ふたつでひとつの呼吸となる前に「安室さんってお酒飲まないの?」
じっと顔を見つめて訊ねるコナンに、安室はゆっくり瞬きすると不思議そうに首を傾げた。
「飲みはするけど……、なんだい? その歳でもうお酒に興味があるとか言わないだろうね?」
「違うよ、そういうことじゃなくて」
からかうような疑いの眼差しに不機嫌さを隠さずむくれると、すぐに隣から大きな手のひらが伸びてきて頭を撫でられた。まるきりの子ども扱いが鬱陶しくてくすぐったい。
落ち着かない気分にそっと体を身じろぎさせて、コナンは顔を覗き込んでくる大人を見返した。
「安室さん、ボクの前ではお酒飲まないよね?」
キッチンの棚に並ぶグラスやボトルで安室が酒を嗜んでいることは知っている。好んでいるらしい銘柄も。けれどそれらを安室がコナンの前で開けることはない。
こうして夕食後、お風呂も済ませて就寝前のまんじりとした時間ですら、安室が喉を潤すグラスに入っているのはお茶や水であることが多く、この部屋でコナンがアルコールの匂いを嗅いだことはなかった。
「そうだったかな。毛利先生ほど日課に飲むわけじゃないし、嗜む程度だからね」
本心であるのだろうがはぐらかされている気配に、コナンは納得のいかない顔で黙り込む。安室の仕事はどれも時間が不規則だ。急に呼び出されることもあるだろう。その時にアルコールが残っていれば仕事に支障が出る。
普段から自制して程度を抑えていると言われても納得はできる、が。
安室がコナンといるときに仕事が入ることはない。偶然か、そうした安全な日を選んでいるのかは定かではないが。緻密な周到さを持つ安室がそう何度も偶然に頼るとは思えない。
だからコナンと共にいるときに多少酒を飲んでも問題はないはずなのだ。
苦笑するように小さく笑う声にコナンはムッとして、安室を見据えた。
「もしボクに遠慮してるとか気を遣ってるとかなら、やめてほしい。ボクとつき──、つ……、……一緒、にいることで安室さんが何か我慢してるなら、それは嫌だよ」
「付き合ってる、って、いうの恥ずかしい? 僕しか聞いてないのに?」
言いながら隣り合って座っていた体を引き寄せられ、胸の中に抱き込まれる。とっさに、胸を押し退け離れようとするが子どもと大人では力比べにもなりはしない。
「今そんな話してないでしょ!」
「あはは、ごめんごめん。ちゃんと意識してくれてるんだって、嬉しくて」
機嫌よく話す安室とは反対に、コナンが目の据わった表情で振り向く。おや、とわずかに目を大きくした安室の胸元を、コナンの小さな手が強く握り締めていた。
「なにそれ。今までボクのこと疑ってたわけ?」
「そういう意味じゃないよ」
胸元を掴む手をやんわりと包むように握り締められて、離させようとするが少しも緩まない。
睨むつもりでコナンは安室を強く見つめ、返される視線の熱さにびくりと肩が震えた。安室がほのかに苦く笑う。
「そういう雰囲気になるのを避けてたのもあるけど、君がお付き合いに対してどこまで認識してるのかなって、わからないところがあったから」
「……そんな子ども相手に告白したの? 安室さん」
コナンが怒りを解いて呆れるように視線を向けると、手を掴む力が弱まった。優しく握るように指を擦り合わせられて、勝手に目が泳ぐ。
「玉砕覚悟だったし、それきっかけで君が僕を意識してくれればいいと思ってたから。君は全然気付かせてくれなかったね」
「…………そりゃ、あしらわれるのがオチだって、気付かせるつもりなかったし。だから安室さんからの告白はびっくりしたけど、嬉しかった、よ」
「下手に意地を張らなくてよかったよ。でないと随分遠回りをする羽目になってた気がする」
肩を竦めて力なく笑う姿に、コナンもこくりと同意を示す。自分からいうつもりがなかった分、その思いはおそらく安室よりも強い。
未だに夢ではないかと思うときもあって、その不安を煽っているのが安室があまりにも普段通りでいることだった。
