この拳が護るもの③ 4
鉛のような空気に、有嬪の声が響く。深刻な面持ちで耳を傾ける隊長たちを順に見やった長次郎は、次には元柳斎の向こう隣、先ほどは座る者がいた場所へと視線を移すと、胸の辺りがじんと重くなるのを感じた。
本日二度目となった全隊長の招集。集まった顔ぶれの中に、しかし先の当事者であったはずの源志郎の姿はない。元柳斎が自室に下がらせたのだ。
長次郎は虚の襲撃後の源志郎を思い出す。茫然自失として佇んでいた源志郎の手には使われることのなかった斬魄刀が握られ、肝心なところで身が竦んでしまった未熟者を悔やむように、あるいは嘲るように、だらりと下がったまま揺れていた。
戦う者であれば一度は経験したことのある、〝恐怖〟という洗礼だった。恐怖は常に人間のそばで息を潜めている。そうしていつの間にか背後から両の手を伸ばして目隠しをし、思考も、理性も、努力も、知識も、全てを無へと変貌させる、まさに魔的な存在……。その冷たさに、源志郎は身動きが取れなくなってしまったのだ。
同情はしない。それは源志郎への礼を欠く行いだ。しかしその心情を慮らないわけではない。長次郎は源志郎がこのまま恐怖に支配され、立ち上がれなくなるという不安が墨が滲むように広がってゆくのを実感しながら有嬪の話に意識を戻した。
進軍する虚の数と尸魂界の規模を鑑みるに、やみくもに走り回っては非効率。敵が目指す場所が分かっているのであれば、待ち受けて一気に叩くほうが戦力を分散させずに済む。状況を委細漏らさず説明しながらも元柳斎の憂慮を上手く言語化した有嬪に対し、最初に口を開いたのは不老不死だった。
「つまりは、その虚の群れを瀞霊廷で迎え撃つ……ってことか?」
「正確に言えば、瀞霊廷の外だ」千日が言葉を補う。
「虚たちをここまでできる限り引きつけ、護廷十三隊総出で叩く」
「相当大規模な戦闘になりそうだな」
「まあな。だが流魂街を戦場にするわけにはいかねえからな」
千日が煙鉄に答えたところで、「今更の質問で申し訳ないのですが」と知霧が口を挟んだ。
「虚は霊力が強い者の魂を欲する習性があるんですよね」
「まあそうだな」
有嬪が顎を掻きながら応じる。
「となると、奴らにとっては我々隊長格だけでなく、隊士たちも格好の餌となる可能性もあるんじゃないでしょうか?」
「志島殿は隊士たちにも危険が及ぶ……と言いたいのでしょうか?」
卯ノ花が訊き返す。知霧は目の前に座る弾児郎を一瞥し、控えめに頷いた。
「……ええ、その通りです。いくら経験を積んだ隊士といえど、虚の数は多い。個体の大きさや力量も不明。そんな状況では、不測の事態が起こることだって予想できます」
「待ってください。あの、私、志島さんの話を聞いて思ったんですが……五番隊のお二人は、虚に食べられたのではないでしょうか?」
抜雲斎の言葉に、皆が絶句した。水を打ったような静けさの中、はっとした顔になった知霧が「ならば、あの千切れたような亡骸の理由も納得できます」と漏らす声が響き渡る。曖昧模糊だった事態の実像が鮮明になり、不穏に塗りこめられてゆくさまに一同が言うべき言葉を探していると、「そうは言っても、戦わないってわけにはいかねえだろ」という憮然とした物言いが聞こえてきた。乃武綱だった。
「俺たちの職務は瀞霊廷の守護だ。〝隊士須く護廷に死すべし〟……この世界のために死ぬことこそ俺たちの生きる役目。そこから逃げ出そうものなら、自ら腹を切るしかねえ……」
一人一人の顔をねめつけながら紡がれた声には聞く人間を言い含めるようにも、責めるようにも、そして自身に言い聞かせるようにも受け取ることができる、ある種の冷たさがあった。進む先にどれだけの脅威が待ち受けていようとも立ち止まることは許されない。それが護廷十三隊の誉れであり、そして呪いでもある……己が役目をあらためて噛み締め、発言の浅薄さを顧みた知霧がうなだれるのを確かめた乃武綱は、次にはにたりと狡猾な笑みを浮かべると「だが」と続きを切り出した。
