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    アロマきかく

    @armk3

    普段絵とか描かないのに極稀に描くから常にリハビリ状態
    最近のトレンド:プロムンというかろぼとみというかろぼとみ

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    アロマきかく

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    とにかくエモい部分片っ端から詰め込んだらえらいことになった。
    ダフネはこの点のみんなにはこの点のままで居て欲しい。他の点の情報で汚したくない。ここは確かだと思う。奴はこの点が大好きだから。
    でもさ、コービン君はあの点の記憶を持ったままなのよ。あの時オフィサーダフネを助けたランク5職員としての記憶は残ったままなわけよ。でもダフネは遮った。それってすげえ辛い。ノー推敲。真面目にこの記憶どうするんだろ。

    僕は僕に問う きっかけは、”アナスタシア”との一連のやりとりだろう。
     ふと、”あの点”の記憶がよぎる頻度が増えてきていた。

     始めのうちはアナスタシアと過ごした記憶ばかりが思い起こされた。

    ――チーフ……いえ、コービンさん。疲れているのなら、疲れた、と正直に言ってしまってもいいと思うんです――

     いつだったか、業務の合間にアナスタシアが切り出してきた。あの時は疲れてなんかいませんよ、と強がってしまったが、アナスタシアはとっくに僕の心情を見抜いていた。
     彼女自身、”お姉ちゃん”としての皮を被り続けていることに疲れ切っていたのだ。無理して皮を被っていることの大変さを僕の様子から感じ取っていたのだろう。
     僕たちは似た者同士だった。
     アナスタシア曰く――ずっと見ていて危なっかしいな、と思っていた。僕がチーフになってからは特にそう感じるようになり、自分が支えてあげないといずれこの人は疲れ切って倒れてしまいかねない。チーフだからと頼りにするだけでなく、自分もしっかりしないといけない――とのこと。
     そんなに初期の頃から見抜かれていたのか。彼女の観察眼に感服すると同時に、他の職員からもそう見られていやしないかと不安になった。不安による後押しもあったのだろう、他の職員が周囲に居ないのをいいことに、優しく笑いかける彼女に僕の心情を余すところなく吐露した。僕の心の汚いところまで、全部。
     彼女は何度も頷きながら、僕の話を最後まで聞いてくれた。アナスタシアも心の内を曝け出して、二人で笑い合って……あのあと、”約束”を交わしたんだ。

     僕が知りうる最も優秀な人物であるところの兄の皮を被り、翼の社員――羽としての評価を我武者羅に求めていた。事あるごとに兄と比較され、相対的に貶められ、嫌味を言われ、兄を褒めちぎって持ち上げる家族とその対象である兄その人に、要は家族と周囲の環境そのものに嫌気が差していた。
     優秀な羽となって、見返してやりたかった。そこに会社への貢献なんて発想は全く存在せず、ただただ意地になって、ムキになって、兄を越えた自分を評価してほしい。そんな浅ましい気持ちしか無かった。
     兄を越えた評価を得たいのに、肝心の僕自身は兄の皮を被って、兄を模範としてトレースしていたに過ぎなかった。

     ”あの点”での僕は薄々察しながらも見て見ぬふりをしていたけれど、今の僕視点で見れば、滑稽にも程がある。越えたい兄の皮を被って行動をトレースしたところで、並びこそすれ、どう足掻いても兄を越えられるわけがないじゃないか。
     我ながら、馬鹿だなと思う。

     ”あの点”の僕が反論してくる。『君だってそうだったじゃないか』。否定はできない。僕にだってそういう時期は確かにあったのだから。
     アーニャがチーフになる、その日までは。

     あの日はテレジアを使用していた僕が正気を失って、勢いのままに色々と心の中の黒いものを吐き出してしまった。いっそ全て綺麗さっぱり吐き出しきって、兄や家族に対する劣等感はほぼ吹っ切れた。兄の皮を被るのをやめて、僕自身として生きることを決めた。今思うと、なんだか貧乏くじを引かされた気がしないでもないけれど。
     管理人が適切に指示を出してテレジアの使用を中止していたならば、今頃僕はどういう僕になっていたのだろう。あるいはアーニャにチーフの座を取られた悔しさから、余計に羽としての評価に拘ってしまっていたかもしれない。
     テレジアの音色を聴きすぎると現実性をだんだん失っていき、妄想との境界が曖昧になっていく。家族への劣等感、チーフの座を取られたアーニャへの劣等感、何故自分ではないのか、という管理人やセフィラへの憤り。装備していた『後悔』のE.G.Oが纏う殺人者の自我が背中を押したのかもしれない。僕は殺人性のパニックを引き起こし、結果的にオフィサーの方を手にかけてしまった。ハンマーの柄越しに感じたあの手応えは、今でもハッキリと思い出せる。微かに手が震える。この事実は決して忘れてはいけない。僕にとっての戒めだ。

     少し落ち着いてから、あのときの映像記録を見せてもらった。自分の中に殺意なんてものが存在していたことに驚愕した。管理人からは「E.G.Oの性質がパニックのせいで際立っちゃったんだと思います」なんてフォローして貰ったが、それだけではない。確実に僕の中には積み重なった劣等感の裏返しとして、憎悪と殺意が存在している。
     初めて規制済みを収容した日。脱走した規制済みを鎮圧しようとして、その場に居たほぼ全員が瞬時にパニックに陥った。勿論見ただけでも気が触れそうになるほどには悍ましいのだが、それも最初のうちだけ。いずれは慣れてくる。
     しかしウランランスが言うには、「どんなに見ないよう努力してもダメなんす。収容室に一歩踏み込んだ瞬間、全身に寒気が走るわ鳥肌立つわ息が詰まるわで。頭ん中もぐるぐるになって立ってるのもやっとなんすよ」ということだそうだ。どうやら規制済みには”姿を見ようとするまでもなく、その場に居る者は正気を維持していられない”という特性があるらしい。
     ともかく、その見た目と特性と、さらには力は劣れど同じ特性を持つ眷属をも連れていた規制済みは、鎮圧しに来た職員の正気を尽く奪い去っていった。その後は収拾がつかなくなり、一旦TT2プロトコルで巻き戻っている。
     初めてALEPHクラスを収容し、その恐ろしさも痛感した。業務を終えた後、参考のために映像記録を見返す。その場の職員が口々に悲鳴や金切り声を上げるなか、かろうじて聞き取れた僕の声の最後の部分。
    「ころしてやる」
     対象が誰だったのかまでは聞き取れなかった。しかし内心を吐露したところでそれだけで全てのわだかまりが一気に解消するかというと、当然そんなことがあるわけもなく。理性の箍が外れたら殺意として表れてしまう程度には、心のどこかで引っかかっていたのだろう。今は流石に大分薄れてきている……と思う。休暇が取れたら一度家に帰って色々と話したい。
     下層まで開くことができたのだし、装備も集まりつつある。もうひと踏ん張り、休暇まで頑張らないと。
     今に繋げてくれた、”あの点”の僕のためにも。



