この拳が護るもの① 1
闇を溶かしたような地獄蝶を横目に、隊士は道なき道を進む。
現世と尸魂界を繋ぐ狭間の領域〝断界〟。外界よりも時間密度が高く、例え死神であろうと地獄蝶の存在なしには安全に渡ることが難しいとされる危険かつ不安定な空間。何度かの現世任務を経て断界の横断には慣れつつあるものの、難しいことには変わりない。隊士は背中に冷や汗が伝うのを感じながら前を走る同胞に目を向けた。
かろうじてその姿を視認できるほどの薄闇の中、夏空を思い出させる鮮やかな青が同胞の動きに合わせて揺れている。彼が頭に巻いた、ゆうに六尺を越えるであろう青の手拭いは、小柄な自分が羨むほどの恵まれた体躯と合わせて彼の特徴とも言える要素だった。
護廷十三隊の中で、この隊士との付き合いはそれなりに長い。だからこそだろうか、この奇抜な格好に関しては時折口を挟みたくなるのが正直なところだった。それは戦闘において視界を遮る原因になることや、他の隊士の気が散る要因になりうること、敵に掴まれたら自分が不利になるおそれがあるなど理由は様々だ。
しかし一徹な同胞は首を縦に振らせない。こちらの言い分をひとしきり聞いた後、子どもを宥める親の声を作り、彼は決まってこう言うのだ――隊長のようになりたいから、その小手と同じ色を身にまとっていたい、と……。
一途と呼ぶには盲目的で、愚直と切り捨てるには純粋過ぎる憧れに、隊士が吐いたため息は数知れず。一方で、影では血のにじむような鍛錬を行っていることも知っている。隊の中でも抜きん出て鍛え抜かれた体も、努力の結晶に他ならない。
あとはもう少し、隊長のようにおおらかになってくれれば……そんなことを考えていると、同胞が首だけ動かして振り向き、「気を抜くな」と発破をかけてきた。
「尸魂界まであと少しとはいえ、ここでは何が起こるか……」
「分かってる、お前もな」
こちらが辟易したように返すと、同胞は再び前に目を向けた。
過敏になるのも無理はない。今回二人が現世に赴いたのは、とある地方での虚の大量発生についての調査のためだった。虚との交戦を避け、現地の状況の把握を行うために必要最低限の人数のみを派遣することとし、隊長の推薦により二人が選抜されたのだ。本来であれば明日まで現世に滞在し、虚の様子を瀞霊廷に報告する予定であったが、こちらが現世に足を踏み入れた時にはすでにそこら中に虚が跋扈しており、事態は急を要すると判断。早めに切り上げて戻ってきた。
迅速に帰還し、隊長たちに報告しなければ。緊張と興奮で逸る気持ちが焦りとなり、足がもつれてしまった隊士は、うわあ、と間抜けな声を上げて転んでしまった。
「ったく、何やってんだよ」
同胞が立ち止まる気配に続いて、呆れた声が降ってくる。すぐそこにはあちこちを走り回ったせいで汚れた同胞の足袋があり、地獄蝶までもがこちらを気遣うように飛び回るのを見て、こみ上げてきたいたたまれなさに苦笑いを浮かべることしかできなかった。
ふと頭をかすめた違和感に、緩んでいた頬が凍りついたのは、その時だった。
外敵の侵入を防ぐための気流である〝拘流〟。断界内で常に巡っているはずのそれが、今日は全く感じることができないのだ。
隊士は護廷十三隊に入る前の学び舎で聞いたことを思い出す。尸魂界から現世への通路が拓かれたのは、そう昔の話ではない。だからこそ、全ての事象が解明されているわけでもなければ、断界内の環境も不安定。何が起こるか分からないということだけが分かっているとのこと。死神にも人間にもどうすることができない何かが、三界のいたるところに存在しているらしい……やおら起き上がり、ただそこにあるといったふうの凪いだ空間を呆然と見つめていると、「早くしろ」と痺れを切らした同胞の声が聞こえた。
