はない。
万能の人たる彼女相手に話すのならば、結論だけ言えばいいのだろう。だがそれだけで片付くならば、ハインはそもそもこの場に呼ばれやしない。
(カルデアの平行世界や過去に対する観測精度は、資料を見る限り信用に足りる…未来視は数人による観測か。王様が未来視できるとか言ってたな…けど未来は変化する可能性を常に有している。数分後には異なる未来が生まれる可能性がある…これはカルデアの技術を持ってしても固定はできない…と言うかカルデアの規律、ちょっと軍律に近くない?抜け穴もある…この一文は再解釈したら悪用できる…話すならこの辺りからかな…いや…面倒…他人の世界の未来演算はしたくないな…。)
ペラペラと書類を読み進めつつ、灰皿に茶煙草を沈め、かつての中将はため息を再度こぼした。モニターの映像はいつまで見ても荒々しい。硝煙と血の香りを感じるほどに、非情な映像が流れ続けている。
「アドバイスを貰えるかな?海軍中将殿?」
「マスターの神格化を阻止するために、人工的な神話の構築方法と、既存の神話の破壊、阻止方法を明らかにしたい…と解釈してよろしいですか。」
「うむ、そのとおり!」
「結論として、マスターの神格化は阻止できると思います。人工的な神話の構築も、一応マニュアル化することは可能です。」
「良かった!」
視界の隅のマスターがホッと息をついた。
心の底からの安堵を聞いてしまったハインは、柄にもなく同情を覚える。多少形や状況は違えど、このマスターは世界を相手に戦っているのた。未来の自分がどれだけのデメリットを背負うか知りながら、凡人類史のために戦う人の心労は、ハインにとって馴染みがありすぎる。
「…正直面倒ですよ。これだけの不確定要素に、特殊な状況に、コントロール下に置かれていない戦場と情勢…戦力豊富なだけありがたいですけど、あまりにも個人プレー…。」
扱いが悪すぎると言いかけて、ハインはふと口を閉ざした。四苦八苦しながらここまで歩んできたマスターと、それを支えてきたカルデア職員に、扱いにくい物足りないとは流石に言えない。
「…。」
「気遣いは無用だよ。君の話を聞かせてほしい。」
「…まず簡単な方から話しましょう。マスター、貴女の性質は神ではなく仏に近い。仏は所詮人間です。そちらを目指せば神にはならない。もしくはマーリンに頼んで、王の所作を身に付けなさい。存在を証明できない古代の王は神と混同されやすいですが、現代ならば生体データも残りますし、どこまで行っても人間として扱われます。数字は神話と相性が悪いのです。日記を書き、訓練内容や睡眠時間やらできる限りを残しなさい。多少は英雄寄りになりますが、まぁ許容範囲です。」
「私、アルトリアみたいにはなれないよ?あはは…。」
「それはそれで結構。王になれなかった人の子として日記に残せばいい。マーリン、いるのでしょう。来なさい。」
二本目の茶煙草が灰皿に沈む。
煙の中に花の香りが混ざり、夢魔はよいしょと隣に腰を下ろした。手には紅茶とクッキーを持ち、図々しくもお茶会をしに来たようである。
「僕の意見だけど、マスターに王の素質ないよ。けれどこれまで見てきた人々の中でも特別にお人好しなのは保証できるね。仏はお兄さんの専門外だ。仏の知り合いもいないからなぁ。」
「貴方に求めるのは王族レベルの教育です。それ以外は求めません。」
「マスター君にはこれまでね、数々の王について語り聞かせてきたものさ。まだ呼ばれていない王達についても、よーく話してあげた。僕はそれだけで良いと思うなぁ。だってマスター君は、王と己との違いを自覚しているんだよ?」
「本人が行動し、記録する点に意味があります。第三者の記述は不要です。」
「そういうものかな?」
「人間はそういうものです。」
「ならそういう事だ、マスター君。調子を見ながら王族の教養を身につけて行こう。」
ささっこちらへ!とマーリンは立夏を連れて管制室を出て行く。紅茶とクッキーはお好きにどうぞと言わんばかりに、綺麗に並べられたまま置かれていた。