     記憶が記憶を呼ぶ。
     アナスタシアと一緒に過ごした日々は、今や入社当初の第一印象から日常におけるほんの些細なやり取りまで、その殆どを仔細に思い出せるようになっていた。
     例えば、一時期同じチームだった縁でその後もアナスタシア共々仲良くやっていた同僚だとか。――アナスタシアより少しだけ歳上だったあの子。別のチームへ異動になってしばらく音沙汰がないと思ったら、僕たちの知らない間に命を落としていたらしい。
     知らせを聞いても気丈に振る舞っていたアナスタシアだったが、その後たまたま陰でしゃくりあげているのを見つけてしまった。感受性豊かな年頃であろう彼女が、人に見られないようひっそりと影で泣いている。僕が取るべき行動は、慰めに行くかそっとしておくか、大層迷ったものだ。結局どちらが正解だったのかわからないままだったな。

     アーニャに訊いても引き出せない答え。アナスタシアにしかわからない、彼女の気持ち。
    『彼女のためを思うなら、僕はどうするべきだったと思う?』――今ではもう手の届かない点だからって、気軽に訊いてくれちゃって。確かにどちらも”僕”だけど、僕は君本人じゃないんだぞ。
     不思議な感覚だ。僕の中に僕ではない僕が居る。でもその僕も確かにいつかの点の僕自身。記憶だって、よぎるなんてレベルではなくなっている。自分自身が経験してきたかのように。まるで昨日のことのように。僕のものではない記憶は、ともすれば僕自身のもの以上にくっきりと明瞭だ。
     僕の中にもう一つの人生を生きていた”あの点”の僕が定着してしまった、とでも言うべきか。
     アナスタシアと過ごした”あの点”の僕は、逆行時計を巻き終える直前に力尽きてしまった。情けないとも、不甲斐ないとも思っている。本音を言えば、死ぬのは怖いし未練だってあった。僕の命一つで皆が……アナスタシアが助かるのなら、そう決意したはずだったのに、オフィサーの力も借りてしまった。彼だって見るからに瀕死で、まともに歩くことも喋ることも出来なかった。そんな彼を無理矢理連れ回して、半ば強引にゼンマイを回させて。”僕”はその結果を見ることは叶わなかったけれど――。
     僕はダフネから、”あの日”に起きたことを聞いた。”あの点”の僕の記憶と合わせて、”あの日”に何が起きたのかを、ゼンマイを回した結果どうなったのかを知った。
     今の点の僕が居るのは結果的には”あの点”の僕のお陰なのだろうけど。正直な話、施設全体の命運が掛かっていたとはいえ、無茶にも程があると思っている。施設の命運を背負った僕の記憶もあるし、それを俯瞰して見ている今の点の僕だって勿論ここに居る。最早記憶ではなく、”あの点”の僕自身が、ここに居る。ややこしい事この上ない。
     あぁ、さっきの質問の答え?そうだな、僕からしてみたらアナスタシアは……



     一人分の記憶を幾重にも重ねて持ち越し続けてきたダフネとは違い、僕は事実上二人分の記憶を抱えている。片方は途中で途切れてしまったけれど、それでも密度としては膨大だ。そもそもの前提が違うから比べるべくもないのはわかりきっているのだが。

