きみとならぼくは 暗くて冷たい、海の中。
オレンジ色のサブマリンが、荒れ狂う水をかき分けて進んでいく。
ガタガタ、ゴトン。
水流に押されて、機体が時おり大きく揺れる。
ぼくの前──操縦席に座るのは、真剣な顔で前を見据えるズーマ。今この船内にいるのは、ぼくとズーマのふたりだけだ。
*************
事の始まりは、ついさっきのことだ。
いつもより少し、緊迫した雰囲気の召集だった。
「──今回はちょっと、一刻を争う事態なんだ」
パウステーションに着くなり、真剣な顔をしたケントが任務を告げる。
「ビーチの近くに、建設中の海底レストランがあるだろう? 陸からは通路でつながっているんだけど……そこに穴が空いてしまったらしい」
窓の外では、木々が揺れ、大粒の雨が地面を叩いている。予想外の急な嵐が、アドベンチャーベイを襲ったのだ。
強風にあおられ、海も大荒れしている。激しい波に運ばれてきた瓦礫が、運悪く強化工事の済んでいない通路部分にぶつかって、穴が開いてしまったようだ。
「オープン前だから、お客さんは入っていない。でも……レストラン館内に、作業員の人たちが取り残されているんだ」
やるべきことはすぐに分かった。
現場──つまり海底まで潜り、穴を塞ぐ。
荒れる海深くまで潜れるのは、ズーマのサブマリンだけ。
そしてもちろん修理とくれば、ぼくの役目だ。
「……危険な任務になるだろう。だけど今すぐ助けに行かなきゃ。──ロッキー、ズーマ。きみたちに頼みたいんだ」
ケントがまっすぐに、ぼくたちの名前を呼んだ。だからいつものように、返事をした。
「もちろんで、あーります!」
「潜って潜って潜っちゃうよ!」
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水に濡れるのは苦手だ。濡れた毛が肌に張り付く感触とか、冷たい水に体温を奪われる感覚とか、うまく言えないけれど、それがどうにも苦手なんだ。
といっても、普段は別に怖いとまでは思わない。単純に水が苦手なだけだ。
お風呂は嫌いだけど全く入らないってわけでもないし、マーシャルのおっちょこちょいで水をかけられたりしても、なんやかんや笑って済ませたりしている。
パウメイドになったときは、潜水だって平気だった。呼吸もできたし、なぜか水が気持ちよく感じたから。
だけど今日は、ちょっと──いや、かなり状況が違う。
海だって荒れていて、波も早い。天気が悪くて海中は暗いし、水もいつもより冷たい。
そんな中に生身で降りて、修理をしなくちゃいけない。
任務じゃなきゃ、今すぐ逃げ出したいくらいだ。
だけどやっぱり、そんなことは言っていられない。
取り残された作業員の人たちは、きっとぼくなんかより、もっと怖い思いをしている。
絶対に助ける。やるべきことはそれだけだ。
(……少し落ちつかなきゃ。レスキューの流れを整理しておくであります)
現場に着いたら、酸素ボンベを装着して、サブマリンから出て修理に当たる。
やるんだ。ぼくが、やらなきゃいけないんだ。だってぼくは、パウパトロールの一員なんだから。……それなのに。
「あ、あれっ……?」
いつの間にか、ぼくの手は小刻みに震えていた。手だけじゃない。体の芯から、震えが止まらない。
こんなこと初めてだ、どうしよう。
「ロッキー、どうしたの?」
前にいるズーマが、心配そうに声をかけてくる。
「ちょっと手が、その……ふるえちゃってるみたいであります」
「えっ、大丈夫!?」
「ご、ごめんズーマ、大丈夫。こんなのすぐ、すぐ止めるであります」
ついに声まで震えだした。どうしよう。
こんな状態じゃ、ちゃんと修理ができない。早く震えを止めなくちゃ。ぼくの手に人の命がかかってるんだから。
(うわ、手の先が冷えきっちゃってる)
緊張を解こうと、必死で両手を擦り合わせる。
窓の外は暗い海。うねる波、海中を飛んでいく木片や瓦礫。
もうすぐ目的地に着く。早く止めなくちゃ、何としてでも──
「あ、えっ……?」
ふいに、手があたたかくなった。ズーマがぼくの手を握ってくれている。
「大丈夫だよ、ロッキー」
オートモードの操縦ボタンを押して、両手でぼくの手を包み込むズーマ。
とっても優しい、でも力強い笑顔を浮かべていた。
「僕はぜーんぜん、怖くないんだ」
「それは……だってズーマはぼくと違って、水が嫌いじゃないから──」
「違うよ。ロッキーがいるから怖くないんだ」
ぼく? ぼくがいるからって、えっ、なんで?
