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    ミイラ尾(3)
    ヴァシリファンのオリヴィアおばさんは黒人女性をイメージ
    流血・割礼あり
    起承転結の起!

    ミイラ尾(3)「来ちゃった」
     びたんっ!
     からかい声におどろいたヴァシリが、展示ケースに両手、鼻先をついてしまうのを、オリヴィアはじろりとにらんだ。そんな彼女のほうへ、ヴァシリはすまなそうに上目をやる。ヴァシリはたびたび注意を受けているのだ。わかってるならいいわ、手ぶりで返す。許してしまう。彼女の息子ほどの年齢なのだ。息子は歴史にも美術にも興味がなかった。ハリウッドでビッグになってやるクソババアと、彼女の財布の中身をごっそり持ちだし飛びだして、翌週にはなにもなかった顔で食卓についていた愚かもの。そのせいもあって、彼女にとってヴァシリは、熱心でかわいい男の子なのだった。
     視線をめぐらす。問題となる行動は、彼だけにかぎらない。さきほども、ミイラとのセルフィをしようとした中年女性に「写真はオーケー、でも自撮り棒はダメなの」と声をかけた。ガイドポールをくぐり抜けて展示品にふれようとする子供を止めるのも、オリヴィアたち監視係の仕事だ。なおボランティア。
     展示室のかたすみの椅子に腰を据え、展示物をながめる観覧者をながめる。既定の時間ごとに、隣の展示室から仲間の監視係がやってきて、彼女のいた椅子に座る。オリヴィアは反対隣の展示室へ移動し、交代。交代、交代をスライドさせていく。三十分ごとのタイミングがこの時間、この部屋で、オリヴィアはちょっとラッキーな気分だ。
    「アシㇼパ、急にうしろに立たないでくれ」
    「ふふふっ、こんにちはミイラ」
    「なんだ、邪魔しちゃ悪いなんて、わけのわからないことを言ってたくせに」
    「邪魔はしない。ヴァシリが講釈を垂れたがっていたから、聞きにきてあげたんだ」
    「べつに、講釈なんか」
     時計のうえでは夕方――とはいえ外は真昼のあかるさ。平日にもかかわらず、大英博物館ミイラの間は、あいかわらずおおくの観光客でにぎわっている。彼ら観光客は、エジプトの永遠の命を夢みてねむるミイラを、物見だかく見物して帰っていく。
     実物の亡骸。ショッキングさへの好奇心に、老いも若きもない。
     ジンジャーと呼ばれる、五千五百年前の、名もなき男性ミイラがある。手足を屈折させて伏し、ひからび、あばら骨を浮かせながらも、どこかみずみずしい皮、永遠に朽ちぬ寝姿。子供と母親たちの一群が、「人間なの?」「こわぁい」「もう死んでるから、悪さはしないよ」「不気味ねえ」と好き勝手に感想を言う。そうだ、死体だ、遺骸だ、人間なのだ。興味本位で指をさされるいわれが、彼の人生を生きて死んだジンジャー青年にあるだろうか。
     観光客のいまひとつのお目当ては、略奪者の名を冠した彫刻類、極彩色を削りとられたギリシャのエルギンマーブルであろう。およそ一世紀前に行われた、洗浄という名目のとほうもない文化財破壊。そのしろさをありがたがって拝んでいく人間が、いまだ大多数をしめるのだから、大英博物館が居なおるのも無理なからぬことだ。
     略奪の被害者はほかにも多く存在する。ホアハカナナイア、「失われた友」あるいは「盗まれた友」、イースター島から攫われてきた玄武岩のモアイ像。巨大だが、モアイ像のなかではこぶりなのだという。返還の要請に対し、大英博物館は「公共の利益がある」とつっぱねた。世界第一の帝国の自負と驕り、展示物たちはこの博物館に収蔵されているのが、もっとも安全だと主張する。とはいえ、滞在時間たかだか二、三時間の観光客に、わざわざ奥へすすみ、オセアニアやアジアの展示室を見に行くひとはすくない。入場に金をとらない弊害だと、オリヴィアは考えている。彼女は大英博物館を愛している。その負の歴史をふくめて。
    「講釈というほどのものじゃないが」
     語りたくてたまらない、というヴァシリの顔。ぼそぼそひとりごとする様子はたまにあるが、友人としゃべるところははじめて見る。よかった。友達ができて。
    「知ってるだろうが、彼は踊り子のミイラ。踊り子の衣装を着ているから、こう名づけられた。腰巻は濃いめのピンク色だったらしい。なんかオシャレっぽいベルト、胸や腕に巻きつけられた革紐のアクセサリー、サンダルも、なんかシャレてる。まあ、衣装というほど、肌を隠してないわけだが、これが当時のダンサーの標準だった。古代エジプトの踊り子のすがたは、壁画に残されている。……ほら、この女のひとたち、ぜんぜん隠せてない腰紐だけのまるだしで踊っている」
     これ、とヴァシリはいつものおおきなバックパックから、ぶ厚い図録をとりだし、示した。役人の墓に描かれていた、踊り子と楽士の壁画だろう。褐色の肌に、乳房と乳頭、臍や腹部のシワやたるみまで、しっかり描きこまれている。また、カイロ美術館には、王のパレードに随伴する、裸形の踊り子たちのレリーフもある。
     イチゲンさんの観光客は知るまいが、夏期講習の生徒、ヴァシリは、博物館のあたらしい注目株だ。
     ヴァシリはきまって踊り子のミイラのガラスケースのまえに立つ。右側か、左側か、頭側か足側かは、きまっていない。本日は、右側頭部より。もっとも気に入りのポジションだ。姿勢も変えずによくずっと立っていられる。オリヴィアは椅子のうえで腰をさすった。背のたかいヴァシリが最前列を陣どると、子供たちはすこし邪魔そうに彼を見あげる。咳ばらいをする紳士。紳士ならぬひとのなかには、露骨に彼のながい脚を蹴とばすものもいた。ヴァシリはだれにも注意を払わない。ミイラにとり憑かれている。ときどき、まばたき。
    「ひゅー! 酒池肉林?」