     ”彼”のことを考えると、罪悪感のようなものがふつふつと滾る。記憶が戻ってしまった以上、僕は僕であって”あの点”の僕でもある。
     まだ記憶が断片的にしか思い出せない頃は、実感なんて欠片も無かった。……と言えば嘘になるか。うっすらとではあるけれど、断片的な記憶の奥底に沈んでいたあの時の感覚が、小さな棘となって心に刺さったまま抜けない。『早く思い出せ』と言わんばかりに、あるいは残りの記憶を引き上げるための釣り針のように。
     いずれにしろ、”あの点”の僕の記憶は不完全で、それこそどんなにはっきりと視えたところで、僕にとっては白昼夢の域を出なかった。
     今はどうだ。「何もない」に武器ごと右腕を斬り飛ばされた瞬間の絶望感は、思い出すだけで怖気が走る。たった一体のアブノーマリティにALEPH装備の職員たちが挙ったところで、これっぽっちも歯が立たない事実。退くという選択肢しか残されていないことに、たまらなく無力さを感じた。例え退いたところでこの状況をどう覆すか、恐怖と右腕の出血で背筋に寒気を走らせながら、必死で考えを巡らせた。考えながらも「何もない」から充分距離を置いたと思ったら、とん、と脇腹を叩く感覚だけが先走る。やや遅れて、風を切るような音と共に灼けるような痛みが迸った。
     仮にもALEPHクラスの防具であるジャスティティアの守りは足しにすらならなかった。「何もない」から目を離さず動向を注視し、斬り飛ばされた右腕の傷口を出来る限りの力で押さえつけながら”次”が来ないように祈る。じりじりと後ずさり、射線を切ったあとは只々逃げるしかなかった。右腕ごと置いてきてしまった武器に未練を持つ暇なんてあるわけが無かった。
     見えない衝撃が脇腹を抉り抜いたらしい、ということに気づいたのは、意識も朦朧とし始めたあたり。とにかく奴の反対側へ逃げて逃げて、一心不乱に逃げることだけを考えていたら、疲労と失血から足がもつれそうになる。身体が悲鳴を上げ始めているが、その分だいぶ奴との距離は離したはず。倒れそうになるのを堪え、ようやく一息つけそうかといった所で改めて脇腹の痛みを思い出し――どこから痛みを感じるかなんて、いちいち気にしていられる状況・心境ではなかった――恐る恐る視線を下ろす。肩口から漏れ出していた血と合わせて右半身が赤黒く染まっているジャスティティアと、僅かに傷口から覗き見えた自分の内臓らしき肉の塊。
     認識してしまった途端、激痛が走る。ただ逃げることだけに神経を集中し、痛みを何とか抑えていた脳内麻薬は瞬時にその役割を放棄する。枷を失った痛覚が存在を示そうと喚き叫ぶ。痛みそのものと、痛みを認識することに全神経が持っていかれてしまったのだろうか。足に力が入らない。かくんと糸の切れた人形のように崩折れ、地に膝をつく。その衝撃で、とぷり、と脇腹に溜まっていた血が溢れた。
     ちらと後ろを見やる。僕の逃げてきたルートに沿って、点々と真っ赤な目印が敷かれていた。
     この時完全にへたり込んでしまっていたら、きっと立ち上がることもできずに物言わぬ肉塊と成り果てていただろうな。”今”の頭で冷静に考えてみると、そんな気がした。
     膝をつきながらも、壁に寄りかかることでかろうじて持ちこたえていた。その気力はどこから来るのだろう。今の僕が同じ状況に置かれたら、間違いなくそう遠くないうちに確実に死ぬとわかって、それでもなお立ち上がれるだろうか。
     思い出せてしまう。あの苦痛のなか、一縷の望みを託すに値する策を考えながら、肩口から斬り飛ばされた右腕と、腸が見えるほどに抉られてしまった脇腹と。片方しか押さえることは出来ないし、いずれにしろ出血が酷すぎて最早手の施しようがないだろう。
     僕が受けた傷でもないというのに、克明に思い出せる。痛みだけじゃない。手をべっとりと汚す血糊の感触も。紛れもなく”僕”が受けた傷を、”僕”がこの手で抑えて血塗れにしたんだ。
     まだ、動ける。目前に迫りつつある死の恐怖に抗い、壁に血の筋をつけながら震える足で立ち上がった。

     立ち上がらなければいけなかった。施設のことは勿論だけれど、何よりも今僕が動かなければ、アナスタシアが危険に曝されてしまう。どうすればいいのか考えに考えた末……逆行時計を使うしかない。その結論に至った。
     どうせもう長くはない。再生リアクターで傷が塞がるより先に出血で死ぬだろう。逆行時計さえ回してしまえば、このまま何もしないで野垂れ死ぬよりは万倍ましな筈だ。それに……せめて、せめてアナスタシアだけでも、安全な時間に戻してやらないと。
     だが、右腕を失ったうえに禄に踏ん張れもしない死にかけの人間一人ではあの重たいゼンマイは回せそうにない。誰でもいい。力を貸してくれる人を、――生き残りを、探さないと。

     敵性個体反応の位置を逐一端末で確認したいところだが、生憎片腕は吹っ飛び、もう片腕は傷口を押さえつけるのに文字通り手一杯だ。物音なり気配なり、とかく自分の勘を信じて動くしか無かった。
     歩けども歩けども、見つかるのは無惨にも両断された職員。胸のど真ん中に穴が空いて絶命しているオフィサー。途中で「何もない」が殻を交換しようとでもしたのだろうか、皮膚の剥がされた死体もあった。
    「……っ……」
     吐き気がこみ上げてくる。いくら”僕”が体験した事といえど、この点の僕には少々刺激が強すぎたらしい。

     この点で起きた大惨事なんて、”あの時”と比べたら地中の天国が暴れたときくらいのものだろうか。地中の天国事件のときだって、目の前でアーニャがバラバラに引き裂かれ、怒りも感傷も覚える暇なく僕自身の体も引き千切られた。首だけになっても即死出来なかった僕の視界に入るのは、四肢がもがれて枝にぶら下がるかつてアーニャだったもの。アーニャを逃がせなかった無念さだけが募る。それがはっきりと自覚できるようになる前に、首から上を引き千切られた僕の脳は思考を停止した。
     あの時まともに目に入ったのはアーニャの死体くらいだった。それでも充分悍ましい殺され方だったが、それまでにも数々の同僚の死を見てきたから、何とか耐えられはした。僕自身が死ぬまでのほんの数秒か数十秒か、というところだけども。
     グレゴリーがキュートちゃんの暴力的な筋肉で叩き潰されてしまったのを見た。アーニャが丸鋸で上半身を切断されるのを見た。落ちてきた紫白昼に押し潰されたオフィサーたちを見た。カイルノが火の鳥の炎で炭となるのを見た。パニックを起こしたアーニャが、自らの手で己の首の骨を折る瞬間を見た。
     そうだ、僕はあの瞬間、「アナスタシア」と呼びかけていたな。無意識のうちにちゃんと区別がついていたのか。それとも、あの時「アナスタシア」と呼びかけたのは君だったのか?どうなんだよ、そこの所。
    『多分、僕の方だろう。あの時の彼女は完全にアナスタシアだった。不完全な記憶だろうとも、そのくらいはわかる。だから思わず叫んでいた。いくらパニックだったとはいえ、彼女が自殺する姿は……見たくなかった』
     同感だ。僕だってアーニャが自ら首の骨を折るところなんて見たくなかった。既の所で間に合わなかったカイルノには申し訳ないと思っている。誰よりも無念なのはきっとカイルノだろうから。あと一振り、ダ・カーポが間に合っていれば……いや、止そう。
     ウランランスたちがまとめて貪欲の王に喰われてしまったのも見た。陰の黒い波動で鎮圧部隊が次々と倒れていくのもモニター越しに見た。
     ダフネが……あの馬鹿はちょっと死に過ぎだ。勘定に入れていたら間違いなく一人飛び抜けるだろうから、アレは特別枠。ウェルチアースと地中の天国をカウントしなかったとしても、だ。この点だけで、マッチガール・審判鳥数十回・異界の肖像・巨木の樹液……逆行時計。

