とある書物を求めダイアゴン横丁を訪れて早々にシグレケントは後悔した。見るからに人が多い。ついでに声変わり前であろう甲高いそれも彼方此方から聞こえる。そう言えば入学案内が届く時期だったかと思い出す。自分も声の主達と同じく期待に満ちわくわくとした感情を六年前に抱いた筈だが、とうに忘れてしまった。それでもここまで浮かれてはいなかったと思う。買ってもらったばかりの杖(流石に箱の中だが)を振り回しはしゃぐ、数十日後には後輩になっているであろう彼らを横目にシグレは歩幅を半歩分広げる。人混みの中ではこれが限界だった。
上手くいかない日はとことん上手くいかないものだと諦めるには些か癪だ。目的の書物に出会えず本屋を求め大分奥まで来てしまったのだから。この先はあまり立ち寄りたくないが、少し進んだ先に品揃えが変に良い本屋があるのを知っている。大ベストセラーを置かない癖にマイナー著書を全巻揃えていたりする、最後の希望だった。人は、特に子供はもう見かけない。ならばと更に半歩分遠く、足を踏み出した時だった。視界の隅で明るい髪色をした少年が横道に入っていくのを捉えた。先程まで見かけないと思っていた存在であることも、その道の先が子供には早く、危険な世界と知っているから意識が向いたのだとシグレは瞬時に理解した。その先はノクターン横丁だ。
「そこの君、戻りなさい」
監督生のような口振りだと思った。そんな面倒臭いものにはなりたくないが、校内での評価や就職、こと魔法省のように経歴を見がちな機関へのアピールには持ってこいである。やる価値はあるか。逸れつつあった思考を戻しシグレは少年の背中に声をかけた。忠告はした、このまま進んでしまうならそれはもう仕方なのないことだ。うん、やはり自分は監督者には向いていない。興味がない相手の面倒を見てやる慈愛の心など持ち合わせていないのだから。少年は足を止め、振り返る。
「それより先に進むのはお勧めしません。早くご家族のところに戻った方が良いですよ」
闇の魔法使いや道具が其処此処にある様な場所、と言っても良かった。そうすれば大半は顔を青くして恐怖に震え踵を返すだろうし、何なら二度と近寄らなくなるかもしれない。しかし、一方で好奇心を擽ってしまう可能性も否めなかった。吹き込んだ責任は負いたくない。どちらかと言えば目の前の彼は後者だと直感が告げている。
少年はシグレを頭のてっぺんからつま先まで見やって「わかった」と頷くと薄暗い路地に背を向けた。やんちゃそうな顔をしている割に素直だなとシグレが頭の片隅でボヤいた瞬間、霞のような霧のようなぼんやりとした何かが発生し、明確な意思を持って少年の身を包もうと路地いっぱいに広がった。異常に気付いているが身体が竦み立ち尽くす少年に向けて咄嗟にシグレは右腕を広げ叫ぶ。
「おいで!」
弾かれたように少年の身体が動き、シグレの懐に飛び込んだ。次いでシグレは左手で構えた杖の先を路地に固定した。
「ルーモス マキシマ!」
強い光が辺りを照らしそれに驚いたのか靄は霧散したようだった。そう仮定するのは呪文を唱えた直後シグレは片腕に少年を抱え、逃走へ舵を切ったからである。一度振り返ってみたが靄は追いかけてこなかった。それでも最後の希望である本屋とは逆方向に、兎に角走った。
日が傾いてきたせいか混雑は解消されているが、尚も賑わう横丁の空気に安堵した。来たばかりの時とは逆の心境に嫌気がさしたが致し方ない。シグレは小脇から感じる不服そうな視線に気付き、少年を降ろしてやった。礼を言われこそすれど、その様な態度を取られる覚えはないのだが。それが伝わったのか少年はもごもごと口を動かし「助かった、ありがとう」と小さな声で、それでもはっきりと謝辞を述べた。これがこの子の精一杯なのだろう。危機と恐怖を前に何も出来なかった己の無力さと浅はかさを認めたくないが、助けられたこともあって事実を理解し、悔しさと羞恥に苛まれながらも保つべき最低限の礼節を搾り出した。自分の態度から察し行ったのであれば、それなりに聡い子だなと知見を改め、シグレは「どういたしまして」と年長者らしく振る舞った。
「ご家族とは合流できそうですか?」
「……あそこ」
少年が指差す先にはそれなりに身なりのいい女性が、似たような雰囲気を纏った年配の女性と話し込んでいた。まだ喋ってら、と悪態をつく少年の口ぶりは母親を恋しがるものではなく、諦めを含んでいた。
「まだまだかかるぜ、アレ」
「お父さんやご兄姉は?」
「親父は仕事、キョーダイはいない」
「そうですか」
「おにーさんさ、何してる人?」