告白をされて、受け入れて、付き合うようになった。
以前よりも二人きりで過ごす時間が増え、安室のパーソナルな部分に触れている気はするのだが、手を繋いだり抱き締められたりする以上のことがなにもない。
その理由を先ほど安室が少し話してくれたが、ではその疑問が解消された今はどうなのか。
じっと、息を浅く、細めて見つめ続けていると、安室がふっと唇を笑みに緩めて顔を近付けてきた。そしてすぐに離れていく顔を、コナンは両手で額を抑え複雑な表情で眺めた。
「僕が君と付き合ってることで何かを我慢してるんじゃないか、って話だったね」
それまでのやりとりも十分有意義なものだったが、そのきっかけとなった本題はそこだ。
コナンがどこか腑に落ちない顔で頷いて話を促すと、安室は言葉に迷う仕草を見せてから口を開いた。
「そういうことを意識して、ってことはないな。君といても飲みたくなったら飲むだろうし、……でも」
苦笑を洩らして安室が言葉を区切る。
怪訝に首を傾げたコナンの唇が、そっと安室の指に押さえられた。
「君にお酒の味を覚えさせるのはまだ早いだろうから、ね」
低く掠れた囁きに、深い色を湛えた青灰色の眼差しに、ぶわわ、と肌が勝手に粟立っていく。無意識に安室から離れようとした体を押さえる腕は優しいが、解けない。
逃げられない、と頭で理解するより先に知った体がかたく緊張する。向き合うように膝に乗せられたまま、コナンは安室から目が離せなくなっていた。
「君がもう少し大きくなるまで待つつもりでいたけど、キスは解禁しようか」
「──キス、だけ?」
呟いて、コナンは遅れてそれが自分の唇からこぼれた声だと自覚する。
撤回しようにも一度吐き出した言葉を飲み込むことなどできるはずもなく、代わりに逃げを打とうとした体はあっさりと安室の腕に捕らえられていた。
熱い息が耳を掠めて、びくりと体が揺れる。
「キスだけ、だよ。まずは唇、それから頬と耳。鼻にもしたいね」
楽しそうに囁きながら、指先が示唆する場所を辿っていく。
「もちろん首筋や喉にもだ。胸にもいっぱいキスをして、腰にはとびきり強くキスするよ」
「っあ、むろさ……っ」
胸を撫で、腰を擦る大きな手のひらにコナンが耐えきれずぎゅっと目を閉じると、深く胸に抱き締められぽんぽんと宥めるように優しく背中を叩かれた。子どもをあやす仕草にやめて欲しいと思うのに、容赦のない大人の色香と濃密な気配に当てられた子どもの体がひどくそれに安心していた。
惑乱する心を深呼吸で鎮めながら、コナンは疲弊を覚え始める体をくったりと安室に預けた。縋るようにシャツを握れば、背中を抱き締める腕にやんわりと力がこもった。
「キス以上も、したい?」
「……キスだけでいい、かも」
こんなにも子どもの体に耐性がないとは思わなかった。それとも相手が安室だから、だろうか。
その答えをいますぐに出すことはできないが、いずれ自ずとわかるだろう。
神妙に答えるコナンがおかしかったのか、安室が笑いに体を揺らす。面白くはない気分でコナンが下から睨むように見つめ上げると、笑いは止まったが愛情深く見つめ返されて、コナンのほうがたじろいでしまった。
「僕は君が子どもだからって理由で何かを我慢するほど、節度のある人間ではないよ。そもそももしそうだったら、君に告白はしてない」
説得力のある言葉に、コナンが思わず唸りかける。
歳の差は二回り近くあり、コナンは未成年──と呼ぶにも幼すぎる年齢だ。
「だけど気になることがあったらさっきみたいに聞いて欲しい。僕も、君に聞きたいことがあったらちゃんと聞くことにするよ」
「う、ん……」
頬を包むように手を添えられて、目を合わせられる。注がれる眼差しは単なる親しい大人が浮かべるものではなく、滲んだ情と欲に呼吸の仕方も忘れてしまう。
下唇を軽くなぞる指先に、ぞくぞくんっと背筋に何かが奔って甘い疼きを残していく。
