この拳が護るもの⑥(終) 10
元柳斎と卯ノ花、長次郎、源志郎が近付いてくる。太太とした黒眉をわずかばかり上げた元柳斎は、厳しいとも案ずるとも言える神妙な眼差しを雨緒紀たちに注いでいる。その隣の長次郎が目を丸くしながら「王途川殿、それに五番隊の皆さん、何故ここに……」と呟くと、雨緒紀はすかさず言葉を返した。
「四楓院の許可は得ている」
「厳原殿の許可は……」
今度は答えることなく、雨緒紀は居心地悪そうに目を逸らす。伏せられた視線が再びこちらへと向けられ、何かを訴えかける小さな光が闇色の瞳の奥で輝いたのを見て取った弾児郎は、収まりかけた動揺がぶり返すのを自覚しつつ、必死に口を動かした。
「お前が連れて来たのか? おれが昼間言ったこと……」
「隊士たちが言い出したことだ。全く、お人よしはどこの隊長に似たんだか」
ぼやきつつも、雨緒紀の口元は満足そうに緩んでいた。なんだ、お前はどうしてそんな顔をしているんだ……? 状況にそぐわない穏やかな表情に目を奪われていると、背後にいた隊士の一人が雨緒紀に追従するのが聞こえ、弾児郎はそちらを見た。
「我々は尾花隊長の部下です。仲間を殺されて大人しく引き下がることなどできませぬ」
「隊長に守られるばかりで戦わぬなど、護廷十三隊の名折れとなりましょう」
昂然と語る隊士たちの目に底なしの闘志が漲っているのを確かめた弾児郎は、心臓が鼓動を速め、萎えていた手足に血流が巡るのを感じた。血を流したせいで失いかけていた熱が、体の奥底から沸き上がってくる感覚。ろうそくが燃え尽きる直前、ひときわ大きな炎を上げるように、自分の限界が近付いているのか……そんな弱気がよぎったところで、次に聞こえたのは雨緒紀の声だった。
「隊士たちは皆、お前の想いに衝き動かされたからこそここに立っているのだ。誰かを護りたい、誰かの涙を忘れないための戦いに赴く、まっすぐなお前の背中を追って。自らの誇りを、護りたいものを護り、そうして胸を張って明日を迎えるために……」
護りたいものを護る。その言葉に、頭の中で立ち込めていたもやが去り、視界が明るくなってゆくような気がした。おれはまだ戦える。護るためにここにいるんだ……そう自分に言い聞かせながらゆっくりと立ち上がると、背中に刺すような刺激が広がり、痛みのあまり顔をしかめた。
真正面から雨緒紀を見据える。そこにあったのは、かつて仲間にさえ見せていた全てを排する冷たい目ではない。他人を信じ、受け入れることを覚えた目だった。誰かの隣に立つことを恐れず、そしてその歩みを信じてやまない、やわらかな眼差し。あの頃では考えられなかったぬくもりに「雨緒紀、お前……」と言葉を漏らすと、雨緒紀は小さく笑いながら弾児郎に応えた。
「おっと、感謝されども叱られる道理はないぞ? 何せお前の隊士たちを厳原のきつい小言から逃がしてやったのは、紛れもない事実だからな」
「ふふっ、そいつはでかい借りだな」
思いもがけず頭の中に現れた仏頂面に、弾児郎は吹き出してしまった。
「さて、尾花。隊士たちの前で無様な姿は見せられんな?」
雨緒紀がにやりと挑発的な笑みを寄越す。不器用な男なりの精一杯の激励に、応えぬ理由はなかった。
「あったりまえだ!」
弾児郎が両手で強く頬を叩くと、ぱん、と乾いた音が響き渡った。
ここでやめちまったら、きっと後悔する。こんなところで倒れでもして、あの小憎たらしい虚に勝ち誇った顔なんかさせたくない。命からがら逃げ帰ったところであいつらの死に報いることができなかった無念さを引きずったまま鬱々とした日々を過ごすなんて、まっぴらごめんだね。
それに……弾児郎は隊士たち一人ひとりの顔を見る。人と人が関わり合うこと。人の中で生きること。心を寄せられ、心を動かされること。そのぬくもりを自分自身で、この手で護りたいと思った。
かつて冷たい夜にはもう、戻れない。
この場所で、生きていく……。
