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    ミイラ尾4
    やっぱり縦書きで行こうかな

    ミイラ尾(4)ミイラ尾4


     この絵は、アマニ油のワニスの層が黒ずみ、色彩が完全におおいかくされてしまっている。
     絵画において、仕上げに吹きつけるワニスは、色を保護し、あざやかにするため、欠かすことはできない。しかし虫害、ワニス自体の劣化、塵や埃の付着によって、色がくすんでしまうため、定期的に洗浄をおこなう。殺菌、額装のケア、画面全体が変形しているから、その修正、防カビ処置も。修復するさいにはまず、ワニスをはがすところからはじめる。
     何百年と癒着してきたワニスをはがすには、溶剤とその中和剤をもちいて削りとる。シャンプーで歯みがきをしないように、なんでもかんでも一種類の薬剤でよいというものではない。薬剤の調合や決定には修復士の、修復への考えかたがあらわれ、除去作業には熟練の技術が問われる。ヴァシリには特別の哲学も技術もないが、このたびの作業では、指導員である大英博物館絵画修復研究所マネジャー、おなじみのロマンスグレーの指示どおりにおこなっていけばいい。頭をからっぽにして、表面のワニス層の洗浄してゆく、ただただゆびを動かす。
     アシㇼパをはじめ、陽気なお祭り野郎ども、やたらリーダーシップをとりたがってたやつら、おせっかいなおしゃべりさん、すなわちキュレータやアドミニストレータ、エデュケータ志望のクラスメイトたちとはおさらばし、それぞれのコースに分岐した。ここにいるのは見習いも含め、学位をもつ保存修復士のみとなった。あらたなメンバーが数名合流し、いよいよ専門性のたかい講習がはじまったのだ。年齢層もたかくなる。非正規雇用の修復士たちが、藁にも縋るおもいで学びにきている。お目に留まれば、大英博物館のお墨つきをもらえるかもしれない。そうしたら国に帰って、国立博物館の就職口を掴めるかも……、そういう真剣なサマースクールである。すでに二週間経つが、ヴァシリは雰囲気になじめずにいる。
     自分を生真面目なタイプだと思っていた。そうでもなかった。
     削ってゆくと、何重ものワニスの層のしたから、あふれるような瞳の、しろいほほの、黒髪のヴェールをまとう生神女像が出現した。二十世紀になってはじめて、イコンは自由な美術的驚嘆の対象となった。彼女はようやく宗教のせまい枠を飛びでて、信条の支配の道具であることをやめ、知られていなかった美を、世界に向けてかがやかせるようになったのだ。ヴァシリは教徒ではないから、彼女にささげる祈りがない。ふたつの綿のかけらで、生神女の遠近感がないのっぺりした顔を、なでてゆく。荘厳だが原始的。一見、子供が描いたように稚拙な絵にも見える。これがロシア正教の伝統的な手法で描かれたイコンである。エジプトの壁画にちょっと似ている。ヴァシリはマスクの下でくちを捻じ曲げる。ムッとするし、むずがゆい、笑うべきでもあるし、まったく似てないと否定する自分もいる。エジプトの壁画の線はもっと硬く粗い。だが、無用な線がなく、わざとらしいデフォルメもなく、簡浄。やっぱりちょっと似てるかな。フンフン鼻息が蒸れる。変な顔になるのを隠せてよかった。べつに意識して共通点を探してはいない。
     この絵には欠落があった。板材から絵の具が剥離してしまって、生神女は右頬右目のあたり、肩や手、山脈を描いた背景に、ブラックホールをはらんでいる。世界観が崩壊している。