「次に君がここに来た時、キスするから。心の準備しておいて」
そんなもの、いったいなにをどうすればいいのか。
思っても声には出せなくて曖昧に頷くと、大切に、壊れ物を抱くように優しい仕草で抱きしめられた。とっとっとっと駆け足をしているような鼓動がバレてしまうのが恥ずかしくて腕で突っぱねようとしても、やんわりと強く背中を抱き込まれてますます体が密着していた。
わざわざ予告なんかせずに今してくれればいいのにと、そんなことを考えて額を強く胸に擦り付ける。
「……安室さんは意地悪だ」
「意地悪な僕は嫌い?」
「そ──んなの、しらない」
「優しいだけじゃなくてごめんね。でもそれが俺だから、諦めて」
ぎゅっと、シャツを掴む手に力を入れると髪を梳くように頭を撫でられた。
「……別にいいよ」
そう呟いてからいくらでも受け取り方がある言い方だったと気付いて、顔を上げる。安室に限って誤解はしないだろうが、自分だけ本心を告げないのも卑怯だ。
「そういう安室さん、もっと知りたいって思うから……。それにボクだって、きっと安室さんが思うような子どもじゃない。そういうボクは、嫌いになる?」
「まさか」
間髪入れずに返された言葉に、無意識にほっと安堵する。
「どんな君でも好きになるし、たとえどんな姿を見せられても僕は君を手放さないよ」
「……安室さんってボクのこと大好きなんだね」
面映ゆい気分で指摘すると、一瞬の間を置いて安室がおかしそうに吹き出して笑う。くくっ、と堪えきれないように低く喉を震わせ、ぎゅっと強くコナンを抱きしめてくる。
「そう。僕は君のことが大好きなんだ」
「ん……。ボクも、安室さんのこと、……すき、だよ」
言ってからどうしようもなく恥ずかしくなって、顔を伏せる。頬が熱くてたまらない。頭の片隅でどこか冷静な自分が現状を呆れたように眺めているが、恥ずかしいものはどうしたって恥ずかしいのだ。
冗談めかした告白でも、安室がコナンに向ける眼差しはとても熱く、愛しげで、今までよくもこれを隠し通していたものだと、自分が呆れているのか感心しているのか、喜んでいるのかもわからない。
だがきっとそれは、コナンも変わらない。
コナンは熱のこもる息をそっと吐き出すと、鼓動を速めているくせに平然を取り繕っているたちの悪い大人の顔を見つめた。愛しそうに細められた瞳に、とくん、と胸が鳴る。
伸ばした指先でそっと頬に触れれば、動揺するようにかすかに安室の瞳が揺れ動いた。背中に回された腕に、ぐっと力がこもる。
「……いつか安室さんが教えてね。お酒の、味」
声には出さず、彼のコードネームでもある単語を唇で紡げば、苦しいほどぎゅうぎゅうに抱きすくめられた。ドクドクと、先ほどよりも速く強く刻まれる鼓動に、ふふ、と勝手に笑いがこぼれてくる。
「──……悪い子だ。言ったろう? 僕は節度のある人間じゃないんだよ。君を酔わせてしまうかもしれない」
「ボクが安室さんを酔わせたいのかもしれないよ?」
「僕を酔わせて何をするつもりだい?」
内緒話をするように囁き合って、見つめ合う。熱く交わらせた眼差しはどちらも焦がれるように求めているのに、相手が何を求めているのか気付いているのに、決して触れ合わない。
求めて、焦れて、我慢して。
そうして触れ合うときを待ちわびている。
こつりと額を重ね、心の奥を覗き込もうとしてくる青灰色の瞳にコナンは挑発的に笑いかけた。
「ナイショ。安室さんが酔ったときに教えてあげる」
「っは、それは──。今すぐ酔いたくなるな。けど、おいたがすぎるとしっぺ返しが来るからほどほどにするんだよ」
頬に添えられた手で頬を撫でられ、かと思えば軽く摘まむような素振りを見せられて、すぐにまた優しく撫でられる。
そのくすぐったさと心地よさにコナンは目を伏せると、安室の首元にそっと頭をすり寄せた。そうしてまどろむ時間は普段と変わらないのに、確かに変わったものがあることに悩ましげな溜息がふたつ、こそりと吐き出された。