「君とマーリンが話している場面は初めて見た。このダヴィンチちゃんも少し驚いたよ。彼を避けているものとばかり思っていたけれど、稀代のキングスメーカーはやはり気になるのかい?」
「あれは嫌いですよ。教えを乞うならケイローン先生がいい。マーリンは結局のところガワだけで、人であろうとすら思っていない。どれだけ寄り添ったとしても、的確なアドバイスや教育ができたとしても、人間を理解することはないのでしょう。それに個人的なことなのですが…羨ましいのです。夢魔の本心は知りませんが、それでも世界から逃げられる実力と場所を所有していたことが…とても羨ましく思います。」
「…とは。」
三本目の茶煙草が大きなモニターを示す。
「あの戦場のどこに逃げ場があると言うのです?」
霊基が不安定になったのだろう、白色の軍服に赤いシミが広がり始める。一目見ただけて血だと分かるそれに、職員達は大慌てで動き始めた。しかしハインはそれらを一瞥し、マーリンの残していった紅茶に角砂糖を一つ落とすと、くるりくるりと混ぜて言う。
「レオナルド、教えて下さい。」
「なにかな。」
「資料を見る限り、カルデアの状況は最悪のそれに近い。何故こんなことに。」
「時空の歪みは本来抵抗できるものではないんだよ。世界線をゆがませ、光すら飲み込む超重力に、一機関が対抗し続けられるものかい?」
「常勝を望みますか。」
「…検討する時間も、我々には残されていなくてね。だが立夏君にこれまで以上の負担はかけられない。神になりたくないと言う最後の選択肢すら、奪うようなことはしたくないんだ。」
「だからマスターの代わりに私を?」
「その通りだ。認めるよ。かつての君は耐え抜いた。その力を貸してもらいたい。」
「拒否します。」
ポタリと地面に血が落ちる。
しかしそれは幻覚だったようで、床には何も残らなかった。
「拒否権が認められないのなら、私の話はここまでです。マスターの神格化阻止についてはお答えしました。十分でしょう。」
「個人的にはね…君そのものに興味がある。拒否権はもちろん認めよう。君の拒否権はいかなる場合でも承認されるよ。これがカルデアの、凡人類史の誠意と敬意だ。どうかな。」
「…人工的な神話はいわゆる所のカルトです。カルトに引っかからないためには知性を身につければ良い。それだけの事ですよ。」
「簡単に言ってくれるなぁ、はははっ、このダヴィンチちゃんもお手上げだ。」
「真面目な話。時代の価値観、その場の情勢、その他挙げたらキリがない数々の不確定要素によってカルトの形態は変化します。一概にこれとは言えません。ただカルトもとい新興宗教の教祖となる方法は検索すれば出てくるものです。私も一度検索しましたが、その内容は概ね実践的であり、実施者のセンスと時代によっては容易に実現できると判断しました。」
「容易に実現できて欲しくないものだ。なぜ人はカルトにハマるんだろうねぇ。いや分かるよ?人類の歴史は戦争の歴史であり、宗教と科学の歴史でもある。それらが絡み合い高め合い、芸術が生み出されてきた。世に欠かせない要素と言えるよ。けどカルトはなぁ。」
「カルトは詐欺の延長に存在します。同時にカルトは社会における……面倒になってきました…一回お昼を食べてきてもいいですか。」
「おっと。すまないことをしたね。しかし君、その流血で出歩くのはオススメしないよ。幻覚を見せているのだとしても良くない。」
「…大丈夫です。」
スッと血が消える。
真っ白の軍服にはしみ一つなく、微かな潮の香りを漂わせた。海軍の誇る常勝の将がすました顔でそこにいる。神話の主が立っている。
「人の望む姿を装う。教祖の基本ですよ。」
───────
はあぁ…と重いため息と共に座ったハインは、いくつかの本をダヴィンチの前に置く。暇となった職員達も好奇心に誘われて、そろりそろりと周囲の席に着席した。
多くの職員にとって、英霊とは恐れ多いものである。純粋に危険とされる英霊もいれば、逸話による畏怖もあるだろう。もしくはその戦闘力ゆえに命の危機を覚えたり、まぁ蛇に睨まれた蛙しかり本能的に恐ろしく感じてしまう。だが多くの英霊は、英雄か神かに関わらず友好的で、職員達と英霊仲間との間にある肉体的、精神的な差を理解していた。だからこそカルデアでは凡人類と、呼び出された英霊による共同生活が成り立っている。
