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    ミイラ尾(5)
    そろそろタイトル決めたい

    ミイラ尾(5)ミイラ尾5


     インタープリテーションとは、双方向「コミュニケーション」によって文化財のもつ「メッセージを伝える」ことだ。教えを授けるのではなく、文化財と利用者とのあいだの、いわば通訳をすることで、利用者自身のふかい理解と発見をうながすこと、と説明されることもある。よくわからない。だがその担当者は「布教だ」と気合いをいれていた。それならなんとなくわかる。
     以前、古代エジプトのインタープリテーションを担当するエデュケータに、踊り子のミイラのCT画像を見せてもらった。例のチン影の件である。ふたたび彼を訪問し、かくかくしかじか、とロマンスグレーが代弁してくれた。
    「ヴァシリは勉強不足だから、遠慮なく試練をあたえてやってくれ」
    「ほどほどで。英語だから」
    「じゃあ古代ギリシャ語にするか? エジプト考古学者はアラブ語も修めているんだぞ。もちろんヒエログリフ、ヒエラティック、デモティックといった……」
    「英語がんばる!」
     大量の資料をもらった。ときどき追加の資料が届けられる。読みこむには時間がかかる。しかたがない。「本人に聞く」と宣言しておきながら、だれも急かしやしないのをいいことに、ウシャブティとのコミュニケーションは後回しにしている。臆病なほど慎重なたちなのだ。夜にはウシャブティのところでベルを鳴らし、ちょっと資料を読み、寝落ち、朝はチャールズのヴァイオリンに起こされ、授業に懸命についていく。ロマンスグレーの講習は、前半がもうすぐ終わる。九月になろうとしている。みじかい夏休みを挟むのだ。いつのまにか、ダイアナとチャールズの旅行に同行することになっていた。空き時間に資料を読み、ベルを鳴らし、ときどき「調子はどうだ」と話しかけ、胡乱げににらまれ、またあした。シャワーを浴びながら寝落ちし、「ヘロドトスも読んだことないのか?」と前髪の房を垂らした少年ウシャブティに馬鹿にされる夢を見た日は、ダイアナのフルートが耳元で演奏された。チャールズは階下のアップライトピアノで伴奏していた。
    「ヴァーシャ、明日からやすみね。今夜のパーティに呼ぶお友達はなんにんになるかしら」
    「えっ、今夜?」
     ダイアナはうきうきとテーブルクロスを並べていく。どれにしようかしら。夏らしいのがいいわね。
     パーティの件、ほんきだったのか。
    「ダイアナ、ヴァーシャは今夜だと聞こえてなかったみたいだ。ここのところえらく熱心に勉強していたもの」
    「まあ。孫のジョージ坊やとロッティちゃんも呼んでるのよ」
    「じゃあ私は遠慮するから、家族水入らずで……」
    「手土産なんていらないんだ。若者はタダ飯食べにおいでと誘ったら、当日でもくるだろう。お友達を誘ってごらん」
    「まあ。友達がいれば」
     まずヴァシリの頭に浮かんだのはアシㇼパだ。彼女はキュレータ部門の講習に参加していて、ときどき踊り子のミイラのまえのヴァシリをからかいにくる。あいかわらずフィッシュアンドチップスと戦っている。まだ彼女を負かす(ヒンナと言わしめる)フィッシュアンドチップスには出会えていなかった。たまにはまともな家庭料理を食べたほうがいい。それに彼女なら、うまく場をもたせてくれる信頼感がある。アシㇼパがだめなら、コンパ大好きロマンスグレーを誘ってみようか。彼がさらに生徒に声をかけてくれるかもしれない。
    「人数はあとで連絡します。ひとりだけかもしれない」
    「いいことだ。人生の友とは、量より質だよ」
     チャールズはヴァシリの両肩をたたき、いそいそとチェス盤を磨く。ヴァシリが相手にならないから、今夜の客を楽しみにしているのだ。
    「そういうわけなんだ」
    「行く!」
    「アシㇼパ! たすかる!」
     ヴァシリは拝んだ。アシㇼパはそわそわしだした。
    「ホームパーティ、お土産、日本人、カリフォルニアロール……」
    「なんの経文だ?」
    「う、そういうイメージを持たれていないか?」
    「手土産はいらない。ちいさい子供もくるらしい。ひとりで帰りたくない。緊張してしまう」
    「わかった。私にまかせろ!」
     たがいの講義がおわったら、待ちあわせして一緒に帰ることになった。広大な博物館、曲がりくだりの迷宮、確実な待ちあわせ場所は一か所しかない。