     数え直してみると本当にあの馬鹿の無茶っぷりには呆れ返ってしまう。逆行時計のときだって、ある意味無茶も無茶。おそらくは過去最高に期待を持ったこの点を捨てて過去に縋りたくなる程に、心が壊れかけていた。限界に近い精神が、もう無理だと悲鳴を上げていたのだろう。
     一度過去に戻れた実績があるからといって、あれは間違いなく想定外の誤作動だった。本当に過去に戻れるのかなんてわからない。可能性は限りなくゼロに近い――むしろ実質ゼロと言ってもいい。後に聞いた話では発動した結果、想定外のさらに斜め上を行っていたことがわかった。あの事実を知っているのはダフネ本人と、僕と、管理人だけだろう。
     とはいえどこに行っていたにしろ、ダフネがあの瞬間、この点の全てを投げ捨てて過去へ縋って逃げようとしていたのは事実だ。思わず殴りたくなったが、全ての経緯を聞いた直後のことだったから、手を上げる気にはなれなかった。だから、せめてもの意思表明として……言葉の上で、気持ちだけ殴った。

     ”僕”からしてみれば、彼は実にタフな人物だと思う。彼は頭を撃たれても死なない、やたらとしぶといオフィサーだった。1回気づかずに素通りしたかもしれない。ただでさえ動かなくなりつつある身体に鞭打って、せっかく要請に応じて来てくれたのに為す術もなく散っていったウサギチームと、巻き添えになり蜂の巣になっていたり惨たらしく切り刻まれていたりするオフィサーたちの死体の山をかき分ける。
     抽出部門の奥まで念のため確認して、結局生存者は居なかったからと戻ってきたとき。折り重なるように倒れていたオフィサーたちの死体の上、小さく彼の胸が上下しているのが見えた。見間違いかもしれないが、それでも……と近寄ってみたら。

     あの瞬間が、分岐点だったのだろうか。
     僕が彼を見つけたから。
     僕がダフネを見つけてしまったから。
     半ば無理矢理ではあったけれど、彼の力を借りて逆行時計を発動させることが出来た。
     瀕死のダフネを無理矢理に付き合わせて、イレギュラーな状態で逆行時計を発動させてしまった。

     その結果、どうなった。
     僕たちが今ここに居られる。期待に満ちた点。”僕”の記憶が戻ったのは本当にたまたまだけれど。
     だが、ダフネ自身は?
     遠い遠い過去に飛ばされて独り、死ぬことも逃げることも出来ない無限地獄に放り込まれてしまった。ダフネの出自を考えたら、以前聞いた経緯の何倍も何十倍も、それ以上にもっと、苦しんでいた時期は長かったはずだ。そこをあっさりカットしてしまうんだ、あの馬鹿は。自分の事は全部棚に上げて、期待を持った管理人にただ尽くすだけの人生を何度繰り返してきたのか。
     そんなものは、果たして”人生”と呼べる代物なのだろうか。

     確かに、僕たちが今ここに居られるのはあの時彼を連れて逆行時計のゼンマイを回したからだ。
     でも今この瞬間だって、無数にある点のたった一つに過ぎない。奇跡的に多くの偶然がこの点で起きているから特別だと思ってしまいがちだけれど、ボタンひとつの掛け違いで数多の取るに足らない点になっていたかもしれない。
     それにしても偶然が起きすぎているな、とは思っている。



     ”あの点”のことに触れようとした僕の言葉を、ダフネは遮った。
     全ての経緯を話してくれたときだって、他の点の僕たちに関しては一切触れようとせずにはぐらかした。きっと多少は思い出せる範囲で記憶に残っているのだと思う。「そういえばこんなやつと前に一緒に仕事したな」程度の大雑把な記憶くらいは。
     意図は概ね汲み取れる。この点の僕たちには、あくまでこの点の僕たちとして生きて欲しいのだろう。僅かでも他の点で出会っていた別の僕たちの話を挙げてしまったら、その時点で純粋な”この点の僕たち”ではなくなってしまうから。ダフネは”この点”で生きることを決めて、”この点の僕たち”と過ごしたいと思っている。
     だから、他の点の事情を挟まない。
     だから、”あの点の僕”としての発言を遮った。”僕”の言葉がダフネに向けて放たれた時点で、彼の決意は全て無駄になってしまう。
     ダフネの言いたいことは解っているから、僕もそれ以上口に出すのは止めた。
     やはりダフネは卑怯だ。自分ばかり”僕”に対して礼を言っておいて、”僕”がそれに応えるのを野暮だというのは虫が良すぎるだろうに。僕の方から切り出した時点で、ダフネを助けたランク5の職員が”あの点の僕”であることを僕が察した、ということはダフネ自身解りきっている筈だ。それでいて”あの点”の話はするな、と。”僕”の発言権は無しですか。まったく……狡いな。いつもいつも。

