第14回 「猫」「噛み傷」 俺はこの感情の名前を知っている。
「そういやボス、この前拾ってきた猫どうするんです?」
時刻は昼を少し過ぎた頃。比較的暖かな日差しが届く今日は絶好の洗濯日和で、俺は川の水でじゃぶじゃぶ洗った仲間の野郎どもの服をぱんっぱんっと上下に振りながら、首尾はどうかと様子を見にきていたボスに尋ねた。
「あ? あー、どうも懐いちまったからなあ」
どうしたもんか、と手近な岩に腰を下ろしてぐるりと首を回す。その拍子にボスの服の一部がきらりと陽光を反射した。蜘蛛の糸か何かだろうか。目を凝らす俺に気づいたのか、服に付いたそれを見つけては「まだここにもついていやがったか」とつまんで落とすボスはしかし満更でもなさそうだ。面倒くさがりつつも魔法で全部落としちまわないところを見るに、それだけ気に入っているのだろう。何せここは男だらけの大所帯で、華もへったくれもありゃしないのだから。加えて北の国は人間はおろか魔法使いにだって平穏に暮らすには厳しい極寒の地。そんな場所じゃふらふらと彷徨っていた猫とて雄雌問わず大層な華になる。
「ったく面倒くせえったら」
なあ、てめえもそう思うだろ? と投げかけられた問いはただの世間話の延長だ。きっと俺と同じように猫について尋ねた仲間全員に同じように返していて、別に俺に限らず特定の誰かの同意の言葉が欲しいわけじゃないのだ。それを裏付けるように既にボスの興味は珍しく雲一つない空に移っていて。そうですね、とも思いませんね、とも言えないまま薄汚れたズボンを手に川岸で間延びした声を出している俺が馬鹿みたいだ。
俺はどうしたってボスにとっての仲間、部下の一人に過ぎなくて、あの猫のようにボスの柔らかな腹部に身体を押し付けて自分の匂いをこすりつけることはおろかじゃれつくことすら絶対に許されないのに。
羨ましいな。
不意に沸き上がった感情にぎょっとして思わず手が止まる。人間や魔女ならいざ知らず、まさか犬猫相手に嫉妬するなんてどうかしているにも程がある。あれらは愛玩動物だ。それ以上でもそれ以下でもない。けれど、もし俺が猫になれたならボスは――そこまで考えて、その妄想を振り払うように思い切り頭を振った。
たまりにたまった洗濯物を洗い終え、よいせと川岸から立ち上がる。まくりあげた袖口が水を吸って僅かに重い。
「終わったか? なら戻るぞ」
一人じゃ大変そうだから手伝うというわけでもなく、かといって確認するだけしたら戻るわけでもないところがボスらしいなと思いながら、一人先を行く背中を追う。待ってくださいよお、なんて言いながらあと一歩のところまで追いついて。そして、風になびくその白と黒の柔らかそうな髪の毛の下、ちょうど俺の目線にあたる首筋にくっきりとまだ赤みの残る噛み傷を見つけた。
「それ、なんすか」
思ったよりも感情のない声に発した俺自身がたじろぐ。
洗濯物を満載にした桶で両手が塞がっていなければきっと不躾にもその傷に手をのばしていた。のばして、触れて、まだ痛々しさの残るそこに爪を立てて、抉って塗り替えてやりたいという欲情。目の前の男は痛いと顔を顰めるだろうか。それとも氷の刃の様な瞳で二度とするなと理解させにくるだろうか。
「何って、噛まれた以外にあるかよ。ったく小せえ猫だからって油断したぜ」
てめえも気を付けろよ、と大仰に肩を竦めてボスがちらりと振り返る。その瞳はやや訝し気に眇められていたけれど、それも一過性のものだろう。
俺の腹内からぞわぞわとととめどなく溢れる感情を、目の前の男は、俺のボスは、きっと知らない。