勘違い「失礼しました」
軽くお辞儀をしながら保健室の扉を閉めて、私は屋上に向かった。
一日の大半を保健室で過ごし、他の生徒を見ることが少ない私は、授業が終わって部活動や下校をする人たちを上から眺めるのが好きだった。
(宙くん、今日は来なかったなぁ。部活やってるとこ見えるかな……)
そんなことを考えながら階段を上っていると、屋上の扉が少し開いていることに気がついた。
先客がいるならまた今度にしようと思い引き返そうとしたが、聞き覚えのある声がして足を止めた。
(宙くん……?)
誰かと話しているようだ。
扉の隙間からそっと顔を覗かせる。相手は女の人……?
ここからじゃよく聞こえない。もう少し近づこうとした時、
「俺と付き合ってください!」
その言葉がはっきりと聞こえて、私は固まってしまった。
今、なんて……?
心臓の音がバクバクうるさい。
頭が働かないまま、私は階段を降りた。
一刻も早くあの場から離れたくて。
足を進める間、いろいろな感情が頭をよぎる。
――あの女の人は誰?
ブレザーだったから高等部の先輩だ。
宙くんはあの人が好きだったの?
一瞬しか見えなかったけど、とても顔立ちの整っていた人だった。私と違って。
そうか、宙くんはあの人が好きだったんだ。
そりゃそうだ、クラスでいつも目立っている宙くんがこんな私と釣り合うわけがない。
一瞬でも勘違いしてしまった私が馬鹿みたいだ……
こらえていた最初の一粒が零れると、あとはボロボロと止まらなかった。
行く宛てもなく廊下を走った。
そして次の角を曲がろうと――
「きゃっ……!!」
「ぅわ!? グフッ……」
誰かにぶつかり、尻もちをついてしまった。
視界が歪んでいて相手の顔は分からない。
正直今はそんなのどうでもいい。
「あ……ごめんなさい……」
「いやこっちこそすみませ…………あれ、湖春ちゃん? えっどどどどうしたのその顔!?」
「え……」
目をこすって見上げると、そこには戸惑いながらこちらを伺う白夜先輩がいた。
白夜先輩は私が弓道部に入っていた頃お世話になった先輩だ。
私が部活をやめてから顔を合わせていないから、話したのは実に二年ぶりになる。
白夜先輩は私を人目の少ない中庭に案内すると、自販機でココアを買ってきてくれた。
そして私が泣いている間、無言で隣にいてくれた。
久しぶりに会った後輩にここまでしてくれるなんて、申し訳なさでいっぱいだ……
私が落ち着きを取り戻したのを察して、白夜先輩は口を開いた。
「えっと……大丈夫? 何かあった? 聞いていいことなのか分からないけど、話した方が気が楽になることもあるし……俺で良ければ話聞くよ。あっ無理に喋らなくてもいいから」
「ありがとうございます」
優しく話しかけてくれる白夜先輩の安心感に包まれながら、私はさっき起きたことを全て話した。
クラスメイトの男の子が私に会いに保健室に通ってくれていたこと、私がその男の子のことを好きだったこと。
そしてその男の子が高等部の先輩に告白していたのを見たこと――
白夜先輩は最後まで真剣に聞いてくれた。
告白の話をした時は少し困惑しているように見えたが、私はそれだけ感情移入して聞いてくれることが嬉しかった。
私の話を聞き終えると、白夜先輩は「うーん」と少し考えてから口を開いた。
「あのさ、もしよかったらその女の人がどんな見た目だったか教えてくれない? ほら、高等部なら俺の知ってる人かもしれないし、湖春ちゃんはその人が告白OKしたかまでは聞いてないんでしょ? もしその人が俺の同級生なら、その人に彼氏がいるか分かるかもしれないからさ」