では…と職員達は考える。
目の前に座る将校の危険度は、実際どのくらいなのだろうか?と。呼び出されてからと言うもの、特別問題を起こしたこともなければ、戦闘に参加したこともなく、過去について話もしなければ、マスターへの助言もなし。他者を避けはしないものの、好んで関わる訳でもない。カルデアに暮らす英霊の中では、圧倒的無害一軍メンバー入りだ。
「…まず先の戦時映像とデータを見て、色々と思われたことでしょう。あの映像は紛うことなき事実ですし、暴虐非道だとの批難も受け入れます。私は四百七十八人の命を直接奪い、指揮官として間接的に殺した人数は…レオナルドの制作したこの資料に書いてある通りです。直属部隊員全員も作戦の一環として殺し、指揮下にあった部隊もほぼ壊滅するよう調整しました。行方不明者がどれ程になったのか把握しておりませんが、生存者を数えた方が早いのは確実です。」
誰も知らない英霊は、どうしてカルデアに来たのだろうか。
「ただこれらは海軍中将として必要に迫られ、軍人として責務を果たした結果です。私個人の趣味でも嗜好でもありません。このカルデアに対して同じ惨事を起こしてやろうとは思っておりませんし、二度と剣は握りません。私の敵はこの世界にいない。」
その上で…と中将は話し続ける。
淡々と話しつつ、ダヴィンチの提供してくれた資料を片手に、茶煙草の灰を灰皿に。足を組んで背筋を伸ばすその姿は、あまりにも静まりかえった状況に慣れ過ぎていた。
「…?」
「いや感心していただけさ。耳鳴りがするような静寂の中、色々な思いを含んだ視線を受けて、揺れもしないその語り口。なかなかの指揮官だ。」
「…。」
金色のイヤリングが鋭く輝く。
瑠璃の双眼は薄められ、ぱさりと資料は投げ置かれた。大画面モニターにはどこかの雪山が映し出されている。雪の欠片一つすら落ちてこない、星々の溢れる漆黒の空。呼吸も躊躇われるような凍てつく大気、草木も獣の足跡もない雪山の上。雲は遙か眼下を流れ、満月がただただ眩しい。
世界から隔離された天上世界。
ダヴィンチは現実離れした景色に息を飲んだ。モニター越しなのが悔やまれる、五感で感じたい絶景だ。神の息吹が今尚残る、世界最後の秘境だと一目で分かった。そして同時に察した。あの雪山こそ、この中将の最期の居場所だったのだろうと。
管制室の静寂など、あの雪山を知るハインにとっては騒音と変わらない。カルデア全体に至っては言わずもがな。知らねば存在しないと同じだが、知ってしまったらもう戻れない。
「…良い場所でしたよ。静かで。」
「絶景だったろうね。」
「えぇ。それはもう。」
暫くモニターを眺めていたハインは、小さく笑って話を戻す。しかしその口調は先程よりも穏やかであり、言葉選びも多少柔らかだ。
「…人間と獣の違いは信仰心にあると思います。信仰する心です。神の存在はさして重要ではなく、それに向けられる〈心〉の存在が、人間にはあって獣にはないのです。この心に対するアクションの違いが、一般的に言われる宗教とカルトとを分類します。」
そう言って、ハインはテーブルに短剣を置く。
骨董品扱いされそうな古びた短剣は、モニターの光を反射して、なんとも言い表しにくい微妙な色を浮かび上がらせた。
「良心的な宗教は、心の在り方を明日へと向かわせます。その教えは生きていく上で助けになるであろう内容が多く、時に戒めと警告を含みます。人生のためになる、支えになる。物の見方を教え、考え方を授ける。そう言うものが宗教です。」
ちゃきりと短剣が抜かれる。
鈍い色をした刀身は酷く欠け、もはや紙すら切れなさそうだ。
「宗教画を描いてきた貴女なら、ご理解いただけるでしょう?レオナルド。聖母の純潔、神の子の博愛、そして全能なる神の慈悲。全てが悪行へと走る弱い人の心を戒め、その弱さを許し、無条件に肯定して明日へと繋げます。人はパンのみにて生きるにあらず、です。」