「何も。まだ学生の身分でして」
「え?!そうなの!?オレはてっきり……」
はっとして手を口に当てる姿は可愛らしさを感じたが、もしやおにーさんまでリップサービスかと思うとシグレは失笑した。それでも来年には働き始めているのだから誤差だと持ち直した。
「じゃあもしかしてホグワーツの先輩?オレ今年入学すんの」
「え?」
今度はシグレが面食らう番だった。幼さが残る顔つきと体格故に、その年齢よりも二つ、三つは下だと考えていたし今日だって兄姉の買い物か何かについてきたのだとばかり思い込んでいた。今になって、咄嗟に出たものとはいえアレは不相応の対応だったかもしれないと過ったが、結果どうにかなったのだから良しとしよう。
「なんだよ」
「いえ、何も」
「ふーん…じゃ、おにーさんは何しに来たんだ?買い物?」
話し込んでいる母親にはもう目もくれず、シグレへ向き直った少年は会話を続ける。
「えぇまぁ、本を買いに。しかし中々買えなくてね」
君と会ったあの先にも本屋があった、と言うのは意地悪だなと流石に口を噤む。こんなのは最早八つ当たりだ。
「何の本?オレも探すよ」
「お気持ちだけで十分ですよ、昨日発売したばかりでしたがこの辺りの書店は全てダメでした。あまり部数もないのでしょう、それに売り手が、買い手を選ぶ…」
これも口を噤んだ。同じく八つ当たりのようなもので、目の前にいる相手に言うことでもない。少年は不思議そうな顔をした後、思考を巡らせ、一瞬眉間に皺を寄せた後、シグレの手を取った。
「わかったかも。なぁ、一回だけチャレンジしてみねぇ?」
「何をですか?」
少年が手を引く方向には本屋があった。お前に売る本はないと酷いあしらわれ方をした店だったので心象が悪くシグレは眉を顰めたが、少年の熱視線に負け大人しく着いていくことにした。少年はそのまま手を繋ぎ、それこそまるで兄弟のように親しげな空気を出して書店に踏み込んだ。店員が来客者を一瞥し、先に視界に入ったシグレを鼻で笑おうとしたが少年を見て驚いた後、にこやかに笑った。おやどうしました?書い忘れですかな?なんて明らかに自分の時とは違う対応に苛立ちを覚えたが、店員はシグレを気にもせず少年と二言三言話すとある本を奥から持ってきた。それを見たシグレは声を出しそうになったが堪えて、努めて何も知らない付き添いの体を装ったまま店を後にする。あれほど探し回った本が少年の腕の中に納まっている事実に頭が痛くなる。徒労の時間を返して欲しいし、ついでにこの苛立ちを物理的な暴力で店員に返してやりたい。後者はともかく前者は魔法でもどうにもならないことだった。
「はいよ」
店から少し離れた場所で少年は本をシグレに差し出した。
「ありがとうございます、お代を」
「いーよ、助けてもらった礼」
ぐい、と力任せに押し付けられた本が悲鳴をあげたがどうでもよかった。魔法省で働くお偉いさんを煽てるための内容さえ分かれば就活の手札は増やせるのだから、表紙にデカデカと印刷された著者の顔が幾ら歪んでも差し障りない。
「君、純血なんですねぇ」
思ったよりも低い声になってしまったと気付いた時にはもう遅かった。シグレは平然を装う。純血を呼称する一部の魔法使いは、それはそれは血筋を重んじている。更には血に優劣をつけ、自分らを優、その他を劣として貶む傾向にある。こと魔法を使えないマグルのことを口汚く罵り、彼らを両親に持つ魔法使いですら時折このように差別する。シグレがホグワーツに入学し魔法の次に驚いたのがこの扱いだった。曰くマグルの世界にも同様の侮蔑は存在するがシグレ自身がその立場になるとは露にも思わず、お陰様で純血に対して強い忌避感と並々ならぬ敵愾心を持つ事になった。
先ほどの店は純血贔屓だ。純血の著者の本を求められ大層上機嫌に知識をひけらかせるモノだからつい、そんな事流れる血が異なる私でも知っていますよ、なんて返した結果だったのは理解はしていた。残りの店は単に入荷が無かった。超マイナー著書だった。
「もうオレらの世代で純血なんて居ねーよ。ま、使えるもんは使うけどさ」
予想外の台詞に意識を戻す。純血一族は皆揃ってその言葉を否定する。今日初めて会った相手の知見を何度も改めるのは珍しい。暇を持て余して親から離れ危険な目に遭う一面と、こうして自分を俯瞰的に見ては状況を上手く使おうとする賢い一面がギャップと言うべきか、シグレにとって目新しい存在であることは確かで、少しだけ楽しくなった。
「てかさ、おにーさん純血嫌いだろ。それなのにその本欲しかったってことはさ、オレ結構役に立った感じ?」