    「私はまるだしより、見えそうで、見えない、あっ見えそうっ! というほうが……。えふんっ、気候も規範もちがったんだ。いやらしい目的じゃなかったのかもしれない。彼の膝を見てくれ。両膝、三角耳の生きものの顔がある。踊り子や神殿娼婦はももなどに、彼女たちの守り神である、ベス神のタトゥを刻んだという。ベス神はガニ股で、大口から舌を出した、巨頭短躯の、あまりエジプトっぽくない神様だ」
    「その特徴にあてはまらないな。ふつうにネコちゃんに見える」
    「そうなんだよ。彼の謎のひとつだ。……さて、ミイラというのは、できるだけ生前のすがたに寄せるのがセオリーだ。だから彼はいわゆるミイラの包帯、乾燥させた肉体をつつむ亜麻布のうえから、生前身につけていただろう衣装を着せつけられた。だから大英博物館にやってきて二百年のあいだ、踊り子、つまり女性だと考えられてきた。ところがどっこい」
    「ところがどっこい?」
    「そう。ところがどっこい、“ but in fact ” だ」
    「ヴァシリ……、語彙がふえたな……」
    「コンピューテッドトモグラフィーで」
    「そこはCTでいい」
    「解析したところ、なんと、驚くなかれ、なんとっ! ……だ、男性器が、はえてた!」
    「チンポが!」
    「コラッ! アシㇼパ!」
     ヴァシリは、なにを、どのように見ているのかしら。オリヴィアはわざわざ休憩時間に、ヴァシリ見物をしたことがある。
     全体を見るとき、顔を見ているとき、黄変した亜麻布のかさなりの一辺ごとを、数えているように目線を走らせるとき。ぶつぶつつぶやく。確認するようだったり、親しいひとに四の五の言うときのようだったり。色素のうすい、ながいまつげが、せかせかと動くのを見れると、ちょっとうれしい。ガラスにかぶりつき、背をかがめ、もてあました脚を左右におおきくひらいているときもある。ゴツンと頭をぶつけてしまったり、あえて遠ざかって見ようとしたり。足に履かされたサンダル、ふしぎなその体つき。
     ヴァシリに見つめられるとき、ミイラのまっくろな墨の眼さえも、ホルスの護符のそのように、神秘を湛えてかすかにかがやき、見つめかえし、彼らは見つめあっているように、オリヴィアには思えたのだ。
     アシㇼパは声をひそめた。
    「チンポ見たのか?」
    「……見た。断層写真だから、影だし、これがそうです、と説明されなきゃわからなかったが。骨格もばっちり男だそうだ。咽喉もとにスカラベのお守りが内蔵されてた」
     ヴァシリが鼻の穴をフンフンふくらませ、得意顔をつくるも、「そうか」とアシㇼパの反応はいまいちだ。
    「アシㇼパ、おどろかないな。性別が二百年もとりちがえられていたんだぞ。天下の大英博物館で」
    「だってヴァシリ、はじめから『彼』と言っちゃってた。溜めすぎだ。クイズ司会者か!」
     耳をそばだたせていたオリヴィアは、笑いをかみころした。ヴァシリにエデュケータは向いていないようだ。
    「男性だとわかると、顔の模様がヒゲだとわかる。どうしてヒゲを描いておきながら、女性と見まがう姿だったんだろう。女装のダンサーだった? 死後、いやがらせで女にさせられた? ものすごく性格が悪くて、クソミイラと呼ばれてて、おまえなんか女あつかいだぜ、みたいな? うーん、一神教世界とちがって、古代エジプトに女性蔑視はなかったか。なんとなくだが、多神教は母神の権威がつよいイメージ。イシス神を筆頭に、女性は繁栄と豊穣をつかさどった……、お? おっぱいだ。おっぱいあるな。みんなおっぱいに騙されたんだな!」
     二百年前、踊り子のミイラは、女物の棺にはいって大英博物館まで来たと記録されている。これは当時の悪辣な古美術商が、たかい値がつくように、ミイラと棺を組み換えてしまったためと考えられている。
     ヴァシリは神妙にフンフンうなづく。
    「そうだな。彼は自分の職能に誇りを持っている。わかさ、うつくしさ、露出度にあまえた、てきとうな舞踊をしていない。うん。ささやかなおっぱいがある。ふくらみはじめの白百合のような……おっ、おっぱ……っ? えふんえふん! む、むね! あるな!」
    「あわてちゃってぇやらしいなぁ。ヴァシリは踊り子のミイラが、たわわだから好きなのかぁ?」
    「ちっちがう!」
     ヴァシリはうつむき、ミイラの顔を見つめながら、もにょもにょ言いよどんだ。
    「さきに仮説をすすめないでくれよ。私はまだ講釈を垂れたい。彼のその、少女のような胸は、亜麻布をかさねて巻きつけ、あえてつくられている。実は尻も、おなじように加工がされている。ち、乳首は金の細工物で再現されてて、金の乳首カバーは地位のたかい、副葬品に金をかける余裕のある女性ミイラに、よくつけられているんだ。ほかにも彼は、手足のゆびのさきまで、ていねいに亜麻布で包まれている」
     これはとても珍しいことだ。ふつう思い描くミイラは、拘束されたような姿をしてはいないか。おおくのミイラは、ゆびどころか、両脚まとめてぐるぐる巻きで、顔は平板、胸の前でクロスした腕は胴と分離されていない。まるで死者が起きだして悪さをしないよう、厳重に捕縛しているようだ。彼らの、復活の死生観を知らなかったころの異国のひとびとは、そう想像しただろう。ゆえにあやしげな霊薬として、医術・魔術で消費され、見世物小屋で乱暴な解体ショーがおこなわれた歴史がある。
     踊り子のミイラはまるでいまにも動きだしそうだ。顔には鼻や耳がちゃんとある。腰のくびれ、腿とふくらはぎは筋肉があるようにふくらみ、膝と足首はきゅっとすぼまっている。
    「いやがらせでできることじゃない。クソミイラ説は、はたしてどうかな。本人も、自分の肉体に自信がありそうだった」
