宝物の部屋(仮題) 気が狂いそうな青が全て、闇に沈んだ夜。日常とは隔離された特殊空間は、まともな感覚を壊してあらゆる感情を暴走させる。それは眠れる才能の覚醒であったり、押し込めていた欲望や願望の表出であったり。
とにかくいずれにしても、“暴走”と称するのが最も適当。
それまでの日常や人生の中では到底飼い慣らすことが出来ない、剥き出しで歪でありながら、強く惹きつけて止まないもの。
「ん……は……」
押し込めた呼吸が、喉の隙間を無理に破ってにゅるりと顔を出すように。漏れ出した音は温く蕩けて甘い。
呼吸に音があるなんて知らない。ましてや、温度や湿度を纏うと、質量すら持つような錯覚を覚えた。重力に従うままダラリ投げ出した腕の先で指先を動かしても、その先に零れた吐息の塊が引っ掛かることはないけれど。
目の端を熱い雫が伝う感覚に誘われるように目を開く。ぼんやりと歪んだ視界に最初に映るのは、美しい眉間。そこに痛そうな皺が寄るのを目にして、凪誠士郎はゆったりと目を細める。ビリビリ痺れる指先を持ち上げ、ソッと、目の前の頬に触れた。
すると、キツク閉じられていた瞼が震えて、濃紫が微かに色を覗かせる。凪は口内を貪る舌の動きが一瞬止んだのを察して、甘噛みで意志を伝えた。
「んぅ……っ」
蕩けた唾液を擦り合わせるように、距離の開く唇。深いキスの感覚で満たされていた脳内に別の五感が戻り始め、怒涛のように鳴く心音が駆け抜けて、背筋が震える。ブルッと耳奥を揺らす感覚が抜けるのを待って、凪は荒い呼吸の隙間で呼んだ。
「れお」
舌が痺れて上手く回らない。それでも辛うじて呼べる名前の響きで助かったと思う。
御影玲王はゴクリと強く唾を飲んだ後、凪の口の周りについた唾液を指先で拭った。
「嫌だった?」
その問いかけは無意味だ。凪は頭まですっぽり布団をかぶり、ベッドに横たわる姿勢でいるせいで上手く横に振れない頭をただグリッとシーツに擦りつける。それでも意志は伝わるはず。
「んにゃ、すごすぎた」
「悪り。夢中になりすぎたな」
言いながら玲王は凪の頬を掌でゆったりと撫でた。濃紫がスゥと細められ、慈愛に染まる。
「初めてしたからよくわからんけど、レオってキス上手いよね」
「……あ?」
「なに」
「初めて、ってマジ?」
「マジだけど。うへぇ、引くなし」
「引いてねんだわ。はあ、マジ、うわ」
「どういう感情なのそれ」
「いや、単純にすげーうれしいっつー感情」
「はあ」
「リアクション薄いなお前」
「いやだって、その感情レオのだし。俺は単純にハズい」
「お前でも恥ずかしいとかって思うんだな」
「俺のことなんだと思ってる?」
「まあ言うてずっと理解不能だったからな、そういう可愛いとこ知るたび、興奮すんぜ」
「……変態さん」
「るせえよ。可愛いって思うのは、俺の特権」
好きだって、自覚して。伝えて、成就したから。玲王はそんな意味のことを囁きながら、尚も凪の頬を撫でた。唇にかかる吐息。言葉の通り興奮した息遣いを察して、凪は小さく顎を引いて視線を逸らす。
「やっぱ、レオは変わってる」
「何と言われようが、俺の感情は俺だけのものだっつーの。お前にも否定はさせねえし」
「否定とかじゃない。理解できないってだけ」
「お前は自分を過小評価しすぎなんだよ。この俺が宝物っつって誇んだ。自信持つべきだろ」
「ほぇあ……」
傲慢。それがさも当然だと堂々と差し出されれば、はいそうですかと受け入れるしかできない。一方的に沙汰を下し、個人の意志も世界の理もすべて無視して己の述べる価値観が絶対だと宣言する王令のごとく。
(名前の中に二つも入ってるし)
名は体を表す。その裏付けも付加されて、凪は玲王の基本気質を「王様」そのものだと思った。自分の名前の中にある字は、そんな王に「忠誠」を誓う「騎士」の意味を持つ。
(出来過ぎか?)
出会う運命だった、なんて。ロマンチスト脳になるつもりはないにせよ、大義名分とか免罪符にはなるような気がした。
玲王の言う通り、感情はそれを抱く本人自身のものだし誰にも否定はできない。そもそもここは気の狂いそうな青が取り囲む特殊空間・青い監獄。まともな感覚を壊され、あらゆる感情が暴走する。
もしもここに足を踏み入れることがなかったら。
高校の部活動で真っ当に活動して昇りつめられるところまで駆けあがり、時期と時間を重ねて、それまでに築き上げた「自分」を保ったまま、まともな感覚を持ち続けられていたら。
たった一人を欲して、強い結びつきを願う恋愛なんて感情を持つことがあっただろうか。
(少なくとも、特別じゃないなんてことはなかっただろうけど)
もし、を積み重ねている思考が不思議だった。これも、青い監獄に狂わされた副産物なのか。それとももう、玲王と出会った時点で変わり始めていたものなのか、凪には見当が付かなかった。
(どっちでもいいや、考えるの、めんどくさい)
そうして思考は停止する。考えなくても、頑張らなくても、玲王の夢が尽きない限り、玲王の凪への興味が尽きない限り、続いていく関係。そこにもうひとつ意味が足されて、凪から玲王に対して何かを返すことも許される、対等に少しだけ近づいただけ。
(対等に、なりたいんかな、俺)
一方的に注がれるだけだって、多分ずっと成立する。凪に玲王からの要求を拒否するつもりはなかったし、玲王が言った通り「そのままの凪」でいつづけることだけが提示された条件だから、それを保ち続ければいいだけの話。凪の生来からの信条にも反しない、めんどくさくないもの。
価値観は二つだけ。めんどくさくてやりたくないか、めんどくさくないからやってもいいか。
自ら思考したいと思わないし、創造性だけが尊いなんてこともないはずだし。
(レオに愛されるのは心地いい。大したもの返せない代わりに、俺を全部あげたらいいよね)
レオが欲しい言えば、欲しがるだけ、全部。別に何も惜しいとも思わないし、自分にそれほど価値があるとも思ってない。玲王が「玲王の宝物である」ことが価値だというならば確かに、それは輝かしいもののように見えた。
そうして胸に灯るキラキラの欠片が「大切」という価値のあるものだなんて、この時はひとつも理解していなかった。
なんとなく、ずっと、最後まであってくれたらいいと思っていただけ。だからただ「最後まで一緒にいて」と約束したんだ。
約束って、どんな形がある? どんな色をしてる? どんな手触りだった?
本当に、在ったのか。証明するのものは何もなくて、だからその瞬間に、強い不安に襲われたことだけを覚えている。
――御影玲王が事故で記憶喪失になった。
その報告を聞いた時、凪は反射のように駆けだしていた。