いかん、これ以上のんびりしていると次は雷が落ちる。気を取り直すと隊士は慌てて立ち上がり、尸魂界への道を走り出した。
穿界門をくぐると、そこは南流魂街五十三区郊外の山中だった。
「やっと着いた!」
隊士が同胞を押しのけて森へと飛び出せば、すぐ後ろから不満の声が上がった。だが断界を無事に抜けることができた解放感で満たされた隊士には、同胞の機嫌など吹き抜けるそよ風のように些細なもの。軽く伸びをしながら上を見れば、葉が落ち切った木々の先、雲一つない夜空には真円の月が浮かんでいた。
数日前の大雪など嘘のような、静かな夜だった。刺すような、という表現が相応しいほど鋭い冷気が頬を撫で、皮膚に染み込み、体から熱が奪われてゆく。現世の季節も冬だったが、寒さはこちらの方が厳しいのかもしれない。感慨に耽りながら深呼吸をし、数日ぶりの尸魂界の空気を肺に溜め込んだ隊士は山の遥か向こう、瀞霊廷がある方角を見据えながら、よし、と自分を奮い立たせる声を出した。
ここまでくれば、瀞霊廷まであともうひと踏ん張り。隊舎に戻ったらまずは隊長の部屋に行き、調査内容を報告したら何か腹に入れることにしよう。とにかく腹が減った。そして許されるなら日中はずっと眠っていたい。その前に風呂に入ってあたたまろうか。
そうだ、久々に同胞を誘って一番隊舎の露天風呂にでも行こうか。書類は後だ、後。まずは必死に走り回った自分を労ろう……次々と浮かび上がる自由な想像を口に出そうとした、刹那。背後から獣の唸りを思わせる低音が聞こえ、隊士は即座に振り返った。
すぐ後ろにいたはずの同胞の姿はどこにもなかった。代わりに開きっぱなしの穿界門から大きな影がぬう、と這い出し、乾いた地面に降り立つ光景がそこにはあった。
闇よりも黒いその影は、見間違うはずもない。先ほどまで現世で散々目にしてきたもの――虚だった。しかも自分の背丈の倍はあるであろう、大きな。
仮面に空いた二つの穴と目が合った瞬間、背筋が粟立つのを感じた隊士は、無意識のうちに数歩、その場から後ずさった。
あいつはどこだ――。
乱れかけた思考の中、真っ先に気になったのは同胞の行方だった。眼球を動かし、門の周辺をくまなく探すも、見知った死覇装はどこにもない。まさか……。脳をかすめた嫌な予感に胃が重くなりかけたところで、じっとしていた虚が、ぷっと何かを吐き出すのが見えた。
隊士の目の前に落ちたのは、根元から千切られた人の下肢だった。記憶が確かであれば、その末端を覆う薄汚れた足袋と擦り切れた草履は同胞の足を装っていたものと一致する……。
喰われた――理解した瞬間、全身の毛穴という毛穴から冷たい汗が噴き出すのを自覚した。前後不覚の恐怖に、震える足で立っているのがやっとというこちらを嘲笑うかのようにゆっくりと近付いてきた虚は、隊士の目の前に立ち塞がると、山全体を揺るがすような雄叫びを上げる。
ここから逃げなければならない。脳の冷静な部分では分かっているはずなのに、隊士はその場に立ち尽くすことしかできない。
「何をやってるんだ……僕が今できることを……!」
あふれてくる涙は、肝心な場面で使い物にならない自分への怒りが表れたものだった。ぼろぼろと頬を伝う涙を拭くこともせず、すっかり及び腰となった体に喝を入れた隊士はなんとか足に力を込めて地面を蹴り、退却への道を走りはじめた。
だが、隊士がその場を離れるよりも虚が腕を伸ばすほうが早かった。
「な……!」
あっさりと掴まれた隊士の頭は、虚が大きく開けた口へと押し込まれていく。頭部を締め付けられる圧迫感のせいで声を上げることもできず、抵抗も叶わなくなった隊士は闇に覆われ利かなくなる視覚の中、冷たさも、熱さも、痛みも、苦しみも、上も、下も、右も、左も、軽さも、重さも……自分の感覚の一切が絶望へと上書きされてゆくのだけを理解した。
