口実 テーブルの上にぽつんと残された本を見て、ピッコロは「あいつまたか」とため息をついた。持ち主はこの本が大層お気に入りらしく、今日は新米の神と一緒に覗き込んで、熱心に解説をしていた。
あんなに夢中になっていたのに、可哀想な本はテーブルに置いていかれてしまったらしい。
「あ!これ悟飯さんの……また忘れ物ですか?」
「ああ、ここのところ気が緩んでるな、あいつは」
最近の悟飯は妙にそそっかしい。神殿に遊びにくると、三回に一回は忘れ物をして翌日とりにくる。ついでにピッコロやデンデと少し話をして帰っていく悟飯は、今度は気をつけますと毎度言っていた筈だが、このありさまである。
「ふふ、明日も悟飯さんに会えますね」
「ん?ああ、忘れ物をとりにくるだろうからな」
「楽しみですね、あ!ミスターポポにも言っとかなくちゃ!きっとおやつを用意してくれますよ」
「お前は別に食わんだろうに」
「ボクはお水をいただきます。一緒に食べたり飲んだりするのが楽しいんですよ。ピッコロさんもご一緒しましょう」
「……まあ、構わんが」
「きっと悟飯さんも喜びますね!」
「…………」
なぜかデンデは、悟飯が忘れ物をすると嬉しそうにする。トモダチにたくさん会えるのが嬉しいらしいが、ピッコロとしては最近粗忽者になった弟子に、もっとしっかりしろと言うべきか迷っていた。
じき弟も生まれるからしっかりしなくては、と本人が言っていたのに。
悟飯はもうとっくにピッコロよりも強くなっていて、今や地球最強の戦士だ。名ばかりの師匠になってしまったと思っていたが、どうやら鍛錬以外にも教えることがありそうだ。
以前のピッコロならこんな風には思わなかっただろうが、神と融合してからは妙に規律やらモラルやらを気にするようになってしまった。
ネイルと同化し、神と同化し、ピッコロは自分でも性格が変わっていっている自覚がある。
悟飯の忘れものの多さを憂いているのは果たしてピッコロなのか、ネイルなのか、神なのか。あるいは三者が同化して混ざった新たな人格なのか。
今の己は果たして誰なのか。ピッコロは分からなくなっていた。
「ごめんなさい。ボク昨日、本を忘れていきませんでしたか?」
神殿に降り立った悟飯は、出迎えたピッコロに小首を傾げて尋ねた。眉を下げて申し訳無さそうな顔をしているが、声音はどこか楽しそうだ。反省していなそうな悟飯に、懐からお目当ての本を取りだしてやる。
「これだろう」
「それです!ありがとうございま……ピッコロさん?」
受け取ろうと差し出された手をひょいと避けて、悟飯から遠ざけるように本を掲げる。
背伸びする悟飯を嘲笑うようにひょいひょい本を左右に振った。まあそんなことをしなくても、身長差があるから飛ばない限り届かないのだが。
「ピッコロさん!?いじわるしないでください!」
「フン、お前が最近弛んでるからだ。一週間前も上着を忘れて取りにきただろう」
「う……それはその、スミマセン」
「弟ができるからしっかりしなくちゃ、じゃなかったのか?」
「そ、そうですけど……ピッコロさんとデンデの前でもしっかりしなくちゃだめですか?」
しゅんと眉を下げた悟飯は、今度こそただのポーズではなくしょんぼりしているようだった。あからさまにしょげる悟飯にやりすぎたか、と少し動揺したが、師としてのプライドで顔には出さなかった。
ネイルと同化してから、悟飯をつい甘やかしてしまってはいないだろうか?昔のピッコロならきっと怒鳴って叱りつけていただろうに。
ピッコロが悟飯に声を荒げるなんてここ数年あっただろうか?あまり思い出せなかった。
「……別にオレたちの前では構わん。だが、チチの腹も大分大きくなっただろう。傍にいてやらなくていいのか」
また甘やかした。ピッコロは自分の声が悟飯を心配するような響きになっていることも自覚している。
悟飯は悟空が死んだことを自分のせいだと思っている節がある。しかしそれをピッコロに吐露したりはしない。それがもどかしくて、つい甘やかしてしまうのだ。
悟飯がピッコロに甘えるようなことを言うのが嬉しい。もう厳しい師匠になんてなれないのかもしれない。
「はい、分かってるんです。でもなんだか不安で……おかしいですよね。赤ちゃんを産むのはおかあさんで、大変なのもおかあさんなのに」
「チチの方が大変だから、お前は不安になってはいけないのか?赤ん坊の世話なんてお前だって初めてのことなんだ。不安になるくらい構わないだろう。なんならオレも不安だ」
「え、ピッコロさんが?」
「地球人の出産は命がけらしいからな。チチにもしものことがあったら困る。……弟が生まれたら、チチと一緒に家族で神殿に来るといい。赤ん坊が生まれたら神に挨拶をするものなんだろう?」