「なるほど……! 一瞬だったので顔はあまり覚えてないんですけど、そうですね……水色のカーディガンを着てて、背が高くて髪は肩くらいで外ハネで……髪の色は、青というかなんというか……あ、白夜先輩と同じ感じの色でした」
「…………あー……」
白夜先輩は少し考え込むと、「一人にさせてごめんね、ちょっと心当たりあるから聞いてくる。すぐ戻るから湖春ちゃんはここで待ってて」と言って校舎の中に消えてしまった。
私は白夜先輩が買ってくれたココアを飲みながら待つことにした――
【数十分前】
最悪だ。
溜息をつきながら廊下を歩く。
今日俺のクラスでは、一ヶ月後に控える文化祭の係決めをした。
そんな中、ジャンケンで見事に一人負けした俺は実行委員に選ばれてしまった。
今年のうちのクラスはお化け屋敷をやるらしく、必要物品も多い。だから必然的に仕事が増える。
それにしてもだるい。どうにかして必要な書類を減らせないだろうか……
ぼんやり考え事をしながら角を曲がった時、
「きゃっ……!!」
「ぅわ!?グフッ……」
誰かにぶつかってしまった。
力細くか弱い悲鳴が聞こえて焦る。
怪我させてしまっていないだろうか。
「あ……ごめんなさい……」
「いやこっちこそすみませ…………あれ、湖春ちゃん? えっどどどどうしたのその顔!?」――――
今俺の隣で泣いている子は、俺が中等部だった頃に部活で一緒だった都夢湖春ちゃん。
鉢合わせた時は俺がぶつかったせいで泣いたのかと思い本気で焦ったが、何か別の理由があるらしい。
こういう場面に慣れてない俺はどういう対応をすればいいのか分からず、頭をフル回転させて考えた結果、今に至る。
沈黙の中、ときおり微かな嗚咽だけが漏れる。
何分か経ち、湖春ちゃんが落ち着いてきたので、俺は必死に言葉を選びながら話しかけた。
無理に話して欲しいわけじゃない。話した方が気持ちがスッキリすることもあるから、俺に打ち明けて湖春ちゃんの気が楽になるなら、そうさせてあげたかった。
「ありがとうございます」
湖春ちゃんはゆっくり語り出してくれた。
「私保健室登校なんですけど、私と話すために保健室に通ってくれているクラスメイトの男の子がいるんです。その子運動部ですぐ怪我するので、その度に私がいつも手当してるんですけど――」
一語一語理解しながら話を聞く。
聞いているうちに気付いたが、湖春ちゃんが言ってる男の子とは多分宙のことだろう。
少し前、家で「いつも保健室にいるクラスの女の子と仲良くなれた」とニッコニコで話されたことがある。
そして話を聞くに、湖春ちゃんは宙のことが好きらしい。
いいじゃないか、幸せになってくれ。
「でも今日、屋上でその男の子が高等部の先輩に告白しているところを目撃してしまって……」
へ?
知らなかった。俺の弟は年上の女性に恋をしていたらしい。まじか。知らなかった。
というか相手が誰なのかめちゃくちゃ気になる。
「あのさ、もしよかったらその女の人がどんな見た目だったか教えてくれない? ほら、高等部なら俺の知ってる人かもしれないし」
それっぽい理由をつけ足して問いかけてみた。本当は俺が知りたいだけなのだが。
湖春ちゃんは記憶を掘り起こして思い出してくれた。
「そうですね……水色のカーディガンを着てて」
うん
「背が高くて髪は肩くらいで外ハネで」
うん
「髪の色は、青というかなんというか……あ、白夜先輩と同じ感じの色でした」
……ん?