奮い立った弾児郎に、源志郎が近付いてきた。両手でうやうやしく差し出されたのは、他の隊長よりも随分と短い刀――失くしたと思っていた斬魄刀だった。あなたなら、必ずやれます。未熟だが、若さ故の気力に溢れた目がそう言っているのを聞いた弾児郎は、源志郎の心遣いに大きな頷きを返すと、自分と同じく吹き飛ばされ、どこかでうずくまっているであろう虚の姿を闇の中から探ろうとする。
その時、離れた場所で虚が金切り声を上げた。自分が降りた場所とは反対側、崖のすぐ傍で身を起こした虚は、心なしか先ほどよりも体つきが小さくなっているように見えた。蒼火墜の影響か、暗がりで浮かび上がる白い仮面の右頬の部分には大きなひびが入っている。
一度立ち上がった虚は、すぐに地面へと伏すことになる。歩くことが叶わず、獣のように四つん這いとなりのろのろと動き出した虚は、流刃若火によって焼かれた同胞の亡骸に近付くと手当たり次第に掴み上げ、炭同然のそれを乱暴に口に突っ込みはじめた。
「亡骸を、食べている……」
生き物とは思えないおぞましい咀嚼音に、長次郎が苦々しく顔を顰めた。「食べたところで、あの亡骸にはもう霊力はないだろう。あいつのやっていることは足掻きにもならない」と源志郎の冷静な声が続く。次が最後のぶつかり合いになるだろうと考えた弾児郎は、逆手でしっかりと斬魄刀を掴み直すと、長い夜の決着をつけるための一歩を踏み出した。
足を動かすたびに増してゆく痛みは、奮い立った魂の生への渇望だ。弾児郎にとって、かつては痛みも苦しみも常のものだった。自らの武を奮う障壁でしかなく、傍に在り続けることで煩わしさしか感じて来なかった。けれども今は違う。この痛みこそが自分が生きた証だと示さんばかりに全身で主張する刺激は、捕食を終え、歩み寄る弾児郎をその目に捉えた虚を前に意気へと変化し、無限の活力を四肢の筋肉へと送り込んだ。
咆哮し、突っ込んでくる虚の顔面を狙い、弾児郎は拳を突き出す。横に飛ぶことで避けた虚は着地した瞬間、両足を軸に体を前へと押し進めると、弾児郎の胸へと体当たりをした。
踏みとどまり、跳ね返った虚の前へ右手をかざすと、虚は一瞬戸惑ったように動きを止めた。鬼道を警戒したのだ。だがそれは明確な隙となった。弾児郎はそのまま拳を握りしめると、渾身の力で虚の白い仮面を殴りつけた。
「隊長、仇を打ってください!」
一人の隊士が声援を飛ばすと、他の隊士も声を上げた。場にいる全ての死神が、弾児郎の奮戦を後押しすべく夜空に大音声を響かせる。
が、声援はすぐに悲鳴となる。慟哭し、暴走状態となりながら接近してきた虚が残った力を振り絞り、弾児郎の左肩に食らいついてきたのだ。
張り巡らされた神経が引きちぎられるような激痛とともに、骨が軋む音が這い上がってくる。噛まれた部分から先、左の腕から力が抜けてゆき、だらりと下がるのを知覚した弾児郎は、痛みのあまり顔をぐしゃぐしゃに歪ませながら食いしばった歯列の間から呻き声を漏らす。
左はもう使い物にならねえな。痛みで埋め尽くされる思考回路でそんなことを思いながら、刀を持った右手を握りしめる。まだだ。まだ倒れるな。自分がどんな姿になり果てようとも、こいつにだけは負けるわけにはいかねえんだ。その思いが膨張し、戦いの熱となって弾児郎の体を衝き動かした。
「あいつらの弔いになるんなら、腕の一本くらいくれてやるよ!」
叫び、そして右の拳を至近距離から虚の横っ面へと叩きつけた。衝撃を受けて虚が離れる際、立てられていた歯が皮膚を滑り、肩の表面が剥がれ落ちたような痛みに今一度声を漏らした弾児郎は、一歩後退した虚を逃がさんとばかりに大きく踏み出す。
弾児郎の血で赤く染まった口元へ一発、よろめいたところで腹へと一発、拳を立て続けにお見舞いする。そうして最後に立っているのがやっととなった虚を見据えると、仮面に空いた二つの目と、目が合った。人の心を失った漆黒の洞、その最奥に死を目前にした怯えを確かめた弾児郎は、死んだ隊士たちもこんな目をしていたのか、などという想像を巡らせながら、終わりへの一刀を振り上げた。