「近代の人に足りないものばかりじゃないか。精神的な余裕は安定した衣食住の上に成り立ち、衣食住は金銭により保証される。そして時間はそれら全ての上に立つ。観測できた現代社会は金銭からして厳しいと聞くよ。」
「だからカルトが流行るのです。」
短剣の隣に腕章を置いたハインは、フンッと鼻で笑った。黒色の腕章に刻まれているのは、尾を咥えんとする竜の姿だ。それは城らしき建物に絡みつき、鋭い牙を覗かせている。
「カルトは信仰対象があれば良いだけの儀式です。宗教は危機的な特定状況下に置かれない限り開かれていますが、カルトは社会から孤立した閉塞的な集まりになります。パーソナルスペースに干渉し、生活へ介入し、信仰対象への献身を第一とする。そこに人生への教えはなく、あるのは身内での結束と強い仲間意識だけです。この結束と仲間意識は一種の洗脳に近いですね。」
モニターにとある景色が映し出される。
大海原に沈む真っ赤な夕日と、濃い茜色の空に金の雲。そこに響く重厚な音楽と、整列している軍人の群れ。なびく軍旗は堂々と掲げられ、儀仗兵による行進は煌びやかだ。
「…マスターから聞いた話なのですが、稀におかしな行動をとる人がいるそうですね。例えばアルミホイルを身体中に巻いてみたり、売り物のスープ缶をぶちまけてみたり…展示品にペンキをかけて環境云々叫んでみたり。まぁアルミホイルは一種の強迫性障害も含んでいる気がしますが、まぁ一般的ではない行動として含めておきます。それで、これらは当たり前に〈世間からバッシングを受ける〉行為なわけです。普通の人からすれば首を傾げる行為ですからね。しかしこの行為こそ、カルト信者にとっては〈信仰心を示す行動〉になるわけでして…子供のピンポンダッシュほど可愛いものではありませんが、世間からは眉をひそめられ、身内からは称えられ、またピンポンすると言うるつぼに陥るのです。社会に居場所をなくし、カルトにだけ場所を作る。依存と承認欲求を上手く使っていますね。」
廊下から賑やかな声が聞こえてくる。
聞き耳を立ててみればいつも通り、マスターが資源回収しにレイシフトするので、その同行者を誰にするかで一悶着起こっているようだった。ハインはフイッと興味を失うと、ダヴィンチの前に置いた書物を示す。書物はマスターの世界における様々な神話や、伝承についてまとめられた資料集ばかりであり、物好きでない限りは手を伸ばさないだろう。
その一冊、十字架の描かれた書物を手に取ったダヴィンチに、瑠璃の目がすっと薄められた。
「神話は人の想像力だけで作られるわけではありません。人の生きる環境も大きな影響を及ぼします。この環境と言うものは神話だけならず、生活、芸術、文化、人の営みの根幹に位置する要因の一つです。」
自然環境は人間社会を規定する一因である。
万物に影響を及ぼし、凡人類史にも反映される。勿論、自然環境以外にも凡人類史を形作る要因はあるが、成り立ちにおける初期段階では、おそらく環境こそが全ての基盤となっている。まぁ別に難しい話ではない。人間が生きる上で大地は必須。いわゆるところの置かれた場所で咲きなさい、置かれた地で生きなさい、だ。全てはその地に適した形で発達していく。
それはともかく。
自然環境と人間との関係性は、大まかにだが三種類に分類される。
一つは砂漠型。
砂漠は人にも獣にも過酷な環境だ。食べ物一つ、水場一つを巡って争いが勃発する。そのため人と人、獣と獣、人と獣は生きる糧を奪い合うライバルとして敵視し合う。このような余裕のない過酷な環境下で形成される神話は〈己の仲間以外は野蛮な存在だとして攻撃する〉と言う攻撃型になりやすい。
二つ目は牧場型。
牧場型の自然は穏やかだ。しかし自然本来の豊かさには欠けていることが多く、食料の調達に多少の苦労を必要とする。この場合の人間はコントロールのできる穏やかな自然を前に農牧等を開始する。人間が自ら食料を作っている場合、獣との関係性は希薄となり、生息区域がはっきりと分けられる場合すらある。そうなると大抵、争いの内容は〈土地〉に関係し、縄張り争いや領土争いなどとなる。神話においては唯一神しかり主神しかり、人の形をした神が万能を持ってして世界を支配している形になりやすい。