直後、首筋から引き裂かれるような痛みが広がり、皮膚の下で頭蓋骨が軋む嫌な音が聞こえた。その衝撃を最後に、隊士の意識は永遠をさまようこととなる。
2
山のほうから下りてきた風に冷たいものが混じっていることに気付き、長次郎は頭上へと目を移した。空の低い位置を、冬の太陽がゆっくりと移動している。ここ数日で一番の快晴だった。久しぶりの穏やかな空気を脅かす雲はなく、荒れる気配のない空に、この間の大雪で山に積もった雪が風で運ばれてきただけだと結論付けたところで木刀同士がぶつかり合う鈍い音が聞こえ、長次郎は逸れかけた集中を前へと引き戻した。
今、七番隊舎の庭では乃武綱と弾児郎による模擬試合が行われている。
試合と名は付いているものの、隊の正式な訓練などではない。たまたま通りかかった卯ノ花が審判役を買って出てくれたため試合という形式になっているだけで、実際は木刀を用いた一対一での立ち合いに過ぎず、見学者も長次郎を含めて二人しかいない。当人たちが乗り気とはいえ、乃武綱と弾児郎が個人のためにこうして試合を見せてくれているのは、隊長格の戦いを見たいという要望があったためだ。
無論、言い出したのは長次郎ではない。長次郎は隣に立つ青年の様子を窺う。視線を感じたのか、やや緊張した面持ちで背筋を伸ばしていた青年は、乃武綱たちに向けていた目を長次郎に向ける、やれやれといったふうに口を開いた。
「長次郎、せっかく執行隊長と尾花隊長が我々のために立ち合いを見せてくださっているんだ。ちゃんと前を向け」
至極真っ当な指摘に、長次郎が「我々、ではなくお前のためだろう。源志郎は実践経験が少ないから」と返すと、青年は痛いところを突かれたとばかりに眉間に皺を寄せた。
黒髪の一部に線が入ったような白が混じっているのが特徴の隊士の名は沖牙源志郎。長次郎と同じ一番隊士だ。年は少しばかり上だと聞いているが、護廷十三隊への入隊は長次郎よりも遅い。一番隊士の中でも年が近いこともあり、ともに元柳斎のもとで働くうちにすぐに打ち解け、今ではこうして遠慮のない言葉を投げ合う仲となった。
「……仕方がないじゃないか」
長次郎の意見に、源志郎は声を漏らす。
「護廷十三隊の総隊長が現場に赴くなどめったにないこと。だから一番隊に内勤が多くなるのも必然。経験に乏しいのは事実だ……」
確かに、と内心で納得する。護廷十三隊では、一番隊の隊長が総隊長を兼ねる。立場だけでなく、実力も尸魂界随一とされる元柳斎ほどの人物が他の隊長たちのような任務を受けるというのはほぼ無いに等しく、よほどの有事でなければ動くことはない。
というよりも、動けないのだ。尸魂界の平穏を守るべき人間が、その平穏を脅かしかねない能力があるために。
だからこそ、自分がその目となり足となり動く必要がある。日々そう感じていた長次郎だが、ふと、元柳斎に付き従っていなければならない自分が他の隊長たちの任務に連れて行ってもらえるというのは、経験を積む機会を与えられているに等しいのではないか……恵まれている、ということに気付いたのだ。
あらためて隣を見る。顔を伏せた源志郎が、唇を真一文字に結んでいる。なんともいえない気持ちになってしまった長次郎が、かけるべき言葉を模索していた、その時。すぐそばで「わあっ!」と大声が弾け、沈思していた二人は模擬試合へと意識を戻した。
弾児郎の声だった。手入れが悪く傷んでいたのか、弾児郎が使っていた木刀が途中から折れてしまっていた。
「へへっ、もらった!」