「虚たちにいいようにやられるってのも癪だ。例え隊士の腕一本でも、奴らにくれてやるつもりはねえぜ」
戦う人間の意地が垣間見え、部屋の空気に一抹の昂ぶりが混じる。「ほう、乃武綱。その様子では何か策があるということか?」と逆骨が尋ねると、乃武綱は口元の笑みを深くし、
「……ない!」
と、恥じる様子もなく、きっぱりと答えた。有嬪の「ねえのかよ」というつっこみが入り、場の緊張が一瞬で崩れ去ってしまう。
「あるわけねえだろ、こんなことは前代未聞だからな。固く閉ざした大門の前でとにかく奴らを倒すことしか……」
「それが危険で非効率だって言ってんじゃねえか!」
飛んできた不老不死の声に、乃武綱は負けじと言い返す。
「だったらお前、何か考えがあるのかよ」
「あ、あるなんて言ってねえだろ!」
「ほーら、お前だって同じ!」
膝立ちになりいがみあう乃武綱と不老不死を、それぞれの隣に座る煙鉄と抜雲斎がなだめようとしている。今は無駄な争いをしている場合ではない。数人から切迫感が漂って来たところで、騒々しい面子の向こうから「……私に考えがある」と冷静な声が上がり、全員の視線がそちらに向いた。
発言元である雨緒紀は、上座に座る元柳斎をまっすぐと見つめながらやや大きめの声で言い放つ。
「山本、お前が虚たちの餌になれ」
「王途川殿、一体何を……!」内容が内容だけに、長次郎は思わず叫んだ。が、すぐに金勒が手だけで制し「詳しく話せ」と先を促したため、上げかけた腰が下ろされた。
「先程も話に出たが、虚たちの主な狙いはこの中で最も霊力の高い山本だ。しかし考え方を変えれば、山本が瀞霊廷から離れれば虚たちの注意も瀞霊廷から逸れる……」
雨緒紀は地図を部屋の中心に広げる。元柳斎を含めた全員が身を乗り出し、覗き込むのを確かめると、地図上の瀞霊廷に人差し指を当てながら説明を続けた。
「まず、四方の門の守りを固め、虚の襲来を待つ……各門につき二つの隊で良いだろう。配置された場所で戦いながらぎりぎりのところまで虚たちを引きつけところで、山本が瀞霊廷を出立。そうすれば今度は、虚たちは瀞霊廷ではなく霊力の強い山本を目指す。そして東流魂街へ向かう途中の森まで虚を誘導し、山本の斬魄刀で一気に焼き尽くす」
「あの森か。確かにあそこならそれなりに広さがあるし、街からも遠い。多少無茶しても、一般人への被害はないと言っていいだろう」
千日が付け加える。さらに、「私も王途川殿と同じ考えです」と滑らかな声が追従した。卯ノ花だった。
本来、こういった場では同調する者がいればいるほど、有利に話を進めやすいものだ。しかし雨緒紀は安堵を見せる様子はなく、それどころかなんでお前と同じ考えなんだとあからさまに顔を顰めたので、目の前に座っていた卯ノ花は雨緒紀に怪訝な目を向けることとなった。
「王途川殿、何か不満でも?」
「いや、別に……」
口ごもり、ばつが悪そうに目を逸らした雨緒紀、少しの間見つめていた卯ノ花だったが、それ以上の追及は諦め、次には「山本殿もそう考えていらっしゃるのでしょう?」と体ごと元柳斎へと向き直った。
「相手は虚。以前尸魂界へと侵攻してきた滅却師よりも戦力は遥かに劣る。問題は戦い方ですが……数が多いだけで、あなたならば卍解を使うまでもなく残滅することができるはずです」
まっすぐに言い放った卯ノ花の目は、相手の内奥を見切っているような凛然としたものだった。同時に揺れているのは、護廷十三隊総隊長が持つ絶対の〝強さ〟への信頼。剣を交えた相手への敬意が、強い光となって表れていた。