「これで……これで終わりだ!」
逆手に持った斬魄刀で骸骨を思わせる仮面を切りつけると、甲高い悲鳴を最後に虚の顔が上下に分かれ、地面に崩れ落ちる。痙攣し、四肢をびくつかせていた虚が生命活動を止め、動かなくなると、場に静寂が降りた。雪の落ちる音が聞こえそうなほど、厳かな無音だった。
終わったのか? 実感が湧かないまま肩で息をし、肉塊となった虚を見下ろしてたところ、「隊長が虚を討ち取ったぞ!」という悲鳴が弾児郎の耳に飛び込んできた。
誰のものか確かめる暇もなく爆発した歓声が、弾児郎の体を包み込む。一呼吸遅れて振り返り、数えきれないほどの笑顔を目の当たりにした弾児郎は、勝利を祝福せんと手を振る隊士たちに向かって満面の笑みを返した。
仇を打てたという感慨が胸を占める中、表情を綻ばせた雨緒紀と視線が絡む。次いで薄く笑みを浮かべた卯ノ花、ほっとした長次郎、興奮した面持ちで手を叩く源志郎を見た弾児郎は、最後に厳とした面持ちを崩さない元柳斎へと目を向ける。
「山本……頼む」
弾児郎の懇願に元柳斎は一つ頷きを返すと、始解したままの斬魄刀を静かに虚に近付け、その炎を移した。
炎はあっという間に亡骸を包み込み、燃え上がった。重々しい晦冥に炎の赤が燦然と輝き、そのまばゆさが網膜に沁み目を細めると、虚の亡骸が崩れ、細かな肉片が炎尾の先から空へと舞い上がった。
まるであるはずのない天を目指しているように。あるいは、あるべき場所へと還ろうとしているかのように。
しんしんと降ってくる雪が炎に触れ、冬の空気へと溶けてゆく。闇を彩る白と赤、二つが混じり合う幻想的な光景を眺めていた弾児郎は、ふと虚の腕に隊士の形見である青い手拭いが巻かれたままだったことを思い出した。燃やす前に回収するべきだったか。よぎった後悔はすぐに、いや、あいつのもとへ送ってやろうという考えに上書きされた。そうすれば、ここではない世界でもあの手拭いを頭に巻いて、意気揚々と駆けまわることができるだろう。最期をともにしたもう一人とともに……。
炎の向こうに二人の隊士の姿が浮かんだような気がして、弾児郎の目の奥に熱いものがこみ上げてくる。誤魔化すように周囲に視線を配れば、同じく炎を眺めていた源志郎が胸の前でそっと手を合わせていることに気付いた。隣の長次郎もそれに倣うと、五番隊士たちも、そして雨緒紀も、めいめい手を合わせはじめる。
全ては亡き同胞を偲ぶため。
その心遣いにあたたかなものを感じた弾児郎も同じように手を合わせようと、両手を動かした。が、左肩に走った激痛に、上げられた腕は中途半端な場所で硬直することになる。そういえば怪我をしていたっけ。左肩に触れた右手を見ると、掌にはたっぷりの鮮血がへばりつき、思い出したような灼熱と流血の脈動が、傷口を疼かせた。
さすがに血を流し過ぎたか……。頭がくらりとしたかと思えば体の力が急激に抜け、視界が大きく揺らぎ、地面に倒れ込んだ。それまで見ていた炎が色を失い、空から闇が迫ってくる。
弾児郎、隊長、尾花、とひっきりなしに自分を呼ぶ声が聞こえる。が、それが誰のものであるかは上手く機能しなくなった視覚では確かめることができず、遠のく意識に抗うことができないまま、弾児郎は冷たい闇の中へと落ちていった。
11
幸福な最期というのは、きっとこういうことなのだと思う。皆に囲まれ、名前を呼んでもらって、そうした孤独とは遠い場所で穏やかに呼吸を止めること。戦いばかりの日常、血と狂気に生きていた頃の自分には、おおよそ想像すらもできなかったあたたかな世界。
あいつらは、そんな最期を迎えることができなかった。護廷のために死することが自分たちの役目だと言い聞かせていても、けれどもせめてもの幸福を願ってしまうのは、剥くべき牙を忘れたけだものの脆弱な戯言でしかないのだろうか……。