思わぬ事態に頭が付いていかないのか、弾児郎が目を丸くして手元を眺めていると、それを好機と見た乃武綱があくどい笑みを浮かべて木刀を振り上げる。奇襲に近い攻撃に、しかし一瞬で我に返った弾児郎は折れた木刀を放り投げると顔の前で腕を十字に重ね、青い小手で乃武綱の木刀を受け止めた。
ぬかるみとなっている雪解けの地面に、弾児郎の草履が沈む。足の指先に力を込め、なんとか堪えた弾児郎は持ち前の膂力を発揮して木刀を押し返すと、よろめいた乃武綱の顔に真正面から拳を喰らわせた。
ある程度手加減をしているだろうが、痛そうな一撃だ。後方に吹っ飛び、尻もちをついた乃武綱を見ながら長次郎がそんな感想を抱いていると、「勝負あり。尾花殿、一本!」という卯ノ花の声が響き渡った。
「凄い。あの執行隊長を吹っ飛ばした……」
弾児郎の力技に呆然としながら、源志郎が呟く。細身とはいえ、背丈は乃武綱のほうがはるかに上。そんな相手を難なく押し返すとは……到底真似できない芸当に長次郎も驚いていると、「おい待て! 今のはナシだろ!」と卯ノ花の判定に待ったをかける声が飛んできた。
尻と裾にたっぷりの泥を付けた乃武綱が、投げた木刀を拾おうとしていた弾児郎に鼻息荒く近づくのが見える。「倒したんだからおれの勝ちだろ」と当たり前の顔で言った弾児郎に、乃武綱は口角泡を飛ばし反論した。
「素手でやるやつがあるか! 源志郎は、木刀での立ち合いを見たいって言ったんだぞ!」
「折れちまったんだからしょうがないだろ」
「そしたら降参しろよ!」
「やだね。そんなこと言ったら乃武綱だって、おれの木刀が折れた後も手を止めなかったじゃんか」
痛いところを突かれ、乃武綱はぎくりとする。
「だからって、殴ることはねえだろ! 俺の顔に傷が付いたらどうすんだ!」
負けじと口を動かすも、「良いではないですか、多少は男前になるのでは?」という卯ノ花の声が差し込まれ、今度こそなにも言えなくなった乃武綱は苦い顔をするしかなくなった。卯ノ花の見事な一刀両断に、弾児郎の笑い声が続く。
「お前まで笑うのかよ」
乃武綱のぼやきを尻目にひとしきり笑った弾児郎は、次には呆然とやりとりを見つめていたこちらへと向き直ると「で、どうだった? 源志郎」と、今回の発起人へと声を掛けた。間の抜けた顔をしていた源志郎は、ぴしりと音が立つほど顔を引き締める。
「はい。木刀が折れた時はどうなることかとひやひやしましたが、尾花隊長がすぐに体勢を立て直して白打に切り替え、攻勢に転じたことが流石と思いました」
「ほら、源志郎もおれの味方だ」
満足そうに源志郎の肩を叩く弾児郎を見た乃武綱は「けっ、調子のいいやつ」と拗ねた子どもの声色で足元の石を蹴飛ばした。
「ですが、先ほどの尾花殿の切り替えは身を護るためにも重要です。戦いでは何が起こるか分かりません。刀以外の技を磨いておくというのも、いざという時のために必要なことですよ」
無表情を保っていた卯ノ花が、どこか愉しげな様子で長次郎たちに言う。戦いにおいては護廷十三隊の中でも抜きん出た実力を持つ卯ノ花だからこその言葉だった。
「鬼道だって、刀を使えない時や奇襲の時に使うこともあるでしょう?」
「ま、おれは鬼道のほうはからっきしだけどな」弾児郎があっけらかんと言葉を継ぐ。ここまで堂々としていると逆に清々しい。長次郎がそう思っていたところで、今度は源志郎が口を開いた。
「ならば、私も何か技を極めるべきでしょうか? 尾花隊長のような白打とか」
「源志郎が?」
それまで体術と源志郎を結びつけて考えたことのない長次郎は、思わぬ発言に目を見張る。死神の戦闘方法として大別される斬・拳・走・鬼。その中でも拳の部分にあたる白打はどの隊士も習得が義務付けられる体術全般を指す。それは一番隊も例外ではなく、長次郎も源志郎も一通りの体術は使用できるもののあくまで必要最低限の範囲に過ぎず、実戦で主力として使うまでには至っていないというのが現状だ。白打に苦手意識を持っている長次郎は特に顕著で、普段も斬魄刀か鬼道でしか戦闘を行わない。
