こうべをあげよ、雄々しき子《後編》「あたしはね、むんむんは人殺してると思う」
6畳ほどの休憩室に置いてあるパイプ椅子に腰掛けて、小山ユミは鯉登に言った。
休憩室には折り畳み式の簡易な長机が2つ、中央に置いてあり、その周りにパイプ椅子が4脚並べられている。長机の上にはみんなで持ち寄ったお菓子が置いてあり、小山はその中のチョコチップクッキーをもぐもぐ食べていた。鯉登は給湯室に持ち込んだ茶葉で淹れた紅茶を、自前のティーカップで飲んでいた。
「むんむん?」
「店長のこと。店長さ、なんでか重いもの持つ時、むんて言うでしょ。あれちょっと笑っちゃうんだ。名前もムーンだからむんむん」
「あんまりセンスがいいとは言えないな」
「いーの、あたしが密かにそう呼んでるだけなんだから」
「え、月島さん知らないのか?」
「知るわけないじゃん。本人には言わねーよ。あたしが陰で呼んでるだけ。王子は陰でも王子だけど」
「ふうん、そういう風習があるのか、小山さんには」
「なんだよ、風習って。王子やっぱ変だわ」
小山ユミがげらげら笑った。鯉登はすました顔を崩さずに、
「私は私をやっているだけだ」
と答えた。
「王子のそういうとこ好きだけどね。王子むんむんと仲良いよね」
「そうか?月島さんはいい人だ」
「まぁセクハラパワハラないしな。休みも取りやすいし」
それ重要、とひとりで頷いている小山ユミに、鯉登は問いかけた。
「ところで、さっきの発言はどういうことだ」
「は?」
「人殺しって」
「ああ、それか。だってさ、目つき悪いでしょ、むんむんて。あれは堅気の目つきじゃないね。あと店に輩が入ってくるとめっちゃ怖い顔してにらむの知らない?チラッとそいつらの方みて一瞬だけにらむのよ。それですっかりお行儀よくなっちゃって、店員にまで敬語使ってくるんだから。」
ヤン同士はどっちがヤバいかすぐわかるんじゃないの、と小山ユミは鯉登に言った。
「ヤンてなんだ」
「ヤンキー」
「…アメリカ人?」
「……まぁいいや、なんでもない、忘れて」
面倒くさくなって小山ユミは言った。
「??でも月島さんて目つき悪いか?鋭くてかっこいいと思うがな」
「え、なに王子ってそういう感じ?ゲイ?」
「なんでそうなるんだ」
「いや多様性の時代だし、いいと思うよ」
「だからなんでそうなるんだ」
「まぁいいや。実はあたしが3年前に入店した時に入れ替わりくらいで辞めちゃった古参のパートさんがいたんだけどね、その人が言ってたのよ。むんむん、昔はもっと怖い顔で愛想もなくて、敬語もろくに使えなかったって。立派になったわねぇ、って言ってた」
「それがなんで人殺しになるんだ」
「だって少年院あがりだってウワサだよ?
オーナーはさ、とにかく訳ありで素性のよくわからない子ばっかり拾ってくるんだって。それ許す鶴見妻すごいよね。オーナーはバーもやってるんだけど、そこの人達もそんな感じで拾われたみたいだよ?王子もそんなんでしょ。それで更生させるのが趣味なのよ。いい趣味なんだか悪趣味なんだか」
鯉登は鶴見の顔を思い浮かべた。この人になら自分の全てをわかってもらえる、と思わせるあの笑顔。
「いい趣味だろう」
「うわ、鶴見信者あらわる。きも」
そう言うと、小山ユミは立ち上がった。そろそろ時間だわ、と言うと外していた店のエプロンを掛け直して、仕事に戻っていった。
鯉登は1人で休憩室のパイプ椅子に座っていた。まだ休憩時間内だった。
———少年院?
