匿名の眠れない夜1.
電話を受けたラインハルトはその場に立ち止まり、目を瞬かせた。 彼の口から出た名前はイザークもよく知っているものだった。 「カール? 卿か?」
食卓の上でクレヨンで絵を描いていたイザークは顔を上げた。 ラインハルトが息子の視線に反応する前に、子供は静かに画用紙の上に視線を戻した。
ラインハルトは、まるで昨日も会った相手と会話しているかのように、気さくな声で挨拶を交わしている。
イザークもまた、電話の向こうの人物を知っていた。 カール・クラフト、彼は目の前の世界に対する奇妙な確信と奇妙な憧れを持って生きている人だ。 そんな奴が映画監督とかになるんだろうな。 イザークは非難するようにそう思いながらも、手は熱心に画用紙に色を塗っていた。 そんな中、笑い始めたカールの声にラインハルトの笑い声、続いて安否の挨拶が混じる。 「卿は元気そうで何よりだ。 今はどこにいるのだろう、初めて見る国番だ。
それに答える声は少しも変わっていない、もしかしたら久しぶりだから余計に耐え難い感じもする。 クラフトの口癖を嫌うイザークとは違い、ラインハルトはただ微笑むだけだった。 その笑い声はいつもと変わらないのに、どこか特別なものだと錯覚する。 腹の底から何かがひっくり返るような気がした。
電話の向こうから耳障りな笑い声が聞こえてくる。 そちらの人生が楽しいのか、それとも別の理由があるのか、イザークにはわからないし、興味もなかったが、クラフトがどこかで客死する人間ではないことは確かだった。 映画監督はそういう人種なのかもしれない。
父親が4年間音信不通の友人を心配しないのも当然だった。 ある日突然姿を消した友人が、実は世界旅行をしていたという話を聞いても、ラインハルトはあまり驚かなかった。 それもそのはず、クラフトが消えた理由はイザークを含め、彼を知る者なら誰しもが容易に推測できた。
どうやら通話はさらに続くようだった。 イザークが大切な黄色いクレヨンを壊したり紛失したりしないように安全な場所に保管している間、ラインハルトは家の中を歩きながら、電話の向こうの相手と会話をしていた。 そんな中、彼が不意にニヤリと笑った。
「卿の家の様子は想像がつくが、他人の妻のポスターが貼られた家は息子の教育に良くない」
イザークは自分の名前が呼ばれると、静かに視線を上げた。 今度は父親が息子に気づいた。 まるでラインハルトのように、二股に突き出た金髪を大きな手が撫でる。 その温かい手触りに、イザークはしばらくクレヨンを持つ手を止めた。 すぐにラインハルトが電話の向こうで友人と別れを告げる声が聞こえた。
電子音が鳴り、電話が切れる。 端末を食卓に置いたラインハルトは、息子が描いていた絵を覗き込んだ。 長い金髪が流れ落ちる。
「今日は何を描いたんだ?」
「お父様です」イザークは淡々とした口調で答えた。 これまで父と息子は何度も同じ問答を繰り返した。 そしてラインハルトは今回も礼儀正しい笑顔、世界すべてに向けた愛を湛え、金色の瞳を転がした。
画用紙の中央には、背の高い金髪の男が描かれている。 ラインハルト・ハイドリッヒ、イザークの父。 そしてその左側に半分ほどの大きさで描かれた子供を人差し指で指差すと、ラインハルトは優しい声でつぶやいた。
「なるほど、これはイザークか。 じゃあ、これは何だろう?」
そこで終われば、わかりやすい家族の情景になりそうだったが、さらに何かがある。 濃紺のクレヨンが画用紙の余白を縦横無尽に描いていた。 決して二人に触れることなく。 珍しいことに、ラインハルトの声が妙に高揚しているのを感じた。 イザークの父は、今までにないことが好きだ。 たぶん、まだ幼いイザーク以上に。
「雲か? ロープ?」
「......クラフトです」
這うような声で言いながら、イザークは頭を下げた。 無意識に引いた線は、よく見ると人間はおろか、どの面も形を成さないまま、絡み合った糸のように絡み合っていた。 クラフトそのものというよりは、その作者に対する不快感の発露のようなものだった。
今思えば、イザークはカール・クラフトを初めて見た瞬間から彼を嫌っていた。 しかし今、彼の職業である"映画監督"をまるで罵倒のように口にするまでに至ったのは、明らかに彼だけが父の例外であることを知ったときからだった。 父はこの世のすべてを愛している、それはイザークも同じだ。 だが、カール・クラフトには違う。 父がクラフトに感じるのは、唯一無二の友情だ。 だからイザークはクラフトを死ぬほど憎んでいた。
クラフトへの敵意を初めて露わにしたきっかけが何だったかは忘れた。 あまりにも些細なことだったから、おそらくラインハルトを褒めたり、食事を誘ったりしたのだろう。 イザークはただ、その後に起きたことだけをはっきりと覚えている。 クラフトを無表情で見つめるイザークの横で、ラインハルトはただくすくす笑うだけだった。 自分の一人息子がたった一人の友人を嫌っている状況が、悲しいどころか面白くて耐えられないというように。 それは「イザークが父にとって特別ではない」からだろうか。 すべての人を愛するということは、結局、誰だって似たような、同じような、平凡な存在だと思っているということなのだろうか。 血を分けた息子さえも?