悔しかっただろう。悲しかっただろう。辛かっただろう。隊士に向けたはずの情が、どういうわけか弾児郎自身の胸を打ち、弱った心の中へと響き渡った。いよいよ自分も潮時か……無理矢理口角を上げ、顔に笑みを張り付かせた弾児郎は次の瞬間、聞き覚えのある声に呼び止められ、はっとしたように頭を上げた。
真っ白な空間の中、離れた場所から手を振っている人間がいる。弾児郎の小手と同じ青を纏った隊士と、小柄な隊士だった。なんだ、こんなところで待っててくれたのか。そう思い、待ってろ、今行くからなと声を張り上げた弾児郎は二人のところへ向かうべく足を踏み出そうした。
しかしそれは青手拭いの隊士が首を横に振ったことで止められる。来るなということだ。え、と声を出したところで前に出した足から感覚がなくなった。見ると、自分の足元に大きな穴が空いているではないか。
支えるものがなくなった体が留まり続けるはずもなく、弾児郎は穴へと落ちてゆく。無我夢中になって両手を天へと突き出すも、指先は空を掴むばかり。すがるように上を見れば、穴の縁からは隊士二人が覗き込み、笑顔で手を振っている。二人とも口々に何かを言っているが、体が空気の中を落ちてゆく音が耳元でわめき立て、隊士の声を拾うことができなかった。
二人の姿が遠ざかり、白く丸い形の穴が小さくなっていく。そうして落ち続けると今度は下から光が見え、弾児郎の視界が無に覆われ……。
びくん、と体が跳ね、弾児郎は目を覚ました。
ここは夢なのか、現実の世界なのか。頭重感の残る中、思考と呼ぶには曖昧な想念を繋ぎ合わせながら目だけ動かし周囲を探る。
視界ははっきりとしていた。障子戸の向こうが明るいことから日が出ている頃合いらしい。くすんだ天井に見覚えのある染みが浮かんでおり、よく馴染んだ匂いが鼻腔をくすぐる。ここが五番隊舎の自室だと理解した弾児郎は、無事に戻って来たという実感に、仰向けのまましばらく天井を見つめていた。
めまいにも似た浮遊感が遠ざかり、体の中心から指先に至るまでの感覚が戻って来たところで首を持ち上げ、次いでもぞりと体を動かす。意識を失う寸前の光景――左肩の負傷と出血を思い出した弾児郎は、左側に負担をかけないよう右肘で体を支え、ゆっくりと上半身を起こした。
長い時間眠っていたのだろうか、体がひどくだるい。寝間着の下に巻かれた包帯が窮屈に思えたが、薬が効いているのか痛みは感じなかった。
見れば、部屋の中には弾児郎しかいない。枕元には水桶と手拭い、血が滲んだ包帯が並び、その向こうには斬魄刀と薄汚れた小手が転がっている。埃と血で汚れた青が風になびく青い手拭いと重なって見えた弾児郎は、ついさっきまで見ていた夢のことを思い出すとはっとした心地になった。
そういえば、あの二人はなんと言っていたのだろうか。薄れかかった記憶を手繰り寄せ、二人の顔を脳裏に引っ張り出すも、肝心の内容までは分からない。うんうんと唸りながら一人首をひねっていたところで部屋の外から足音が聞こえ、やがて障子戸の前で立ち止まった。
戸を開け、現れたのは五番隊の隊士だった。弾児郎の看病のため赴いたのだろう。わずかに視線を落としながら入ってきた隊士の手には新しい手拭いと薬があった。
その顔が不意に上がり、座っている弾児郎と目が合う。重々しく垂れ下がったまぶたが大きく動き、目がこれでもかというほど見開かれた。
「お、尾花隊長、目を……」
「おう、たった今な」
弾児郎が歯を見せて笑うと、隊士は部屋を飛び出した。そうして隊長が目を覚ましたと隊舎中に響き渡る大声で触れ回り、建物のあちこちから騒々しい足音が聞こえ、気付いた時には部屋に五番隊の隊士が集まり、弾児郎を取り囲んでいた。
「おれはどのくらい寝てた?」
良かった、良かったと口々に言う隊士たちに、弾児郎が尋ねると、最初に来た隊士が「三日と半日ほど」と答える。どおりで体が固かったわけだ、と納得しながら一人ひとりの顔を見れば、どれも安堵や喜びに満ちている反面、うっすらと疲れが滲んでいるように思えた。
