わからず屋 トランクスが意識を取り戻したとき、目の前で倒れている悟飯を見て思わず跳ね起きて、違和感に気が付いた。
なぜボクは無傷なんだ?
人造人間の猛攻を受け、トランクスは気を失ったはずだ。血まみれで骨だって折れていたし、内蔵を損傷していた可能性だってあった。それなのに、身体には何の違和感もなく、むしろ朝よりも元気なくらいだ。
この感覚には覚えがある。仙豆だ。
かつて神がいたという神殿に向かうための長い長い塔がある。塔の行くつく先、神殿のすぐ下に住まうカリンさまという仙猫が育てていたというその豆は、一粒食べればあらゆる傷を治すという奇跡のような代物だ。
残りたった一粒だった奇跡が、トランクスに使われた。目の前で左腕を失くし、死にかけている悟飯を差し置いて。
「あ……ああ……悟飯さん!どうしよう、どうしよう!」
無傷のはずなのにフラつく足を叱咤して、なんとか悟飯に近付く。死んではいない。微かにだが気がある。風に吹かれる蝋燭の灯火のようにゆらゆらと不安定で、今にも消えてしまいそうだが確かに感じる。
左腕はどこにいってしまったのか。なぜ血が出ていないのか。動かしても大丈夫なのか。
生きていることは分かっているのに、心臓に耳を当てて鼓動を確かめたが、自分の心臓の音がうるさくて上手く聞き取れない。
首に手を当てて脈を感じて、ようやく悟飯が生きている実感が持てた。気持ちがほんの少しだけ落ち着いて、モタモタしている自分に苛立った。
早く医者に見せなければ。
傷の具合を確かめながら、手早く応急処置をして悟飯を慎重に担ぎ上げる。出血が異常に少なかった。
ちらりと見た左腕のあった場所を見て、トランクスはボタボタ涙をこぼしてしゃくり上げながら空を飛んだ。
傷は焼き塞がれていた。悟飯が自ら気で焼いたのだ。
なんとかカプセルコーポレーションにたどり着いたトランクスは、背負った悟飯を助けてくれと血の痕と涙でグチャグチャの顔で母に縋りついた。
トランクスと悟飯を見て一瞬凍りついたような顔をしたブルマは、しかし流石というべきかすぐに我に返って医者を手配してくれた。
トランクスは険しい顔をした医者が悟飯の手当をしていくのをずっと眺めていた。悟飯の目が覚めてその声を聞くまで、彼が本当に生きているのかずっと不安で仕方がなかったからだ。
サイヤ人の身体は頑丈で、焼いて傷を塞ぐなんて無茶をしても悟飯は数日で目を覚ました。
「トラン、クス」
掠れた声で呼ばれて、悟飯のベッドでうとうとしていたトランクスの意識は一気に覚醒した。
「悟飯さん!目が覚めたんだ……!良かった、ほんとに良かったあ……」
「トランクス、無事か」
「無事じゃないのは悟飯さんでしょ!最後の仙豆をボクに使って……悟飯さんが仙豆を食べてたら腕だって……」
「腕……?」
ぎこちなく首を動かして、自分の左肩から先がないことを目にした悟飯は目を丸くして、一呼吸置いてからそうだった、と呟いた。
「あのとき……そうか、そうだったな。もうないんだな……」
遠い目をする悟飯に、トランクスはまた涙が滲んできた。悟飯が隻腕になったのはトランクスのせいだ。
「ごめんなさい、悟飯さん……ボクが、ボクのせいで……」
「それは違う。腕がなくなったのはオレが弱いからで、オレが腕を失くす羽目になったのは人造人間のせいだ。トランクスのせいじゃない」
「で、でも!仙豆があれば、腕だって!どうしてボクに食べさせたんだよ!」
「オレはあのとき傷を焼いて、死なないよう応急処置をした。あのとき危なかったのは君だ。仙豆は君に使うべきだったから、そうした」
反論は許さない、とでも言うような強い口調で言われた。あのときトランクスがどんな状態だったかなんて、今のトランクスには分かり得ない。
悟飯の言う通り、命の危機だったかもしれないし、それは嘘で本当は悟飯の方が危ない状態だったかもしれない。しかし真実を知るのは悟飯のみで、当の悟飯はそれをトランクスに教える気はないようだ。
ずるい、と思ったが何とか言葉を飲み込んだ。