     いくらダフネが遮ったところで、僕が”あの点”を思い出してしまったことは変わらない。実質的に別の点の別人であることは確かなのだが、どちらも僕だということもまた事実。記憶がほぼ戻っていることは、誰にも明かしていない。アナスタシアにはこの点の僕として”僕”の代弁をするという形で接したし、ダフネには”あの点”の話を止められてしまっているし。
     僕と”僕”。両者は別人だけど、同一人物。
     だからこそ、僕は”僕”としてダフネを巻き込んでしまったこと、その結果彼が負うことになった苦痛の数々、それらについてせめて謝りたかった。赦されようとは思っていない。何なら二言三言恨み節くらいぶつけて欲しい。彼にはその権利がある。
     間違いなく彼の境遇は”僕”の身勝手な行動が生んだ結果であり、”僕”の罪だから。そのことを”本人”が謝ろうとするのは当たり前じゃないか。
     遮られてしまったから、あの場では大人しく退いて今の点の僕として対応したけれど。
     遮られたりなんかされたら、余計に堰き止められた感情が募ることにダフネは気がついているのだろうか。辛いことがあったら吐き出せ、なんて普段から言っているくせに。僕はこの罪悪感をずっと背負っていかなければいけない。
     この気持ちは、誰に向かって吐き出せばいいんだろうな。

    「……卑怯者」
     声には出さず、小さく呟いてみる。
     言いたいことは山ほどある。アーニャの中のアナスタシアが消えてしまった以上、別の点の記憶を持つのは僕だけだ。唯一の理解者たるダフネがそれに触れさせてくれない。
     僕はこの辛さを吐き出す事も出来ないのか。
     胸の奥が熱くなる。口に出せないならと言わんばかりに涙が溢れる。
     思い出せないままでいたかった。純粋な今の点の僕でいたかった。
     謝りたかった。無茶なことに付き合わせて済まなかったと伝えたかった。
     語らいたかった。アナスタシアともう少しだけ思い出を分かち合いたかった。アーニャはどこまで覚えていたのか聞いてみたかった。
     別の点の記憶を持つということを、それがどんなに辛いことかを、ダフネに打ち明けたかった。
     ”僕”がここに居るということを、彼に認めてほしかった。
     ダフネは以前、”僕”に向けて礼を言った。あのときは思い出せていなかったから何のことだかさっぱりわからなかった。そういうところも狡いんだ、あの馬鹿は。完全に言い逃げじゃないか。

     思えば、僕がダフネに謝りたいと感じるのは、”僕”の記憶が戻ったからだ。この点の僕が”あの時のランク5職員が僕だった”とただ察するだけでは、ここまでの感情には至らないだろう。所詮は別の点、過去の話、他人事として割り切ることだって出来た気がする。そのことを指して、彼は野暮だと言ったのか。今の点の僕がするべき話ではないから。僕はダフネほどには慣れていないから、割り切れずに多少は引きずってしまうかもしれないけれど。
     だけど違うんだ。僕は”あの点”の出来事を思い出してしまった。「何もない」の収容違反が起きたあの日だけじゃない。アナスタシアと、同僚たちと、穏やかだったけど突然冷徹に豹変してしまった管理人と、他にも様々な何もかもを。
     ”あの点”と同じ肉体で、”あの点”の記憶を余すところなく持っている僕は、実質”あの点の僕”と相違ない。
     かと言って、この点の僕が消えてしまったわけでもない。この点の記憶だってまるまる保持している。
     管理人のように、XとAの人格が一つの身体に個別に存在し同居している状態とも違う。
     僕は僕であり、”僕”でもある。そこに境界線はなく、どちらも同時に存在している。強いていうならば、この点の僕の方が比較的主体ではある。元々の僕の中に、アナスタシアに引っ張られた”僕”の記憶が無理やり引き上げられ捩じ込まれたようなものだ。アナスタシアとの記憶を中心として、連鎖的に次々と”あの点”の記憶が蘇ってきて、今ではすっかり”あの点の僕”としての自我を思い出してしまった。
     両者に境界線がないからこそ、自分で意識して境界線を引いておかないと、二人の僕が混ざってしまう。アナスタシアが消える瞬間の涙は、おそらく”混ざってしまった僕”の、二人分の涙だ。



     アナスタシアの記憶が目覚め、それに惹かれるように”僕”が少しずつ思い出される。そもそもきっかけとなったアーニャの行動力の高さ……で済ませてはいけないレベルだけど、ともかくアーニャがまだ未開放の記録部門に迷い込み、ホクマーに連れられて居るべき場所に帰された。あれ以来、アーニャからアーニャらしからぬ雰囲気を感じ始めた。
     絶望の騎士収容時に”僕”との約束をアーニャが思い出し、ついには泣き出してしまって、彼女を宥めているうちに”僕”の記憶も戻ってきた。きっかけはいくらでもあった筈なのだ。なぜあのタイミングだったのか。――アーニャが記録部門に迷い込んだから。それしか考えられない。
     アナスタシア自身は一度目覚めた自分が再び眠りにつくであろう事実を何故かはわからないが察していたようだったが、”僕”は消えずに残ったままだ。第2の生とでも言うべき僕として生きている。

     この点の僕は僕なんだぞ、君はあくまで過去の点の存在なんだ。あまり我が物顔で記憶の中に居座られても困る。今更拒絶はしないし出来ないから、せいぜい控えめに頼むよ。……一応現時点で両者の区別をつけて、境界線も引いてあるつもりではいるけれど、時折それも怪しくなるから。
     ダフネを連れて逆行時計の収容室まで辿り着き、扉の側で事切れていたアナスタシアを見つけた時のこと。
     いつ死んでもおかしくない僕の身体を突き動かしていたのは、ただ彼女への想い。彼女には恐ろしい思いをさせたくない。自分自身を犠牲にしてほしくない。彼女のことは僕が守る。僕が逆行時計を回せば彼女は助かる……
     僕は守れなかった。一歩間に合わなかった。彼女の体温を確かめるまでは出来なかったが、見たところ傷口と出血の具合から、事切れたのは長くて数分前、短ければ数十秒前。
     悔しかった。情けなかった。アナスタシアに逆行時計を使わせる覚悟をさせてしまったことが。覚悟の鈍ったアナスタシアが外に出て運悪く「何もない」と鉢合わせ、文字通り決死の思いで抱いた覚悟と決意を不意にさせてしまったことが。僕が、間に合わなかったことが。
     ひたすらに自分を責めた。罪悪感と自己嫌悪と後悔と、様々な思いがないまぜになって、思わず口をついて出てしまった。

    『馬鹿じゃないですか、あなたは――』

     僕が守るから、アナスタシアは危険なことをする必要なんてないのに。僕が犠牲になるから、アナスタシアが逆行時計を使うなんてこともないのに。怖いのなら、無理をせず僕に甘えて自分は隠れていて良いのに。甘えても良いって、言ったのに。
     先走って無茶をして、志半ばで命を落として、そんな、そんなこと……!