     ヴァシリは、本来そこにどんな図画のあるべきか、わかるように思う。こうすればいい。板材の表面に、膠をしみこませる。なんども、なん層にも。さらに石膏粉と膠をまぜたものを塗り、表面をみがく。こうしてしろく塗られた板材のうえに下絵を写していこう。着色には、すりつぶした顔料を卵の黄身でといた、テンペラがふさわしい。まず背景を。最初に山、草木が、そのあと、人物の衣服を塗っていく。黄土色、黒みをおびた赤、朱色、紫がかった赤、鉛白、青みをおびた緑、褐色がかった濃い緑、深紅、あかるい青、こまかい部分の白の線描。ヴァシリに好きな色というのはない。色の、調和した色を、うつくしいと思う。
     調和。ヴァシリの意識は夢想を浮遊してゆく。
     あのチンポ祭りの夜、鐘の音を十二回を聞くまえに、ブラックアウトした。当惑と陶酔と騰落を中途半端に抱きしめたまま、ダイアナのバラの紅茶のかおりで目が覚めたのだ。さみしさと託宣が調和した朝だった。
     ダイアナとチャールズは、夜な夜な出歩き、酒をのむでもなく夢遊病者のあしどりで帰宅し、毎朝ゆすり起こされるまで寝坊するヴァシリを、咎めたことがない。さすがに申し訳なくなったたどたどしい謝罪を、シャーロック・ホームズほど大変な下宿人はいない、と一笑にふす。モリスのカーテンはいつも清潔で、枕のポプリはラベンダーやローズにもなる。ヴァシリに友達ができたかを気にかけ、このサマースクールの終わりには、下宿に友人を呼んでホームパーティをしようとまで言う。もうここんちの子になる。呼べる友達はいないけど。ベッドにうつ伏せる。感謝でいっぱいなのに、つむったまぶたのなか思うのは、夫妻の顔ではなく、やはりあのミイラなのだ。
     彼はアルカイックにほほえむ。彼の血は、はなやかにほとばしる。彼は、るり色の古代人。
     その宵夕、ウシャブティは竹の枠と、植物の皮を編んだインドの牀台にヴァシリを誘いこんだ。いまにも穴が抜け、床に尻もちつきそうな民芸品だった。動けないのはベッドが軋るからで、上機嫌なミイラの、歌うように動くくちびるの、唾液にぬれたつややかな前歯があって、粘膜としての舌があって、砂漠の砂礫のほこりっぽいかおり、熱帯睡蓮の雨のようなほのあまいにおい、宇宙色のひらけた天空、黒瞳、流動し溶けあうような色彩の彼に、魅いられたからではない。
     そこはもう大英博物館ではなくなっていた。葦の原、小舟のうえ、ロータス、とうとうと北上する聖なる河の、ほそくあさい支流のどこかなのだ。ウシャブティは反射する水光を顔や胸にうけ、その名のとおり、ガラス光沢のさえざえとしたファイアンスの青と、網目のような水紋の白にひかっていた。彼はなにか言う。いまにも声となって届きそうだ。風簫。パンフルートの沁みかすれる低音域。彼はヴァシリに、ほそながい茎の、あおい睡蓮の花をもたせた。ウシャブティは緋の腰布の結び目に手をかける。鼻と鼻が、ふれようとする。
     そこでヴァシリは、ウシャブティを突き放したのだった。待ってくれと言ったように思う。あわてて、かえってひと言ひと言、噛んで含めるような言いかたになった。
     待ってくれ。そういうんじゃない。かんちがいさせたなら、悪かった。かんちがいするおまえも悪いけど。誘ってないし、口説いてない。見たいと言ったのは、やっぱりおまえは文化遺物なんだ。不躾な好奇心を、抑えられなかった。私にとっては、作品、美術品、調査修復の対象で、そういうんじゃ、ないんだ。どうか聞きわけて。ひいてくれ。
     空間は無機質なガラスケースのなかにもどった。インドのベッドではなく、ウシャブティのガラスケースのウシャブティの仮の棺に、閉じこめられようとしていた。間一髪だった。ウシャブティは胸をつよく上下させる。怒りをおし殺すように。目にきつい感情がやどり、次に食いしばり、下がった口角をぎゅっと持ちあげ、すんっとちからを抜き、壁画の民とおなじ貌になってしまった。
    「ウシャブティ……」
     青ハスが手のなかで灰になる。悪夢だったが、もっと、夢にひたっていたかった。
     棺を封印しようとしていた魔法の水銀が、浮かびあがって文字になり、またあした、またあした。