この三日間、騒動の事後処理と自分の看病、そして二人の隊士の埋葬もあってまともに休むこともできなかったのだろう。負担をかけてしまった申し訳なさだけでなく隊長不在の中でも隊としての機能を維持できた部下の成長ぶりに胸の奥からこみ上げるものがあった弾児郎は、丸めていた背筋をすっと伸ばすと、「お前らのおかげであの虚を倒すことができた。ありがとな」と声を張り上げ、腰を折った。隊士たちを纏う空気がにわかに揺れる。
「私たちはなにも……」
「お前たちがいてくれたから、おれは立ち上がることができたんだ。だから……」
「……俺たちも、あいつの仇を打ちたかったので」
虚にやられっぱなしの屈辱と悔しさに諦めかけたあの夜、隊士たちが駆け付けてくれた時の驚きと自分は一人ではないという心強さを思い出し、弾児郎が言葉を切ったところで隊士の中からぼそりと呟きが聞こえた。周りの隊士は、呟いた隊士を一瞥する。そうしてにんまりと笑みを浮かべ、大きく頷くと、再び弾児郎へと向き直り言う。
「俺たちはもっともっと強くなりたいです」
「隊長の怪我が完治したら、また稽古を付けてください」
以前は一人でも平気だったのに、いつからこんなふうになったのだろうか。それはきっと、護るべきものができたからだと弾児郎は思った。もしも一人のままだったら、自分以外何も信じることができない孤独な生を歩んでいたら、こんなあたたかい気持ちを知ることはできなかった……。
悔しかっただろう。悲しかっただろう。辛かっただろう。夢の中で自分の胸を打った言葉は、弾児郎自身が欲しかったものなのかもしれない。正確に言えば、孤独に慣れ過ぎてしまっていた過去の自分が、だ。
冷たい夜に震えていたかつての自分を救うため、お人よしになっていったのかもしれない。誰かに心を配れば、かつて孤独だった自分がいつか、満たされるような気がして……。
だから、きっと自分は、ここから抜け出すことはもうできないのだろう。漠然と思った弾児郎は、隊士たちの目を真っ直ぐに見据えながら、力強く言う。
「もちろんだ。おれたちはもっともっと強くなる。二度と負けないように。もう、誰も失わないように……」
強くなれば、きっと護ることができる。そしてその先、自分たちよりも後の世界には揺らぐことのない平穏が来るだろう……そう信じて。
じきに耳に入るだろうが、総隊長への報告は早いに越したことはない。考えた弾児郎は隊士の付き添いを断ると一人、一番隊舎へと足を運んだ。
外は相変わらずの寒さだが、ここ最近では珍しい快晴だった。遠くに聳える山には雲が掛かっておらず、降り積もった雪の白さが稜線を際立たせ青空に映えている。雪が残っているのは瀞霊廷も同じだった。昼間でも日の当たらない場所、塀の影には雪が溜まったままで、地面はじっとりと湿っていた。この雪は春になるまで溶けないだろう。そういえば毎年誰かしらとこんな話をしているな……ふと思ったところで一番隊舎の門は目前だった。
目に入って来た光景に、弾児郎は足を止めてしまった。
「……何やってんだ? 二人とも」
一番隊舎の門前で、雨緒紀と卯ノ花が竹箒を片手に掃き掃除をしていたのだ。手を止めることなく目だけ動かしこちらを確かめた卯ノ花は「罰掃除です」と無表情のまま答える。
「罰? なんの……」
「先日の虚討伐のだ。私と卯ノ花が勝手に瀞霊廷を抜け出し、現場へ行ったことが厳原の耳に入ってしまってな……おかげで私たちのほうが厳原の小言を聞く羽目になってしまった」
自分のことながら、雨緒紀がやれやれといった調子で話すので、弾児郎が「すまんな」と謝ろうと口を開く。が、それより先に再び雨緒紀が話をはじめるほうが早かった。
「だからといってお前が気に病むことではない。私たちが自らの意志で向かった、ただそれだけのこと。自分の選択を後悔していなければ、間違っていたとも思っていない」
「そうです。おかげで思う存分刀を振ることができましたし」
反省の色がまるで見えない卯ノ花の口ぶりに、弾児郎は声を上げて笑ってしまった。
「そっか、ありがとな」
「それと……尾花」
「ん?」