悟飯は存外頑固なところがあって、譲らないところは本当に譲ってくれない。トランクスがいくら言ってもこの件はこれ以上教えてくれないだろう。
「お願い悟飯さん。せめて腕が治るまで、うちにいて。ボクがちゃんと看病するから……」
悟飯が住まいとしている洞窟は、どう考えても重傷者が療養するような場所ではない。野戦病院の方が人手がある分ずっとマシなはずだ。
これを機に、悟飯がずっとトランクスたちと暮らしてくれたらいい。
何度誘っても首を縦には振ってくれなかったが、流石に隻腕になったばかりで洞窟での一人暮らしは不便だろう。
「そうだな……しばらくお世話になるとするよ」
「ホント!?絶対だよ!ボク母さんにも言ってくるから!」
トランクスはそれはもう甲斐甲斐しく悟飯の世話を焼いた。包帯を取り替え、食事や着替えや風呂の介助をした。トイレは手伝おうとして断られてしまった。
頑丈なサイヤ人の身体はみるみるうちに回復して、悟飯はあっという間に歩き回れるようになった。
「え、悟飯さん……?なにやってるの?」
食事の乗ったトレーを慎重にテーブルに置きながら、絞り出すように尋ねた。トランクスが部屋を訪れたとき、丁度悟飯が帯を締め終えたところだったのだ。
器用に右手と口を使って山吹色の道着に着替えた悟飯の姿に、嫌な予感がする。
動き回れるようになったとはいえ、まだ傷が塞がったわけではない。気で無理矢理焼いた火傷跡はまだジクジクと痛むはずだ。縫った傷だって多くて、まだ抜糸もしていない。
そんな状態だったから、悟飯はここのところずっと入院着のような簡易的な服だった。
「食事を持ってきてくれたのか。ありがとう」
「悟飯さん、なんで道着なの」
「ああ、そろそろ帰ろうと思って。オレの荷物、トランクスが持ってきてくれたんだろう?ここにあるので全部か?」
「帰るって、まだ治ってないでしょ!」
「もう平気だよ。動けるようになったんだから修業しないと。身体が鈍るからな」
なにを言っているんだこの人は。腕を失くしてからまだ一週間ほどしか経っていないのに。
沸々と怒りが湧いてきた。
治るまでうちにいるって言ったのに。どうしてあのときボクに仙豆を。なんで一緒にいてくれないんだ。そんな身体で修業なんてして、人造人間と闘うなんて死にに行くようなものじゃないか。
そんなことを喚くように悟飯に怒鳴った。怒りや悲しみで頭の中がグチャグチャで、うまく言えていたかも分からない。また涙も出てきていたから口が震えて余計にうまく舌が回らなかった。
トランクスの涙腺はすっかり壊れてしまった。悟飯のせいだ。
「トランクス、オレは修業も闘うのもやめたりしない。みんなの、ピッコロさんやクリリンさんやヤムチャさんや天津飯さんやチャオズさんやベジータさんの、みんなの死を無駄にできない。仇を絶対にとって、平和を取り戻すんだよ」
「悟飯さんが死んじゃうかもしれないんだよ……?」
「そうなったら、君がオレの意志を継いでくれ」
「ウソでも死なないって言ってよ!」
「…………」
「悟飯さんは、ほんとはボクのことより仇を討つ方が大事なんじゃないの……?」
「そんなこと!」
「ボクにとっては!仇を討つことより悟飯さんが生きてることの方が大事なんだよ!父さんだって会ったことないのに!みんなみんな知らない人なんだよ!!」
「トランクス!!」
悟飯の怒気の籠もった声にビクッと肩が跳ねた。この場にいるのにもう耐えきれなくて、走って部屋を飛び出した。
悟飯はトランクスに期待という名の重荷を押し付けているんじゃないのか。ずっと考えないようにしていたことだった。
※※※※※※※※※
部屋を飛び出したトランクスを追いかけようとしたが、入れ替わりでやってきたブルマに引き止められ、悟飯はベッドに座って頭を抱えていた。
「悟飯くん、あんまりトランクスのこといじめないでよ」
「いじめてなんか……」
トランクスの言葉がずっと心に突き刺さっている。彼はただ悟飯を心配してくれていただけなのに、あんなことを言わせてしまった。