下から覗き込んでくる目は爛々としていた。自信があるのだろう、期待している言葉もわかった。うっかり口を滑らせた時よりも愛嬌のある顔だと思った。
「えぇ、とても。君のおかげで、助かりました」
満足げな少年の隙を見てポケットに本の代金を差し込んだ所で漸く少年を呼ぶ声が聞こえた。せっかく母親に呼ばれたと言うのに、ゲッ…と嫌そうな顔をしたのがシグレは面白かった。後ろ髪を引かれるような様子でちらちらと見てくる少年にシグレは小さく手を振った。あの母親に謝辞を述べた所で少年には還元されないだろうことを悟って敢えて何も言わず、小さくなる後ろ姿を見送ってから呟いた。
「またお会いしましょう」
◆
新入生歓迎の式典を終え無事七回生に進学したシグレは早々に図書館に入り浸っていた。情報を収集することは何に対してもアドバンテージが取れるし、そもそも知識を得ること自体楽しいものだと思う。ホグワーツの本棚に収まる膨大な蔵書は六年かけても終わりが見えるどころか、精々二、三割しか目を通せていないのだろう。夜も深まりいい加減戻りなさいと教師に怒られた所で、数冊の本を片手に寮へと戻る。クイズを解き談話室の扉を開いた途端、自分の名前を呼びながら飛び付いてくる少年をシグレは受け止めてやった。既に遅い時間なので人は居ないが、その声量は何人かの眠りを妨げたかもしれない。
「おまっ、やっ、やっとッッッ」
「あぁ、こんばんは。まだ寝てなかったんですか?ちゃんと寝ないと大きくなれませんよ?」
同じ青いローブとネクタイを付け明るい髪色をした、あの時の少年がシグレの腕の中でワナワナと震えている。
「入学式からずっと無視してた癖に、やっと出た言葉がそれかよ!」
「みんな寝てますから、もうちょっと声のボリューム小さくできますか?」
真っ当な指摘に少年が唸る。その間に少年をソファに、書物をテーブルに置いたシグレは二つカップを部屋から持ってくると談話室に置かれている棚からミルクを選び注ぐ。片方にはハチミツを垂らし、温めるとそちらを少年に手渡してから対面側のソファに腰掛けた。
「好きで無視していた訳じゃないですよ、あのね、入学したての君が七回生の私のところに突進でもしてみなさい。新学期早々目立ちたくないんですよ」
「だってさぁ、メモ渡してきたのシグレじゃん」
「だから?」
「…オレが入学して来るの、待っててくれてるのかと思った」
いじらしい程真っ直ぐな返答に緩む口元をカップで隠す。ホットミルクのおかげか少年の頬は血流が良いようだ。本の代金を滑り込ませた時、自分の名前と所属寮を書いたメモも一緒に入れていた。純血の親を持つこの子がたった一日、ほんの数時間を共にした自分をどこまで追ってくるか興味があった。結果、彼は親が望んでいたであろうスリザリン入りを蹴ってまでレイブンクローに入ってきた。組み分け帽子に喧嘩を売る勢いで祈ったんだぜ、とは、目の前の彼の言葉だ。
「…聞いてる?」
「えぇちゃんと。入学入寮おめでとう、ヤマブキチハル君」
「っ、名前…」
「だからちゃんと聞いたし見てましたよ?」
怒りたいのに喜びが邪魔をしてくる。そんな顔つきで自分を見るヤマブキにシグレはいよいよ笑ってしまった。
「何で笑うんだよ!?」
「すみません、あまりに反応が可愛らしくて」
「オ レ は!男!!!」
「わかっていますよ、ごめんなさい。君が来てくれて私は嬉しいです」
ヤマブキは残っていたミルクを一気に飲み干し、雑にローブで口元を拭った。
「じゃあちゃんと面倒見てくれよな?」
「えぇ。後一年しかありませんけど」
「とりあえず一年、な。つかまだ先だけど冬休みさぁ、オレ家帰らねーからシグレん家泊めてよ」
「……ん?」
「親父もお袋もスリザリン行かなかったのが嫌だったみてーでよ、小言言われんだわ。だから絶対帰りたくねーの」
「………」
「オレさぁ、マジで寮自体はどこでも良かったんだよ。両親2人ともスリザリンだったらしいし、まぁそーなるかなって思ってたんだけどさ」
「……私のせいだと」
「オレが来て嬉しいんだろ?」
六つも下の後輩が自分相手に狡猾に笑うのを見てシグレは思い出す。そう言えば六年前、入学したての自分もこんな顔をしていた気がする。興味がない相手の面倒を見るのは御免だが、自ら招き入れた虎の子を可愛がらない理由はない。
が、育て方を間違えるととんでもない事になりそうだとまた直感が鐘を鳴らす。
――まずは、まだ喋り足りなさそうなヤマブキをベッドに向かわせる算段から始めよう。シグレはぬるくなったミルクを口にした。