弾児郎は雨緒紀を見る。雪融けの頃合い、春のはじまりを思わせる穏やかな目が、それと分からない程度に緩む。
「変わることも悪くはないと思わないか?」
ちょうど吹き抜けた風に、土の匂いが混じっていたように感じた。晴れ晴れしい気分が胸を占め、だるかった体が軽くなっていくような気がした弾児郎は、「ああ、悪くないな」と同意の言葉を返した。
変わったからこそ、今の自分になることができたんだ。そしてその事実に満足している……だらしなく開く口元を見られないよう二人に背を向けた弾児郎は「じゃあ、二人で仲良く掃除、頑張ってくれ」と言い、ひらひらと手を振った。
「げっ」とかえるのひしゃげたような声が、背後から聞こえた。雨緒紀の、仲良くという単語への不満の態度がありありと感じ取れ、今日一番の笑い声を上げた弾児郎は弾んだ気持ちのままその場を後にした。
建物をぐるりと外周して庭に行くと、弾児郎の来訪にまず気付いたのは隠密特有の察知能力を発揮した千日だった。
「お、やっとお目覚めか」
千日の声に元柳斎と長次郎、源志郎、そして何故かいた乃武綱がこちらを振り向き、笑顔半分、憂慮半分の顔で迎え入れてくれた。
「怪我の具合はどうじゃ」
元柳斎の問いに、弾児郎は「まあまあってところだな」と鷹揚に答えながら左腕を回してみせる。が、薬が効いているといえど怪我は怪我。ぴしりと走った鋭い痛みに動きを止め、顔をこわばらせると「まだ無理をなさってはなりません!」と源志郎が心配の声を上げた。
返す言葉もなく、困ったように笑って誤魔化していると、こちらを見ていた乃武綱と目が合った。悪人面に笑みを貼り付けた乃武綱は「お前、すっきりしたって顔してるぜ」と悪戯っぽく言って来た。
「ああ、お前たちにも世話をかけたな」
「世話だなんて思っちゃいねえよ。自分の仕事をしたまでだ」
言うやいなや、驚きと不審を宿した視線が一斉に乃武綱を射抜く。場の空気がどこか胡散臭いものに変わったのを肌で感じ、逆に何事かと眉を顰めた乃武綱が「な、なんだよ」という狼狽を反応にすると、それに応じたのは乃武綱の発言にいち早く訝しげな顔をした長次郎だった。
「執行殿の口から仕事という言葉が出るなんて……」
「お前、そりゃあどういう意味だ!」
「そのまんまだ。厳原が聞いたら泡吹いて倒れるぞ」
千日の冷やかしに乃武綱以外の笑い声が続く。「お前……っ!」と千日を肘でつついた乃武綱だが、遅れて悔しさが競り上がってきたのか、ぐぬ、と歯を噛み締め、腹を抱える面々を恨めしそうに睨みつける。その姿に、さらに起こった笑いが治まりかけた頃合いを見計らい、弾児郎は口を開いた。
「山本、被害状況はどうだった?」
「瀞霊廷への侵入は防ぐことができた。東の森に関しては三分の一が焼失した程度。狙い通り、周辺集落への被害はない」
「あれ以来、現世から虚の流入は……」
「ない」
「じゃあ、脅威は完全に去ったんだな」
弾児郎が胸を撫で下ろすと、千日が「ただ、今後も穿界門の管理には一層の注意を払っていく必要があるがな」と用心の言葉を付け加える。
「それともう一つ。今回のことで現状の護廷十三隊では有事の際における尸魂界……それどころか瀞霊廷の守護でも困難を極めるという話が出ている」
「戦闘でも防衛でも、あちこちで人手が足りないってことか?」
「そういうことだ。だから近い将来、護廷十三隊を増員することになるだろう」
ならず者の寄せ集めだった集団がここまで来たかという感嘆が胸に迫り、弾児郎は「ほお」と息を吐いた。隊士を増やすということは、最近再構築をされた死神統学院のほうも生徒を増やすということだ。元字塾の時分から師範を務めていた元柳斎は今以上に多忙を極めることとなる。となると、右腕である長次郎も一層の働きを期待されるだろうな……源志郎とともに目を輝かせている長次郎にさりげなく目を移したところで、「げえ、また弱っちいのが入ってくるのかよ」と乃武綱のうんざりしたぼやきが聞こえた。
「未熟な死神を指導するもの、大切な〝仕事〟じゃよ」