「確かに僕は水が得意だよ。まあそれも理由のひとつだけど……でもさ、それだけじゃないんだ」
ズーマはぼくをまっすぐ見つめる。見惚れるくらいりりしい顔をして。
「ロッキーはどんなものでも修理しちゃう。屋根だって、線路だって、僕のお気に入りのサーフボードだってね」
お茶目な顔で、ウインクをしてみせるズーマ。たぶんだけど、ぼくを安心させようとしてくれてるんだろう。
「誰かを助けるためなら、危険な場所にだって駆けつけて、あっという間に修理しちゃう。そんなかっこいいロッキーと、海を知り尽くした僕がいるんだ。そんなの絶対うまくいくって!」
暗い海の中なのに、ズーマの瞳は輝いて見えた。
少し金色がかった、明るい瞳。
「それに、もし何かあったとしても大丈夫。そのときは僕が絶対に、ロッキーを守るから」
「ズーマ……」
冷えきっていた手はいつの間にか、じわじわと熱を取り戻していた。
あんなに震えて縮こまっていた体も、今は何ともない。
「きみならできる。ううん、僕たちならできる!」
「……ありがとう、ズーマ。うん、きっと大丈夫でありますね! 絶対ぼくたちで助け出そう!」
「そうこなくっちゃ! ──よし、目的地が見えてきた。潜って潜って潜っちゃうよ!」
*************
そのあとすぐ、目的地に着いた。
ケントに到着したことを伝えようと、一度通信機を使ってみたけれど、画面は砂嵐を映すだけだった。嵐に加えて海底とあって、通信状況はかなり悪い。
ケントの声を聞けなくて、不安が少しだけぶり返したけれど……ズーマが力強く頷いてくれたから、気を引き締めて任務を開始した。
手早くボンベとヘルメットを装着し、サブマリンを出て、穴の空いた場所に向かう。
(やっぱり波がかなり強い……道具が流されないように気をつけなくっちゃ)
ぼくが作業しているあいだは、船室に残ったズーマがサブマリンを操作して、できるかぎり波避けをしてくれる手筈になっている。
けれどそれでも、完全に全方向をカバーできるわけじゃない。
通路内は、おそらく九割ほどが水で満ちている。
排水システムも嵐でやられてしまったらしく、そちらは機械に強いケントが地上側から直しに向かっている。
けれどシステムが直ったとしても、やはり肝心の穴を塞がなければ、排水は上手くいかない。
(このまま満水になれば、レストラン側のドアが水圧で破れちゃうかも……そうなる前に、急いで穴を塞がなきゃ!)
「マジックアーム、セット!」
アームを使って、用意していた鉄板を、穴の上に重ねる。
それからドライバーに切り替えて、手早くネジで固定していく。四箇所、六箇所……まだまだ。慎重に、外れないように……八箇所!