元柳斎は一度目を閉じ、何かを内省する素振りを見せた後、「……雨緒紀と卯ノ花と同じく、此度は儂が出ようと思っておる」と重々しく口を開いた。
「でも、もし何かあれば……」
「長次郎。お主は儂が、虚ごときにやられると思っておるのか?」
「いえ、そういうわけではありませんが……」
じろりと睨まれた長次郎はそう返すに留めたものの、頭の中ではいくつものもしもが浮かび、心臓が押しつぶされそうだった。もしも虚の力が予想を上回れば、もしもこちらに不測の事態が起こってしまったなら、もしも雨緒紀の策が上手くいかなかったら……思考が悪い方向へと流れかけた時、すぐそばから金勒が「俺は反対だ」と意見を述べるのが聞こえた。
「物事を行う際はもしもの場合まで考慮すべきだ。山本に何かあった時、護廷十三隊、ひいては尸魂界全体にまで影響が及ぶのだぞ? 迂闊に前線に出すわけにはいかん」
「ならば、護衛を兼ねて何人か同行させるというのはどうだ?」
雨緒紀がそう提案すると、金勒は雨緒紀を見返した。無言で肚を探る目を向けた後、ややあって「……実力のあるものにしろ」と嘆息混じりに答えた。
同意を取り付けた形となった雨緒紀は、金勒から視線をずらし長次郎を見る。合わされた目からお前の出番だ、と言っているのを聞いた長次郎が、真っ先に名乗りを上げようと深く息を吸った。
「……おれに行かせてくれ」
が、声は別のところから放たれた。くぐもった低い声だった。「弾児郎?」と乃武綱が驚いたように言ったので、そこでようやく長次郎は声の主が弾児郎だと理解した。
「うちの隊の者がやられたのが発端だ。このまんまじゃ腹の虫がおさまらない。おれの手で、あいつらを喰らった虚を葬り去ってやりたいんだ」
皆が注目する中、弾児郎は顔をわずかにうつむけたままゆっくりと話す。先ほど隊士の亡骸と対面した時の落胆した姿によく似ていたが、よくよく見れば床に付けた両の拳が、掌に爪が食い込まんばかりに強く握りしめられている。
憤怒、悔恨、憎悪……いや、どれも違うと長次郎は思った。弾児郎が抱いているのは意地だ。憤怒も、悔恨も、憎悪も、臓腑の奥で荒れ狂う激情すらも糧にして這い上がろうとしている、なりふり構わぬ男の泥臭さ……。
一度火が点いた闘志を、誰が止められるというのだろうか。黒眉の下の目を細めた元柳斎が迷うことなく頷くと、弾児郎は表情を変えないまま目礼を返す。二人の男の間で交わされた決意のやり取りに唾を飲み込んだ長次郎は、今度こそ自分がと腹に力を込めると「私も行きます」と声を張り上げた。
「元柳斎殿の御身は、私がお守りします」
「お主に守られるほど老いてはおらぬ」にべもなく言い切られ、長次郎は「うっ」と声を漏らす。情けない顔になった長次郎を見た元柳斎は口元を少しばかり緩め、顔に笑みを作ると「じゃが、背中は任せたぞ」と穏やかな声で言葉を続けた。
胸に熱いものが競り上がるのを感じながら、長次郎は「はい!」と張り切って声を出す。意欲に漲った溌剌さが部屋をくすませていた陰気を吹き飛ばしたところで、乃武綱が先を促すように「一番隊の連中はどうする?」と口にした。
「瀞霊廷中央を本陣とし、その守護に回す。儂についてきたところで巻き込むだけじゃ」
元柳斎の考えに、長次郎の脳裏に思い浮かんだのは源志郎だった。実践に慣れていない源志郎は、やはり今回は瀞霊廷に残したほうが得策だろう……長次郎がたった今膨れ上がった勢いが萎みそうになるのをこらえていると「なんだかんだ言って、お前も隊士が大事なんだな」と煙鉄が茶々を入れるのを聞いていた。元柳斎がわざとらしい咳払いをして誤魔化す。
「五番隊の隊士は……」