最後がモンスーン型。
四季が巡るモンスーン型の自然環境は恵み豊かであり、食料にも水にもあまり苦労しない。人間は自然に対して受容的な姿勢をとり、季節ごとに与えられる恵みを頼りに生きていける。しかしモンスーンによる自然災害に晒された際の人間は無力であり、過ぎ去るまで耐え忍ぶしかなく、自然に対して従順となる。つまり人間にとって、自然は寛容でありながらも恐ろしい一面を持つ存在であり、敬意と畏怖の念を抱かせるのだ。結果、八百万や土地神、森羅万象の神話が育つ。
「私の神話はこのどれもに該当しません。なので参考にはならないでしょう。」
「そんな気はしてたよ。君の神話はあまりにも人工的であり、環境を利用しすぎている。環境に育まれたものではなく、環境を育てあげた神話…かな?」
「かもしれませんね。」
メンバーが決まったのか、マスター達の声が遠ざかっていく。残念ながら選ばれなかったサーヴァント達は、それぞれの反応を示しながら散ったようだ。声からするにそこまで不満は感じられず、恒例の行事的位置付けにでもなっているのかもしれない。
「…。」
「どうしたんだい?」
「こう言っては悪いのですが…レオナルド、貴女はマスターにきちんとした未来の話をしましたか?」
「もちろん。」
「人類の未来ではなく、マスター自身の未来の話ですよ。」
「いつか普通の日常を、と言う話はよくするよ。」
ふわりと紫煙が管制室に漂う。
ハインは足を組み直し、腕章を手に俯いた。灰色の髪が目元を画し、茶煙草の灰を落としがてら、ぺらりぺらりと資料を捲る音だけが繰り返される。ダヴィンチはなんとなく座り直して、積み重なった書物を大まかに確認した。
「…このカルデアにはアンリマユがいますよね。」
「いるね。諸悪の根源と言うけれども、彼自身はカルデア内ではごく普通の子だ。君も何度か話したことがあるんだろう?タヴィンチちゃんは知ってるよ。割と仲が良いとも聞いてるけど?」
「まぁ。」
「世話を焼いているらしいじゃないか。」
「意気投合したのですよ。この世全ての諸悪の根源、必要悪。私達にとっては馴染みの言葉です。人はそこまで強くなく、他者を悪く言わねば生きていられない。仕方のないことですね。」
「うむうむ、愚かにもね。」
「悪い事ではありません。責任転嫁せねば生きていけない状況の人もいるでしょう。どこかに捌け口を作らなければ、どうにもならないこともあります。」
生い立ちが似ているが故の親近感。
しかし異なる点はいくつかある。例えば、アンリマユは強制的に〈アンリマユ〉にされ、ハインは自主的にアンリマユを演じた。アンリマユは当時人の子であり、ハインはその時人間をやめていた。アンリマユは死を恐れ、ハインは死を利用した。
今もよく話す仲だ。
この前もこのような話をした。
『この前マスターがさぁ、レイシフト先で子供を庇っててさぁ。その子あれだったんだよ。不作の村の口減らし。そーれを助けちまったもんだから、もー大変。』『贄ついでの?』『そ。』『なんか簡単に想像できますよ。可哀想だから、酷いからでしょう。』『そうそう。そう言ってたわ。』『忠告してあげたので?』『したした。ついでに可哀想だから助けるってのは人として大切だけど、相手の逆鱗引っぱたくくらいの火種になるって話もしたんだ。不作の村にとっては神頼みする以外にないくらいの逼迫した状況なわけだろ?酷いとか可哀想以前に、もう藁に縋って神に頼み込むしかないんだから、なぁ?』『で?』『結局拾ったさ。少しの間一緒に行動して、大農家の夫婦が引き取ってくれた。』『ならまぁ仕方なく一件落着としておきますか。特異点は消えたのですから、正解のない問題について考えたところで意味ありませんし。』『んだなぁ。仕方なかったとしか言えねぇし、答えがないのもそりゃそうだよな。悶々とするくらいなら、美味い飯食ってた方がよっぽど良い。そうだ、あんた知ってるか?赤い弓兵のが今度ショートケーキを試作するんだと。試作ってんなら味見役が必要になると思わねぇ?』『思う思う。』『よっしゃ行こうぜ。あんた連れていけば怒られないからさ、そうしたらもうこっちのもんよ。』