     罪悪感だろう。ヴァシリはかよいつづける。ウシャブティは正面入り口、セキュリティチェックまでしおらしく出て迎える。静まりかえった館内に入るまでもなく、ベルを鳴らし、またあした。彼はヴァシリの目を見てほほえむのに、ふたりのあいだに水槽のあるように、視線がずれ、目があわない。おまえは失望していない。まだなにか企んでいるはずだ。
     夢寐にも彼を見る。やる気の起こらない講習、サマータイムの狭間の夜、真夜中にもあいつにとりつかれたまま、朝はますます無気力に。やりがいを見いだせない講習。夜、会話のない夜、真夜中の夢。
    「ヴァシリ・パヴリチェンコ!」
     ひゅっ。クラス中が息をのんだ。
    「ヴァシリ! 手をとめて!」
     肩に手をかけるのはロマンスグレーだ。
     なんだっけ。私はどこにいて、そんな姿勢で、なにをしていた。身体感覚をとりもどせ。息を吸え、背を反らせ、ヴァシリ・パヴリチェンコ。手に筆を握っている。息を吐け、私――!
    「フンーーッ」
    「ヴァシリ、きみ、なにしようとしてる」
     ふるいワニスから解放された生神女。夜ならまばたきをするのだろうか。欠けた右目で。ヴァシリは描きたそうとしていた。おそろしい蛮行、破壊的行為である。
    「……わかりません」
     呼吸が自然にできるようになって、冷や汗がでてくる。叩きだされるかな。入管に収容されるかも。こんなの犯罪だ。
     ロマンスグレーはそのどちらもしなかった。ヴァシリの肩においたままだった手が、子供をあやすリズムで背をトントンする。
    「『この猿を見よ』を、いまさら諸君に説明する必要はないだろうが、改めて考えさせられる事件だね」
     この猿を見よ騒動は、いまから十年ほど前の事件である。
     サントゥアリオ・デ・ミセリコルディアの教会の柱に描かれた、十九世紀のフレスコ画のキリスト像は、湿度により絵の具が剥離し、劣化していた。修繕の費用はなく、放っておかれていたのを見かねて、地元のアマチュア画家ようするに素人が、善意の修復を手がけた。教会には無断だったとか、堂々と修復しているのを止めなかったから暗黙の了解だとか、ちゃんと依頼はあったとか、説はいろいろある。
     というのも、修復後のありさまのせいだ。以前の作品とはまったく異なってしまったのだ。どうしてこうなった。またたくまにSNSで全世界に拡散され、「この人を見よ」という画題をもじって「この猿を見よ」と揶揄され、炎上、批難と嘲笑をよんだ。ことはそこで終わらない。爆発的いきおいで超有名絵画となった本作とセルフィしようと、人口五千人の田舎村に、年間五万人をこす観光客が、世界中から殺到した。ブームにのった地元企業が、「この猿」の絵画を印刷したワインやマグカップといった土産品を開発する。飛ぶように売れたという。アマチュア画家は印税を得たうえ、個展は大好評を博し、一躍ときのひととなった。
     これはあまりにも特異なシンデレラストーリーだ。大ヒットに続けとばかり、たてつづけに素人修復失敗の事例が挙がった。修復士としては閉口ものである。笑いごとではない。SNSでいいねが得られさえすればよい人々にとってだけ、笑い話なのだ。ただしくいえば、惨事。文化破壊である。
     修復士の仕事は汚れの除去や疵の補修だけではない。修復のために、正常光、エックス線、紫外線蛍光、赤外線、顕微鏡接写といった特殊な撮影をおこない、作品の材料を分析し、真贋にかかわる来し方を調査し、調書を作成する。この調書は、作品を守る未来の修復士へ、引き継ぎの資料になる重要なものだ。そして欠けは、欠けとして、残す。現代の修復士の想像で、過去の作品を改変してはならない。