「けっ。徹底的にしごいてやる。いざという時に使いものにならなかったら洒落にならねえからな」
元柳斎に念押しされ、先ほどの実直さを脱ぎ捨てた乃武綱はうへえと舌を出す。ようやく日常が戻ってきた実感が湧き上がり、弾児郎は自然と笑みがこぼれた。
「楽しみだな」
「そうか?」
「ああ。おれも早く怪我を治して、隊士たちをしごくとするか!」
意気揚々とした宣言に対し、乃武綱はおかしなものを見る目を向けてくる。一方で何かを決意したように大きく頷いた元柳斎は、横でやり取りを聞いていた源志郎に「お主も五番隊の鍛錬に参加すると良い」と今までにない提案を投げかけた。
「私は一番隊ですよ? 何故……」
「お主は儂の稽古しか受けたことがなかろう。他の隊の鍛錬に混ざることでさまざまな経験を積むことができる。それはきっと、源志郎の糧となるじゃろう。
それに、あやつの教え方は存外上手い。儂もそれなりに体術の心得はあるが、弾児郎からも学ぶことで新たな戦い方が見つかるのではないか?」
元柳斎の話を真剣に聞いていた源志郎は、ややあって怪訝そうだった表情を明るくすると「是非、ご一緒させてください!」と弾児郎に向き直った。
「おう、大歓迎だ!」
「おい、長次郎。お前も混ざって来いよ」
面白がった乃武綱が、長次郎にそっと耳打ちする。いつもの溌剌さはなりを潜め、細眉を下げた長次郎は「わ、私もですか? いや、私は……」と歯切れの悪い返事をした。
「お前はもう少し肉を付けろよ。そんな細っこい体だと、虚に簡単に吹っ飛ばされるぞ」
「体のことで執行殿に言われたくありません」
「俺はいいんだよ。でかいから」
「でかいのは態度だけにしてください」
「お前、今日はやけに突っかかってくるな……!」
口元に引きつった笑いを刻んだ乃武綱が長次郎の頭にぐりぐりと拳を押し当てる。子どもの悪ふざけのような落ち着きのない空気に、仕方がないとばかりに口を挟んだのは千日だ。
「まあまあ、喧嘩するなって。他の隊のことを知ることも総隊長の右腕には必要……そうだろ、山本」
「う、うむ。まあそうじゃが……」
「ほら、山本も賛成だって」
元柳斎を巻き込まれると、さすがの長次郎も真っ向から反抗できず、苦い顔で黙り込むに留めることとなった。まるで叱られた駄々っ子だ。自然と浮かぶにやけ顔を抑え込むよう、弾児郎はひときわ大きな声で宣言した。
「よし、じゃあ二人ともうちでみっちりしごいてやるからな! 覚悟しろ!」
源志郎の嬉々とした返事と、長次郎の覇気のない返事のあまりの温度差に、乃武綱が指を差して笑い出す。とうとうこらえきれずに噴き出した弾児郎だったが、一方で、長次郎と源志郎が持つ若者の滾りに思いを馳せた。
この二人は胸に熱いものを持っている。普段は表に出すことはないが熾火となって胸に秘められており、長次郎と源志郎が今後長い年月、生きる原動力となるだろう。
それがあるならば、きっと二人は良い死神になる。この先も総隊長のそばで切磋琢磨しながら己を高め、この世界を支えることができるような存在に……。
そう思いながら、弾児郎は二人を見つめていた。
*
皆が談笑する声を聞きながら、元柳斎は考える。
断界における拘流の消失、それに合わせたかのような虚の出現と尸魂界への侵入。そうして流魂街の人間に目もくれずに瀞霊廷を目指したこと。ありえない。あまりにも〝出来過ぎた〟危機としか言いようがない……。
そんなことが可能なのは、元柳斎が知る限りただ一人しかいない。
〝全ての事象の名付け親〟――そう呼ばれる男の顔が脳裏によぎり、眉を顰める。
とはいえ、王の住処のお膝元を、この世界の均衡を保つべく創られた護廷十三隊をあえて危機に陥れる理由が、あの男にあるのだろうか。
試されているのか? 人ならざるものだった彼らを、世界の礎とするために。けだものに人の心を覚えさせるべく……。
元柳斎は遥か頭上に目をやる。
そこには薄青をした、抜けるような空が広がっているだけだった。
《了》