極々普通の人の子と、再生を極めたウロボロスとでは、死に対する思いも異なってくる。当然、そこに感じる恐怖の度合いも異なるだろうし、そもただの人と軍人とでは思考回路も違うものだ。
だが迎えた結果は同じ。
必要悪によって周囲の決断は強まり、危機を乗り越えて無事に存続できた。己と言う名の犠牲によって、己が夢にまで見た日々を、彼らは今日も健やかに生きている。この…なんとも言えない状況を、アンリマユもハインも責められず、恨みきれず、羨ましがりつつも距離を置いて見守るに徹していた。
多分、近い言葉としては〈思うところは多々あれども、聖人だと自己暗示した上で思うのならばまぁ報われた〉だろうか。
仕方がなかったのだ。
納得はしていないが、どうにもならなかった。時代的に誰も彼もが自分のことで精一杯であり、他人を蹴落としてでも生きてやる意地がなければ、その日の月すら見れずに死ぬしかったのだから。
生きようと足掻く人のそれを、誰が責められようか?
だから仕方がなかったのだ。
「マスターも、私達のようにならなければいいですけどね。」
「立香君が必要悪に?彼女は凡人類史を救おうとしているのに、なぜ悪役になると言うんだい。」
「これまで滅ぼしてきた特異点の、名も無き者達の形なき恨み。そして特異点を滅ぼしたと言う実績は、守るべきこの世界に危機感を覚えさせるかもしれません。なによりもマスターにはこれだけの英霊が味方しています。異端と呼ぶに充分な状況です。」
ほんの些細なことでいい。
ほんの少しだけ人と違う。それだけでアンリマユにされてしまう。人と言うのは臆病な生き物であり、直観的な僅差さえあれば人柱にするし、槍玉にあげるし、目くじらを立てる。
「きっとマスターはそれすらも許容するのでしょう。見ず知らずの万人が生きたであろう、個人にとっては実感など抱けるはずもない凡人類史のために、命を賭けるような人ですから。」
「否定は…うん、できないな。」
所々焼けこげた腕章をポイッと投げおいて、ハインはモニターを見上げた。穏やかな海が映し出され、波の音が繰り返されている。横に伸びたヤシの葉がさらりさらりと風に揺れ、足跡ひとつない白砂の浜が眩しかった。
あまり見たくない風景だ。
波の音すら聞きたくない。しかし寄せては返す白波が、奥底に眠る記憶を呼び起こす。
「…ラルキア…?」
「うん?」
「…いえ、少し…懐かしい記憶を思い出しました。昔あの浜辺で、ラルキアと言う女性を看取りまして。そう。カルデアに来てアントワネットについての本を読んだ時に、どこか覚えのある話だなぁとは思っていたのですが…ラルキアですね。ラルキア・コルソニーチェ。葬儀も弔いもなく、墓もなく、花を添えられることもない王妃。国を愛し国に愛され、国に殺された潔白の王妃。たしか享年二十六でしたよ。」
「国に殺された王妃?」
「アントワネットと同じような理由です。彼女達は王妃となるには若すぎたのでしょう。そして環境も厳しく、経験も足りず、国は王妃という存在を必須としていなかった。仮に政略的な飾りだとしても、不足を補う年長者が付くでもなし、ただ異国に放置されたまま。そして烈火に炙られる国を恨まず神に祈り、怒りの矛先として立って命を落とした。」
思うのだ。
生まれる時代が違えば、もっと幸せに生きられただろうと。大成を望まず、身の丈にあった幸せを手に入れて平凡な日々を送る、そんな可能性もあったのだろうと。もしアンリマユが近代に産まれていれば、間違っても贄に選ばれることはなかったはずだ。アントワネットが今を生きていたならば、きっと朝露をまとう花々のような、程よい煌めきの中で笑っていただろう。
(…きっと私も普通の人間として…。)
死に物狂いで掻き集めた全てを、我が身諸共戦火にぶち込むような人生ではなかったはずだ。
そこでやっとハインは、自分の願いに気が付いた。
聖杯に普通を願ったら叶うのだろうか?
