薄荷キャンディーと6章38節第三都市「儒来」を目指す道中、ヴァッシュは後部座席で車の揺れに眠気を誘われていた。
あと一歩で寝入ってしまいそうなそのとき、耳を劈くような彼女の声が眠気を無理矢理引き剥がした。
「あーーっ!!」
それまでそれぞれヘッドレストやウィンドウの縁に身を預けて沈黙していた三人はびくりと身を震わせた。
「なんや敵か?!」
ウルフウッドは飛び起きて運転席のシートの肩を掴むと、腰を浮かせて窓の外を見渡した。相変わらず道を進んでいるのかいないのか分からないほどの砂原と、あっけらかんとした晴天しか見えなかった。
三人は小さな手でぎりぎりとハンドルを握り込むメリルを注視する。肩に力を入れて険しい顔だった。
「これ以上…これ以上砂とワムズの体液が着いたまま居たくないですぅ!!」
「おい新人、独り言はもう少し静かに言え」
ロベルトは隣で半べそをかいている彼女を横目で見遣りながら、懐からスキットルを取り出すとぐいっと中身を飲み下す…が出てくるのは僅かに一口分の酒だった。
一雫すら残っていないのを確認すると、溜息を吐く。
「宿!!宿取りましょう!!お風呂入りたい!!!宿泊費は経費で落とします!!」
「落ち着け新人。このあたりに街なんて見えないぞ」
ヴァッシュは任せて、と言うと荷物から地図とコンパスを取り出すと、太陽と昼間でも見える月の位置、前方右手の巨岩を見比べて大体の位置を割り出した。
「あぁ、そこの大きな岩から少し南へ反れると街があるよ」
「流石!ヴァッシュさんナイスです!流石あちこち渡り歩いてるだけありますわね」
メリルは目を輝かせて、ルームミラー越しにヴァッシュを見る。
いやぁ、それほどでもと後頭部を掻くと、ウルフウッドがサングラスを下へずらした顔を割り込ませる。
「ほな、ワイも呼ばれよかな」
「勿論です!」
返ってきた返事がいつもの非難めいたものでなかった為にウルフウッドは少し面食らう。拒否されても堂々と肖るつもりだったが。
「お、気前良いやんけ」
「だって…みんなじゃりじゃりじゃないですか」
メリルは言葉を選んだ。ヘビースモーカーがもう一人増えた上、硝煙の匂いと砂埃とワムズ…そして熱砂に灼かれ止めどなく湧く汗。
異常事態が過ぎ去り安全な場所へ身を置くと、それなりに匂いも気になって来ていた。
思えば入社一年目にして自らの意思でこの人間台風に着いて回っているが、こんなにもハードに体当たりしていては身が持たないかもしれない。
彼女は溜息を深く吐いた。
「お風呂から上がったら、ぐっと冷たいのを一杯やりたいですわ」
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「はぁ…だからってなんでワイまでこんなこと」
ウルフウッドはメリルから押し付けられたメモを眺め苦々しい顔をした。
手当に使う衛生用品や携帯保存食などを印した小さく丸い字がつらつら並んでいる。
「『私と先輩は宿を見付けて来ますからお二人は買い物をお願いします、くれぐれも面倒事は起こさないように』やないわ。人んこと都合よくパシりにしよって。ボロ宿しか見付けられんかったらどついたるわ、ホンマに」
「まぁまぁ。ほら、君だって煙草切らしてたでしょ?ついでに買って行こうよ」
ヴァッシュは煙草屋の看板を指さして横で息巻く彼を宥める。
「せやな。これも嬢ちゃんに請求したろ」
「そういう意味で言ったんじゃないんだけどなぁ」
ヴァッシュの困り笑いを他所に、ウルフウッドはその足でつかつか店の方へ向かう。
半露天の店に顔を出している年配の女性に声を掛け、銘柄を指定する。
「姉ちゃん、毎度暑いのに気張るなぁ。これおまけしてや」
ウルフウッドはカウンターの端の籠に入っている棒付きキャンディの束を煙草の箱の上にひょいと置いた。