    「本人?」とアシㇼパはたずねない。おおきな目でヴァシリを見守っている。「じゃあ、どういうことだ。ウシャブティは私に、なにを伝えたがっている」ヴァシリはひとりごとの境界にはいりこもうとしている。
    「……さて、ヴァシリ。そろそろ移動してみないか。母国のエリアもまともに見てないだろう。ちょっと寄っていこう」
     もちろん、大英博物館にはロシアの展示物もある。民族衣装、装身具、ウォッカボトル。
     オリヴィアのおすすめは、「ロシア革命の絵皿」だ。プロパガンダのために制作された、と聞けば、説明しなくてもなにがデザインされているかわかる。労働者が腹など減ってませんという顔で未来を見ている絵皿にちがいないのだ。サンクトペテルブルクのインペリアル・ポーセリンで作られたしろい皿は、金メッキとエナメルの、豪華絢爛な磁器となるはずだった。だが革命があった。工場名はロモノソフ・ポーセリンと改められ、革命政府の主導で絵つけがなされた。労働者は皿にのせる麦のひとかけらすらなく、大飢饉で数百万人が死んだ、一九二〇年代初頭の作品だ。
     アシㇼパはあれこれ挙げるも、ヴァシリはめんどうくさそうだ。
    「皿はこぼれなきゃ紙皿でもいい。紙皿はこぼれるからきらいだが」
    「ならレベルファイブだ」
     れべるふぁいぶ、おうむがえしにする彼へ、アシㇼパは全身をゆすって言う。
    「最上階、大英博物館のもっとも奥まったところ、ジャパニーズ・ギャラリーがある。私が研修先をここに選んだ理由だ」
    「ジャパァ~ン」と変わった節まわしで歌い、ターンそしてポーズ。オリヴィアは両手を腰にあて、肘をはる。ノンノン、と首をふると、ヴァシリはまた、すまなそうに上目をつかい、アシㇼパはぺこぺこ頭をさげた。
    「ほら、行こう」
     急かされ、ヴァシリはアシㇼパのあとを追い、展示室を出ていった。――オリヴィアの気のせいだろう。踊り子のミイラの右目が、彼の背を見送るように、するりと動き、ぱちりとまたたいたようなのは。
    「そういえば」
     オリヴィアは回想する。ヴァシリがはじめてここを訪れた日。彼女がヴァシリと出会った日。彼はノートと鉛筆を手にしていた。まばたきがすくないのは、その日に気づいた。ヴァシリは一心不乱に、ミイラの姿を描いていたのではなかったか。どんな絵だったのか知りたい。あのノートはどうしたのだろう。


     葛飾北斎も尾形光琳もあるから。アシㇼパはヴァシリをのせるのがうまい。彼らは六階に足を踏みいれた。
     ロシアや日本でいう一階は、英国のレベルゼロ、グランドフロアである。二階はレベルワン。レベルファイブは六階をさす。
     浮世絵はおもしろいから好きだ。写実にとらわれない、自由で大胆で、あかるい闊達な雰囲気がいい。モティーフが庶民の生活であるところは、天下泰平の象徴なようでいいし、絵画の修復をこころざすなら、浮世絵とは仲良くしておいたほうがいい。
     土偶と鎧兜にでむかえられる。馬具、百鬼夜行図屏風、焼物。漫画もある。これも有名だ。聖人がおにいさんで、日本暮らしを満喫している。
    「こっちこっち」
     アシㇼパは漫画の少女のポスターのかたわらのケースへ、ヴァシリを誘う。少女のヘアバンドはアシリパのものに、すこし似ていた。
    「私のルーツだ。海外で常設されているのは、なんとここだけ! 見にこられてよかったなあ、ヴァシリ!」
     風のような、流水のような、ちからづよい渦巻きの連続した模様。衣服、弓矢、置物、これはまな板だろうか。現代作家による木彫りの工芸品もある。
    「うつくしいな」
    「そう。うつくしい。日用品であり、アートなんだ。だからここにある。……保護してもらってるというのもある。大英博物館の箔がついたとたんに、興味をもった日本人はたくさんいるだろう。イギリスに守ってもらわなくても、なんとかしていかなくちゃならない。他国からきた、すべての収蔵品に言えることだ」
     あたらしい表現も、失われゆく文化も、大英博物館はとりこぼすことなく収集する。この点だけは、まちがいない。
     だがこの王国が、世界のあらゆる民族へむけるまなざしは、かならずしも好意的で、対等で、敬意のこもったものではない。愛によるのなら、収蔵できない文物たち。異教の神殿を削りとった彫刻類、見世物の死者、うばわれた信仰の対象。ヴァシリの頭に、保存修復士にあるまじき考えが浮かぶ。ロゼッタストーンもミイラたちも、故郷で風化のときを粛然と待つべきなのだ。永らえてなにになる。彼女のルーツも、おなじだ。温度湿度の一定に保たれた、無菌のガラスのうち、ひとの手にとられることなく、摩耗することなく、役立つこともなく、どこへ行こうというのか。宇宙を流浪してきた、よるべないちいさな星のかけらのようだ。帰るべきところがわからず、帰るすべもなく、むなしくきらきら明滅している。
     もしやウシャブティは、ヴァシリに壊されたいのだろうか。痛い目にあっているのはヴァシリのほうだが、挑発しているともとれる。彼を、壊す。ミイラの包帯を剥がす、朽ちる。夜のウシャブティを壊すなら? ぬくい彼の首を絞める。彼はくるしさにくちびるをぱくぱくさせ、私の手に爪をたてあらがうだろう。窒息するまえに、頸椎を折ってあげたい。死者が仮死状態になってから死ぬのは変だから。蒼白のウシャブティ、ちからをなくし、私にもたれかかってくる。あるべき場所に葬ってやらねば。
     ぶるりと身ぶるいする。
    「おしっこか?」
     ぶくりとふくれた毒気のかたまりに、風穴をあけられ、ぷしゅんとしぼむ。フンフン。まったく、私は幼児じゃない。
    「アシㇼパは、自分の文化を守りたいから、キュレータに?」