「ネジ留め、完了であります!」
「やったね、ロッキー!」
船室内から、ズーマが通信で歓声を送ってくれた。ケントや地上の仲間達とはパウタグでの通信はできないけれど、近距離にいるサブマリンとなら辛うじて通信ができる。
ズーマの声を聞くとなんだか安心して、少しだけ肩の力が抜ける。
「よぉし、あとは板の隙間を埋めるだけ! ズーマ、引きつづき周囲の警戒を頼むであります!」
「まっかせといてー!」
アームグルーを出して、鉄板と壁の隙間を埋めていく。水圧に負けないくらいしっかり塞ぐことができれば、排水装置が使える。
グルーを出し始めた、そのときだった。
「──ロッキー、強い波がきてる!」
ズーマからの通信を聞いて、顔を上げる。すると遠くから、巨大な波が迫ってきていた。
波はたくさんの木片やガレキを巻き込んでいる。当たったらひとたまりもないだろう。
「じっとしてて! サブマリンのアームでロッキーを覆って、障害物を避けるから! ──だめだ、細かいガレキは防ぎきれない……!」
サブマリンのアームは細い。大きなガレキは防ぐことができるだろうけど──それより小さな岩や木片は、アームをすり抜けて入ってきてしまう。
「ロッキー、一度船内に戻って! 波がおさまるのを待とう!」
「いや、だめでありますズーマ! まだ板を固定しきれてないから、この場から離れたら波に持っていかれちゃうかも……」
「このままそこにいたら、きみが怪我しちゃうよ!」
「でも板が流されたら、もう一度穴を塞ぐ時間はないでありますよ! そしたら作業員の人たちは助からない……!」
体を打つ波に耐えながら、アームグルーをセットする。
「大丈夫、ぼくならできる!」
助けを求めている人たちがいる。ぼくを信じて任務を任せてくれたケントがいる。そして、ぼくならできると言ってくれたズーマがいる。
みんながいるから、ぼくはやれる。
完全に隙間が埋まるまで、あと少し。だけど──
「……あっ!」
アームをすり抜けるサイズの、だけど当たったら無事では済まないだろう形をした木片が、ぼくに向かって飛んできている。
(そんな、あと少しなんだ。もう少しで……!)
それでも、鉄板から手は離さない。ぎゅっと目を瞑って、衝撃に備える。
──だけど、ぼくには何も当たらなかった。
「……ズーマ!?」
いつの間にか、サブマリンの船室から抜け出していたズーマが、ぼくの背に覆い被さっていた。
木片を蹴って軌道を逸らしてくれたのだろうか、片足が少し赤くなっている。
「なっ、なんで……?」
「──言ったでしょ、僕がロッキーを守るって」
「ズーマ……」
「それにさあ、きみならできる、だけじゃないから! ──僕たちならできる、でしょ!」
「……! うん!」
足の痛みに耐えながら、それでもズーマは笑顔で励ましてくれる。
触れた背中が温かい。
「さっ、あと少しだよ! 急いでロッキー!」
「了解であります!」
ごめん、ぼくのせいで怪我をさせてしまった。申し訳ない気持ちでいっぱいなのに、それ以上に、どうしようもなく嬉しかった。
「……! 全部塞がったであります!」
「すごいよロッキー!」
急いでサブマリンに戻り、ズーマとふたりで、固唾を飲んで排水機を見守る。
水の侵入が止まり、しばらくすると、排水装置が起動した。
赤色に光っていたランプが緑色に変わり、排水機のプロペラが回り出す。──任務成功だ。
「「やったあぁぁあ!!」」
思わず抱き合い、全力で喜び合った。
あんなに嫌だった水の感覚も冷たさも、今はもう、不思議と忘れていた。
*************
それから数日経って、海底レストランは無事開店を迎えた。
パウパトロールも補修と補強工事に立ち会って、今度はどんな嵐が来ても平気なくらいしっかりとした建物ができたから、もう大丈夫。
レスキュー成功を評して、ぼくたちパウパトロールは開店パーティーに招待された。
美味しい料理をたくさん食べて、作業員さんやオーナーさん、それからもちろんケントにもたくさん褒めて撫でてもらった。
幸せな気分のまま、少しだけ会場を抜ける。
探しているのは、いつの間にか姿が見えなくなっていた彼だ。