     だから、僕は彼女に嘘を吐いた。
    「あなたはよくやりましたよ、アナスタシア。……”あの点の僕”も、あなたを見たらそう言葉をかけるでしょう」
     アーニャの身体を借りて、ほんの一時の夢として目覚めた彼女。
     私がしっかりしていなかったから、怖がって逃げてしまったから。全ての原因は私なのだと懺悔する彼女に、本当のことを言えるわけがなかった。事切れた彼女を前にして、積もりに積もった想いのやり場がなくなってしまったことはわかるし、口をついて出たあの言葉に文字通りの意図など無いことも充分理解している。それでも、目の前に彼女が居るという信じがたいが確かな事実は僕の精神を不安定にさせた。あのときはまだ記憶の戻り方も不完全で、それゆえに彼女も僕が”あの点の僕”ではないということを雰囲気から察していた。
     だからこそ、”僕”の無念さが爆発して思わず口走ってしまう前に、先手を打った。
     この点の僕はアナスタシアを赦す。だから”あの点の僕”も彼女を赦してやってくれ、そんな思いを込めて。あくまでも”この点の僕”として彼女に応対した。”僕”の言葉は”彼からの伝言”という体で。

     これで良かったのだろうか。”僕”に問うてみる。
     わかりきったことでしょうに。”僕”が返してくる。
     ”僕”が言おうとしていたことを素直に口に出しただけなのだから。
     それともこの点の君は、”僕”だったら本当のことを包み隠さず言ってしまうとでも思っていたのかい?
     そんなこと、出来るわけない。
     結局考えることは同じなんだ。君も、僕も。
     何故なら、どちらも僕だから。

     ある意味自問自答だよな、これって。

     まだ”あの点”の記憶が不完全だった僕は、”僕”ならきっとこう言うだろうなという予想を交えながら、アナスタシアとの残り僅かな時間を過ごした。
     恐怖ゆえに、「何もない」の鎮圧から逃げ出してしまったこと。せめて自分が犠牲になることで事態を収めようと逆行時計を使おうとするが、恐怖ゆえに5回目のゼンマイを回すまで至れなかったこと。恐怖ゆえに、最後に”僕”を求めてしまったこと。収容室から出た瞬間、運悪く「何もない」と遭遇してしまい、5回目を回す前に死んでしまったこと。……”お兄ちゃん”に、もっと甘えたかったこと。
     全て包み隠さず明かしてくれた。僕を通して、”僕”に伝わってくれれば。きっとそんな想いが込められていた、彼女の言葉。
     彼女の声を聞くたびに、あの時の記憶が蘇る。彼女の話と記憶を突き合わせて、確証を得る。”僕”の記憶。”あの点”の記憶。彼女との約束。

     僕からも、彼女に伝えたいことがあった。”僕”だって、もっと沢山語らいたかった。
     全部は伝えきれるわけないから、大幅に削ってしまったけれど。
     そっと彼女の頭を撫でる。心に任せて自然と綻んだ笑顔を向ける。
    「ありがとう、アナスタシア。あなたは僕の……自慢の、妹です」
     彼女が逆行時計を4回だけ回してくれたから、僕たちが最後の1回を回せた。その結果、僕が居る。ダフネも、アーニャも、皆が居る。
     結果的に彼女を死なせてしまったことについては後悔している。してもしきれない。でもそれは過去の話。
     アナスタシアが勇気を振り絞って逆行時計を回してくれていた。今はただ、その振り絞った勇気を褒めてあげよう。死ぬまでに甘えきれなかった分、今だけでも彼女の”お兄ちゃん”で居てあげよう。
     ”僕”をずっと支えてくれて、ありがとう。
     アナスタシアが僕のコートに縋り付く。少し屈んで高さを合わせ、優しく抱きしめた。

     アナスタシアの涙は収まらない。溢れる涙はそのままに、せめて顔だけは、と精一杯の笑顔を浮かべる。
     僕の顔をじっと見つめて、僕と、その向こうに見えるであろう”僕”に向けて。
     甘えさせてくれてありがとう。”お兄ちゃん”になってくれてありがとう。
     ここにいる”私”のことを、よろしくお願いします。
     それが私の、最後のわがままです。……と。

     僕自身も、勘付いてしまった。彼女にはもう時間が残されていないのだと。涙は溢れても最後の瞬間まで笑っていたいのだろう、そんな彼女を見ていたら、いつの間にか視界が滲んでいた。堪えきれなくなったものが一筋、頬を伝う。
     アナスタシア、僕だって、あなたにどれだけ救われたことか。
     あの時の僕も、ここにいる僕も。
     だから、約束は必ず守ります。
     アーニャも、アナスタシアも。
     の、大事な妹なんですから……。

     あのときの僕は果たしてどちらの僕だったのか、今でもわからない。
     どちらも、だったのかもしれない。
     目の前のアナスタシアと蘇る記憶の奔流とで頭の中が滅茶苦茶になっていたから、
     二人分の涙が溢れてしまったのかもしれない。
     アナスタシアへの想いと、アーニャへの想いと、二人分の気持ちを込めて、もう一度。
     アーニャとアナスタシアを抱きしめた。

