3日目はたまには一息をしとしとと雨粒が窓に当たる音が聞こえる。
今日も早朝に黒龍は居なくなっているのを希は微睡んだ意識で感じていた。
一時間ほどすると戻ってきたが、雨が降ってたせいかびしょ濡れの状態でシャワー室に入る。
20分程で出てきた黒龍はタオルを頭から被って下半身にスラックスだけ履いただけの状態でソファに座ってテレビのニュースを見ていた。
希は何となく黒龍の隣にちょこんと座った。
「先輩、いつも朝早く部屋を出て行きますけど何処言っているんですか?」
「ジョギング」
「毎日やってるんですか?」
「いざ戦う時に体力がありませんでしたなんて通用しないからな。何処ぞの、誰かと、違って生き倒れる事はない」
ぎろり、と視線を向けられればそっと目を逸らし視線が合わないように顔ごと背ける。
すると普段余り見ない黒龍の身体が目に入る、無駄を一切排したなだらかな男らしい肉体と──
「それ、傷跡…ですか?」
「大した事はない、ただの傷跡だ」
大したことはないと本人は言うがその傷跡は黒龍の左肩から右の脇腹にかけてまでまるで袈裟斬りでもされたかのような傷跡だった。
他にもよく見れば細かい傷跡や視認できる跡もありそれは彼が数多の戦いで生き残ってきた証のようにも思えた。
「…痛く、なかったですか?」
「俺を何だと思っているんだ?傷付けられれば痛みぐらい感じる」
「でも痛いの嫌じゃないですか」
それは希なりの気遣いなのか優しさなのか、はたまた別の感情なのか柔らかな手付きでそっと腕に刻まれた傷跡をなぞる。
「痛みは俺を人間だと思い出させてくれる、流石に血を出し切れば俺とて死ぬ」
「だから、痛みは俺にとって必要なものだ」
「もう良いだろ、それとも俺の身体に興味があるのか?」
黒龍の身体に触れる手を握ってやりわざと胸板に触れさせれば「違います」と慌てた否定の言葉に黒龍は満足そうに笑って、希を解放すれば洗面所へ向かう。
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「今日は雨だから体感温度が低くなりがちで身体を冷やしやすい」
「お前のような細い身体じゃすぐ冷えそうだからな」
そう一言多めに言いながらテーブルに並べられたのはほかほかと湯気が上るコーンスープ、こんがりと表面が焼かれたパンに挟まれているのはトロトロの半熟卵にトマトやレタスなどが見えるサンドイッチだった。
「わぁ、今日も豪華ですね!」
「…これで豪華とは貧相な感性をしてるな」
やれやれと黒龍は呆れつつも「いただきます」と声を出してサンドイッチに齧り付く、黒龍の体格が大きいせいか希の前に置かれたサンドイッチと大きさは同じ筈なのに少しだけ小さく錯覚してしまう。
希も続いて「いただきます」と声を出してサンドイッチに齧り付く、ザクッと気持ち良い音と共にトロトロの半熟卵が口の中で広がる幸福感に包まれた。
咀嚼を進めればトマトの酸味やレタスの食感、そしてパンに塗られたソースが一体となってあっという間にごくりと飲み込んでしまった。
「これソース何を使っているんですか?」
「マヨネーズと粒マスタードを混ぜた簡単なものだ」
それはとても美味しい奴だと希は確信した、そのまま食べ進める前にコーンスープを飲んだ。
味は美味しいコーンスープなのだが飲み進めると異様に身体がぽかぽかしてきた不思議そうに首を傾げれば、黒龍が肩を震わせながら口を開ける。
「クク……それは生姜を入れたものだからな、身体が温まるのはそれのせいだが…俺が変な物を入れたと警戒したか?」
「……その可能性もありましたね」
ジトリと黒龍に視線を送れば、今度こそ耐えきれず吹き出して笑った。
何だか遠回しに子供扱いされた気がして少しムキになってその後は無言で食べ切った。
黒龍はこれ以上揶揄う事はなかったがニヤニヤとしながら完食した。
今日の仕事も資料整理と変わらないもので同じように仕事をして弁当を食べて仕事をしてを繰り返しているうちに勤務時間が終わりを告げた。
すると黒龍が希を見つけるなり首根っこを掴んで何処かに連れ出していた。
「せ、先輩!なんですか急に!!」
「お前、最近胃の調子はどうだ?」
「え、あの、まぁ先輩に面倒見てもらってる通り良くはなってますけど……」
