エル・ゴルド パルデアのクリスマスが始まるのは十二月の二十二日からである。この日から国営の宝くじの抽選会が始まる。分配は広く、当選者は通りに出て大々的に祝われる。
一等の大当たりが慣習の通りにエル・ゴルドと称されテレビやネットニュースで持て囃されていた。
翌日の十二月二十三日。アオキはハッサクの家のリビングで静かにパソコンのキーボードを叩いていた。せっかくのクリスマスだというのに……とハッサクは呆れた様子であったが、その口元には柔和な笑みが湛えられている。
「明日はレストランを予約していますよ」
「存じておりますが」
「ええ、あなたが食事の約束を忘れるはずがありませんものね」
アオキはダイニングキッチンでポットを温めているハッサクを横目で窺った。
アオキにはハッサクとのデートの約束を忘れたという前科がある。
それは夏の出来事だった。映画館で往年の名作をリバイバル上映するということで、映画好きのハッサクは「ぜひあなたと観たいのです」と目を輝かせていた。
しかし、アオキからしてみれば仕事も佳境という週に呑気に映画など観ていられないというのが本音だった。七月、周りはバカンスの真っ最中であったが、三足の草鞋を履いているビジネスマンにまとまった休みなど皆無に等しい。
本来なら恋人に連絡を怠るというケアレスミスをするはずがないアオキだったが、自宅でリモートミーティングを終えた時にようやくハッサクとの約束を思い出した。映画の上映時間はもう一時間を過ぎていた。ああ、これでは振られてもおかしくないなと思いながらハッサクに電話を入れたが、ハッサクは一人で映画を観ていたのでスマホロトムの電源をオフにしていた。
アオキは平常時でさえ土気色の肌を更に青ざめさせてバルに向かった。着いた頃にはハッサクはのんびりとホットコーヒーが入ったグラスに氷を入れていた。
「ハッサクさん、すみません」
「一人で映画を観るなんて十年ぶりですよ」
悪戯をした子供のように無邪気に笑うハッサクを見て、アオキの背中に冷たい汗が流れた。
「なんとお詫びをしていいか……」
表面上はあたふたとしてみせたが、アオキはハッサクに借りを作ってしまったことを心の底から後悔していた。ハッサクは許してくれるようなポーズを取っているが、その態度が逆に恐ろしい。
実際、ハッサクは事あるごとにアオキが約束を忘れたことをからかうようになった。
「ハッサクさん、映画の約束をすっぽかしたことは何度も謝っているじゃないですか。いい加減許して下さいよ」
「レストランのクリスマスメニューはりんごや胡桃、ベーコンがたっぷり入ったスタッフドターキーのローストだそうですよ。こんなご馳走を食べられる機会をあなたが忘れるはずありません。事実でしょう?」
「事実ですが、その嫌味ったらしい言い方は……」
「まあまあ」
ハッサクはアオキのげんなりとした顔などどこ吹く風で、ティーセットをテーブルに運んだ。アオキも茶葉と甘いクリームの香りに釣られてダイニングに移動する。
白いホイップクリームと苺のムースが層になっているショートケーキが運ばれてきた。アオキはまたハッサクの様子を窺った。
「明日がクリスマスディナーなのに、今日ケーキを食べるんですか?」
「クリスマスマーケットで見かけたのでつい買ってしまいました。たまには贅沢三昧も良いでしょう」
ポルボロンやマンテカドもありますよ、と付け足しながらハッサクは上機嫌でティーカップを差し出した。
「疲れを糖分で癒したい頃合いではないですか?」
「ええ、まあ」
アオキが壁の時計を見るとぴったり三時になるところだった。モクローを模った木彫りの人形の下で時計の振り子が揺れている。
「ケーキを食べながら飲む紅茶は格別でございますね。日常に彩りを添えてくれます」
大袈裟な、と思ったがアオキは黙ってケーキを一口食べた。滑らかなムースと口溶けの良い生クリームが、控えめな甘さのスポンジと相性が良い。
アオキは紅茶の入ったカップを眺めた。今日の紅茶は透き通った琥珀色である。このブレンドは以前にも飲んだことがあると、自信が無いながらにそう思った。
ハッサクはティータイムによくそうするように、目を閉じて紅茶の香りを楽しんでいる。
香り。アオキはハッサクが手土産にチョコや焼き菓子を買ってくる度に「まずは香りを楽しみなさい」と言っていたことを思い出した。
専門店で買うスイーツをアオキにスナック感覚で消費されるのは、買ってきたハッサクとしては情趣が無く映るようだ。
アオキはハッサクが少しずつケーキを口に運ぶ様と自分を比べた。
「自分は父が買ってきたクリスマスケーキを早々に頬張って、食べ終えた頃にやっと母が淹れてくれた紅茶を飲むような子供でした」
「元気があってよろしいではないですか」
アオキはハッサクの言葉を聞きながら、いつもより小さくケーキをフォークで掬った。
シロップのかかった苺の甘酸っぱい風味がして、クリームが口内の温度で溶けていく。舌の上にシルクのベールがかかったように感じられて、紅茶を飲むと爽快な渋みがより一層際立ったような感覚を覚えた。
そして、今度はいつもより大きめにケーキを掬って頬張った。クリームが口の中いっぱいに広がる幸せは、子供の頃に感じたものと同じだった。ショートケーキをほんの何口かで平らげてしまうなんて勿体無いようだが、口の端にクリームがつくような食べ方は本当に心を許した家族や恋人の前でしかできないことだ。ハッサクは少し呆れながら、それでも愛おしさを隠さずにアオキを見つめている。
「エル・ゴルドは太った人という意味です。ご存知でしたか?」
「ええ、それがなんで国営の宝くじの名前になったのかまでは知りませんが……そういえば今年は買わなかったな……」
アオキが独り言のように呟くと、ハッサクは目を丸くした。
「買ったでしょう。七月の売り始めの頃に」
「そうでしたか?」
「あなたが約束を忘れたお詫びに買ってくれたんじゃないですか」
アオキは七月のあのバルのことを思い出した。屋内はクーラーをつけなくても涼しいパルデアの気候であったが、アオキは冷や汗が止まらなかった。咄嗟に紙幣を十何枚財布から出して宝くじを買い、「クリスマス、一緒に過ごしましょう」とハッサクに言ったのだ。
「あなた、エル・ゴルドのことなんかすっかり忘れてたみたいですね?」
「いや、それは……」
二度目の失態かと思いアオキは狼狽えたが、ハッサクは首を振った。
「いいのですよ。昨晩、当たり前のように小生の家に来てくれたではないですか。それが何より嬉しいです」
「…………」
アオキはこの半年で、ハッサクの家に連泊することに慣れきってしまっていた。約束を忘れながらも、クリスマスは当然ハッサクと一緒に過ごすものとして考えていた。そして実際、こうして二人でケーキを食べている。
「えぇ、と……それで、当選したんですか」
何やらむず痒い思いがしてアオキが話題を変えると、ハッサクは莞爾として笑った。
「当たりましたよ。本人確認ができる書類が必要な程度に」
アオキはハッサクに当選額を伝えられ、まさか、と唾を飲んだが、自分があの夏に咄嗟に財布から出した額を思えばこれぐらい当たってもおかしくはないか、と考えを改めた。