     ほんの一瞬、腕の中のアーニャの身体から力が抜けて、くたり、ともたれ掛かってくる。何事かと思い、抱いていたアーニャをしっかりと立たせる。そこには目をぱちくりとさせるアーニャ。アナスタシアの面影はすっかり消え失せていた。
     僕は、今度こそアナスタシアを失ってしまったんだな。
     目の前の奔放なアーニャを、もっとずっと大切にしてやりたい。甘えさせてやりたい。
     二人分の真逆な感情が心を揺さぶり混乱させる。堰を切ったように溢れる涙が止まらない。
     いたいのとんでけー、と何も知らないながらも何とか僕を泣き止ませるよう頑張るアーニャ。
     痛くはありませんから。何でもないですから。取り繕おうとするものの、涙をぼろぼろ零しながらではまるで説得力がなかった。



     落ち着いてから記憶を整理し直す。整理するそばからまた”あの点”の小さな記憶の欠片が引っ張り出される。そうこうしている間に、いつの間にか殆ど”僕”の記憶が戻り、今に至る。

     改めて思い返す。
     僕がもっと早くに辿り着けていたら、――「何もない」と遭遇していたのは、僕の方だったかもしれない。
     つまり。
     彼女が死ななければ、僕たちは逆行時計を発動出来なかった。
     彼女が外に出ず逆行時計のゼンマイを5回回していたら、今の点は存在していない。
     ダフネだってオフィサーとして死んで、きっとそれっきりだ。アナスタシアを犠牲にして僕だけが生き残る。流れを知っている今なら断言できるが、”あの点”はそう長いこと保たずにリセットされてしまうだろう。
     ”あの点”がどんな結末を辿ったにせよ、僕がここに居る以上、”あの点”は綻んで失敗してしまったわけだ。

     今の点だけ見てもなかなかに偶然の悪戯めいた出来事が多いけれど、今の点に至るまでにも、様々な偶然が積み重なってきたのだろうな。
     アナスタシアが恐怖に駆られて逃げ出してしまったからこそ、今の点がある。
     縮めてしまったら本当に訳がわからないな。風が吹けば桶屋が儲かるだの、バタフライエフェクトだの。偶然が積み重なるとまるで予測できない結果が導かれる。今の僕たちがまさにそうだ。
     僕は悲しめば良いのやら、感謝すれば良いのやら。
    『あまり過去に囚われていたらキリがないぞ』
     ”僕”が釘を刺す。過去から言う台詞かよ。

     実際の所、自分で自分を戒めている形に近い。僕と”僕”の境界線はちゃんと引いていたつもりだったが、薄れたり消えていたりすることがよくある。
     野暮だと言われようが、いつかダフネには明かしたい。僕は事情を察したわけではなく、”あの時の僕本人”なのだと。何が野暮だ。知った事か。このまま他の点の記憶がないフリをしているというのもなかなかしんどいんだぞ。
     フルーツ牛乳2倍奢るからとかどうとかで、何とか乗せられないものか。
     この点で起きている偶然の話だとか、他の点の話だとか。この類の話題で話相手になれるのはダフネしか居ない。
     そもそもこうして僕やアーニャの記憶が蘇ったことだって偶然の産物だし、なんなら管理人がダフネの親友にありとあらゆる方面で似ていることも偶然だ。偶然管理人が無名の胎児を収容してしまって、ダフネが取り乱して、僕が偶然ダフネの挙動を怪しんで。その結果、僕がフレンドパークの副支配人役をやらされるわけだ。フレンドパークで記憶同期を防げるのだって酷い偶然もあったものだ。ダフネがその方法に至ったのだって間違いなく偶然。
     次から次へと偶然が連鎖する。興味深い話ではあるが、生憎誰ともこの話題を共有できない。そのことが只々辛い。
     大きくため息をひとつ。幸せが逃げていくとも言われているけど、少なくとも今目の前にある幸せくらいは守りたい。この点にいることの幸せ。アーニャがいることの幸せ。
     それらも全て、ダフネが呼び込んできた偶然の積み重ねなのだ。

     右肩に触れる。かつて「何もない」に武器ごと斬り飛ばされた記憶は脳裏に焼き付いて離れそうにない。
     勿論そんな傷口なんて僕にはあるわけもないのだが、右腕を肩口からスッパリといかれた記憶そのものは確かに僕の中にある。灼けるような痛みも、必死に押さえて血まみれになった左手の感触も、追い打ちで受けた脇腹から覗く内臓だって僕は覚えている。ダフネが言ってたっけな、内臓がはみ出てるって。ゼンマイを回すときには内臓がこぼれてたって。倒れていたダフネを拾ってからは僕自身の身体を気遣う余裕なんてなかったから、内臓がこぼれてるなんて全然気づかなかった。
     そうだ、頭を撃ち抜かれたのに動けたことこそ、凄まじい偶然のたまものじゃなかろうか。
     語りたい。二つの点の記憶を持つ僕として、謝りたい。この点の僕としてではなく、二つの点の記憶を持つ僕として、改めて礼を言いたい。
     あの馬鹿ダフネが言わせてくれない。二つの点の記憶の片方を完全に否定されてしまっているから。今の僕にとっては、自分自身を半分否定されているも同然なのだ。だがあの調子だと、おそらく僕が”思い出してしまった”ことには気づいていないだろうな。さて、どう切り出したものかな……。

    「卑怯者」
     もう一度、今度は声に出して呟いた。



     ふと、気づく。
     ”僕”は逆行時計のゼンマイを回しきる直前で死んだ。これはダフネの証言からも明らかだ。
     僕が今いるこの点は、あの時よりも時間軸としては未来の点になる筈。
     ならば過去に死んだ僕が、この点で新入職員として元気にやっているのはどういうことなのだろう。
     アナスタシアもダフネも、”あの点の僕”と僕は中身こそ多少違えど、同一人物として扱っている。ということは、僕は一度死んだ点でリセットされた後、未来の点で同じように入社して……