不老不死が弾児郎に目を配る。
「連れて行かない。理由は山本と同じだ」
即座に返って来た声に、長次郎はそれ以外の理由もあるのだろうと推測した。戦闘に巻き込むというよりは、虚の標的とならないようにという意図が……。
「そうと決まれば、細かい配置を決めるぞ。時間がない」
千日が呼びかける。周囲が再度地図に目を落とすのに合わせて、長次郎も隊長たちの話に聴覚を集中させた。
会議が終わり一人、また一人と執務室を出るのを見送った長次郎は、元柳斎の横に座したまま動くことができなかった。
「……臆しておるのか」
部屋に二人きりになったところで、元柳斎が問いかけてきた。「いえ、そういうわけでは」と答えた声は心なしか弱いものに感じた。
「残るなら今ぞ」
「残りません。私は元柳斎殿の右腕ですから……ともにいたいのです」
そうは言っても、懸念がないと言えば嘘になる。本当にできるのかという不安と、やらなければならないという気勢。互いが互いを牽制し合うようにせめぎあう胸を軽くするために長次郎は一つ深い息を吐き、内心を吐露する。
「ですが、今回はさすがに数が多すぎます。我々が相手をする虚の数を少しでも減らせれば……」
「門の守備を行う者たちに一体でも多く倒してもらうしかなかろう。あとは同行者を増やすしかないが……」
まだ人員が少ない護廷十三隊。守備人数を減らし同行者を増やせば、それだけ瀞霊廷の防衛率が下がる。それでは元も子もない。
今回の最優先事項はあくまで瀞霊廷で、次が元柳斎の身の安全。その元柳斎に同行するのは弾児郎と自分のみ……万全の体勢とは言い難い。たった三人で多くの虚を相手にするという現実が途方のないものに思え、長次郎の背中に重くのしかかってくる。
森へおびき出した後迅速な討伐を行えれば良いが、元柳斎の卍解は能力の内容も相まって尸魂界全体へ甚大な影響を及ぼす。使えるのはせいぜい始解までといったところか。だとすると、虚の能力によっては苦戦が強いられる……。
どれだけ思考を巡らせようと最善に辿り着けないもどかしさと、どん詰まりの空気に何もかもを投げ出したくなった時だった。障子戸の向こうに人影が映り「失礼いたします」とこちらに呼びかける声が聞こえた。
入れ、と元柳斎が許可を出すと、木枠が桟を滑る音とともにゆっくりと戸が開かれる。そこにいたのは自室に下がっていたはずの源志郎だった。源志郎はその場で膝をつくと真っ直ぐに顔を上げ「折り入って頼みがあります」と言上した。
「ほう、なんじゃ」
「私を、元柳斎殿に同行させていただきたく思います」
その申し出に元柳斎よりも早く長次郎が反応した。
「源志郎、それは危険だ。お前は……」
そこから先の言葉を見つけることができなかった。源志郎が元柳斎を見上げる目に覚悟が滲んでいたからだ。他人を寄せ付けない、頑固で芯のある強い思い。そこに自分が入り込む余地などないと感じ取った長次郎は、今度は元柳斎に目を移し、答えを待つ。
「ならぬ」
元柳斎は巌の顔を崩すことなく退けるも、源志郎は引き下がらなかった。
「長次郎の言う通り、私は実践経験に乏しい身。ですが、護廷十三隊の一員であることに変わりはありません。瀞霊廷が危機に瀕しているさなか、元柳斎殿や長次郎が戦いに赴くのを黙って見ているなどできません」
「本陣を守るのも肝要。お主はそれでは不服か?」
真っ向から問われ、ぐっと言葉に詰まった源志郎が押し黙ると、元柳斎は続きを語る口を開く。
「何かを守るというのは、何も前線で刀を振るうばかりではない。本陣というのは戦いにおける要。陥落すれば指揮体勢そのものが崩れ、全体の士気にも影響する重要な拠点ぞ。決して華々しくはないが、なくてはならぬ存在。お主が守ってくれれば、儂は心置きなく戦いに見を投じることができるのじゃよ」