俺の頭の中には確かに一人思い当たる人物がいた。
だけどあいつは……
「あー……一人にさせてごめんね、ちょっと心当たりあるから聞いてくる。すぐ戻るから湖春ちゃんはここで待ってて」
そう言って校舎の中に入ると、俺はそいつにLIMEした。
『今どこ?』
しばらくして既読が着いた。
『屋上〜』
やっぱりそうだ。
俺は屋上に向かった。
(悪いことしちゃったな……)
冷静さを取り戻した私の頭の中は、白夜先輩への申し訳なさでいっぱいだった。
そりゃあ、数年ぶりに会った後輩が顔面ぐっしゃぐしゃにしてぶつかって来たら誰だって困惑するだろう。
溜息をつきながら思いを巡らせていると、中庭の扉が勢いよく開かれた。
白夜先輩が戻ってきたらしい。
「あ、おかえりなさ……えっ!?」
半分呆れたような顔をして中庭に入ってきた白夜先輩の手には、左手に宙くんの、右手には私が屋上で見た女の人の腕が掴まれていた。
詳しく説明されないまま連れてこられたであろう困惑した様子の宙くんはしばらく頭にハテナを浮かばせていたが、私に気づくとすぐさま駆け寄ってきてくれた。
「湖春ちゃん!? なんでここに……というかもしかして泣いたの!? 大丈夫!? ……白夜兄さんなんかした!?」
「してねえよ」
どういうこと? 私白夜先輩に宙くんの名前教えたっけ? というか今兄さんって言わなかった? 理解が追いつかない。
何が何だか分からず困惑する私を見て、白夜先輩は言った。
「えっと、保健室に通ってくれてた男の子って宙のことだよね……? こいつ俺の弟なんだよね」
「…………そうなんですか!?」
知らなかった……確かに二人とも苗字が藍川だけど、全然似てないから勝手に赤の他人だと思ってた。
「あ、あの、はく……? 私は……?」
恐る恐る口を開いたのは、私が屋上で見た女の人。
戸惑っている様子を見るに、この人も何も説明されないまま連れてこられたんだと思う。
白夜先輩は続けた。
「あ、そう、そのことなんだけど……湖春ちゃん、こいつも俺の妹で宙の姉貴なんだ」
「はぇ? あ、こんにちは! 藍川星蘭です!(?)」
「だから多分、屋上で見た告白は勘違いだと思うから安心して?」
「え……」
白夜先輩に一からゆっくり説明してもらった。
要約すると、文化祭でやる予定の演劇でヒロインにフラれるモブ役に抜擢された宙くんは、劇の練習をお姉さんに頼んでいたらしい。
要するに、告白はただの勘違い。
「なんだ……そうだったんだ……」
「そうなんだよ〜。俺大道具係やりたかったのに委員長に配役されちゃってさ、告白とかしたことないから詳しそうな姉ちゃんに手伝ってもらってたんだぁ〜」
へらへらと笑いながら話す宙くんを見て、告白が勘違いだった安堵から自然と涙が零れる。
「ななな泣かないで!? 心配させちゃってごめんね! 俺湖春ちゃんのこと好きだから! 安心して!」
宙くんは必死に慰めてくれるが、ここまで言われてハッとなった。
考える余裕がなくて今まで気がつかなかった。
これじゃまるで私は宙くんのことが好きですと言っているようなもんじゃないか。
自覚すると同時に、顔がみるみる真っ赤に染まっていく。
「湖春ちゃん? どうしたの?」
急に俯いた私の顔を、宙くんは容赦なく覗き込もうとする。
(嘘でしょ自覚ないの……?)
「あー……宙は分かってないよ」
星蘭先輩が力なく笑って言った。
バレてなくてほっとする反面、どこか少しだけガッカリした気もする。
けど今はとりあえず宙くんが鈍感で助かった。
その後も四人でたわいもない話をしていると、見回りの先生がやってきた。
もうすぐ最終下校時間らしい。
「あと五分で学校閉まるぞー。早く帰れー」
「あ、せんせー来た」
「はーい」
「もうそんな時間?」
「俺荷物三階なんだけど! 走んなきゃ!」
各々身支度を整えて、校門を出る。
「湖春ちゃん電車?」
「は、はい!」
「同じじゃん! 一緒に行こ〜!」
「……! うん!」
真っ赤な夕焼けが、私の頬を染めた。