店主と思しきその女性は若い呼称をされたので気を良くしたのか、兄ちゃん上手いねぇ、持っていきなと言うと日に焼けた頬を上げて笑った。
皺くちゃの$$札を胸ポケットから取り出して支払いを終えるとおおきに、と言ってこちらへ戻ってくる。
「もしかして顔見知りだった?」
親しく見えた二人の空気感から咄嗟にこんな質問をした。
ヴァッシュは寄りかかっている壁から身体を離す。
「んなわけあるかい。顔見知りやったらもっと値切ったったわ」
返ってきた答えはいかにもがめつい彼らしい言葉だった。
ウルフウッドは厳つく人を寄せ付けない雰囲気だが、本来、優しく人好きのするタイプなのかもしれないとヴァッシュは思った。
ん、とウルフウッドは飴を目の前に差し出す。
「これ以上ポケットに入らんからやる」
と膨らんだ胸元をぽんぽん叩いてみせた。
「いいの?ありがとう!」
ヴァッシュは早速、簡素な飴の包みを取ると口に入れた。爽やかなハッカの味がする。
「僕、君のそういうとこ好きだなぁ」
「はァ?」
ウルフウッドは下ろしたての煙草を口元から危うく落とすところだった。
「せやからそーいうの止めぇや。調子狂うで…」
「あはは。こう見えて結構優しいところあるんだなって」
こう見えてってなんや、とウルフウッドは懐から取り出したライターで煙草を炙り、深く吸って先に火を灯すと煙を吐き出した。
「えぇこと教えたる。ワイんとこの神さんによるとな、人に与えたら倍になって返ってくるって教えがあんねん」
「へぇ」
ウルフウッドは壁を背にしているヴァッシュにじりじりと近付く。
「せやから、おどれがワイに何を返してくれるんか楽しみやわ」
「へ?」
ヴァッシュは思わず気の抜けた返事をする。
「あはは…じゃあ飴の代金で、も」
ヴァッシュの視界に影が差すと、紫煙を鼻先に掠めた。瞬間、唇に何かが押し当てられるのを感じて身を固くする。
盗むようなキスだった。
思わず見開いた眼前に黒曜石のような双眸が細く覗いていた。顔を傾けて試すように唇を擦り合わせてくる。最後に軽く食まれて離れるとちゅ、と僅かな音がした。
「─っ!」
ヴァッシュは思わず壁に寄りかかったままずるずるとへたりこんでしまう。情けないことに腰が抜けたようだ。
ヒト一人の人生より大分永く生きているけど、色々すっ飛ばしてこんなことをしてくる者は誰一人いなかった。
自分の作る壁なんて関係なく間合いを詰めて来るなんて。
「…ごっそさん」
ウルフウッドは顔を離して手の甲で口元を拭う。
「あー、やっぱスースーするわ。苦手やわハッカって」
「君、きみ、なんてこ、と」
ヴァッシュが二の句を継げず赤い顔でぱくぱくしていると、遠くからメリルが自分たちを呼ぶ声がした。
「嬢ちゃんにまだ煙草しか買うてへんのバレてまうな」
行くで、とウルフウッドがヴァッシュの腕を掴むと半ば無理矢理に引っ張り上げた。
ヴァッシュは未だに赤い顔を左の無機質な掌で覆いながら促されるままに歩く。
油断した。完全に、油断してた。
ていうか、僕、何された? 唇くっ付けられて。
キスじゃん。
こういうのって好き同士じゃないと、駄目なんじゃないのか?
─僕、君のそういうとこ好きだなぁ─
ヴァッシュは先刻自分が云った言葉を思い出してはっとする。
ウルフウッドはヴァッシュにだけ聞こえる声で悪戯っぽく云った。
「宿、相部屋やったりしてな」
あんなことをしておきながらまだ冗談が出てくる彼に、ヴァッシュは今度こそ声を出してガツンと言ってやろうと息を吸った。
「君、嫌いなハッカ味を僕に押し付けただけでしょ」
聞いているのかいないのか、ウルフウッドはメリルの方へ先に歩いて行ってしまった。
ヴァッシュは恨めしげにその背を睨む。
とっくに離れたのに、まだ自分にきつい紫煙が纏わりついている気がした。