     違う。
     点がリセットされたところで、時間が巻き戻るわけではない。その事はダフネが嫌になるほど経験している。
     全ての点はたったひとつの時間軸の上で展開されている。これはAが管理人Xとして記憶を消してやり直していることから説明がつく。
     ならば職員は?例えば”僕”はゼンマイを回して力尽きた。アナスタシアだって、「何もない」に切り裂かれている。しかしあの時よりも未来である今の点において、僕もアーニャも初日に入社した。そして、僕もアーニャ……アナスタシアも、あの時の記憶を覚えている。これは明らかにおかしいだろう。
     ダフネに至っては、飛ぶ点飛ぶ点、およそその多くが入社直後の状態に近い。そして死ぬたびに点を飛ぶ。飛んだ先は死ぬ瞬間よりも必ず先の時間とのこと。いつだったかダフネから聞いた話だ。
     どういうことなんだ。死者蘇生の技術なんてどの翼でも扱っていない筈だ。そんなだいそれた特異点があるのなら、翼の扱う技術としてはかなり高水準のものになるだろう。しかしそんな話は聞いたことがない。
     もし仮に死者蘇生の技術があったとして、そんな凄い技術を一介の職員ごときに用いるだろうか。およそ現実的ではない。

     仮説を立てる。
     死んだ職員はその後の点においても蘇生されているわけではない。まず死者蘇生の線は消していこう。
     TT2プロトコルのように状態復元している?赤い霧と戦った際、黄昏を持った赤い霧が僕の横を通り過ぎていった、と思った次の瞬間には全身が破裂してバラバラに吹き飛び、僕の血液もあえなく”赤い霧”となってしまった、らしい。
     正確に言うと僕自身の記憶では「赤い霧が横を通り過ぎた途端、全身の血管が燃え上がった」。瞬時に全身がバラバラに炸裂だの破裂だのしていた様子は映像記録で確認した。今でもあの時赤い霧に殺されたという実感はない。僅か一瞬の出来事だった。苦痛も一瞬。ある意味慈悲のある殺し方なのかもしれない。やはり特色は別格だ。

     特色の実力に感心している場合ではない。僕で言えばそれこそミンチ以上に細かくなってしまった状態からも、TT2で業務前の状態に復元できるということだ。これならばリセット前に職員を復元してからどこかに保管して……
     いや待て。職員を、保管?
     同じ職員が何度も別の点で活動しているのは僕たちやダフネが経験済み。今いる点以外は全てリセットされてきたから、そのたびに新入職員として”雇用”されるわけだ。

     僕はハッキリと思い出せる。”あの点の僕”が入社する前のことを。
     なぜなら、今の点の僕と全く同じだったから。同じ人生を歩んできた同一人物。新入職員として雇用されて一度死んだ”僕”。その点の記憶を持った今の点の僕が、同一人物である筈の僕が、自分の死後よりも未来の世界で新入職員として雇用される。おかしい。考えれば考えるほどにおかしい。

     ダフネは気づかなかったのだろうか。今を生きることに必死で思い至らなかったか、管理人を支えることに必死で思い至らなかったか、自棄を起こしてどうにでもなれとでも思っていたかのどれかだろうな。
     それとも、仕組みにおおよその見当はついているが、その仕組みは管理人を補佐するうえで必要のない情報だから触れる必要はない、とか。なんだかんだでダフネも観察力はかなり高い。L社の様々なシステムに触れてきているダフネは、あるいは死んだ職員がどうなるかも経験したことがないだろうか。意識がなくなるから認識できないか。さすがにちょっと多くのものを求めすぎた。ダフネの知識に頼りすぎるのもよくないな。

     ひとまず有力なのは、リセット前に職員を復元してどこかに保存なり保管なりしておき、新規に雇用させるシステムの存在。
     しかしもしこの説が当たっていたとしたら……。
     L社はとんでもないことをしているのではなかろうか。職員をリサイクルして再利用しているということになるものな。
     それ以外のもっともらしい説が思い浮かばない。

     どうする、管理人に問い質すべきだろうか。余計な領域まで足を突っ込んだ職員は”登録抹消処分”されてしまうだろうか。

     ここに来て頭痛の種が一つ増えたかもしれない。胃薬と一緒に頭痛薬も処方してもらうほうがいいかな、これは。
    ……はぁ……
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    Replies from the creator

    アロマきかく

    DOODLEたまにはサブ職員さんの解像度を上げてみよう。
    49日目、オフィサーまでも一斉にねじれもどきになってその対応に追われる中、元オフィサーであったディーバにはやはり思う所があるのではないか。そんな気がしたので。
    甲冑で愛着禁止になったときも娘第一的な思考だったし。
    なお勝手に離婚させてしまってるけどこれは個人的な想像。娘の親権がなんでディーバに渡ったのかは…なぜだろう。
    49日目、ディーバは思う 嘔吐感にも似た気色の悪い感覚が体の中をのたうち回る。その辛さに耐えながら、“元オフィサー”だった化け物共を叩きのめす。
    「クソっ、一体何がどうなってやがんだよ……ぐ、っ」
     突然社内が揺れ始めて何事かと訝しがっていたら、揺れが収まった途端にこの有様だ。
     俺がかろうじて人の形を保っていられるのは、管理職にのみ与えられるE.G.O防具のお陰だろう。勘がそう告げている。でなければあらゆる部署のオフィサーばかりが突如化け物に変貌するなどあるものか。

     もしボタンを一つ掛け違えていたら、俺だってこんな得体のしれない化け物になっていたかもしれない。そんなことをふと思う。
     人型スライムのようなアブノーマリティ――溶ける愛、とか言ったか――が収容された日。ヤツの力によって“感染”した同僚が次々とスライムと化していく。その感染力は凄まじく、たちまち収容されている福祉部門のオフィサーが半分近く犠牲になった。そんな元同僚であるスライムの群れが目前に迫ったときは、すわ俺もいよいよここまでかと思ったものだ。直後、管理職の鎮圧部隊がわらわらとやって来た。俺は元同僚が潰れてゲル状の身体を撒き散らすのを、ただただ通路の隅っこで震えながら見ていた。支給された拳銃を取り出すことも忘れて。
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