階段を登り、強化ガラス張りになっている二階の展望部分に上がると、彼を見つけた。
「あっ、ズーマ! やっと見つけたであります」
「ロッキー?」
夕陽に照らされた展望室で、ズーマはひとり水面を眺めていた。その隣に腰を下ろす。
「ひとりでいるの、珍しいでありますね。何してたの?」
「ちょっと海を眺めてたんだ。夕日が反射してキレイだったから」
「たしかに。絶景でありますね」
「でしょ! 僕好きなんだ、下から海面眺めるの。時々サブマリンで見に行ったりしてるんだよね〜」
ズーマの言うとおり、下から見上げる水面はとても綺麗だ。オレンジ色や金色の光が溶けて、きらきらと輝いている。ちょっとズーマの色に似ている、なんて思う。
「──ていうか、ロッキーはなんでここに?」
「ズーマを探してたんだ。どうしても言いたいことがあって」
「僕に言いたいこと?」
きょとんと首をかしげるズーマ。あれ、なんだかちょっと緊張してきた。まあ、それでも言うと決めていたから言うけど。
「えっと、そのぉ……あのときはありがとう、って言いたくて」
「ええー? なに、そんないきなり」
予想していなかった内容だったのか、ズーマはぶはっと吹き出した。
「いやぁ、あれからずっとお礼を言おう言おうと思っていたではありますが……なかなかタイミングがなくって、えへへ」
「そんなの、別にいいのに。僕の足だって大した怪我じゃなかったし」
「だって本当に嬉しかったでありますよ!」
ぼくは拳を握りしめて、ズーマに向き合う。
「助けてくれてありがとう。それに、ぼくならできるって励ましてくれたのも。とっても嬉しかったであります」
「ちょっ、何何? すごい褒めるじゃんロッキー」
「まだあるでありますよ! お礼の他にもうひとつ言いたくて。あのときズーマはぼくにカッコいいって言ってくれたけど……ズーマもすっごくカッコよかったでありますよ!」
「……ええー、やめてよもう。確かに僕も言ったし、まあ本心だったけどさあ……あのときは状況が状況だったから正面きって言えたっていうか……なんていうか、今そんな改まって言われると、ちょっと、その──照れちゃうから!」
「いーや、それでも言うでありますよ」
「ロッキーってたまーに押し強い時あるよね……」
「あの時はもちろんだけど……本当はずっと前から思っていたでありますよ、ズーマってカッコいいなって」
「……そうなの!?」
「うん。ぼくの苦手な水が得意っていうのもあるけど……それ以上に、いつも前向きで勇敢なところ、尊敬してるであります。困ってる人を助けるためなら、どんなに冷たい水の中でも迷わず飛び込んじゃうし。ズーマのそういうところ、カッコいいなあってずっと思ってたでありますよ」
「あの、ロッキー。もう、そのへんで勘弁してよ……」
消え入りそうな声で答えると、ズーマは眉間を押さえて俯いてしまった。めずらしく耳まで赤い。こんなズーマ初めて見たかも。
「……でもまあ、ありがとね」
顔を上げたズーマは、まだ少し照れていたけれど、いつもの笑顔を向けてくれた。
「これからも力を合わせて、町のみんなを守っていこうね」
「もちろんで、あーります!」
ふたりして笑い合う。いつものぼく達だ。
ズーマとこうして笑い合う、他愛のない時間も実は好きだ。それを伝えたらまた照れちゃうかもしれないから、今日は言わないでおくけれど。
「……ところでさあ、ロッキー。今回の任務で、ちょっとは水に慣れたんじゃない? よかったら今度、海に泳ぎに行こうよ」
悪戯っぽく笑うズーマ。気のせいか、どことなく照れ隠しっぽい。
「いやぁ、それはまだちょっと……」
「えー! そこはOKしてよ!」
そう言いながら、ズーマはぼくを軽く小突いてくる。
「……まあでも、サブマリンから出なくていいなら、ちょっとくらい行っても良いでありますよ」
「ほんと!? やったー! じゃあボードふたり分用意しとくね〜」
「ぼくのこと濡らす気満々でありますね!?」
夕陽が落ちて、夜がやってくる。
いつの間にか暗くなっていた海も、こうして見ると、意外と悪くない。
ボードから落ちない練習をしておかなくちゃなあ、なんて思うぼくの上で、夜が静かに更けていった。