神の記憶には赤ん坊の悟飯を撫でた記憶がある。悟空が見せに来たのだ。小さくて柔らかな赤ん坊に指を掴まれて、オロオロして悟空に笑われる記憶だった。
「はい!絶対にきます!……そっかあ、ピッコロさんも不安になったりするんだ。じゃあボクが不安になるのもしょうがないですね」
「ああ、しょうがない」
デンデとおしゃべりしながらおやつを食べて帰った悟飯は、数週間後に悟空を縮小して可愛らしくしたみたいな赤ん坊を連れて神殿を訪れた。
小さな手で指を掴まれてオロオロするデンデを見て、ピッコロはつい笑ってしまった。
※※※※※※※※※
「あれ、珍しい。ピッコロさんが忘れ物してる」
ソファにぽつんと置いていかれたスマートフォンは、妻がピッコロに贈ったものだ。怪訝な顔で受け取っていたが、悟飯よりもちゃんと持ち歩いてくれている。
ピッコロに連絡をとるのは主にビーデルで、次点でブルマ、次に悟天トランクスとくる。研究に夢中になってスマートフォンをそこら辺に置いていきがちな悟飯は連絡不精で、電話に出ろとピッコロに怒られたこともあった。
「うーん、また明日夕飯になれば会えるし、そのときでいいか」
ピッコロとは毎日夕飯を共にしている。一日くらいスマートフォンがなくたって大丈夫だろう。
とりあえず分かりやすいところに置いておこうとソファから移動させようとしたら、ピッコロが慌てたように窓から入ってきた。
「すまん!オレのスマホないか!」
「あ、ピッコロさん。ありますよ、ほらこれ」
スマートフォンを差し出すと、ピッコロが申し訳無さそうにつまんで受け取った。
「ああ、すまないな。うっかりしちまって……」
「珍しいですね。でも明日も来るんだし、別に急いで取りに来なくても良かったんじゃないですか?」
「ないと不便だろう……お前、今スマホ持ってるか?」
「えっ、うーんと……あ、多分部屋にありますよ!」
取ってきましょうか?と言うと、なぜか盛大にため息をつかれてしまった。
「そんなんだから連絡がつかなくなるんだ!まったく、お前は昔っから忘れ物が多い!」
「ええ、そうですかね?ハイスクールでも大学でも覚えがないけどなあ」
「ああ?よく本やら上着やら忘れてただろうが」
「あれは忘れ物っていうか……あは!」
「笑って誤魔化すな!パンにあまりみっともないところを見せるなよ!真似したらどうする!!」
ピッコロのよく通る声がキーンと頭に響いた。幼い頃からよく怒られてきたが、最近頻度が上がった気がする。ピッコロはパンの教育にもなかなか熱心なのだ。
「すみません!気をつけます!」
「まったく!いいか、しっかりしろよ!……パンの前ではな!」
ピッコロの前ではしっかりしなくていいらしい。
いつかもこんなやりとりをしたな、と思いながらハイと頷いた。
ピッコロは悟飯が幼い頃は、おっかなくてときどき優しい師匠だった。一度死別してからは優しさが分かりやすくなったが、今でも根本的なところはあまり変わっていない。
悟飯が四歳のとき、ピッコロは九歳だったらしい。思ったよりずっと歳が近くて、それを知ったときは開いた口が塞がらなかった。
かつてのピリピリしていたピッコロは幼かったのだ、と今は思う。身体が大人に見えたからみんなピッコロを大人のように扱ったが、その実まだまだ幼いこどもだったのだ。
ネイルや神との同化を経て、ピッコロはその精神を一足飛びに成長させていった。記憶の混在や意識の統合がピッコロのなかでどのように処理されているのかは分からないが、少なくとも悟飯にとってピッコロはずっとピッコロだ。
おっかなくてときどき優しい師匠は、優しくてときどきおっかない師匠に成長していた。
※※※※※※※※※
悟飯はまあまあ忘れ物が多いやつだ。
スマートフォンをよくそこら辺に放置するし、本人がどうでもいいと思ったものほどよく忘れる。
……どうでもいいと思ったもの?
かつて悟飯がよく神殿に置き忘れた本や上着は、どうでもいいものではなかったはずだ。
本は悟飯が小遣いを貯めて買ったものだったり、誕生日プレゼントに貰って大切にしていたものだった。上着だってチチお手製のもので、確か当時赤ん坊だった悟天とお揃いで作られたと言っていた。どちらもどうでもいいものではなかったはずだ。
当時の悟飯は今より気を張り詰めていて、世間から見ればしっかりしたこどもだった。
そんな悟飯が、高頻度で神殿に忘れ物。
「なんだあいつ、わざとだったのか」
まだ神殿に用をつくって来ていた時期だった。忘れ物を取りに行くという口実をつくって、悟飯はピッコロやデンデに会いに来ていたのだろう。
図らずも、ピッコロ自身も忘れ物をしたことで思い至ってしまった。
ピッコロは毎日悟飯の家に行くから、そんな理由づくりをする必要はない。
必要はないが、今後は話し足りないときはなにかをうっかり置いていくこともあるかもしれない。