     クラスメイトのひややかな視線。ヴァシリはしずかに筆をおろす。自分が、あのド素人どもと、おなじあやまちをしようとした。全身から血がひき、頭痛がする。
    「ヴァシリ・パヴリチェンコほどのやつでも、いやきみのようなやつだから、完璧にしたい、と考えてしまうのかもしれないね。きみは自分の手に運命がゆだねられた造形物へ、入れこみすぎるところがある。もちろんミイラの件さ。修復士の役目は、不滅のものを守ること、あらゆる美術品の存在を証明しつづけること、と僕は考えてる。美術品はわれわれの手に運命をゆだねてくれるが、われわれの手におさまってはくれない。……ちょっとことばにするのは難しいな。つまり、修復士の仕事は『作業』であっちゃならない。劣化したワニスであろうと、美術品に手をいれることへ、おそれと、疑問を、常にいだきながらじゃなくちゃいけない。まあ、今夜コンパ来いよ、ヴァシリ」
     ロマンスグレーは責めなかった。きょうはもう休憩でいいよ、とやんわり解放し、無理にコンパへ誘いもしなかった。その代わり、結局ゆくところなく、ぽつんと踊り子のミイラのまえに立つヴァシリを、研究棟に連れていってくれた。大英博物館ダンジョンのなかでも、虹彩システムで認可された、かぎられた研究者だけが入室できる、特別な迷宮である。ハイテク技術に施錠されながら、研究室はヴィクトリア朝風の、典雅な、ほのぐらい、廊下というよりは回廊のさき、さらに施錠されたところにある。


     テレビドラマで見る死体安置所にそっくりだ。蛍光灯のあおじろさ、銀色の金属のひきだしが壁にずらりと天井にとどくまでならんでいる。重いそれは長々とひきだせる。死体が横たわった状態で、頭からおさまったひきだしだからだ。棺がわりのひきだし。むろん、冷気にまもられた、しめった死体ではない。
     ここが大英博物館のコレクションする、六千体のミイラの安置所である。
    「あら、ようやくうちの部門にくる気になった?」
     手袋のまま握手をうながすのは、東洋系の女性。おおきな眼鏡、ぶ厚いレンズ、遠視なのか目がおおきく見える。背がひくく、髪はむらさき色、――アラレちゃんだ!――ヴァシリはそわそわした。
    「研究員のマリです、ヴァシリ。ようこそ」
     ヴァシリは頭をなでつける。
    「ここでも私は知られて?」
    「私たちがきみの第一発見者だと自負してるんだけど。監視員さんは、自分たちがいちばんにきみに注目したと言うし、セキュリティはセキュリティで、セキュリティがおもしろい男を見つけたんだと言うし……」
    「ぜったい僕だと思う。担任の先生だぜ」
     ロマンスグレーがわりこむ。
    「教授はだいぶ遅かったわ」
     ミイラの保存のために、室内は乾燥し、はだざむい。夏でも長袖にくるまり、そのうえに白衣を着ている。マリは薄っぺらい半袖Tシャツでけろりとしているヴァシリに身ぶるいした。
     マリはちょうど作業台のうえにあったミイラを、ヴァシリに紹介した。保管のための絹をめくると、亜麻布につつまれたミイラがでてくる。彼女の上腕よりちいさなミイラである。
    「まさか、胎児」
    「あはは、初対面で胎児のミイラ見せる女やばすぎ。これは猫よ」
    「ネコ? ニャーニャーのネコ?」
     ヴァシリの様子に、マリは気をよくする。
    「ちいさい生きものなら猫、鳥、蛇、トガリネズミ、おおきいのだと、犬、ガゼル、羊、牛。トキやヒヒのもある。ミイラにしてもらえるのは王侯貴族のペットだった動物や、生きた神の化身として、寿命まで神殿で暮らした神聖動物だと考えられてる。なぜなら、ちゃんと上質の亜麻布やパピルスにつつまれ、石や木の自分専用の棺におさめられていたから。動物たちが古代エジプト人にとって、どういう存在だったのか、これだけでわかるね」
    「家族で、信仰の対象で」
    「とにかく大好き、みたいな」
