🐙冬の空気は好きだ。肺を冷えた温度で満たせば、数瞬前の自分とは違ったいきものになれる気がするから。それに、なによりも────
「──やっぱ、タバコが一番ウマい季節やんなあ……」
誰にともなく独り言ち、ふう、と寒さ故でない白い息を細く長く吐き出せば、男は人気のない公園のベンチで脚を組み直す。ここが喫煙所でないことは明白であり、通行人が見たら怪訝そうな目を向けてくるに違いないのだが。
男は何か目的があってそこに座っているわけでも、まして人を待っているでもない。つまるところ、ただの時間潰し。商会でシャケと戦う度胸はあっても、積極的にイカタコと撃ち合って過ごすだけの気力はない。シフト分の報酬も受け取り終えてしまった……そんなわけで、至極退屈なのである。
男が、ちらつき出した雪にタバコの火を消されないよう一人苦心していれば、数人のこどもたち──高校生か、或いは中学生くらいか──がなにやら楽しげに話しながら歩いて来るではないか。いつかの自分にもあった時期だ、なんとも微笑ましい……と目を細める。こどもたちの取り上げている話題は明るいものではなかったが。
曰く、同級生の一人について。暴行を受けているやら、家庭環境がたいそう物騒なのだということやら……やや誇張しすぎているきらいはあるが、ありがちな噂話だ。ふう、と煙を吐き出し、穏やかではないないなと苦笑しつつ色のついたサングラスを押し上げる。気に留めるまでもないはずなのだ、本来。思い当たる知り合いがいるわけでもないが、不思議なことにやけに引っ掛かる。予感か、はたまた自分の気まぐれか……そう思案しながら、いたく短くなったタバコを落とし、踏み消す。吸い殻をゴミ箱に軽く放ったところで、また人が通りがかるのに気が付く。
薄らと積もった雪に足を引きずるようにして、ふらつきながら一人の少年がにこちらに向かってくる。通りすぎる素振りはなく、そのまままっすぐにベンチに座り込む。隣に座っているというのに、この少年は自分には気付いていないらしいということを悟った男は、どう声をかけるべきかと逡巡する。言葉を慎重に選ばなければならないほど、少年はボロボロだったのである。少し風に吹かれたから、で説明がつかないくらいゲソは乱れている。痛々しく腫れた頰、口の端は切れているのではなかろうか──明らかに殴られた、痕。なによりも、暗く深い黒い目が、少年の生い立ちを容易に想像させる。男には、ぼんやりとした確信があった。ああ、この少年は────
「──……きみ、噂のネガくんとちゃうの」
ようやくこちらに気付いたらしい少年は、ずるりとベンチから滑り落ちて尻をしたたかに打ち付けている。口をぱくぱくと開くも、まともに言葉も出ないらしい。随分悪いことをしたなと思いながら、男は再び口を開く。
「ああ、当たっとった?おれの名前は……ささのや言いますけども。尻の方大丈夫?」
この街ではそう名乗っているのだから、別に嘘はついていない。少年に微笑んで、男は手を差し伸べる。
「……な、なんで」
「雪が降っとって、きみは傷だらけ。手当てもせんで途方に暮れた顔で横座られたらお兄さん心配してまうで、まったく……」
嘘臭い。自覚があるし、少年だってそう思っていることだろう。呆気にとられる、というよりは訝しんでいるという反応の方が近い。
「きみ、困り事があるんとちゃうの。散歩じゃないことくらいアホでもわかるで、家出少年」
「確かに……困って……ま、すけど……」
畳み掛けるように少年に語りかければどうやら図星だったようで、視線を足元に落として唇を尖らせるようにぼそぼそと返答をする。その姿のなんとも心細く、か弱いことか。
「頼る当てもないんやろ。……ほんなら、ウチおいで」
「え、嫌ですけど」
