常勝神話ネタメモ切っ先が翼の隅を弾き、パラリと羽根の欠片が落ちた。反射的に距離をとったハインはポンッとウロボロス姿に戻り、尾先の硬質化した稜鱗で剣を弾く。グッと広がった瞳孔は雲間の弱々しい星明りを拾い、雨雲に陰りつつある月夜の下でも雨粒の一つ一つを視認した。対するラグ指揮官は距離を取りつつランタンの灯火を最大に、腰を落として拳を構える。
「ヨルハッドを保護したのは俺だ。俺には彼を守る責任がある。それにサボさんを守るためにも…呼びつけられたと言ってたか?まぁならこっち都合ばかりで悪いが、あんたを帰すわけにはいかない。あんた、サボさんの情報をどれだけ掴んでいる?」
「サボさんの言葉選びは、ゴアで使用されている上流階級口語〈コンカニ〉のそれに近いですね。調査したところ、同姓同名の戸籍記録がゴアに残されていますが、水難事故に遭われたとして死亡届が提出されております。戸籍主にもお話を伺いましたが、革命軍のサボさんとは面識も心当たりもないとのことです。」
「…イントネーションで生まれが分かるのか。」
「限られていますけれどね。貴方はドラム出身でしょう?雪国の口語は特に特徴的です。しかし…ドラムについてサボさんと話し合ったはずなのですが、やはり支援だけでは不足でしたか。」
「当たり前だろう。あの環境下で生きる島民にとって、革命軍と海軍との譲り合いだの何だの関係ねぇよ。医師もいなくて生きるか死ぬかの瀬戸際で、一発逆転の麦わらがワポルに挑んでる最中、俺ら革命軍が何もせずにチャンスを逃せるかって話だ。俺だって撤収支援だけじゃなく、戦闘そのものに参加したかったさ!故郷の未来があの瞬間にかかっていたんだからなッ!」
「麦わらの一味に便乗して、革命軍がご活躍された件については聞いていますよ。ワポル元国王に拉致されていた医師団も、皆様方のご尽力により無事ドラムに戻られたようです。一件落着と言えましょう。」
獣の四肢が煤けた地を踏む。
チャリッと金のイヤリングが揺れ、ランタンの光を反射した。瑠璃の目の奥にも灯火が映り込み、まぁるく大きく開かれた瞳孔が、ラグの些細な頬の引き攣りすら見逃すまいと凝視する。
「宜しければお答えいただけますか?ここ数年の記録を見返したところ、我々は幸運とは言い難い頻度の局所的な通信途絶を観測していました。革命軍の皆さんが撤退する時間に重ねられた、電伝虫他全ての通信機器の不調です。」
「海上では誰もが女神に品定めされている。だが俺に女神の情けは必要ない。難点としては、俺らの電伝虫もまた影響を受ける点だろうな。」
「なるほど…使用場所は限られると言えども、便利な能力ですね。もっと目立つ能力ならば、我々も気が付けたのですが…やはり地味イコール弱いと結論付けるのは短絡的ですよね。物は言いよう使いよう、工夫してこそ真価を発揮する。」
「あぁそれは全面的に同意する。自然系の奴らは特にな。脳筋ばかりだ。」
情報局と海軍艦隊の二重包囲網を敷いてなお、どうして革命軍の尻尾が捕まえられないのか、どうして逃げられてしまうのか、ハイン他情報局員はずっと考えていた。しかし手掛かりも原因も中々掴めず、革命軍の手駒も素晴らしいとしか言えない日々が続いていた。そんな時に、アルバーナ郊外で革命軍を捕まえ損ねたグラッセンが『時計の進みがおかしい』と悔しそうに電話してきたのである。
それで気が付いたのだ。
密な情報のやり取りを逆手に利用されていたのだと。
「残念ながら、いまだに我々は通信途絶の原因か貴方の妨害工作によるものなのか、単なる環境のせいなのか区別できません。」
「はっ、お粗末さま。」
「ですので、その道のプロにアドバイスを頂きました。」
ゴォッと急に吹き荒れた風を、半開きの六翼が掴み、ウロボロスはたった一跳びでラグとの距離を詰めた。距離を詰めた一跳びの、地から離れた後ろ足と着地しかけた右前足。尾は蛇のようにうねって宙での体勢を保ち、濃灰色をした角を抱く頭は低く下げられている。そしてラグ指揮官の首を掻き切らんと伸ばされた左手の開かれた手指が、鋭い爪が、柔らかな皮膚に引っ掛かる。