何度もその単語を胸の内で反芻した。
2〜3日前から、鯉登の様子がおかしい。
1ヶ月ほど前に、一緒に配達へ行ってから、鯉登はずいぶんと月島に心を開くようになっていた。歳の離れた兄がいるせいか甘え上手で(そのように月島には思えた)、仕事の質問もよく熱心にしてきた。質問だけではなく率直に意見をしてくることもあり、彼に指摘されて在庫管理のシステムを変えたこともあった。
生真面目だが柔軟性に欠けるところのある月島にはそれは新鮮だった。
自分の、狭くてカビ臭い部屋の壁が壊されていくような快感があった。
———少なくとも、この人には。
世界は暗くて自分を追いつめるものではないのだろう。空は青くて緑の草がふかふかしていて、花の匂いがするのだろう。
自分の部屋の壁の外に、そんな景色が広がっていたらどんなにいいだろう。
そんなことを考えることもあった。そして、鯉登と仕事をするのは楽しかった。そう、楽しかったのだ。
それを実感したのは、鯉登の様子がおかしくなってからだった。
あまり目をあわせてくれず、質問してくることが減った。昼食に誘われることもなくなったし、昨日起こった些細なことを報告してくることもなくなった。
月島は腹立たしかった。なんで腹が立つのか、よくわからなかった。鯉登を見かけるとイライラした。どうせいまにいなくなるお坊ちゃんだ。鯉登がその気なら、と月島もあまり鯉登に話しかけなくなった。よそよそしい2人に、他の従業員は首を傾げた。
緊張状態を破ったのは鯉登だった。
ある日の夕方、月島が倉庫で在庫を確認していると、背後の扉から誰かが入ってくる気配を感じた。振り返ると、鯉登だった。
顔を真っ赤にして、月島をにらむように見ていた。
「どうしたんですか?体調が悪いなら帰ってもらっていいですけど」
「体調は絶好調だ」
鯉登は鋭い目つきをさらに鋭くして答えた。
じゃあなんなんだ、その異様な雰囲気は。
「あの!」
鯉登が月島に掴みかかりそうな勢いで声をあげた。
「はい」
冷静に答えたはずが、思いがけず冷たい声が出た。しかし鯉登はそんなことには気づいていないようだった。
「今日、月島さん18時あがりだよな?私は17時あがりなので、仕事の後少し話がしたいんだが」
何事かと思ったが、店長として月島は頷いた。仕事を辞めたいのかもしれない。
「わかりました。18時すぎに」
「少し東に入った公園でいい?」
「公園?ああ、保育園の近くの?」
「はい」
鯉登はそう言うと、倉庫を出ていった。
鯉登が指定した公園は、幹線道路から少し東に入った住宅街のなかにあった。まだ秋のはじめで、18時といっても明るかった。広い公園で、ベンチもたくさんあり、サッカーやキャッチボールをしている少年たちもいた。まだ遊んでいる子どもたちは、そろそろ帰り支度をするところのようだった。
月島が公園を見渡すと、大きな鉄棒で鯉登が懸垂をしていた。スラッとしてはいるが鯉登はしっかりとした筋肉の持ち主だ。時々そうやって鍛えているのだろうか、と思った。
邪魔にならない程度に月島が近づくと、鯉登はすぐに気づいて鉄棒から手を離した。
「すみません、お呼びたてして」
鉄棒の後ろにベンチがあり、そこに鯉登の黒いショルダーバッグが置いてあった。そこからハンドタオルを出すと、鯉登は丁寧に顔の汗を拭いた。
月島はベンチに座った。ショルダーバッグを挟んで隣に座っている鯉登は、汗の匂いとかすかな香水の匂いが混ざっていた。ムスクが月島の鼻をくすぐった。
「香水つけてたんですか」
「あぁ、汗くさいのが嫌で。業務に支障をきたさないように匂いのきつくないものを少しだけ。気になる?」
鯉登は自分の手首をくんくんと嗅いだ。
「いや、いい匂いだなと思って」
月島はその手首を眺めながらぼんやりと答えた。答えてから、自分らしくない言葉に驚いた。
「ありがとう」
鯉登はにこにこと嬉しそうに笑った。特に月島の言葉に驚いた様子はなさそうだった。
「俺こそ汗くさいでしょう。汗くさいの嫌いなのにすみませんね」
「いや、大丈夫。自分が汗くさいのが嫌なだけだから」
さらりと言われた。俺が汗くさいのは否定しないんだな、と思った。
「これ」
鯉登はショルダーバッグの隣に置いてあったエコバッグから、サンドイッチを取り出して月島に渡した。
「公園の駐車場の近くにカフェがあるでしょう。そこでパンも売っていて、時々買うんだ。美味しいからどうぞ」
「ありがとう」
月島はちょっと驚いてサンドイッチの包みを受け取った。
「ふふ、いい匂いすると思わない?」
「いい匂い?」
「コーヒーも買ったんだ」
持ち帰り用のカップに入ったコーヒーを、鯉登は月島の隣に置いた、ベンチに置かれたコーヒーは、確かにいい匂いがした。
「このカフェは豆にこだわってるから」
「そうなんですか。知らなかった。引っ越してきたばかりなのに詳しいですね」
「井上さんに聞いた」
井上さん、とはパートで入ってもらっている50代の女性だ。月島は彼女とたいして世間話をしたことがなかったので少し驚いた。
「仲良いんですか」
「仲?普通だけど」
不思議そうに鯉登は言って、自分のコーヒーをひとくち飲んだ。カップに当てた唇がきれいだった。飲み方もきれいなんだな、と思った。