一方的に言いつけるのではなく、源志郎に納得してもらいたいという心情を言葉の端々から感じ取ることができる、優しい声色だった。時間が差し迫る中、総隊長命令という厳命を下すことができる立場にも関わらずあえて噛んで含めるように聞かせるのは、源志郎をただの一兵士としてではなく、長い時の先にある護廷十三隊を担う死神として育てたいという意思があるからだろうか。
源志郎はしばらくの間何かを言うことはなかった。長くも短くも感じる重い沈黙ののち、太腿に置いた手が死覇装の袴部分を強く掴んだかと思えば、話すというよりは言い聞かせるような声色で「……私は、何もできないままなのは嫌なのです」と胸の内をこぼした。
「元柳斎殿が危機に瀕していたり、長次郎が猪のように敵陣に突っ込んで行った時に、ただ立ち尽くして成り行きを見ているだけではありたくない……」
源志郎の話に、長次郎は先ほどのことが頭によみがえった。もし自分が源志郎の立場だったならどうだろう。悔しさと惨めさ、そして情けなさに嫌気が差し、胸を掻き毟りたくなるのだろう。許されるのであれば全身を声にし、体が空っぽになるまで叫び続けたくなるのだろう。臆病者の醜態を記憶から消し去らんばかりに。そうして二度と無様な敗残兵にならないように……。
もう一度、立ち上がるために。
「私は、あなたたちの隣を歩きたいのです」
壁を揺らした声に、長次郎は心まで揺さぶられた心地になった。
私だって同じだ。お前とともに元柳斎殿のもとで力を尽くし、そうして千年先まで護廷十三隊を支えてゆく。その思いはきっとこの先も変わらない、変わることはない……口にする前に目の奥に熱いものが集積するのを実感し、目を逸らすことしかできなくなったところで、「それに、尾花隊長のあの背中を見たら、自分も力添えをしたいと思いまして……」と言葉が付け足された。
「……出過ぎたことを言いました。下がります」
わだかまっていたものを伝え切ったからか、源志郎の顔にはどこか清々しさがあった。床に額が付きそうなほど深く頭を下げ、最後にこちらをひと目見た源志郎に、長次郎は頷いて見せた。合わせた目に、私も同じ気持ちだと心情を込めれば、源志郎の瞳に薄く水の膜が張ったように見えた。
部屋に差し込むわずかな光を受け、鈍く輝く目をそのままに、源志郎が元柳斎の前を辞するために腰を上げようとした。黙したまま源志郎の話を聞いていた元柳斎が口を開いたのは、それとほぼ同時だった。
「……護廷のために、その身をなげうつ覚悟はあるか」
「この命、すでに世界のために」源志郎は迷いのない声で答える。
「なればこそ、儂はお主に本陣を任せたい。お主ならば、冷静に状況を見極めることができると踏んでおる」
もしも、自分が同様の問いを与えられたなら、間違いなく元柳斎のためにと返しただろう。しかし源志郎は違う。この瀞霊廷、そして尸魂界の趨勢に目を向け、そのために動くことができる。自分とは似ているようで真逆な、かけがえのない存在……。
諦めか、愕然か。元柳斎の意向に従おうと、源志郎が力なく頷いた……その時だった。
「……そう思っていた」
全く予想もしなかった言葉が発せられ、長次郎も源志郎も弾かれたように顔を上げた。二人の口から揃って、えっ、と短い単語が絞り出される。
唖然とするこちらをまるで無視して、元柳斎は「お主も案外頑固じゃのう……」と手のかかる子どもを前にした親のような声で言った。
「源志郎。お主は視野は広く、冷静じゃ。そして存外肝が据わっておる」
「そ、そうなのですか?」
「そうでなければ、よりによって乃武綱なんぞに立ち合いを頼んだりしないじゃろう」