     妄想に囚われかけたヴァシリへ、アシㇼパはつよく、あかるく応えた。
    「そのとおり! と言えたらかっこいいけど、ちがう。キュレータを目指すのは、私がただ、陽気なお祭り屋だからだ、ヴァシリの苦手な。守りたいとか、そういうりっぱで外聞のいい建前は、一人前になって、展示会をひらけたときの紹介文には、書く。かっこいいから。でも私は、使命感でキュレータを目指すんじゃない。りっぱじゃなくていい。楽しいから。好きだから。それだけ!」
    「特別で、りっぱじゃなくてもいい?」
     きみはすでに、りっぱだ。
     すぐれたキュレータは、フィールドワークを行う社会学者に似ている。理論やディスカッションより、圧倒的な現実、現場の当事者となることで知見をきり拓く。ずっと当事者でいてはならない。分析のときには一歩ひき、ひとりの研究者になる。そうすることで作品や作者の、知覚、心理、感性の反映された「表現」から、さらにあらたな美学やリアリティを創出するのだ。
    「ヴァシリもすなおになれ。好きなら好きで、いいじゃないか」
     ヴァシリはまんまと観察され、調査されていたのだった。無機質な数式や図式による分析ではなく、彼女の革新的な五感によって。アシㇼパはあくまで、ヴァシリが絵画専門の保存修復士から、ミイラや獣皮などの有機物専門に転学しようか、悩んでいると考えたにすぎない。
     そうじゃなくて。自分は、なにになりたいのか。ぽつりと照らされたひとつの電灯を、ヴァシリはどうすべきか。



     いつもの出迎えがない。はてなと首をかしげ、ミイラの間へ行くも、もぬけの殻で、ウシャブティの展示ケースには代わりに、きまりの悪そうな軍人ふたりの絵が貼りつけられていた。
    「なんだこれ。風刺画? ワタクシモヲシニソヲデス……? あっ風刺画じゃない! 春画だこれ!」
     日本兵が背後からロシア兵の尻を掘っている。モザイク処理はもちろんない。くろい陰毛の毛流れがリアルだ。春画は、魔除けの一種とも考えられてきた。この版画は日露戦争のおり、日本兵らの戦意高揚をはかって製作されたのだろう。
     春画は、大英博物館では一九六〇年代までシクレターム――秘匿とされていた。日の目をみない収蔵品でも、保存修復に携わった先人がいたのだ。ヴァシリはフンフン鼻息あらく納得した。その凝視に勝手に興奮し、軍人たちはもう我慢ならんと、からだを揺すりだす。一二〇年連れあって、すっかりねんごろなのかもしれない。
    「しかしなぜ、この絵がウシャブティのところに」
     まちがいなく彼のしわざだが。
     ほかのミイラや壁画たちがヴァシリを見る。そわそわちらちら、金箔の棺も、猫のミイラも。ジンジャーまで、礼拝するように突きだした腕のあいだから。おかしな雰囲気だ。
    「なにかいたずらを企んでるな」
     まだ日付をまたぐ時間ではない。しばらく、なぞかけにつきあってやるか。
    「おーい」
     ヴァシリのちいさな声が、しずまりかえった館内に反響し、増幅し、こだまとなってかえってくる。移動した先の照明がつき、いままでいた場所のあかりがきえ、暗闇は、重力に拘束された銀河のガスの螺旋のひかりかた。異世界だ。おかしいのだ。まず、警備員がいない。赤外線センサーが反応しない。研究棟には、徹夜で残業の修復士もいるだろう。特別展示室は夜のあいだに陳列をいそぐし、おおくの清掃員が昼間の埃を床から払っているはずなのだ。
     非日常より、人間と法と罰のほうが、よっぽどこわい。ヴァシリの肝は据わった。
     だれにも遭遇しない。見とがめられない。逮捕、送還のおそれなし。とわかれば多少の奇妙はのみこめる。
    「でてこーい。どこいった」
     するとコツンコツン、ヴァシリのサンダル履きの足を叩くものがある。
    「うっ! チン…ッ!」
     ポ、は言わない。
     あおじろい夜に、ぽつねん、そういう物体が落ちていたら、驚くなというほうがむずかしい。ヴァシリは思わず、自分のものがちゃんとついているか、さわって確かめた。
    「なんでっ?」
     ひとつのフィギュアである。簡略化された、粗削りの、原始的な、座った人間の石像。その陽根だけが異様に巨大、張りだした亀頭、反った幹の峻険な線、作りこまれたなりをしている。魔除けのお守りやインテリアではない、あきらかに実用のサイズである。もちろん展示外、またバックヤードから勝手に出てきたな。
    「なにか用か?」
     しゃべれないほうの石像らしい。そいつはヴァシリのうしろにまわりこむ。
    「なんだよついてくるのか」
     これを相手に話しかけるのは馬鹿らしい。ヴァシリは好きにさせることにした。彼は陽根を抱えこむようにしているのだが、腕の長さは幹の円周にみたず、巨大すぎる逸物のせいで足は地に届かない。包皮の部分でぶるんぶるんバウンドしながら、ぴょんぴょんついてくる。
     ウシャブティはこの階にいない。しかたがないから昼間はとおりすぎた、ソ連の皿を見にいってやる。そこにもウシャブティはいない。おしゃべりなアフロディーテに遭遇するとやっかいだ。チェスのクイーンも避ける。
     ブーン、と羽虫の音が耳をかすめる。うざったいなあ、腕をふる、すると翼をはやした男根のペンダントトップが手のひらに落ちてきた。呼んでない。小鳥のように肩にとまるな。これは魔除けのほう。やはりついてきたいようだ。