口をついて出た善意をいとも簡単に切り捨てられ、思わず膝をつきそうになった。
「……、……そか、残念。まあ見ず知らずの男から言われたって着いてかんわな。ほんならお兄さんにせめて飲みもんくらいは奢らせたってえな。ちょうどそこに自販機あることやし。体冷やしても気分も体調も悪なる一方やろ?」
なんとか打ちのめされるのを耐え、心なしか早口で言い切ったあとに少年の返答を待たずに自販機へと早足で歩いた。
「おまたせ~、ほいっと」
適当に買った温かいココアを少年へと投げ渡し、エナジードリンクの缶を開ける。少年はココアを手の中で包むように転がしながら怪訝そうにこちらを見上げていた。
「ん、どないしたん……開けられんかったり……あ、もしかしてココア苦手とか?そうやったらすまん、俺飲むから貸してや」
「いえ、なんでも」
少年は、冷えたエナジードリンクをよりにもよって雪のちらつく中飲んでいる男に内心驚愕していたのだが、それに気が付くようなタコではない。
重い沈黙が訪れる。少年は依然として缶を手の中で弄んでいるが、男は気まずさを地面の小石を蹴って誤魔化そうとしている。誘いを断られ、奢ると言った飲み物も渡し終えたというのだから早くこの場を立ち去れば良かったものを。
「あー、そや。……きみのこと、噂で聞いたもんでな。つってもさっき通った中学生の世間話に聞き耳たててただけやけども、ハハ!!」
乾いた笑い声が公園に響く。せめて場を和ませようと話し始めた話題が、よりにもよって。沈黙が無遠慮な発言を咎める。完全にやらかした。緊張からか持っていた缶を軽くへこませてしまう。風の音が、更に重く肩にのし掛かる。
「……それで」
間を置いて少年の口から放たれたのは、肌を刺す北風の如く冷たい声だった。
「それで、なんですか。それを知ったところで、あなたにとやかく言われる筋合いは……」
「ま、正直きみの言う通りおれは関係ないよ」
大人ぶろう、割り切ろうと発されたそれに居た堪れなさを覚え、咄嗟に遮る。
「いくらきみのご両親がきみに手酷いことしとったって、おれには赤の他人の家庭事情に首突っ込む趣味なんてないんよ。ただ……きみを大事に扱わんお父さんお母さんのところに、きみ自身は戻りたくはなく見えるで」
「いや、でも……」
「それに、ボロボロの青少年見捨てておけるほどお兄さんは冷血じゃないで~」
心にもない風に、聞こえているだろうか。結局のところ、気に掛かっていたのもかつての自身の境遇に覚えがあるからなのだろう。救いたいと思うのもただの自己満足だ。
暫し目を伏せたのち、少年は覚悟を決めたように男の目を見つめる。
「……やっぱり、ついていくのは」
「え?ほんまに?本気にするとは思っとらんかったわ」
自暴自棄とも取れるその懇願は、これほどまでに喜べるものだったろうか。自分を頼ろうとする力ない少年に、ほんの少しの照れ隠しを込めて軽口を叩く。
「…………、……ムッカつく……大人だなあ……」
当然の如く少年には不評で、じっとりと呆れたような視線を送られる。男は立ち上がってズボンについた土埃を軽く払い、再びタバコに火を着けた。
「冗談やて冗談。ほな、行こか。汚くしとるけど許したって──」
くるりと少年を振り返れば、ベンチからずり落ちるようにして彼は倒れ伏している。声も出ないほど驚き慌てて駆け寄って意識を確認する。
極度に疲れていたのだろう、少年の顔に浮かんでいたのは穏やかとは到底言いがたい表情だが、落ち着いた呼吸音は安定したものだった。
「……なんや、寝とるだけかいな」
拍子抜けして深い溜め息をついた男は、仕方ないなとでも言いたげな表情で少年をおぶる。雪のちらつく中でイカ一人背負っていると言うのに、男は心なしか軽い足取りで帰路に着いた。