    「富を見せつけるためではない?」
    「ただの金持ちアピールなら、だれの目にもふれない埋葬に、こうも凝るかな。古代エジプト人の死生観に照らしてみれば、彼らが死んだ動物をミイラする理由は単純。この子たちが死後の世界で不自由しないように。そして死後の世界でも、一緒に暮らしたい、でしょう」
    「なるほど」
     マリはヴァシリの咀嚼を待った。この気だるげな青年がなにを言うのか、わくわくした。
    「このにおいは?」
    「におい?」
    「かび臭い。だけじゃない。香料だ。なんだろう。なつかしいような」
     イタリアンのシェフがニンニクくささに鈍麻するように、マリの鼻も順応して、忘れかけていた。
    「乳香と、没薬?」
     すんすん、ヴァシリは首をかたむけ、においに集中する。
    「あたり。このネコちゃんのにおいだ。ミイラのつくりかたは知ってるよね?」
    「ええっと、常識の範囲内で」
    「あやしいな。きみはほんとうに踊り子のミイラだけのフリークなんだね」
     べつにぜんぜん夢中じゃない。あいつを好きとかじゃない。ヴァーシャよ、みなまで言うな。師弟の不可解なやりとりをマリは半眼で見る。彼女こそミイラ全般の熱心な愛好家なのだ。
    「う~ん、ヘロドトスにいわく。大別して、ミイラの製造には三つのランクがあった。Aランクの方法だけでも聞いていって」
     いわく、ミイラづくりには、その技を生業とする職人がいた。死者の家族(依頼人)は、職人から遺体の処理の三つのランクについて、説明を受ける。丁寧で材料が高価であれば、当然サービスの値段も高くなる。双方の同意が成立したら、遺族は去り、置いていかれたミイラと職人の仕事がはじまる。
     最上の方法では、まず鉄の鈎で鼻孔から脳をかきだす。脳は鼻水をつくるだけの無用の臓器だから、捨てる。次に、黒曜石のナイフでわき腹を切り、そこから内臓をすべてひっぱりだす。こちらの内臓は大事なものだから、ふさわしく処置をする。香料を粉末にしたもので内部を清め、切れ目を縫いあわせる。それから七十日間、天然鉱物のナトロンに浸し、乾燥させる。これでじつに体重の七十五パーセントが失われる。古代エジプトにおいて、ナトロンは乾燥剤であり、防腐剤であり、石鹸、消毒薬、殺虫剤、漂白剤、顔料の原料でもあった。ナトロンは肉を侵食する。七十日後、遺体は骨と皮だけになる。遺体を洗い、頭から足先まで、ゴムを塗った亜麻布の包帯で巻く。ここまでが職人の仕事である。遺体をひきわたされた依頼者は、それを人型の木棺におさめ、蓋をし、玄室の壁にまっすぐに立てかける。
     踊り子のミイラはどのようにつくられたのだろう。可能性として――。
     二番目の方法は、切開をしないやりかただ。ミイラ職人たちは浣腸器をもちいて、杉油を遺体の腹部に注入する。肛門から孔をふさぐのだ。ナトロンの処置は前述と同様である。所定の期間そうしてから、油を体外に排出する。このとき、強力な油の効力によって液体となった内臓も、一緒に流しだされるのだという。
    「というのは、あくまで、外国人のヘロドトスが記述したもの。ほんとうにこれで三千年保つミイラができるのか、実験するにはタイムマシンがいる。だったら過去に行くよね。実際、彼よりふるい時代のミイラには、頭蓋骨内にミイラ化した脳味噌がのこっている場合もある。さらにいえば、古代エジプトとひとくくりにしちゃってるが、それ自体が三千年の歴史をもってる。ミイラの製法にも、試行錯誤の時代、技術が洗練されていった時代、最盛期、そしてヘロドトスの見た衰退期があった」
     ミイラ作りは儀式だった。ヘロドトスの記述より、さらにふるい時代のパピルス文書が発見されている。