     おまえ、ブバスティスをちょっと知ったぞ。古名ペル=バステト、カイロ北東、ナイル河デルタ東部の神殿都市。ライオンやネコはエジプト人の祖先獣であった。マリの推理を聞くまえに察するべきだった。おまえのもとへと、しぶる私を導くのは、黒猫のバステト神像だ。壁画によれば、ネコの頭と人間の女性のからだをもつ神。
     多神教のエジプトの神々はおもしろい。人格者とはかぎらない。嵐や、戦争、疫病なども擬神化するからだ。バステトはながい歴史のなかで、人類を滅ぼそうとしたが酔っぱらってやめた雌ライオン頭の女神、セクメトと同一視された。血にまみれ、激情をもち、苛烈でありながら、慈悲ぶかく、音楽や舞踊を好み、豊穣をもたらす、享楽と情愛の神であるとされる。
     ザ・女、だ。ずっとおだやかでやさしい女なんていないのだ。ヴァシリは身内を見まわしてみる。母も、祖母も、きょうだい、いとこ、クラスメイトたち。女なんて、やさしい声でしゃべってるかと思えば、ぎゃんぎゃん神経質な金切声を出すし、嫉妬ぶかい。ヴァーシャには乙女心がわからないと蔑むそのくちで、恋を告白してきて、ヴァーシャは私のことなんか好きじゃないのよ、と急にふってくる。手に負えない。バステトはひどく女らしい女神なのでは。おまえにとっては、どんな存在だったのだろう。
     古代エジプト人は「神」と交わる手段として舞踊を好んだ。ブバスティスの祭には、エジプトじゅうから人々が参集し、たいへんなにぎわいだったと、ヘロドトスの『歴史』にある。聖娼を相手にした聖婚や、男女の区別のない乱交が宗教的儀礼として行われたという。
     聖婚、ヒエロス・ガモス。――おまえも舞ったのか、つきあげる爆発的なちからを、自分でも抑えきれずに、おまえは、愛したのか。 
    「今夜は、こられないからな」
     ヴァシリはねむるウシャブティにちいさく声をかけた。アシㇼパがやってくる。


     ヴァシリは乗ったバスを、早々に降りた。驚いたのと、問いのつもりで、アシㇼパは「えっ?」と発した。ヴァシリはすいすい歩いて行ってしまう。
    「もう降りるのか?」
    「すぐそこだ」
     そんなわけがない。
    「いつもは節約で歩いてる。きょうはアシㇼパのエスコートだから特別」
     得意げにするな。ふたり似たような履きつぶしたスニーカーで、エスコートもなにもあるか。
     イギリスはいまでも貴族の国である。土地や建物の所有者は全国民のほんのひとにぎりの王侯貴族であり、庶民は賃貸権を得て土地や建物を利用している。
     なかでもロンドンの一等地はすべてひとにぎり中のひとにぎり、名家とよばれる特別な貴族の所有だ。ずらりと威容をはなつ、超大型デパート、超高級ブランド店、超一流ホテル、女王陛下のオーケストラでおなじみロンドン交響楽団の本拠地バービカン・センター。これらの投資で年間何億ポンドの利益を得ていることだろう。
     だからこんな都心部に、ヴァシリのいう、のどかなイングリッシュガーデンの、やさしいおじいちゃんおばあちゃんの住む一軒家の、絵本のやさしい魔法使いの住むような、すてきな下宿屋が存在するわけがないのだ。ドレスコードは許されるだろうか。なかなかヨレヨレの丸首シャツだ。
    「ここ」
    「あった……っ!」
     夕方五時。真昼の空。高層ビルに囲まれていながら、とおくのテムズ川を借景した、夏の花色とりどりに咲きみだれるうつくしい庭園。庭園と呼んでしまうと、作りものっぽい。足の踏み場は内側にはいらないと見つけられない寄せ植え花壇、魔女の隠れ家、おばあちゃん自慢のお庭。
    「うそみたい」
    「どうかしたのか」
     レンガ造りの建物へはいるには、門というより、樹木のトンネルをくぐっていく。風のそよぎ。ここだけ時間がとまったようだ。ここだけ大気汚染を知らぬように、空気が澄んでいる。赤ちゃんの泣き声がきこえる。子供がきゃっきゃっとはしゃいでいる。木漏れ日。レースと綿を敷きつめたぴかぴかの乳母車があって、ラベンダーとミルクのにおいがしてくる。
    「ヴァシリ、わかってないのか。わかってるわけないな。おまえってやつは……、それでこそヴァシリだ」
     アシㇼパは黙っていることにした。みんなは都心の超一流ホテルに長期滞在なんてできないから、地下鉄とバスではるばるかよっているんだぞ。ロンドンは、英国は、革命でも起きないかぎり貴族のものでありつづける。ロシアもまだツァーリがいたなら、サンクトペテルブルクはこんな街だったんじゃないか。下宿屋のじいちゃんばあちゃんてなにものだ。
    「たのし~!」
     そんなのどうだっていい!