ずっとあんな風に思っていたんだろうか。知らない人の仇討ちに協力させられている、なんて。
「売り言葉に買い言葉でしょ。あの子もそこまで考えてなかったと思うけどね。悟飯くんが死んだ人のことばっかり考えてるって拗ねてるのよ」
「そうでしょうか……オレ、そんなにみんなのことばっかりでしたか」
悟飯にとって亡きピッコロたちとトランクスは比べられるような存在ではない。大切さに優劣をつけられない大きい存在だ。
「私から見たらかなりトランクスのこと見てくれてると思うけどね。でも私がそう思うのは、ピッコロたちに懐いてる昔の悟飯くんを知ってるからよ。トランクスからしたら違うんでしょ」
「昔、父さんは言葉が足りないって母さんから怒られてたんです。オレはそんな風なつもりなかったけど、そうなんでしょうか?」
「意外なとこが似てるわよ、あんたたち親子は」
「そっか、そうですか……あの、トランクスのところに行っても?」
「もうちょっと時間を置いてあげなさい。今頃頭を抱えてどん底みたいな顔してるだろうから。あの子にも考えを整理させてやって」
「はい……ブルマさんにはいつまでも敵わないですね」
「子供が生意気言うんじゃないわよ」
「オレ、もう成人してるんだけどなあ……」
トランクスは悟飯の住む洞窟の近くで膝を抱えていた。悟飯がカプセルコーポレーションから戻るときに使うルート上にぽつんといて、悟飯を待ってるみたいなトランクスになんだか笑ってしまった。
可愛げのある弟子だ。
「トランクス」
「ご、悟飯さん、えと、その」
悟飯の気に気付いていただろうに、話しかけるまでだんまりだった弟子は、口を開くとひどくどもった。気まずいと顔にはっきり書いてある。
「ごめんなトランクス」
「ごめんなさ、え!?」
先を越されてトランクスはポカンとした。ひどいことを言ってしまったとずっと自責の念に駆られていたらしい。
「オレの仇討ちに付き合わせちゃってごめん。でも、人造人間を倒したいのは仇討ちのためだけじゃなくて……」
「あ、謝らないでよ!ボクだって分かってるよ……悟飯さんはボクたちとか、街のひとたちみんなに平穏に暮らして欲しいんだって。それにその、人造人間はボクの父さんの仇でもあるんだから、悟飯さんだけの仇討ちじゃないよ……顔を知らなくても、父さんは父さんだもん」
「トランクス……」
「でも治るまでうちにいてって言ったのに、すぐ出て行こうとしたのは悟飯さんが悪いと思う」
「いや、それはもう平気だから。動けるから大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
「ここまで飛んできただろ?」
「大丈夫じゃない……」
むすっとしたトランクスに、悟飯ももう折れるしかない。かわいい弟子の言い分を聞いてやろう。
「分かった分かった。もう少しお世話になるよ」
「ずっといてもいいよ」
「そこまでしなくても大丈夫だから」
「悟飯さんのわからず屋!」
※※※※※※※※※
弟子を置き去りにして独り人造人間に立ち向かい、悟飯はその一生を終えようとしていた。
朦朧とする意識の中で、数週間前にトランクスがずっとうちにいてほしいと言い出したことを思い出した。隻腕になったばかりで心配だからと言って、一人暮らしに戻ろうとする悟飯を何度も引き止めた。
こんなに早くあの子を置いて逝くことになるなら、あれくらいのワガママ聞いてあげれば良かった。
幼い頃、悟飯もピッコロにもっと一緒にいたいと強請って断られて、悲しい気持ちになったのに。
ごめんトランクス。でももう眠くて、起きていられそうにないんだ……
結局仇討ちを弟子に託すことになってしまった。悟飯の意志をきっと彼は継いでくれるだろうが、できることなら悟飯があの子に平和をあげたかった。
しかしそれはもう叶わぬ夢となった。
抗えぬ眠気にもう勝てそうにない。だがここで眠れば、きっと二度と目を覚ますことはないだろう。
ああ、でもすごく眠い。