群衆の向日葵ウエルバからパロスへの帰途。馬車に揺られながら航路開拓に向けての思案を巡らせながら不意に外へと目を向けると、丁度この時期に咲く向日葵畑が目に入った。丘を越えても永遠と続く黄色い絨毯にペンキで塗ったような青空。スペインに来てから数年経ったものの、この絵画のような風景にはいつまで経っても見慣れずに思わず感嘆を漏らす。
「どうしたんだ?」
隣に座る「彼」の声がしたと同時に肩に手が置かれ、外の景色を見ようと身を乗り出してくる。「彼」は一面の花畑を視界に入れると、まるでお気に入りの玩具を見つけた子のように目を輝かせていた。
「おじさん、ここで止めてくれ!」
御者にそう言うと馬車が緩やかに道端で止まる。と、「彼」は空よりも深い藍色の外套を肩にかけ、一目散に駆け出していった。勝手な行動は慎めと言おうと口を開くもすぐに噤む。あいつは夢中になると人の話を全くと言って良いほど聞かない。風に向かって説教するのと同じようなものだ。好奇心がくすぐられた瞬間からそれ以外の事は全て頭から抜け落ちるのか、見境なく走り出す。誰がどう言おうとも、あの状態のあいつを止めることはできないだろう。もし「彼」の手綱を引くことができるなら是非ともご教授願いたいくらいだ。いつもの事ながら今度は別の意味での溜息が出る。突然走り出した客に困惑する御者を尻目にお代を手渡し、「彼」の後を辿って行った。
「おーい!こっちこっち」
金糸を編んだような長い髪を揺らしながら此方に大きく手を振る。太陽は既に頂点へと昇り切っており、照り付ける陽光と共にじりじりとした熱気が襲ってきた。帽子を被っていても汗がじっとりとにじみ出る。
「クリストファーも来てみろよ。近くで見ても圧巻だぜ」
そう言うと向日葵畑の中へ吸い込まれるように歩を進め、絹髪の先にある薄紅色がベッタリとした黄色に溶けていく。近くまで来て見ると向日葵は自分の背丈程あり、群衆の如く植えられたこの土地では「彼」も、自分自身でさえもすっぽりと隠すほどのものであった。葉脈が幾重にも連なる壁の中から、こっちこっちと逸る声が聞こえた。
「他人の所有地だろう」
「ちょっとくらい良いだろう」
先程より声が遠く聞こえた。数秒考える仕草をした後、観念したようにそっと茎を掻き分け中へと進む。
「……少しは我慢というものを覚えたらどうだ」
「我慢?僕の辞書にそんな言葉は見当たらないね」
「それはお前が読めないだけだろう」
近くでケラケラと笑い声が聞こえた。ヒドい言い草だなぁと、半分図星半分自嘲めいた声色だった。
それっきり会話は途切れ、ただひたすらに鮮やかな黄と緑の海原が続く。太陽は天辺から西に傾き始めた頃合いだろうか。空にはまだ明るさが残っているものの、向日葵は光を遮り影を作っていた。
どれくらい歩いただろうか。声がした方へと足を進めているが一向に「彼」の姿が見えない。体に纏わり付くような蒸し暑さに不快感を覚える。咽返るような青臭さと土壌の匂いが鼻腔にまとわりつき、胸の辺りがざわつく心地の悪さを感じた。
「おい。何処まで行くつもりだ」
思わず語気が強くなってしまったが、「彼」は「何処まで行こうか」と相変わらず能天気な声が返ってくる。それはコロンブスの焦燥に気付かずか、気付いた上での返答なのか。
「お遊びも大概にしろ」
いい大人がかくれんぼか?と、焦慮を内心に収めながら皮肉を込めて投げかける。しかし、その言葉には返事がなかった。先程とは打って変わって声がなくなる。少しずつ歩みを緩めて足を止める。耳を澄ますも、聴こえてくるのは風に吹かれた葉擦れの音だけであった。
その時ビュオンと一陣の風が辺り一面を駆け抜けた。思わず顔を腕で覆い隠す。風が止んだところで徐々に顔を上げると、そこではたりと、ある事に気が付いた。向日葵が全て此方を向いているのだ。垂れ下がったそれらに目をやると、中心にはインクを零したような黒が広がっていた。今にも飲み込まれてしまいそうな漆黒の合間に整然と並ぶ白の文様。充満した種子の塊は今にもウゾウゾとせり出してきそうな不気味さが漂っていた。あまりの異様さに息を飲む。心臓がバクバクと激しく脈打ち、全身から血の気が引いていくのを感じた。