     肩に、――もういいや、自身の肩にチンポを担ぎあげた笑顔の紳士が寄ってくる。彼は人物の部分が邪魔になるから、実用ではない。祭祀に使ったのか、インテリアだったのか。あっちのやつは、チンポの左右に人間がいる。生やしている側と入れられる側なのだろうが、サイズがまったくあっていないせいで、それぞれが巨大な筒に、全身で目一杯、しがみついているだけになっている。チンポのせいで歩けないやつの、別素材バージョンも来た。なけなしの人物や翼すらない、そのものも寄ってくる。頭上をぐるりとまわし、襟巻きの要領で首にかけてるやつもいる。その湾曲はもう勃起じゃない、フニャチンだ。石、陶器、釉でテラテラしてるもの、玉、金属……、中国のものも、ヘレニズムのものも、古今東西。通販サイトでそういうのを踏んでしまった状態。
     通路の壁は、古代エジプトの壁画に変わっている。ありえない長さの自分のチンポを舐めてるやつ。人物自体は子供のようにちいさく描かれているのに、天にそびえるチンポ持ちのやつ。チンポをひとにさわらせているやつ。手押し車をもちいてまぐわうらしいやつら。チンポを露出させているやつと、その相手となるものは、顔が描き分けられていない。腰布だけのシンプルな被服。遠近法を無視し、影はなく、顔のつくりや姿は画一的なのが、古代エジプトの画的特徴である。いまひとつ、ヴァシリは気づく。両性の識別の難しさである。人物画の基本は、目線をこちらに向けた横顔である。三千年以上ものあいだ、男も女も神々も、みなおおきな目の、おなじ横顔に描かれてきた。彩色の残存している史料から、女性は肌のしろさを、男性はあかく焼けた肌を良しとしたと考えられているが、すべてが明確に色分けしてあるのではない。両性の境が、現在より曖昧だったのだろうか。神話には、右手だけ女で、右手で自涜したら妊娠したという、両性具有を示唆する創造神が登場する。性器どころか手淫も、おし隠すことではなかったのだ。
     あちらで壇上にあがるのは、優雅にコンサートハープを奏でるフォームのチンポ像。やんややんや囃したてるチンポども。
    「エアハープやめろ!」
     ぴたり。いや、やめなくていい。こっちを見るな。するとエアギターもはじまる。
     存在するのはいい。みんな求められて生みだされた。だがなぜついてくる。
    「おまえら、粗相したり、うるさく騒いだりしたら置いていくからな!」
     とんだ百鬼夜行で、地上から地下までフロアを行ったり来たり。ウシャブティはどこにもいない。
    「もういいや」
     せっかくだ、中国の翡翠を見よう。ここにも現代作家の工芸がある。紀元前にはじまる翡翠彫刻の技術が、いまなお絶えることなくひき継がれている。ガラス光沢の、とろけるような肌理。鉱物でありながら、やわらかそうで、噛みつけば汁がしたたるのではないかと思われた。
     台湾故宮博物館の、翡翠でできた白菜はすごかった。純粋の翡翠は、白色である。微量の鉄をふくむと、緑や紫色になる。白菜の彫刻は、芯の白と葉の緑を、翡翠の天然の色の境界をつかって、あおあおとしたみずみずしさを、みごとに表現していた。
     すごいすごいと調子にのったヴァシリは、あやしげな露店で、ほんものかどうかもわからない翡翠のブレスレットを、母への土産に買ったのだった。アクセサリーで着飾ってゆくさきなどない母は、いちどでも腕をとおしただろうか。さっさと父に売られてしまったかもしれない。売れたなら、ほんものだったのかな。
    「疲れた」
     館内の奥まったところには、東洋や北米先住民の資料がある。ヴァシリは閲覧者のためのベンチに座りこんだ。観光客で混雑しないこのあたりには、ゆっくり鑑賞したり、模写したりするための、手軽なスペースが整備されている。
    「模写? 模写……、もしゃ」
     なにか忘れているような……。首をひねり、かばんをおろす。もうこわいものなしなのだ、水筒の紅茶をあちあちすする。チンポどもが、おのれらの猥褻物陳列罪を棚にあげて、ざわざわ騒ぎだす。飲食厳禁? 知ったことか。説教するならウシャブティを連れてこい。
    「しっしっ!」
     チンポの群れを追い払ったところまでは、覚えている。つぎの瞬間には、ヴァシリはもう夢のなかにいた。
     夜の博物館が青だとすれば、夢のなかは黄だった。まぶしい。きいろい太陽、きいろい砂。陽光まで灼熱のきいろだが、ヴァシリの腕が焼かれることはない。ああ、夢なのだ。ヴァシリには影も、臆する必要もなかった。日干しレンガと、しろい石灰岩、あかい花崗岩の建造物。きいろの風の吹きぬけるこの建造物は、左右相称である。色とりどりのフレスコ画による壁画、彫刻、幾何学的な人物画も、相称たらんと左右に並んでいる。「左右相称」の原理は古代エジプトの一大特徴である。ならばやはりここは、古代エジプトの遺跡だ――、彩色ゆたか、遺跡となる前の。
     まぶしさにすがめた目に、壁画からひとが抜けだす幻影が映る。壁画の人物は平面から三次元におりたつ、ぶく、ぶく、ぶく、と立体になる。三人の男たち。オリーブ色の膚の少年と、赤銅色に焼けた剃髪の成人がふたりだ。少年はこめかみからほそいひと房のみつあみを垂らし、あとはみじかく刈っている。十代前半といったところか。彼らは黒の目化粧をし、未染色のリネンの腰布のみで下半身を覆っている。スカートだ。下から覗いたら、まるだしだろう。彼らは動作する、呼吸する、きぬずれもある、なめらかな、自然な表情、ごくふつうの人間。
     ヴァシリは手のなかの水筒をとりおとした。
    「あっつ!」
     持っているのを忘れていた。ひどい音で石の床に落ち、中身をまきちらしたが、三人はヴァシリに注意を向けない。見えていない。
    「なんだ。やっぱり夢だ。夢とわかってたけど」
     胸をなでおろす。
     ウシャブティに棺のなかへ誘拐されかけたときは、たしかに諸々の感覚があったのだ。あつかったし、痛かったし、さむかった。はあ、なんだ夢か。なんでか紅茶だけは熱かったけど。