普通にしてくれるのだろうか。人に戻る方法を探し回って悠久の時が流れ、聖杯戦争なるものに呼ばれまでしたこの身を、普通にしてくれるのだろうか?
ではその為に、どれだけの現実を捻じ曲げることになるのだろうか。
はーあ…とダヴィンチは諦めのため息をこぼす。そして何を思ってか苦笑い、ふぅ…と再度小さなため息を吐いた。
「君はいつも可能性の話ばかりだ、海兵殿。希望も絶望も等しく提示してくれる。カルデアの歩みを肯定するでも、否定するでもなく、アドバイスとも警告ともまた違う。」
「事象の確定は神の特権ですよ、レオナルド。キツツキの舌を描写し、そこに神の叡智を見たのであれば、模倣こそすれども我が物顔はしないでしょう?」
「生命の神秘は万物に通じるヒントだ。人体や大自然、宇宙や星々、大小様々な全ての物に数多の共通があるものさ。」
「その共通点を見出しすぎると、また人の道を踏み外しますよ。万能の人では済まなくなるでしょうね。」
「ふむ…それも可能性の話かな?」
「えぇ。いつも通り可能性の提示に過ぎません。」
「しかし人は予言とも呼ぶ。そうだろう?」
「そうですね。」
「まぁ…助かっているのは事実に違いない。となれば最悪の事態にならないように、人智を尽くしつつ祈るしかなさそうだ。立香君に平穏な未来が訪れるように…。」
「…祈り?待ってレオナルド、この場で祈りは…。」
ピシリとモニターに亀裂が走る。
遠くで騒ぎが巻き起こる。ハインは動物的直感で地震の到来を察知し、大地の奥底を揺さぶるような感覚を得た。コンクリートが打ちっぱなしの壁にも亀裂が走り、次の瞬間には耳をつんざくような警告アラームがカルデアの全てに鳴り響く。
「なっ!?敵襲!?」
「祈りに招かれた可能性が現実に抗おうと訪問した、でしょう。」
特異点の反応はない。
しかし頑丈な管制室のドアの向こうから、爆発音に近い轟音が重なって轟いた。咄嗟にカルデア職員の一人が確認をしようとセキュリティカードをかざしかけたが、ハインは珍しく声を荒げて制止する。
「やめなさい!死にたくないなら、ドアから離れなさいッ!」
管制室に風が吹き荒れる。
テーブル上の書類が舞いあげられ、女性職員の髪は軒並み乱された。時間をかけたろう、女性方々の可憐なヘアセットだが、乱雑に撫で回されたような荒れ姿に成り果てる。ダヴィンチは片腕を顔の前に飛んでくる書類を防ぎつつ、目の前の海兵を見る。
ズルリと真っ白の軍服は黒く染まり、煌めいた薄青色の尻尾は濁った灰色へと変色する。腰には軍刀がかかり、どこからか潮の香りが漂ってきた。
「損害率…八十パーセント…。」
女性職員が呆然とそう呟いた。
彼女の視線の先には辛うじて生きているモニターが光り、先の爆発もどきの損害率をはっきりと示している。見ている合間にもパーセンテージは上昇し、八十五パーセントを超えるか超えないかの辺りで断線した。
「レイシフトはできないのですか。マスターの所に一時避難でもしないと、カルデアがどうなるか分かりませんよ。」
「残念だけれど厳しい。」
「でしたら…レオナルド、カルデアのマスター権限を私に譲渡してくれませんか。」
「…助けてくれるのかい?」
「管制室にいるサーヴァント、貴女と私だけではないですか。外の方々は絶望的。けれど管制室が死守できれば、立て直す方法はいくらでもある。でしょう?私、砂時計をひっくり返すと良いって聞いたことがあります。」
「時間の逆行は禁忌だと話したはずなんだけど、わがままは言ってられなさそうだ。」
ダヴィンチは首からかけている職員証を外し、ハインへと渡す。受け取ったハインは錆びた短剣と燃えかけの腕章を手に、どこから現れたか分からない旗で床を打ち付けた。
パキリポキリと空間が割れる。