    「きゃー!」
     右腕にジョージ坊や、左腕にロッティをぶらさげて、ヴァシリはメリーゴーランドになっていた。この奉仕さえしていれば、口下手でチェス下手で楽器ができなくても、面目が保たれた。メリーゴーランドのためのピアノワルツを奏でるのはダイアナだ。ヴァシリに気づかったのか、次の曲はチャイコフスキーの花のワルツ。長丁場だ。
    「アシㇼパ、酒はのまないと言ってなかったか」
    「権利はある! いいか、酒を飲むのにはふたつの理由がある。そのひとつは、のどが渇いたときに、その渇きをいやすため。もうひとつは、のどが渇いていないときに、渇くのを防くため。だが予防は治療にまさる!」
    「いいぞ!」
     ロッティのママが合いの手をいれる。その夫、ダイアナたちの息子は赤ちゃんの涎をふき、ほほえんでいる。チャールズはアシㇼパが鞄の底から発掘した、使いふるしの携帯用のマグネット将棋ボードに夢中だ。息子が将棋のスマホアプリをいれてあげていたが、明日にはルールを忘れ、「将棋にはクイーンがいないなんて、破綻してる!」と言いだすだろう。
     気まぐれな子供たちが、フルーツを食べたい、ヴァーシャのお膝で、と無邪気によじ登ってくる。ロッティの、紙オムツのやわらかい尻。ジョージはもう布パンツのようで、肉のついていない尻の骨がごりごりあたって痛い。その点、ウシャブティの尻はふかふかだった。ふにふにだった。
    「うん? じゃあもうミイラじゃなかったってことか? 水分量が?」
     アシㇼパとダイアナはバラのワインで酔っぱらう。
    「ほらあ、またミイラミイラ言ってる~」
    「ヴァーシャは毎日この調子でね、みんなに応援されてるのよね。サンドイッチ屋のおじさんにも、コーヒースタンドの美女にも、池の鴨にも、ビッグベンにも」
    「アハハウフフ!」
     息子夫婦が「いいね」「がんばれ」と励ます。
     私は亜麻布をかさね詰めこんだ、ミイラの臀部の感触が気になっただけだ。生身の肉だったなら、おかしな勘違いさせたのも、無理はなかったか。
    「ヴァーシャぶどう」
    「はいはい」
    「ぼくじょうずにぶどうむける!」
    「じゃあ妹のぶんも剥いてあげて」
    「やっぱりできないぃ」
     黙々とぶどうの皮を剥き、こっちの子のくちにほうりこみ、剥き、あっちの子のくちにいれ……、いつの間にか子供たちはヴァシリによりかかって、食べながら眠ってしまった。
     母親が子供たちのくちをほじくり、食べかけのくだものをとりだす。アシㇼパがロッティをひきうけ、ヴァシリがジョージ坊や、父親が赤ちゃんを、家族の泊まる部屋に運んだ。そのとき慣れない感謝をされ、ヴァシリはきょどきょど目を泳がせた。
    「父と母がとてもたのしそうだった。これからも彼らをよろしくたのみます」
    「いえ、迷惑かけてるのは私のほうだから。ほんとうに、毎朝毎朝、すごい迷惑を」
    「時間は大丈夫かな」
     彼がピッとひとさしゆびを天井へむける。キンコンカンコーン。鐘の音が四回。
    「アシㇼパを送ってから、いくんだろう」
     チャールズは泊っていけと言うが、ダイアナはタクシーを呼んでいた。ゴーンの音は十回。ブラックキャブのハイビームが廊下を照らしだす。
    「ちょうど来たね。おやすみ、ふたりとも。きっとまた父母と遊んでやってくれ。ずっとたのしい魔法が切れないように。さあヴァシリ、急がないと」
    「え? あ、ああ」
     ねんごろにアシㇼパとの別れを惜しむダイアナを、チャールズがひきとめる。「だから泊っていったらっていってるのに」「それはいけないの。嫁入りまえの娘さんよ」こういうのは出発しないかぎりおさまらない。ロッティのママが「大丈夫だから、またね」とウインクし、手をふる。
     タクシーの運転手はダイアナに含められていたか、行き先を告げずとも出発する。なめらかな運転、夜でも紳士的な白手袋と所作。そのバックミラーの左右。