     それによれば、心臓と腎臓以外の内臓すべてを出したら、ナトロンで乾燥させた後、遺体のからだのかたちを自然に見せるために、体腔内には清潔なナトロンをいれた袋、樹脂にひたした包帯、さまざまな香料がつめられた。腕や足の筋肉のかたちをつくり、顔をふっくらさせるために、皮膚のしたに詰めものをすることもあった。
     それからからだ全体に、樹脂が塗られる。この樹脂の塗装によって黒ずんだミイラを見たのちのアラブ人は、アスファルトを塗っていると誤解した。アスファルトの彼らの言葉「ムンミヤ」がミイラの語源になった。樹脂を塗ったあと包帯を巻くのだが、スカラベなどのさまざまな護符を、それぞれの機能によってさだめられた場所におき――死者の書に詳細がある――いっしょに巻きこんでいった。
     七十日におよぶ儀式である。これら全行程の最後に、死者はよみがえる。最後に保証する呪文で終わっている。
    ――なんじはふたたび生きるであろう。永遠に生きるであろう。見よ、なんじは永遠にわかさをとりもどす。
    「修復士の溶剤の調合が、職人ごと、作品の状態ごとにちがうように、ミイラ職人によって、ミイラひとりひとりの状態や予算によって、樹脂の配合もちがった。だからミイラはみんな別の、固有のにおいをもっている。いまヴァシリがかいでいるのは、三千年もまえのにおいだよ。……すごいよね! 海底噴火であたらしい島が生まれ、地形が変わり、気候が変動し、イデオロギーが生まれ、滅び、人間は原子爆弾を生みだし、それでも彼らのにおいは当時のまま。すべて祈りと願いなの! 彼らの転生信仰が、つきつめられるところまでつきつめられた結果なんだよ!」
     マリが見やると、ロマンスグレーとヴァシリは勝手に椅子に座りこんで休憩していた。
    「マリくん、お話なが~い」
    「Aランクだけって言ったのに」
    「もうっ、ちゃんと聞いてた?」
     ヴァシリはぼそぼそ言う。
    「全身に塗ったくった樹脂――乳香と没薬が、いまでもにおう。あいつには、あいつだけの、唯一のにおいがあって、あのあまくてシュワッとしたにおい……」
    「うんうん、噂どおりキマッてるね!」
     動物のミイラづくりについては、彼女のもとで研究が進行中である。
    「ついでだから聞いていって。最新のマイクロCTを買ってもらったんだけど、これがすごいの。なんと3次元で撮影された映像を、VRで観察できる! しかも3Dプリンタで、実物を任意のおおきさに倍化した模型がつくれちゃう! 包帯や樹脂を剥がさないで、骨のいっこいっこの構造が調べられるのよ!」
     これによってわかったことがある。マリはちょっとショッキングな事実で、ぼさっとしているヴァシリを驚かせてやろうと思った。恨みや悪意はない。彼女は考古学者だ。まっとうな人間が、同時代に生きるひとびとを「肉のかたまり」とは考えないように、現代人が古代人を「荒廃した、滅びゆく、塵のようなもの」と考えてよい道理はない。マリがミイラの研究をするのは、彼らがミイラであることを喜ぶからではない。むしろ、ミイラであることを嘆く。あなたたちのことを知りたい。あなたたちの生活を教えてほしい。あなたたちと話したかった。すべてのミイラを死からひきあげ、一緒に太陽のひかりをあびたい。
     あとはほんのちょっぴり、個人的な感情。「べつに好きじゃない」ですって? そういう煮えきらない男に腹が立つ。オールドミスと言ったやつをこてんぱんにできる時代になってよかった。
    「さっき、動物たちを大事な家族だからミイラにしたと教えたね。実はそれだけじゃないことが、わかってしまったの。わざわざミイラにするために飼育していた可能性がでてきた」
    「飼育していたのを、ミイラにしたんじゃないと?」