     少年が緊張した様子で、なにか言った。成人たちがほほえみ、返事をする。この響きが、古代エジプト語か。せかせかした英語や、やたら空気を破裂させるロシア語とはことなる、語尾がやわらかく伸びる、祝詞のように平坦な響きの言語だ。発音とは、時のながれや気候のちがいが、影響するものなのだろうか。なに言ってるかはまったくわからない。
     はらりと少年の腰布を解く。またチンポだ。皮をかむったお子さまチンポ。
     大人のひとりが少年をはがいじめにした。もうひとりはナイフをとりだす。ナイフの男は少年のチンポを手にとり、刃先をそこにあてた。
     ヴァシリは息を飲んだ。とっさに動けない。大丈夫、夢だ、おちつけ。
     これは虐待や暴行ではない。少年は身をかたくするものの、抵抗しない。大人たちは少年の緊張を解きほぐそうとしている。壁画で見たことがある。割礼だ。ならば少年は「すっかり切除してください」と頼んだし、施術者は少年に「ちゃんとやっておくよ」、介添人には「気を失なわないよう、しっかり支えておいてくれ」と、メロディアスな古代エジプト語で言ったのだろう。
     血がでた。血は地に撒かれるままであった。穢れではないからだ。陰茎の包皮を環状に切開し、亀頭を全部露出させてしまうのが割礼だ。現在も、性病の予防を目的に、出生直後の男児におこなう地域はある。古代エジプトでは少年期から青年期への通過儀礼であり、また創造主にたいする生贄として、全身を捧げるかわりに、身体の一部である包皮を切除し、供物とする、宗教的儀式だと考えられている。
     慎重な手術だった。切除された包皮は、高坏のような器に置かれた。施術者はおなじナイフで、少年のみつあみを切り、おなじ高坏へ。彼らはそれへ、両手をささげる祈りのポーズをし、歌うようになにかを斉唱した。そこに残忍性はない。血止めの薬からは、蜜や果実をまぜた、あまいにおいがした。儀式のおもむきをいっそう醸す、神秘的なにおいだった。
     大人たちは青年になったばかりの彼の両わきを支え、部屋をあとにする。横になって休める場所につれていったのだろう。すぐに大人ふたりだけが戻ってきて、ナイフをすすぎ、油皿の火であぶった。
     ちりりと鈴の音。あおい風がふいた。
    「左右相称……」
     目が吸い寄せられる。
     肢体の完璧な均整、顔面の完璧な均衡、完璧な左右相称。あおざめて、壊れやすそうな、こおりづけの少年であった。しろくなめらかな皮膚のうえに、ほそい目化粧、目化粧がなくとも、くっきりとまなじりを秀でさせる、くろい睫毛。こめかみに垂れたひとふさのみつあみと、左の足首に巻いた、ちいさな鈴のつらなったアンクレットだけが、彼の非対称だった。少年の一歩によって、ぢりぢりかすかに鳴る。
    「ウシャブティ」
     まぎれもない、少年のころの。彼の背がまだ伸びるのを、ヴァシリは知っている。全身に踊り手の筋肉と、中性的ともいえる脂肪がつき、ますます左右相称となるのも、その瞳をうしない均衡をうしなうのも。だが彼がもつ色、うすぐらい夜の博物館では、気づかなかった。彼のこの色は、自然界において生きにくい色だ。かがやきがすぎる、きわだちすぎている。まばゆく燃えあがる炎の色ではなく、ふかい闇のなかで、はかなく発光する、こおりの色だ。
     大人ふたりがウシャブティに近づく。きょうはこの地域の少年らが、まとめて割礼する祭礼の日なのだろう。
     だが様子がおかしい。違和感をおぼられるよう、あらかじめ、オリーブ色の少年の割礼を見させられたのだ。
     にやにや、顔つきを粗野にした介添人が、ウシャブティのリネンのしろい腰布を剥ぐ。さっきは少年自身が脱いでいた。はがいじめ、わざと腕をひしぎ、苦しくなるようにしている。さっきのたおやかな古代語の韻律はどこへやった。猛獣の吼え声か、雷鳴のような、本能的に不快な声音で男たちは話し、嘲笑う。ウシャブティは目をすえ、くちびる噛み、いきどおりの表情をあらわに示す。屈辱にかろうじて堪えているかに見える。
     ヴァシリは能天気すぎたのだ。古代人は原始的で、未発達で、素朴な存在だと決めてかかっていた。まさか! 人間だぞ。ウシャブティのうつくしさは、彼の国、古代エジプトにあって格別だった。人間は、自分の手の届かぬものに勝手に惹かれ、憧れ、崇めたて、執着し、懐柔し、手に入らないとなると、傷つけ、蹂躙しようとする、どうしようもない生きものなのだ。
     足元にしゃがんだ施術者が、にやにや顔のまま少年の陰茎をもてあそぶ。不吉に燃えるナイフをふりかざし、やっぱりやめたと離し、近づけ、離し、……くだらない悪ふざけだ。されるほうは、どんなに不安だろう。だが少年の目に恐怖はない。躊躇も戦意もあきらめもなく、ひんやり氷に閉ざした心。しろくなったくちびる。おまえはひとであるには、うつくしすぎる。ひんやりかおりたってくる肌のにおいは、周囲のものを狂わせる。彼のそこは、咎めるように、つよく握られた。変声期の少年のかすれ声がうめく。反射的にふりあげた足が、施術者の腹を蹴った。ひっくりかえったそいつはウシャブティの腹を、倍以上のちからで殴りかえした。介添人はやんやと手をたたくと、ウシャブティを床に投げ、痛みにうめく彼の顔をおしつぶした。やめろ、ヴァシリは叫んだ。彼らは服を脱ぐまでもないのだ。男の包皮のない陰茎がウシャブティの顔におしつけられる。男はすでにそこを赤黒く変色させていた。上機嫌で彼の鼻、くちびる、やわらかなほほに押しつけ、つるりとしたひたいの感触をたのしみ、腰をゆすっている。男の足で腕を、両手で頭をおさえこまれ、少年はくるしげに足をばたつかせる。
     ナイフをかざす施術者、なにか言った。呪いの言葉だったにちがいない。ウシャブティはくちびるを屈服させられたまま、すこしふるえ、みずから脚を左右にひらき、膝を抱えた。
     火星よりもあかい鉄。割礼に残忍性はないだと?