    「ワッ! ネコだ!」
    「ぎゃっ! ちいさいネコがいる!」
     二匹の猫がはりついていたのだ。運転手は紳士的にほほえむだけ。おおきな目をしたちいさな二匹の毛玉。
    「かわいい」
     きょうだいだろう。模様もおおきさもそっくりおなじだ。
     右の猫は運転手の握るハンドルのうえに飛び降り、クラクションを鳴らさないよう中央を避け、後部座席へにじり寄り、左は助手席からすたすたやってきて、むぎゅう。二匹それぞれヴァシリの膝にしがみついた。
    「なんで私っ」
    「猫は苦手か?」
    「そうでもないが、そういう問題でもない。ちょっと、運転手さん」
     なんと運転手はにゃおぅと鳴いた。眉間に斑点ができている。子猫たちとおなじブチ。黒の目化粧。誇りたかきブラックキャブの制帽。パリッとしたスーツ。テノールでニャア。キャッツだ。ロンドン発の世界一のミュージカル作品。運転手は魔術師のミストフェリーズと化す。
    「もう着きますよ。お嬢さんをおろして、ホテルまで見送ったら、いそいで博物館にお連れしましょう。お待ちですから。それはもう、首をなが~くして、待っていますから」
    「博物館だって?」
     ヴァシリはミストフェリーズの肩に手をかけた。ハンドルはゆるがない。
    「どういうことだ、警察を呼ぶ」
     みゃー、と両膝の子猫がうなる。
    「落ちつけヴァシリ」
    「そうですよ。おっとっと、信号無視しちゃったじゃないですか」
    「化け猫め!」
     ミストフェリーズはアクセルを踏みこんだまま、両手をあげて降参のポーズをする。
    「私はその子猫コたちに洗脳された、ふつうの運転手ですよ。そして彼らはあなたを待つひとの使いです」
     酒がはいっているせいだろう。アシㇼパはすべてわかっているかのように、すんなり納得する。
    「ふむ。踊り子のミイラだな」
    「こんなのおかしい」
    「ヴァシリ。私たちにも、似たような物語が伝わっている。……でも時間がないな。お話はこんどにしよう」
     車は当初のとおりの紳士的な運転で、彼女の宿泊先に到着した。
    「なんだかよくわからないが、ちゃんと間にあわせろ。おやすみ猫ちゃんたち」
     アシㇼパが扉の奥に消える。ヴァシリは車外に出してもらえず、化け猫の運転に身をまかせる。
    「急がねば。鐘に遅れたら、すべてが水の泡だ」
     不自然なほど、とおる信号のすべてが青になった。まるで貴賓のパレードだ。間隔が五秒しかないところもあった。歩行者のいない時間だから許される。どういうことだ、なんなんだ。
    「あなたが裏切るなんて、みんな思っていません。だがあまりにも無関心です。私はつよく非難しますよ」
    「……」
     ウシャブティのことである。それくらいはヴァシリにもわかる。両膝の子猫は見れば見るほど、ウシャブティの両膝の刺青にそっくりだ。当夜中、に拘っているのもあいつだ。水の泡? 私はなにも聞かされていないのに。
     三度のキンコンカンコンが過ぎた。あと一五分。
    「着きますよ。走りなさい」
     キイィ――つよくブレーキ。ドアも勝手に開く。
     走るのか。
     ヴァシリは、走った。
     ふたつの毛玉が先導する。想像以上にすばやい。
     ロンドンの摩天楼に囲まれて、星屑がこぼれだしていた。青銅の柵が押さずにひらく、白亜の神殿を模した正門、イオニア式列柱、その下、階段で難儀している人影。
    「ウシャブティ!」
     ぱっと顔をあげた彼は、鼻がセンサーになっているように、顎をあげ、ヴァシリを探した。ぎこちなく両腕が宙をおよぐ。見えていないのだ。胴はかたまっている。足底筋群が動かない、ほんとうにつまさきのゆびのちからだけのつまさき立ち。その左右の膝に毛玉たちが飛びつく。
     ヴァシリはウシャブティの手をとった。