ひび割れの上にひび割れが走る。
大地が揺れ雪崩の迫り来る振動が、波に揺られるそれになった。窓のない管制室の天井は透けて青くなり、ついには水平線が視認できるようになる。
「この海は…。」
「大いなる航路。海賊の墓場。私の管轄。」
潮風が吹き抜ける。
管制室の床は木の甲板と変化し、管制室にいた職員達は皆、大きな波の揺れに上下する軍艦に移動していた。彼らが状況を把握するが先か、敵を視認するが先か、どちらが早かったかは分からないが、兎にも角にも誰かの一声よりも先に砲撃の音が轟く。
空間と空間が侵食し合い、溶ける霞の中から海兵達が現れ、並べられた大砲を前方の敵船へと向ける。前方の敵船はまだ反撃の素振りは見せず、しかし目に見えない防壁により砲撃を防いでいた。
「聞きかじった話、サーヴァントとは分霊のようなものらしいですね。人々の抱くイメージや逸話に基づく、概念を軸とした英雄像だと。本人であるとは限らないのだと聞きました。」
「ダヴィンチちゃんが概ね肯定してあげよう。だいたいその通りだよ。本人が応じてくれる場合もあるけれど、それは未来視ができる者や神々のみだ。人間の英雄は死した後の歴史など知る由もない。私達がどうなろうとも、世界が滅んでしまったとしても、死人に口なしだ。」
「つまりレオナルド、貴方も本人ではいらっしゃらない?」
「残念ながら、ダヴィンチちゃんも人々の想いを核とする英雄像に過ぎない。ただ…我思う故に我ありではないけれど、ダヴィンチちゃんの万能性は本人と遜色ないはずさ。人の想いにかたどられている分、神秘に近付いた面もある。」
ドンッ、と砲声が会話の邪魔をする。
ハインは音につられて敵船を見、その甲板にマスターの姿を確認した。恐らくはダヴィンチも気が付いているのだろう。しかし何も言わず、気付かないフリをしてくれている。
甲板で小さく縮こまるマスターの姿。
その傍には英霊などおらず、マシュすらも見当たらない。あの姿こそ、カルデアを背負うことなく生存した〈可能性の姿〉だ。普通の女性としてカルデアに保護され、多くを知らずに生きて、この危機に直面し、抗うことも逃げることも出来ず怯えるだけ。
命の危機に晒され続け、かつ戦わねばならない現実のマスターと、一体どちらが不憫だろうか。
(…運が良かったと言うべきか。マスター自ら英霊を率いて戦場に立ち、命の危機と神格化のリスクを背負う分、少なくとも…運命の選択肢はその手にある。あの敵船のマスターのように、流されるがままではない…。)
ダヴィンチも同じことを考えていたのだろう、フム…と顎に手を添えて神妙な面持ちを浮かべていた。
「…一つ、暴論をかましてもよろしいですか。この場での勝利を確約できますが、元の世界軸に戻った際の影響は不明な暴論なのですけれども。」
「影響も何も贅沢言ってられまいさ。相手を退けて今を生き延びないと、我々はカルデアに帰れない。それに興味もあるね!貴殿の暴論とやらをぜひ聞かせておくれ?」
「カルデアの召喚方法の一つとして、人々の抱いた概念の鱗片を利用して英霊を呼び出すとのがある、ですよね?」
「ふむ。」
「特異点は形こそ違えど、基礎となる凡人類と接続されており、レイシフトするカルデアもまた同じく凡人類史と接続している。ただし私の〈大いなる航路〉は敵により侵食されたカルデアを、上塗りし返す形で侵食し返しています。いわゆる隔離空間であり、カルデアの存在を接続を証明するものは、貴方達しかいない。」
「うむうむ、そうなるね。」
「ではカルデアを証明する皆様方を消した場合、この空間自体が成立しないことになりますよね。マスター自体が消えてくれるでしょう。」
「つまり、我々を殺すと言うのかい?」
「はい。そうです。」