「……ッ!」
喉の奥から引き攣った声が漏れ出る。考えるより先に身体が動いていた。もつれる足をなんとか動かして向日葵の眼から逃げるように踵を返す。早くここから立ち去らなければ。本能がそう告げる。早鐘を撞く胸が呼吸をさらに荒くさせる。背中越しに伝わる強烈な視線が、私を何処か悍ましい地へと引きずり込もうとしているようであった。
ふと、万緑の間隙に紺碧の切れ端が映った。それには見覚えがあった。藁にでもすがる思いで其方へ向かう。青葉の波涛を掻き分けたその先には、波を重ねた様な刺繍を誂えたマリンブルーの外套に身を包む「彼」が佇んでいた。流石に此方に気付いたのか顔をゆっくりと動かし、澄んだ瞳が私を写す。
「見つかっちゃった」
眉を下げて、目を細める。それは悪戯をして、それを見つけられた子が年長者に向かってするような微笑であり、いつも見慣れた顔であった。
「そんなに息を切らしてくるなんて」
「彼」は意外そうな口調で言うと、私の頬に手を伸ばしてきた。汗で張り付いていた髪を払い、滴る雫を細い指でそっとなぞる。
「少しは僕の事を心配してくれてたのかな?」
「そんな訳ないだろう」
茶化すように言う「彼」の緩んだ口元を見て、すぐさま手を振り払う。外套の袖で頬を拭い、軽く深呼吸をしてから帽子を深く被り直した。
落ち着いた所で辺りを見回すとどうやらここだけポッカリと空いているようで、両手を広げても少しは余裕がある程度の広さであった。そして、先程の光景が夢だったかのように向日葵は全て元の向きに戻っており、此方を見ている様子もない────いや、違う。此方を見ているどころか全ての向日葵が眼を背けているのだ。
「ここ、不思議だろう」
どうやら「彼」もその事には気付いていたようで私から向日葵の方へと向き直った。
「この場所だけ向日葵の顔が見えないんだ」
ぽつりと聞こえたそれは、私に投げかけた言葉と言うより、瞳に映っている光景をただ口にした、という様子だった。
「クリストファー」
「なんだ」
「あ……」
此方に背を向けたまま何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。それは躊躇いというよりも、暗闇に煌く一抹の期待に手を伸ばしているかのような印象を受けた。しばしの沈黙が流れた後、徐に振り返った「彼」は私と目が合うと微かに瞳を揺らし、口角を持ち上げた。
「此処なら君と僕だけの、二人だけの世界だね」
向日葵の影に浮かぶ碧眼はガラス玉のようにつるりとしていて動かなかった。
溜息と舌打ちがいっしょくたにもれた。私の前で虚実の姿を晒すな。彼女は真実を探究する者であると同時に自らを虚構で晦ます奴でもあった。傷付くのを恐れて道化を演じる姿を見る度に心の奥がすっと冷え切っていくのを感じた。
お前は誰よりも何よりも自由だ。そうあるべき存在だ。そんなお前がちっぽけな性の区別に囚われるなど、あっていいはずがない。虚栄心に支配された彼女に軽蔑の視線を向け、眉を曇らせる。
「そんな世界になんの価値がある」
唸るような低い声が出る。たとえ二人きりになったとしても、お前は私に心の底を打ち明けないのだから。虚飾の世界に自ら進んだとしたら、それは冒険家としての"死"だ。
死んでも御免だな、と吐き捨てながら「彼」の横を通り過ぎる。
「はは……今日はなんだかトゲがあるね」
余程私の返答に堪えたのか、軽口を叩いた声色までは誤魔化すことができなかったようだ。胸がズキリとすると共に微かに仄暗い安堵を覚えた。
「……いつものことだろう」
午後の陽射しを照り返す花々を強引に押しのけて道を開く。黄色い波間に浮かぶ私達を彼らはせせら笑うように身を揺らしていた。