ラグの目の前で獣が喋る。
ラグは咄嗟に退こうとした。しかし彼を包み込むような六翼に、足を絡め取る長い尾が邪魔をする。
「ロギアではないなら殺せばいい、とのことです。」
ビッと血が飛んだ。
「…アルバーナでグラッセンの追跡を躱した件と言い、ドラムでの見事な撤収と言い、どうにもラグさんがご助力なされる作戦は、姿をくらます手際が一際素晴らしいと言いますか…我々の情報網にラグが生じると言いますか。まさか対人能力ではなく、対環境能力だったなんて驚きです。」
灰と炭に覆われた石畳にじわりと血が流れ出す。ラグが倒れる重い音に、カシャンッとランタンが落ちる音。そして三対の翼が収納され直すパサパサと軽い羽ばたきが、静寂の資材置き場にひっそりと響いた。
「認識に干渉してくる能力者もまた、自然系と同じく恐ろしいものです。アダンダラが最たる者でしょう。この海であれに抗うのは難しいですよ。」
竜の足元で掠れた呼吸音が零れている。
裂かれた喉は泡を吹き、言葉を吐こうにも不明瞭な呻き声しか出てこない。しかし目だけは敵意に溢れ、まだやれると言わんばかりの光を灯している。
「アダンダラのためにどれだけのコストをかけたか…ラグさんならばお分かりでしょう?」
次第に風は落ち着き、翼は風に解けるように消えていく。長髪を耳にかけたハインは血溜まりを跨ぎ、黙ってスチル街の闇夜に耳を傾けた。蛾の目の腰布が音もなく揺れ、雨雲の隙間から顔を出した月に照らされる。薄い影がラグの遺体に重なり、灰色の髪は銀糸に近い煌めきを発した。
カチリカチリとハインの脳裏の更に奥底で、その齢にしては些か奇妙な、完成されつつある思考回路が稼働し始める。
ハインがラグを殺したこの時点で、ティミ諸島の勢力図は確定された。
指揮官を任される者には実力がある。
つまり指揮官は熟練の強者に部類される。そんな戦場の大黒柱たる指揮官が己の役目を投げ捨てて、強者ゆえに皆を守ろうと単身で飛び出し、力及ばず討たれた後の予後は悪い。そも指揮官の役目は指揮することで、剣を手に前線を走ることではない。指揮官が単騎出撃でもしようものなら、たとえ〈仲間を守るため〉だとしても後方は指揮者を失い路頭に迷う。
ティミ諸島スチル街でラグがやるべきは、ハインを討つことでも仲間を守ろうと前に飛び出すことでもなく、指揮官としての役割を果たし続けることだった。しかしラグは選択を間違え、結果としてティミ諸島の革命軍は指揮官の一人を失い、残された構成員達は指揮官不在で作戦を練り直さねばならない。そして残念なことに指揮系統の再構築と、主戦力の欠損を埋めて補う作戦は、そうそう簡単には出てこない。安定した戦況下、豊富な兵力を有しているならばまだしも、セモアディゼル海賊団とヨルハッドに押され気味な革命軍には現実的ではないだろう。
(ラグさんの能力は失うに惜しいけれど、敵に使わせるのは悩ましい。)
ラグの行動はよくある愚行だ。
珍しくはなく、むしろしばしば観測される。
と言いつつも、ハインだって同じだ。
ラグ同様に指揮官の一人、情報局長であるハイン局長はスモーカーも連れずに一人でスチル街に乗り込んでいる。もしここでラグがハインの首をとっていたら大問題が発生しただろうが、まぁこれは〈ハインを局長とする〉情報局ゆえに許される芸当である。
そんやハインがさてとと呟く。
ラグとのお喋りに使った時間は十分にも満たない。しかしハインの腕時計は三十分も進んでいる。しかし能力を理解したハインは慌てるでもなく、街の奥へと歩き始めた。歩みに合わせるように雨雲が流れ、雲間の月明かりも移動していく。
灰と炭に汚れた大地はまだまだ続き、闇夜の向こうにも広がっていた。