怪訝な顔をする長次郎をよそに、弾児郎は源志郎を頭のてっぺんからつま先まで眺めると「うん、素質があると思うぞ」と力強く言った。
「源志郎の背丈は長次郎とほとんど変わらんが、長次郎よりもがっちりしている。肉が付いているってことは体ができているってことだ。重心が安定していて力技にも向いている。これが骨と皮だけのほっそい体じゃ、体作りからはじめなきゃならん」
皆の注目が乃武綱に向く。思えば、乃武綱の白打も見たことがない。四人分の視線に一瞬たじろいだ様子を見せた乃武綱はちらりと自分の体に目を落とすと、次いで長次郎と源志郎を見比べ、「しかしまあ、お前らの体つきはそっくりだな」としみじみとした声を出した。
「私と源志郎が、ですか?」
「ああ。違いと言えば髪の色と肩掛けだけだ。笠でも被っている時に遠くから見たらそうそう見分けがつかねえだろうよ」
長次郎が横を見やると、源志郎が勘弁してくれとばかりに眉間の皺を深くしているのが目に入って来た。
「よしてください。私は長次郎ほどうるさくはありません」
「お前、それはどういうことだ!」
「そのまんまの意味だ。口を開けば元柳斎殿、元柳斎殿とうるさくて仕方がない。まるでからすだ。尊敬しているといえ、限度があるだろう」
周りから笑い声が上がり、長次郎は自分の頬に熱が集まるのを自覚した。本当のことなので何も言えない。恥ずかしいやら歯がゆいやらの気持ちがないまぜになり、俯き加減で悶々とするしかない中、
「では次は、私と尾花殿で一戦交えましょう」
卯ノ花が嬉々とした声で弾児郎を促した、その時。
「尾花の大将!」
別の声が弾児郎を呼んだので、皆が一斉にそちらを振り返る。門から回ったのか、庭の向こうからは知霧と雨緒紀が駆けてくるのが見えた。普段と変わらぬ愛想知らずの雨緒紀に対し、知霧のほうはただでさえ青白い顔から血の気が引き、恐る恐るといった顔をしていた。
「どうした、そんなに暗い顔をして」
へらりと笑って応じた弾児郎の声は、年上でありながらもとっつきにくさを感じさせない、穏やかな響きだった。明らかに動揺している知霧に配慮した反応に、しかし本人の表情が晴れることはなかった。にわかに震える唇を動かし「あの、実は……」と言いかけたかと思えば、それ以上言葉を重ねることはなく、そのまま顔を伏せて黙り込んでしまった。
「志島、私の口から言おう……尾花、耳を貸せ」
一向に話を進めない知霧を見かねた雨緒紀が口を挟む。その目は知霧と違い険しさを保ったままであった。「お前が内緒話なんて珍しいな」と軽口を叩きながら耳を貸した弾児郎だったが、雨緒紀が二言三言と何かを吹き込んだ瞬間、顔に貼り付けていた笑みを消し去ることとなった。
「……それ、本当か?」
神妙に尋ねれば、雨緒紀は頷く。
「本当だ。すぐに一番隊舎に……」
その言葉を聞き終わらないうちに弾児郎は駆け出した。それまでとは一転して緊張した空気は、決して良いことがあった時のものではない。
「……俺たちも行くぞ」
にやけ面をすっかり取り払い、真顔になった乃武綱の一言で、長次郎たちも一番隊舎へと向かった。
小さなふくらみのある筵が二つ、庭に並んでいる。筵が一体何を覆っているのかは、執務室にいる長次郎からは伺い知ることができなかった。見えるものといえばその前に膝を付く弾児郎の背中と、それを囲むように佇立する五番隊士の姿のみ。俯き、筵に目を据える隊士たちの顔はどれも悲痛を押し殺したものばかりで、重々しい空気と相まって、護廷十三隊にただならぬ事態が起きたことを如実に物語っている。
