妙薬人の機微に鋭い方ではないが、親友の変化にはそれなりに気づくつもりで生きてきた。飄々と振舞う策士殿は、しかし不意に信じられないほど幼い顔で茫然としている時がある。恐らくは、理不尽に対する許容が溢れた顔だ。言い換えればあれは心が壊れてしまった時の顔、なのだろう。纏った鎧が砕け散り、脆い幼子の心がむき出しになっている、弱さの顔だった。
かといってユリウスは、簡単に人の手を頼る男ではない。簡単なことだ。彼の心を壊しきったのは人。なれば他人の温度など、容易に縋る気にはならないだろう。故に彼の変化に気づいたところで、できることはあまりなかった。せいぜい傍に居る時間を増やすだけで、あやしたり、撫でつけたり、そういった具体的な癒し方は到底できない。不躾に歩み寄れば、いつかのように善意で傷を抉ることにもなりかねなかった。
気づいていながら、遠くで見守る。その傍観を、いくら後悔しただろうか。
「おはよう親友殿。へぇ、斬新で良い髪形だね」
「おはよう……。寝ぐせを指摘するなら素直に言え、どこだ」
「ふふふ、後ろの左」
朝。曇天にぼやけた朝日が差し込む王城の廊下で、俺を見つけたユリウスが柔らかな笑みを浮かべながらこちらにひらりと掌を振った。意地悪な身だしなみへの指摘にいら立ちと感謝を同時に抱えつつ、近づいてくる友を立ち止まって待つ。
(ん......?)
今日も健やかでいるだろうか。すっかり日課となった友を慮る凝視の最中、ふと聡明な瞳が赤味を帯びていることに気がついてしまった。腫れまではいかないが、白目が少し充血している。これは、泣いた跡だ。かの、むき出しになった幼子の顔。
「……。親友殿、この後の仕事は?」
「急ぎはないが資料を置きたい。何か用かい」
よくよく見ると、友は片腕に分厚い書物を三冊抱え込んでいた。小難しいタイトルがついた本だ、何の参考にするのか俺の頭では見当もつかない。確かに、立ち話をするには些か荷物が多いようだ。
「じゃあ、ついていく。一冊持とう」
「ふふ、ではお言葉に甘えて。朝いちばんから護衛をご苦労」
友から一冊本をもらい受け、まだひとけのない廊下を肩を並べてふたり、歩く。何の用かなと、用事の仔細を尋ねる言葉は続かなかった。鎧が立てるけたたましい足音に、上品な革靴の音が混ざる。二人分の足音は、なにより傍に居る証だった。これが無機質な金属音ばかりになってしまう侘しさを、二度と味わいたくはない。
二度と離別など経験してなるものかと思うのならば、今まで抱えてきた優しさと決別する必要があった。傍に居るだけでは足りない、と思う。例えその原因を排除することが叶わずとも、稲光が瞬けば消える景色もあるだろうし、温もりを分ければ少なくとも一人で心を凍えさせることはない。選択を誤ったのなら取り返せばいいだけの話。傷を抉ることを恐れている暇など、今の俺には到底なかった。手を伸ばさなかったことで、足を踏み出さなかったことで、友が独り思い悩むくらいなら、後悔があっても抱きしめてやった方が少しはいいに決まっている。
「今日は夢見が悪くてね」
「……!」
「気遣ってくれるつもりだったんだろう? 冷やして随分赤味もとれたと思ったんだが、心配性の観察眼は鋭い」
研究室の分厚い扉が俺たちと王城を僅かに遮ったら、いのいちばんに抱きしめてやろうと覚悟を抱いたその瞬間。何気なく歩いていた友が、自ら傷口を曝け出した。柔い微笑みがこちらを向いて、思わず息を呑む俺を揶揄う。
「策士のそれだってよっぽどだ」
「眼があった途端に瞳孔が開くものだから。君の顔よりわかりやすいものもないな」
話すうちに研究室の扉が開く。いつの間に伸びてきたのか、赤黒い触手達があっという間に運んでいた本を攫っていった。手ぶらになった俺を「いらっしゃい」などと恭しい挨拶が出迎える。この状態で抱きしめてやるのはいかがなものか。思考を巡らせながら部屋に入り、友を振り返る。丁度扉の締まる音がして、同時に頬に柔らかな感触があった。
「気分のすぐれない朝だったから、早々に書庫に籠って読書に耽っていたんだよ。それでも憂鬱だったけれど、君の顔を見たら驚くほどに靄が晴れたな」
「……そう、か」
「早起きの騎士に感謝を送ろう。朝食は? まだだろう? 食べていけ。久しぶりに研究室特製モーニングをご馳走しようじゃないか」
「待て、まだ何もしてない。口づけだって礼じゃないのか」
「ふふふ」
「おわっ」
やたらと上機嫌な掌が、金糸をわしゃわしゃと撫でまわしていく。乱れに乱れた前髪の隙間から、俄かな充血を残す友の瞳が見えた。
「ただそこにいてくれればいいんだ。君が私にくれた役割と同じで、ね」
あれだけ乱暴だった掌が、態度を翻して優しく頬を撫でていく。恐らくは間抜けた顔をしている俺を見て満足したのだろう、ユリウスは喉を鳴らしてすたすたと研究室の奥へ歩き去って行ってしまった。執務に追われ、すっかり大人となってからはなりを潜めていた友の悪戯な部分。もしかするとこの無邪気な部分を曝け出してくれていることこそが、彼の傷を癒す甘え、なのかもしれない。だとすれば、なんといじらしくささやかな甘えなんだろう。
「……、まて、俺も手伝う」
慌てて友を追い、再び隣に並び立つ。台所と呼ぶには少々歪な、改造に改造を重ねられた簡易的な水回りの前でそうっと武骨な掌を握った。
「こら、アルベール。邪魔をしているの間違いでは?」
「それはこれから。あんまり何も出来てないから気が済まないんだ。本当なら何があっても俺がいると伝えるつもりで」
「ふふ、相変わらず小恥ずかしい男だね」
「抱きしめる予定だってあった」
「それはそれは。過ぎる贅沢だ」
「……」
友の瞳は三日月を描いてうっとりと笑みを浮かべている。少しの恥じらいと歓喜を混ぜた表情に、悲哀の感情は見えなかった。それがどうしようもなく嬉しくて、結局手を解き抱きしめにかかる。背に引っ込んでいた触手がもぞもぞと蠢くのを感じたが、それだけだ。噛まれることも吠えられることも、抱きすくめた身体が逃げていくこともない。深く息を吐く音がして、友の手も俺の腰へ回った。
「どんな夢だった?」
「忘れてしまったな。……あったかいね、君」
呟きは眠気を孕んでいる。書庫に籠っていたにしては早い時間だ、恐らくは夜中に飛び起きて、そこから寝ていないのだろう。朝食を終えたら、何か理由を付けて休ませた方がいいかもしれない。
「もう少し邪魔をしててもいいか?」
「気が済んだら離すよ。それまでこのまま」
「わかった」
抱きしめる力を強くすると、背に縋る手に籠る力も同じだけ増した。この温もりは、きっと何もかもに負けない鎧になるだろう。予感が確信に、そして現実となることを願いながら、ユリウスが飽きるまでじっとその背を抱き続けた。