言われてみればそうだ。普段から隊長たちと関わり慣れている長次郎ならまだしも、一般隊士であれば頼みごとをする時はまずは比較的年が近い知霧や不老不死、気さくな千日や弾児郎、抜雲斎に声を掛ける者が多い。しかし先日、源志郎が隊長同士の立ち合いを頼んだのは護廷十三隊でも悪人面として有名な乃武綱だ。
肝が据わっているというか、恐れ知らずというか……友人の意外な一面に気付き、長次郎は密かに感心した。
「その丹力、此度の同行で強固なものにせよ。経験を積み、この護廷十三隊の要となるために」
元柳斎が厳然と言い放つ。一瞬ぽかんとした源志郎だったが、すぐに顔を引き締め、深々と腰を折り曲げる。
「はっ!」
「支度をせい。出来次第、出立する」
それだけ言い残した元柳斎は、席を立つと足早に執務室を後にした。
未だに何が起こったか分からないという顔をしたまま座り込む源志郎に、長次郎は声を掛ける。
「源志郎、お前……本当に行くのか?」
それは意志を確かめるというよりも、信じられないという気持ちから出た言葉だった。源志郎は迷いと決然を交えた目を向けてくる。
「俺だって分かってる。長次郎が元柳斎殿の傍にいるならば、俺はここにいなければならないって。お前たちが帰って来る場所を守らなければならないって……」
その話し方は元柳斎や他の隊長を前にした時のあらたまったものではない。長次郎といる時の友人の口調だった。
「でも、一方でこうも思うんだ。俺は長次郎たちに置いていかれるんじゃないかって」
「そんなこと……」
「ああ、俺の弱い部分が生み出した卑屈に過ぎない。でもな、俺は……いつかお前たち二人がどんどん先に進み、俺の知らない場所に行ってしまうように思えてならない……」
逸らし、壁に据えられた目が遠くを見るように細められる。押し寄せる想像の悲嘆に飲まれまいと必死に耐えている人間の目に、長次郎は源志郎が語る恐れの正体を探ろうと思考を動かす。
護廷十三隊総隊長山本元柳斎重國の右腕となるべく、自分はここにいる。元柳斎の手が回らぬ所を補い、泰然自若と物事に対処し、そうして元柳斎とともに尸魂界の安寧を恒久のものとする。それが長次郎の役目であり、願いだ。
そうは言っても、元柳斎と二人だけで生きることができれば良いとは思っていない。乃武綱がいて、卯ノ花がいて、金勒がいて、雨緒紀がいて……無論源志郎もいてこその長次郎の世界だと思っていた。
だが源志郎の目に見えている自分はもっと不安定で、おぼつかなくて……例えるなら、一歩間違えば奈落へと落ちる細道を歩いているような危うさがあるのであれば、源志郎の言ういつかというものが現実になってしまうのかもしれない。元柳斎をも巻き込んで……。
戸の隙間から滑り込む冷気が死覇装に染み込み、皮膚の熱を奪ってゆく。不安と恐怖、その両方を張り付かせた顔を上げ前を見ると、源志郎と目が合った。長次郎の内側で渦巻いていた暗鬱を察してしまったのか、源志郎は一瞬驚いたように目を見開くと、次にはこちらを気遣うあたたかな光を瞳に宿し、そっと語り掛けてきた。
「さっき言ったことは本心だ。俺はお前たちの隣を歩きたい。長次郎と俺が元柳斎殿の傍に立ち、尸魂界を守ってゆく。そんな夢をずっと見ているし、これからも見続けていたい」
「……私もだ。そして元柳斎殿もそう思ってらっしゃるだろう」
見続ける夢が、自らの未来を照らす希望の光とならんことを。先ほどまでの鬱屈を頭の外へ追いやり、自分を奮い立たせた長次郎は敢然と言葉を紡ぐ。
「決して死ぬな。お前は、こんなところで死んでいい人間じゃない」
「死んでやるものか」
源志郎は力強く言い放つ。その声にはもう、恐れは微塵もなかった。
「もうみっともない姿は見せない。虚たちを倒して……生き延びてやるさ、必ず」
《続く》