「……死亡した隊士二人は、南流魂街に設置された穿界門付近で発見された」
腹の底に鬱々としたものが沈んでいくのを実感しているとことのあらましを説明する金勒の声が聞こえ、長次郎は庭から視線を引き戻した。一番隊舎に集まった有嬪を除く十二の隊長の顔つきは揃って厳しいものであった。
長次郎は隣の元柳斎を見る。元柳斎も他と同じようにただでさえいかめしい顔を更に歪め、金勒の話に耳を傾けている。
「状況としては一人が右足のみ、もう一人は頭部がない状態だったそうだ」
「ずいぶんとむごいな」
乃武綱の呟きに、何人かが小さく頷いた。続いて「その二人は何故穿界門に?」と千日が尋ねる。
「数日前からの虚の大量発生の調査のため現世へ行っていた。本来であれば明日帰還する予定だったが……おそらく早めに切り上げて戻って来たのだろう。地獄蝶のみが瀞霊廷に帰ってきたため不審に思った善定寺が調査に向かうと……」
「穿界門の近くで亡骸を見つけた、と」
引き継いだ声は不老不死のものだ。金勒は眼鏡の向こうの目を細めながら言葉を重ねる。
「亡骸を見るからに、何者かに襲われたものと考えられる。だが、所持品や斬魄刀は現場に放置されたままだった。物取りの類ではないということは推測できるが……詳しいことは今のところ不明だ」
つまりは、調査に出ている有嬪の報告を待たない限りはどうにもならない。金勒の口ぶりからそう判断した長次郎は、今度は元柳斎の向こう側に座る源志郎へと目を向けた。流れで隊首会議の場に参加する形となった源志郎は、居並ぶ隊長たちの威圧感に圧倒されているのか、膝の上に置いた拳を固く握りしめたままなりゆきを見守っている。
「ですが、亡くなられたお二人も護廷十三隊の隊士。襲われたと言いますが、相当の手練れでなければあそこまで亡骸が損傷するとは思えません」
「亡骸から、刀や弓で襲われたものとは到底思えません。なんと言えばいいんでしょうかね……千切られた、という表現が適するかと……」
抜雲斎の疑問に、知霧も小さく手を上げる。傷痍からはおおよそかけ離れた単語にぞっとするものを感じた長次郎が庭へと視線を逃がすと、ちょうど検分を終えたところだった。筵は元の状態に戻されており、亡骸は覆われている。弾児郎の、ぴくりとも動かぬ背中がいつもより小さいものに見える……長次郎の胸の奥が鈍く痛んだところで、それまで黙って聞いていた元柳斎がようやく口を開いた。
「千日、南流魂街にて狼藉を働く輩の報告は」
「ここ最近は聞いてねえな」
即答する声に、どん詰まりになった時に染み出す陰気が場を満たした。事態の解明を図るには情報があまりにも少ない。床に視線を落とすしかなくなった面々を横目にして何か言わなければならないと感じたのか、煙鉄が「獣……とも考えられそうにない。ならば虚とか……」と、想像でしかない憶測を口に出す。
「尸魂界に虚が存在するのでしょうか?」
長次郎が率直な疑問を口にする。放られた石を議論の口実と思ったのか、沈黙に耐えかねた隊士たちが次々と言葉を投げ合った。
「この世界に虚はいないはず。だが、人でも獣でもないとすると考えられるのは……」
雨緒紀が考えるそぶりを見せると、二つ横で不老不死が「例えば、現世で虚に殺されたとか?」と、これまた現実的でない意見を口にする。それを否定したのは知霧だ。「死体が歩いて断界を移動したとでも言うんですか? どうやって……」という言葉を最後に、とうとうどうにもならないと理解した隊長たちは、やがて口数を減らしてゆき、何度目かの沈黙へとその身を浸すこととなった。
「……さて、どうなることかのう」