    「この子猫の脊椎が損傷しているのは、ミイラとなってから、ながい歴史のどこかでぶつけたかなにかだと考えられてきた。でもあたらしい分析によって、生きているときに脊椎に衝撃をあたえられたと明確になった。つまり、屠殺されたのよ。きゅっと、首をひねって。何千年間で、何百、何千万の飼育動物が、ミイラにするために殺されたの」
    「それって」
    「生贄よね」
     手ごたえがあった。恬淡としていた、あわい色の目がひかる。追跡者の目だ。学者はこうでなくてはいけない。
     神々に「不要なもの」をささげるのは不敬である。価値のないものを生贄にはしない。生贄とは、民族、集団の負う累代の罪穢れを一身に背負い、放逐や死によって浄めてくれる存在だ。大切なものを、大切に処置して、聖なる贄とする。
     大量の猫のミイラが発見されたのは、ブバスティス、獣面人身、猫の頭とヒトのからだをもつ女神、バステトのお膝元だ。彼らの神を、もっとも神聖なものを、犠牲にしていたのだ。
    「私は踊り子のミイラの膝の入れ墨は、猫だと思うわ。バステトか、その眷属か。彫像は動物の代替、動物は人間の代替。スケープゴート、イサクの燔祭、中国の兵馬俑、ガリアのウィッカーマン、古代メソアメリカの人身供犠、人類の歴史に共通していることよ」
    「そんな……。古代エジプトに人身御供の文化はないと聞いた」
    「通説なんて、明日になったら手のひらぐるぐるがえしになってるかもしれない、はかないものよ。踊り子のミイラだって、女性だと考えられてたじゃない」
    「どうしたら、明らかにできる」
    「解包するのがいちばんかな」
    「解剖?」
    「包を解く。ヴェールを剥がすのよ。包帯のしたをすべてあきらかにするには、やっぱりCTより、メスを入れるのがいちばん」
    「そんなの、痛いはずだ」
    「実は以前から計画はすすんでる。エジプト、イギリス両政府の許可と、執刀してくれる医師と、しかるべき設備とメンバーを揃えるのに難儀してる」
     ヴァシリはくちをぱくぱくする。マリとロマンスグレーは「どうするのかな」と見守った。
    「生贄だったかどうか、本人に聞いてみる」
     ヴァシリは研究室をとびだそうとして、解錠されない扉に体当たりし、鼻を打った。
     彼、いいね。マリが笑う。
    「でしょう。黒子に徹するタイプじゃないんだ」
     修復士には向かないと判じながらも、ロマンスグレーは照れてほほを掻いた。
    「先生、先生、このまえ紹介してくれたエデュケータのところ、連れてってほしい。ひとりじゃ迷子になる」
    「お?」
    「ブバスティスがなんなのか知ってからじゃないと。地名……だよな」
    「ヴァシリよ、修復士もヘロドトスくらい読んでおかないと」
     史料には当時の画材の情報が残されている。古代ローマ帝国の大プリニウスは著書『博物誌』で、鉛のかたまりから鉛白や緑青を生成する方法を伝えている。エジプシャンブラウンがミイラの肉からつくった顔料だと知ったラファエル前派の画家は、絵の具を自宅の庭に丁重に埋葬したと、彼の近親者の手紙によって伝えられている。もとどおりに近いよう修復しようとするなら、知っておかなければならないことが山ほどあるのが、修復士でもある。表面だけを見ていても気づかないことだ。
     ヴァシリはつよい目で扉をにらむ。「そのとおりだ」語気もつよい。だからこそ、とうに説教を聞いてはいないとわかってしまう。
     黒子にも有象無象にもなれない非決定が、ヴァシリ・パヴリチェンコ。彼がみずからのうちに巣食う奇怪なエネルギーを自覚し、そういう自己にくるしむのを、紫外線や顕微鏡をつかってでもかぶりつきで観察したい。大英博物館の賢人たちは、彼を応援している。
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