    「やめろ!」
     ヴァシリは水筒をつかみ、施術者の頭に殴りかかった。ウシャブティが叫ぶ。雪のなかで傷つき、出血しているオオカミの、金切り声。
    「去勢する気か! そんなにふかく刃を入れる必要ないだろう!」
     いくら殴って、体当たりしても、手ごたえはない。大丈夫だ。ヴァシリは少年にか、自分にか、言い聞かせる。ウシャブティのCT画像には、まあまあ立派なのがちゃんとあった。大丈夫だ、大丈夫。まるごと切りおとされはしない。
     ウシャブティのCTの結果で、ショックだったのは、歯が五本と、頭蓋骨が折れていたことだ。頭部への外傷が、ウシャブティの死因だろう。彼は死んだ。おそらく、殺された。においたつ黒髪の、あまやかな黒瞳の、鼻に皺をよせたむかつく笑いかたの、あどけないほほえみの、ひととしては生きにくい色のおまえ。神がかりではなく、神であったら、こんな目にあわなかった。
     高坏に、血まみれの供物と、しろくけがれたみつあみが供された。
     


     地面に吸いこまれるように意識がなくなり、ぬるんとヴァシリのすねにふれたのは、くろい尻尾だった。
    「……バステト」
     あおい空間。大英博物館。ヴァシリはシャツの襟で顔をぬぐった。ひどい汗だった。
     黒猫の神はやはりニャアと鳴かず、金の眼でヴァシリを見つめる。
    「あいつが待ってるんだな」
     かばんを担ぎなおす。ずっしり重い。
    「いまの夢は、あんたが見せたのか。それとも、あいつが見せたがったのか。夢なのか、過去の事実なのか」
     しなやかな尻尾がゆらゆらゆれる。イエスとノーのわかりにくいところ、優雅なつまさき立ち、バステトとウシャブティは似ている。
     あんなかたちで、彼の声を聞くなんて。声といえるか。悲鳴だ。
     夢からなにかの暗示をかんじた。ふかく訴えてくるものがあるのに、なんとも解きあかせず、もどかしい。
     バステト像はグレートコートまでヴァシリを先導した。ドーナツ状の、ひろびろした瀟洒な中庭だ。月のあかるい夜、ガラスの屋根の幾何学模様がしろい床に影をおとし、宇宙の星々が降ってきて、三角がプリズムする。バステトは、ここからさきはおまえひとりでゆけと、金のイヤリングを揺らして、まるくなる。
     ふたつの黒色オベリスク、ヴァシリがとおりかかると変顔するトーテムポール、クニドスのライオン像は、昼間気張りすぎて夜ねむる。土産物屋やカフェをのぞくが、ひとっこひとりいない。従業員もミイラ男も。
     中央の円形の図書館へつづく階段のまえで止まる。階上、おかしな影がある。
    「こんなところにモアイ像」
     あったっけ?
     あるわけない。巨大な玄武岩が、階段をとおせんぼしてしまっている。彫りのふかい目許、おおきな鼻、さがった口角、四角く張った頑丈そうな顎。正面から見る威圧感にたいし、横から見ると拍子抜けなほど厚みがない。手を体の横でそろえ、足は存在せず、乳房の強調されたたいらな胴をしている。物議の絶えないホアハカナナイア。
    「足がないのに、どうやってここへ?」
     ごおんごおん、地面のわれるような轟音がした。がりがりがり、岩がきしる、モアイ像の顎が動く、くちがあく。ヴァシリは映画の古代竜のしゃがれ声を想像した。溶岩をも蒸発させる炎を吐く、ドラゴンの声。
    「ふたりとも、時間がせまっている」
     予想は外れた。女声だ。やさしくおちついて、すこし低い、知性的な。好きだった小学校の先生に似ている。教科は、美術だったっけ。
    「喧嘩でもしたの、きみたち」
     彼女は身をかがめた。ぐっ……、ぴょん!
     足のない底面には、自在キャスターのついた、ハンドルなしの台車を敷いていて、スケートボードのレールスライドの要領で、階段の手すり上を滑走してくる。呆気にとられるヴァシリをしり目に、ホアハカナナイアはみごとな着地をきめ、旋回、重心をうごかし台車をかたむけ、キッと停止した。すごい。
     彼女の影で、天井の模様がさえぎられる。高さ二・四メートル程度とはいえ、威圧感がある。顎。
    「降りておいで。かくれんぼはきみの勝ち」
     にょきりとモアイ像の頭から前髪が生えた。ウシャブティの腕だ、頭のうえに隠れていた。にょきにょき二本、そのあいだからひょっこり首を伸ばす。左目がちぢみあがっている。もちろん、ホアハカナナイアのあらっぽい運転のせいだ。ウシャブティは動かない。
     岩が鳴り、かすかなため息。
    「降りられなくなっちゃったって」
     ホアハカナナイアはヴァシリに言う。
    「えっ、どうすれば」
    「頭をつかおう。時間ないよ」
    「あ、はい。……いや、降りられるだろう。ウシャブティ、なんか時間がないらしいぞ」
    「時間がないのはきみたちだ、シンデレラ。十二時を越えては手遅れになる。また百年、機会を待つの?」
    「ちょっと、なに言ってるのかわからない」
     衝撃から復活したらしいウシャブティは、ホアハカナナイアのひたいのふち、膝をたて、両脚のあいだに手をつく、四つ足の動物のようなかっこうで、首をかしげ、ニタニタしている。先生、こいつふざけてます。ひとりで降りられると思います。告げ口してやろうか。
    「あやまったら降りるって? きみって子は」
     先生はあきれている。
    「あやまることなんてありません」
    「こっちも! 私が仲立ちするのね」
     ホアハカナナイアは闊達に笑った。彫りがふかすぎて表情は読めないけれど。
    「青年、なにがあったのかな」
    「なにも。強いて言えば、彼のほうが、……ちょっと女性には言いにくいな、計算ずくか、卑怯だぞ」
    「ははあ、そんないたずらを」
     読唇術ではない、テレパシーかなにかで、彼らは会話しているようだ。
    「どうして彼がそうするに至ったのか、反省してほしいって」
    「私のせいで春画とチンポを陳列したっていうのか!」
     ついに、言ってしまった。ウシャブティは下くちびるをつきだし、下目をつかって睨みつける。目がおおきいから、彼のこういう傲岸な態度には迫力がある。