「なら、遠慮は必要ないな?」
そう言ってぽんと投げ出されたヘルメットを受け取れば黒龍はバイクに跨っており、後ろに乗れと促される。
逃げられないと覚悟を決めた希はヘルメットを被って後ろに乗った。
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そうして十分ほどバイクで走った後、止まる。
其処はどうやら個人経営らしき店であり黒龍はツカツカと先を歩き店に入る。
慌てて希も黒龍に続いて店内に入ると美味しそうな匂いがふわっと香る。
「いらっしゃいませ!二名様ですか?」
「空いているなら個室でお願いします」
「空いてますよ!個室二名様です!」
「おい、何をぼんやりしている、置いていくぞ」
滅多に聞かない上司の敬語と見た事ない店に呆けていれば黒龍の声にハッとして後を追いかける。
和風な店内らしく個室には掘り炬燵と畳が敷かれており黒龍はさっさと席に着くなりメニューを開いた。
「お前もさっさと食う物を決めろ」
「えっと、はい…ってえぇ!?」
言われた通りメニューを開いて見れば美味しそうな和食の数々に目を奪われそうになって値段を見て思わず声を上げる。
「あ、あの先輩、これ桁…払えないですよ…」
そう、店は店でも高級和食料理店だったのだ。
新人なのでまだそれほど貯金もない希にはとてもじゃないが払えないと目の前が眩む気持ちだった。
「俺が奢る、好きに食え」
「せ、先輩…」
「その分、そのガタガタな体調を何とかしてみっちり身体で払ってもらうがな」
一瞬警戒しそうになったが、恐らくこの言い回しは体調を良くしてから働けと言う事だろうと希は思うことにした。
値段を余り見ないようにしつつもメニューから美味しそうと思った物を注文していく。
数分後、運ばれてきた料理の輝きに希は再び目が眩みそうになる。
グツグツと煮ったそれはすき焼きだった、水菜と大根、飾り切りされた人参にサシの入った牛肉が熱によって少しずつ火の通っていく様子に生唾を飲み込んでしまった。
一方の黒龍は同じようにグツグツと煮ったそれは白い豆腐がいくつか浮かんでおり、その周りには薬味の小鉢が置いてある湯豆腐と、カリカリの衣に纏われた内にあるものはしっとりとした肉質を覗かせ肉汁を滲ませる牛カツ、そしてご飯だった。
「こ、こんな豪華なの本当の本当に良いんですか…?」
「食わなきゃ俺が食うだけだ、いただきます」
「いえ!これだけはだめです!…いただきます」
そっと肉を箸で摘み上げ溶き卵に潜らせたものを口に入れる。
甘い、良い肉は甘いと聞くがクドさが一切感じられなかった。じゅわぁと広がる美味さに思わず希は体を震わせた。
野菜も肉もどれも一級品で口に入れる度に多福感が込み上げてくる。
黒龍はそんな希の様子を見ながら黙々と食事を続けた。
「こんな美味しいお店で奢ってもらえるなんて思いませんでした、美味しかったです」
上機嫌で黒龍に話しかければ無言でジッと見られて希は困惑する。何か粗相をしたんじゃないかと思うがこれといった心当たりがなくどうしてだろうと思案する。
だが、今度は黒龍が顔ごと背けてバイクに跨った。希はどう返したらと思ったが適切な言葉も見つかるはずもなく帰り道はなんだか少し寂しかった。
寮に帰宅して早々、黒龍は寝支度を整えてベッドに入った。
無言の時間が心にチクチクする思いで希は黒龍に対して口を開いた。
「先輩、その…何か悪い事しちゃいました?」
「お前が気にする事ではない」
「でも」
「新人の癖に俺を心配するとはな」
むくりと起き上がり、赤い瞳が希に向けられる。
何故だかその瞳はいつもの射抜くような視線ではなく何処か柔らかさを感じる物だった。
「先輩…?」
「だが、お前に心配されるほど問題はない。悪いが先に寝かせてもらう」
そう言って一方的に会話を締め括れば、もぞもぞと布団に潜っていく、答えを全く貰えなかった希は慌てて黒龍を揺さぶり起こそうと身体に触れると熱さに驚いた。
ビクリとして離れてしまったがもう一度触れれば肉体の熱さが手に伝わる。
「先輩、熱が…?」
「………気のせいだ」
「気のせいじゃないですよ!?」
慌てた希は職場の人に鬼電する事となり、強制的に黒龍の発熱が周囲にバレる事となるがそれは翌日の話である。