「わぁ、すごい歯ですね」
怪盗は朗らかで、何を考えているのかわからない。
「でもごめんなさい、全然怖くないです」
「はぁ……?」
人魚は、己の歯に怯えない者を家族以外に知らなかった。この武器が、怖くないだと?
「手に入れた特上の獲物に、ナイフの刃を入れる瞬間がいっちばん怖いんですよ。失敗できないし」
「なんだよ、急に」
「いやぁ、はは。俺、特上どころじゃない最上級が手に入ってしまうから浮かれちゃってるんですかね」
「私は、別にあんたの獲物じゃない」
「残念ながら、俺の獲物です」
きっと、太陽の下ならば眩しい笑顔なのだろう。しかし、今は大きな月に雲がかかっていた。その眩しい笑顔に影が落ちている。ぎらりと輝く瞳が、深海の捕食者のようだった。
「綺麗な人魚さん。甘いものは、好きですか」
「甘いとか、わからないし。そもそもそんな、軽々しく綺麗なとか言って……軽薄だな」
「えぇ!?何でですか!俺の人生の中で一番綺麗です、本当ですって」
「あーうるさいうるさい!もう帰るからな!二度と顔を見せるな!」
隙をついたつもりだった。くるりと海中に潜り、暴れる胸を抑えてひとつ呼吸を整える。顔を上げると、
「なんでいるんだよ馬鹿!あんた死ぬぞニンゲンなんだから!」
怪盗がいた。口から泡をごぼごぼと吐きながら伝えてきたのは、
『あなたは、おれのうんめいのえものです』
なんて恐ろしい台詞。この鮫肌を擦り付けて、逃げてやろうか。溺れる怪盗を睨み帰ろうとしたものの、結局放っておけなかった。己の正義感に腹が立つ。
「……感謝しろよ」
砂浜に怪盗を寝かせ、ため息をついた。なんで襲われた方が救命なんてしてやっているんだ。直に意識も浮上するだろう。お腹が小さく上下しているから。
人魚は怪盗のことを静かに見つめる。もう二度と捕まってたまるか!と思う気持ちとニンゲンへの興味、どちらも本物だった。それに気づいてしまった。その瞳、本当は何の色をしているんだろう。
「……ありがとう、ございます」
「起きていたのか」
「綺麗な人が俺のこと見てくれてるんですから。かっこいい寝顔意識してたんですよ」
「嘘つけ」
「嘘じゃないです」
「じゃあ帰らせてもらうからな」
「帰しませんよ。あなたは、俺のものです」
しゅる、と音がした。
「あ」
「できる限り傷をつけたくないんです。あなたはとても綺麗だから」
「解け」
「解いたら逃げるでしょう。そんなの、許しません」
「卑怯者」
「あはは、怪盗にそれは褒め言葉だと思ってもいいですか?」
何も動じない。なんだこいつ。身体に巻き付いた平くて薄い紐は、先端が怪盗の手元にあった。月の光を浴びてつやつやと輝くその紐は、こんなことに使わなければきっともっと心が躍るものなのだろう。
「……捕まえたとして、私をどうするつもりなんだ」
「うーん、そうですね……」
「『ナイフの刃を入れる』つもりか?」
「まさか!そんなわけないじゃないですか!すみません、そんなこと聞いたら余計に怖いですよね」
「聞かなくても怖いに決まっているだろ」
「俺、あなたを捕まえて……うーん……」
「何もないなら本当に帰らせてもらうぞ。この紐もお前の首も噛みちぎってやるからな」
「だったら今噛みちぎっちゃってくださいよ。そのリボンはあなたの髪に結んであげたくて選んだんですけど」
「選んだ?」
「選んだんです。あなたを初めて見たその夜に。真っ当に買い物をしたんです」
「……目星をつけていたのか」
ため息が止まらない。
「はい。あなたを初めて見たときに、これは運命だって確信しました」
怪盗は思案していた様子の顔をぱっと明るくした。
「……」
「俺、あなたをどうにかするつもりじゃないんです」
「じゃあ」
「あなたとどうにかなりたいんです」
月にかかっていた雲が晴れた。怪盗の瞳は、蕩けるチョコレートの色に似ていた。