    「チンポ関連なんだな。う~ん、チン……、あっ、CTでおまえのチン影を見た件か、辱められたと? ちがうな、おまえたちにとって性器は禁忌じゃない。そうだろう」
     鼻の穴が、ふんすと馬鹿にしたようにひろがる。「じゃあ」ヴァシリはすべての語尾に、クエスチョンマークをつけざるを得ない。
    「いやがらせじゃなかった? 私が、チンポを見たがってるって? だからいっぱい用意してくれた?」
    「ううん。いやがらせだって」
    「だよな!」
     もうやだ。頭をがしがし掻きまぜる。アシㇼパのいうとおり、クソミイラだ。こうしていると、まったくかわいくもうつくしくもないし、あの夢の仕打ちも、なにかの報復の可能性がでてくる。だからといって、大人が子供に、人間が人間に、生命が生命にしていいことではないが。
     ホアハカナナイアは教え子に噛んで含めるように言う。
    「ヴァーシャ、だれとその話をしたのかな。逆の立場だったらどう。この子が、きみ以外のひとを、ここに誘っていたとしたら」
    「えっ、いや、そんなこと、しないよな?」
     考えもしなかった。彼がだれを誘おうと勝手だ。あの舞踏をだれに見せようと、だれと「またあした」の約束をしようと。鉢合わせたら、いやだが、べつに、ウシャブティの思うようにすればいい。だれだっていい。私以上に、彼を知ろうとするやつで、私以上に彼と、彼を――、彼の割礼の痕跡を知りたい。
    「きみはした」
    「アシㇼパ? 彼女としゃべったから? アシㇼパとは、そういうんじゃない」
    「そんなの見ればわかるよ。ヴァーシャは彼女の対象外。そのあとは」
    「そのあと……、アシㇼパに誘われて、ほかの展示品を見に行った。……おまえを、見ているべきときに?」
     ウシャブティが跳ぶ。
    「嘘だろ、そんなヤキモチのやきかたっ。規格外……だっ!」
     眼前に膝がきて、顔面を蹴とばされそうになりながら、かろうじて受けとめる。金のカバーをつけていない、うす桃色の乳首があやうくくちに入りかける。
    「キョロキョロするなって? 博物館にきてるのに?」
     言い当てられて、ウシャブティははしゃいでいる。子ザルのように四肢でつよくしがみついて、全身をこきざみにゆすり、受粉をうながすみたいに頭に頭をすりつけ、降りようとしない。声が出るなら、歯を剥いてきゃっきゃっと鳴いていただろう。
     きょうの彼は、かくれんぼ特化の軽装だ。ちゃらちゃらと鳴るアクセサリー類はなく、白の亜麻布だけで腰を覆う。よその文化財を破壊するおそれなし、ヴァシリはほっと胸をなでおろす。むろん慣用句、実際になでおろしたのは、酸化し黄変したふるい亜麻の包帯だ。ウシャブティのミイラの背面。ここにも詰め布をしているんだったか。ふかふか、たしかに強調されている。うまいこと詰めたものだ。彼の胸もだが、しっかり双丘になっている。通常ケースのなかで、あおむけに寝ているため、彼の臀部を観察する機会はない。台を透明にするとか、鏡張りにするとか、たまにうつ伏せにするとか、大英博物館にはひとひねり工夫をしてもらいたいところだ。ふかふか。擦れば擦るほど、ウシャブティの清浄なにおいがかおりたつ。彼の耳に鼻をうめこみ、肺いっぱいかぎまわせば、あまく、焦げ、泡だつ芳香、たまらない心地になる。むっちりした両脚がヴァシリをぎちぎち締めつける。たとえ話でも、彼がヴァシリ以外を誘うはずないとわかる。私も、知りたい、ぜんぶ。
    「おまえの腰布のなかを見たい」
    「あら」
    「あら」
     ホアハカナナイアがおどろきの表情をつくり、奥まって見えなかった眼窩が露出する。からっぽの穴だった。かつては宝石の目玉がそこに埋めこまれていたと、ヴァシリは後日知るのだが、いまはおいておく。
     もうひとりは、ホアハカナナイアの頭上置き去りにされた、顔なじみのハンドベルの声だった。チベットの金剛鈴。おばあちゃんの声。しゃべれたのか。
    「おや」
    「おや」
    「まあ」
    「まあ」
     ウシャブティが身をおこす。さきほどの興奮はどこへやら、特段の表情はない。棺や副葬品としてのウシャブティとひとしく、おおきな目、ひき結んだくちびるのあるかないかの微笑、左右相称。ヴァシリはうなずく。私は変なことは言っていないものな。私は見たい。おまえは見られたい。
    「ちょっとおまえさんたち、時間、時間!」
     金剛鈴もモアイ像から飛んだ。スカートになっている鈴の部分を落下傘にし、もろもろの力学を無視して、しずかにゆらゆら降下した。メリー・ポピンズだ。彼女は鳴らされようとすれば鳴るが、そうしなければ鳴らないでもいられるのだった。
    「盛りあがっちゃう気持ちはわかるけどね、やることやらないとね」
     もうあまり考えないほうがよい。金剛鈴はヴァシリの脚をつたって、ウシャブティの手におさまり、彼の手からヴァシリにわたり、いつもどおり、鳴らされる。カランカラン。手のひらのなかで、金剛鈴が安堵のため息をつく。
    「やれ、間にあった」
    「そしてもう時間だわ」
     ホアハカナナイアの宣言。
    ――キーンコンカンコーン
     ガラスの天井から、ハンドベルではない、もっとおおきな、鐘の音が降りそそいだ。
    「ウェストミンスターの鐘?」
     四つの鐘のかなでる音階は、十五分に一度鳴るチャイムだ。
    「さっきまで、聞こえなかったのに」
    「ロンドン中がきみたちを心配してるのよ」
     ちょうどの時間にはチャイムが四回。そのあと時間の数だけ、ゴーンと荘厳にビッグ・ベンの大時鐘が鳴りわたる。
    ――ゴーン、ゴーン
     天井をみあげるヴァシリの手を、ウシャブティがとる。るり色のひたい。音にまでヤキモチするのか。彼のしろい手は白蛇と変じたように、するする這いまわり撫でさすり絡めとり、――ゴーン、つまさき立ちの一歩で、くちびるがふさがれていた。それはときに、整理しきれないくらい過剰で限外、ときに具象と結びつかないくらい沈静で森閑なのだ。



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