今も父はそんな慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
「そんなに嫌がるのに、描いてくれたのか。 久しぶりに会ったのに、覚えているようだ。
イザークは静かに濃い青色のクレヨンを置いた。 イザークにとってクラフトは、いっそのこと忘れてしまいたくなるような、不愉快な不定形の何かだった。 明らかに人間の顔をして立っている者を脳裏に描くたびに、水銀が揺らめくような錯覚を覚えるほどだった。
イザークは俳優である父が出演した映画を見て週末を過ごしたが、クラフトがメガホンを取ったフィルムには手をつけたことがなかった。 それらはすべて父の手を握って試写会に行き、一度ずつ見ただけだった。 映写機が回っている間、隣の席に父が座っていなければ、イザークは上映中に飛び出してしまっただろう。
もちろん、その不快感が今に至るには、映画の撮影中、隙あらばクラフトがインスピレーションを口走り、父親を呼び出し、イザークを近所に預けて出かけさせた記憶も一役買っているだろう。 しかし、この恨みはもっと根本的な不快感から来ている。
クラフトが撮った映画の中のラインハルトを見るとき、イザークは父親を自分のフレームの中に閉じ込める監督の姿が頭に鮮明に浮かぶのが嫌だった。 クラフトが描く父親の役柄は奇妙だった。 カーテンコールが終わると終わる他の映画や演劇の舞台とは違い、父親が彼のレンズの中で余生を過ごすような気がした。 エンディングロールが上がる直前まで、イザークは消灯した劇場で隣の席をちらりと見て、父がまだその場にいることを確認しなければならなかった。 父はその度に視線に気づいて、イザークの手をアームレストの上に乗せてくれたが、おそらくイザークが映画の奇妙な要素に怯えていると思ったのだろう。
クラフトの映画を高く評価する人が聞いたら、「俳優はレンズの中に生きる人類だ」などと言う台詞を引用するかもしれない。 クラフトが自分の映画のひとつでラインハルトに言わせた台詞だ。
イザークが見た俳優がレンズの中の人類なら、カール・クラフトはカメラの後ろの神だった。 脚本を書き、演出し、自ら撮影し、編集する彼は、自分のフィルムの中で神である。 他人の願いを叶えてくれるメシアではなく、自分の理想を実現するために執拗に全世界を支配する狂った神に過ぎないというのが問題だったが。
イザークの父にとってクラフトが唯一の友人であったように、その気難しい蛇にとってもラインハルトは唯一の友人だった。 孤独で聖なる一人だけの聖戦の途中で出会った友人に、蛇がいったいどんな感情を抱き、ラインハルトを自分のカメラレンズに収めることにあれほどの喜びを感じるのか、イザークは一生理解できないだろう。 理解する気もない。 映画監督」も誰の理解も望んでいないだろうし、いや、自分がそうしていることを認めるかどうかもわからない。
ついに父親を永遠にレンズの中に誘拐することに成功する前に監督が潜伏したことだけがイザークにとって唯一の慰めだったが、あの蛇が飽きることなく現れたのだ。 クラフトは一体どうやって、あれほど執着していた「女神」が引退したショックから回復したのだろうか? もしかしたら回復していないのかもしれない、とイザークは先ほどの電話の内容を思い出す。 そのショックで今度こそ父をレンズに収めようとしたらどうしよう。
そんなことを考えている小さな頭から、いつの間にか父の手が離された。 そしてラインハルトはイザークが描き終えた絵を取り、壁に掛けた。 イザークの目の高さに合わせたところに掛けられた緑色の小さな掲示板は、子供が描いた絵で埋め尽くされていた。 一年前に教会の神父から教育方針について話を聞き、父親がいいと思った時から、イザークが絵を描くと、彼が鋲で留めてそこに飾ってくれることになっていた。 いつもはラインハルトを、時にはイザークを、一緒に描いた絵の間に空いた場所を探して絵を飾っていた彼が、ふと思い出したように言った。
「旅に出よう」
一瞬、イザークは息が止まるような気がした。 しかし、父がそう言った以上、選択肢は一つしかなかった。 おとなしく承諾することだった。