    「私だ。ヴァシリが来たぞ」
     ウシャブティは皮肉げにくちをゆがめることもできない。ゆびがヴァシリの髭をなでた。ほぅ、と吐いた息は乳香と没薬のかおりがする。
    「ハンドベルだろう。鳴らそう。どこかな」
     館内への入り口でそわそわする彼女を見つけた。ヴァシリは棒のようになったウシャブティを小脇にかかえる。彼の重量がない。かすかすのミイラになっていた。
     ウシャブティの手に自力でおさまった金剛鈴を受けとり、鳴らす。
     ちいさな毛玉たちはいつのまにか消えていた。
    「はあぁ」
    「やれやれ」
     誰のため息か。博物館中が安堵の息をしたのだった。そのあおじろい光のなかへ戻っても、ウシャブティはものが見えない様子だった。
    「どうした。疲弊しているのか」
    「外で魔法をつかったからにきまってんじゃん」
     きんきん声の主は、蝉のようにすきとおった翅、鳥の脚、象牙色の裸身、金の猛禽類の目、メソポタミアの有翼のイシュタル、あるいはエレシュキガル像であった。かつての所有者、骨董商の名をとり、別名バーニーの浮彫、のちに大英博物館が「夜の女王」の名をつけた。イラクで出土した紀元前千八百年頃の素焼きの女神である。
     イシュタルもしくはエレキシュガル、体長三十センチほどの女神は、ヴァシリの頭上を旋回する。おおきめの乳房をぶるんぶるんゆれる。
    「あんた、駆けひきかなんだか知らないけど、気をもたすだけもたして、焦らすだけ焦らすの、いい加減にしてやったら? 駆けひきなんかする男、クソクソのクソって一万年まえから決まってんのよね。この子を試したってなにも出てこないわよ。私とおなじ、堂々たる一神教の敵、バビロンの大淫婦よ! でもこの子はただの人間なの。古今東西でもっとも聖なる陶酔の贄なの! それが受けいれられないなら、とっとと身をひいてやんなさい。あんたが脱落しても、あの子は責めないわ。あきらめて眠って、またただの死人になるだけよ」
    「うわっ」
     鳥の鉤爪の足で顔をひっかかれる。
    「おねえちゃんやめなよ」
     雌ライオンが、ぐわっと飛びかかり、女神の首根っこをつかまえた。バーニーの浮彫の女神の足元に控えている二頭のライオンの一方だった。
    「もう今夜は時間なんだから、おねえちゃんがきーきーしゃべってちゃだめじゃない」
    「だってこいつったら!」
    「男なんてそんなものでしょ。おねえちゃん理想が高すぎなのよ」
     翅のぎちぎち鳴ったまま、言い争う声がはなれてゆく。
    「ウ、ウシャブティ……」
     くろい目はいつもと変わらない。まなざしがちがう。彼は「またあした」の魔法も使えずにいる。
    「毎晩、欠かさず、かよわないといけないルールだったのか」
     夏休みは泊りがけでイギリス南岸、フォート・ネルソンの武具博物館に行く、とは言いにくい。ロイヤルアーマリーズ、王立武器防具博物館は、えぐい拷問器具を展示するための、イギリス最古の博物館である。大砲、甲冑、鎖帷子、小銃、ボウガン、日本刀、わくわくする。いくつになっても男子は火器をふりまわすのが好きだから。
    「ウシャブティと話せたらいいのに。知りたいことがいっぱいある。私だって、ほんとうのおまえに会いたい。そうだ、調べているんだ。故郷はブバスティスなのか? そこでおまえは神殿につかえていて……」
     鐘が鳴ってしまう。
     鳴り終わったら、またベッドのうえなのだろう。厳然たるルールが支配している。
    「……明日もくる。元気になっていてくれるか」
     私はじき、国に帰らなければならない。そうしたらおまえ、どうなるんだ。ウシャブティのゆびを握る。握りかえす、第一関節までの水分量。
     その夜のふしぎはそこで終わった。
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