逆骨の、どこか他人事のような声が降りゆく。それと同時に、庭のほうで何かが動く気配がした。弾児郎が立ち上がったのだ。「……山本」とわずかにこちらを向いた弾児郎の目からはなんの感情も読み取ることができなかった。
「庭を汚して悪かった。こいつらをうちの隊舎に運んでいいか?」
「構わぬが、どうするつもりじゃ」
「ここにいない隊士たちにも別れをさせて、丁重に葬るさ」
部下の惨状を目の当たりにしたにも関わらず、弾児郎の声はひどく落ち着いたもので、何かをこらえているとも諦めているとも受け取れるものだった。尾花弾児郎の精気――夏の太陽を思わせる快活さがごっそりと抜け落ちている。憔悴し、覇気を失った面持ちから少しでも感情の天秤が傾けば取り返しのつかないことになる危うさを嗅ぎ取った長次郎は、人を死に誘うような滑らかな声が張り詰めた空気に注がれるのを聞いた。
「じきに善定寺殿が戻られます。その報告を聞いてからでも遅くはないのでは?」
同じく弾児郎の内に潜む危うさを察知したのか、卯ノ花が冷静にそう提案する。しかし弾児郎は目を逸らしたまま、ゆっくりと首を横に振っただけだった。
「いや、いい」
「……尾花殿?」
「報告はそのうち聞く。今はただ……こいつらを静かに送ってやりたいんだ」
全ての死に等しく安寧がもたらされることなど幻想でしかないが、無惨にも体を奪われ、苦しみながら逝ったであろう部下にはせめて静かなる眠りを。誰もが耳を傾ける中、喪失の悲しみが色濃く浮かぶ横顔から絞り出されたのは見せかけでも強がりでもなく、紛れもない本心だった。
死出の旅路に出た者と、残された者。生と死で別たれた魂がこの先どんな代償を経ても交わることは決してない。その無慈悲な現実に最も打ちひしがれているのは、他ならぬ弾児郎なのではないだろうか。これまで数多の命を奪ってきた報いと言えばそれまでだが、しかし長次郎には、今の弾児郎が刀を振るう理由が歪んだ加害性や残虐性などという、本能によるものには到底思えなかった。
自分が手を伸ばした世界にある何かを、護る。そのために弾児郎は戦っている……悄然と立ち尽くす背中をあらためて見ようと顔を上げたところで、隣から声が降って来た。
「……良い。お主はしばらく五番隊舎に居よ」
元柳斎の許可に、弾児郎はほんの少しだけ口角を緩ませた。
「悪いな」
一言そう言い残した弾児郎は、亡骸を運ぶ隊士たちとともに一番隊舎を去って行った。
「……大丈夫でしょうか」
誰も何も言わない中、最初に沈黙を破ったのは源志郎だった。「自分のとこの隊士が体の一部しか戻って来なかったんだ。相当きてるだろうよ」と沈んだ面持ちのまま不老不死が返す。
「五番隊の皆さんはとりわけ仲が良かったですし」
「そっとしておくのがいいってことでしょうね」
抜雲斎と知霧をきっかけにひそひそ話がはじまった部屋の中、ただ一人、弾児郎が去った方向をじっと見つめる人物がいることに気付いた。
雨緒紀だ。もとより切れ長の目ということもあり、その眼差しはまるで気に入らないものを睨みつけるような鋭さを含んでいる。「で、どうする」と明瞭に放たれた千日の声は、そんな雨緒紀の視線をこちらに戻すには十分な響きだった。
「善定寺たちの帰りが遅くなるようなら、二番隊も出るぜ?」
有嬪たち十二番隊が、五番隊士を襲った〝何か〟に遭遇する可能性も否定できない。暗にそう示唆され、他の隊長たちも表情をこわばらせる。
「必要ない」
誰もが出動を覚悟したが、総隊長の判断は待機の二文字だった。元柳斎は一同を見回し、源志郎に目を向け、そうして最後に長次郎の顔を見た後、「ただし、何が起こるか分からぬ」と言葉を重ねる。
「皆、くれぐれも警戒は怠るでないぞ」
腹に響く声に、長次郎は閉じた掌に汗が滲むのを感じた。
《続く》