嫉妬と足癖──ダァンッ!
背にした壁の足元から、鈍い音がした。
一瞬なにが起こったのか分からなくて、おそるおそる、音の発生源に目をやる。
僕より少しだけ背の高い、年上の恋人。
いつも被っているキャップの鍔で、表情は見えない。ただ俯いて、何も言わない。
だから、遠慮がちに声をかけてみる。
「……ねえロッキー、この足、何?」
顔を上げると、琥珀色の瞳と目が合った。
いつもは優しげな顔をしているくせに、今日は少し様子がおかしい。
真顔を作ってはいるけれど、どこか不服そうな色を滲ませている。
「さっきは随分、楽しそうでありましたね」
ようやく出てきた一言に、思案を巡らせる。
多分、あれのことだ。
ついさっき、ロッキーとビーチで待ち合わせする、少し前。
約束の時間まで少し間があったので、すぐそこの海でひと泳ぎしてきたのだけれど──陸へ上がると、複数の女の子たちに声をかけられたのだ。
前から見ていました、だとか、連絡先を教えてくださいだなんて、色々言われた気がする。
僕が心に決めた相手は一人だけだから、当然やんわり断ったけれど──もしかして、その光景を見られていたんだろうか。
合点がいくと、小さく口角が上がってしまう。
(つまりは、ヤキモチ妬いてくれたってこと?)
やり方が若干怖いけれど、可愛い恋人に嫉妬されて悪い気はしない。
壁際に追い詰められたまま、僕より少し細い肩に手を回してみる。
「女の子達には、連絡先教えてないよ? 僕にはロッキーしか見えてないから」
何も答えないのを良いことに、そのまま距離をつめて、耳元で囁いた。
「不安になっちゃった? 心配することないのに。──ねえ、部屋行こうよ。約束してたでしょ」
与えてしまった不安は、どろどろに可愛がって甘やかして、溶かしてあげるに限る。
いつもは顔を赤くしたロッキーが小さく頷いて、そのまま甘い時間が始まるのだ。
──だけど、今日はどこか違う。
「ロッキー? どうし──」
「そういう事を言ってるんじゃないでありますよ」
僕の右脚のそばに置かれていた足が、一度離れた。
そのまま、また壁にダンッ!と打ちつけられる。
今度は右脚じゃなく、両脚の間。
ひゅ、と思わず息を呑んだ。
「確かに連絡先は教えてないかもしれないけど、あんなふうに気を持たせる言い方はどうかと思うであります。きっぱり断るのも優しさでしょ?」
普段はやさしく下がった眦が、めずらしく吊り上がっている。いつにない迫力に、しばし言葉を発せない。
「ええっと……どういうこと?」
「自覚してないの?」
いつもの喋り方みたいに、語尾が伸びてない。
多分これは、本気で怒ってる。滅多にないけれど、こういう時は口ごたえしないほうがいい。
ロッキーはようやく壁から脚を退かして、軽くため息を吐いた。
「断るなら、遠回しに言うのやめた方がいいでありますよ。気持ちは嬉しいよとか、君は可愛いからすぐ他の相手が見つかるよとか、声かけてくれてありがとうとか──そこまで言う必要、ある?」
確かに言った。全部言った。
勇気を出して声をかけてくれただろう女の子を前にすると、ばっさり斬り捨てることはできなかった。
それにやっぱり、目の前ではっきりと好意を向けられてしまうと、正直どうしても悪い気はしない。
付き合う気は全くなかったとしてもだ。
色んな意図が織り重なって、結果的にああいう言い方になった。その場は丸く収まったし、女の子も泣かせることはなかったから、正直上手く対処できたな、とまで思っていた。
「気持ちに応えられないのなら、気を持たせる言い方はやめた方がいいと思う。……それがズーマなりの優しさなのかもしれないけど」
「……ロッキー」
「まあ、いずれあの子と付き合いたいのなら、別にいいと思うでありますよ」
結果的に女の子を苦しませてしまうだろうことと、恋人を不安にさせてしまったこと、両方を今初めて自覚した。
申し訳ない気持ちが湧いてきて、ロッキーの肩に回していた手をするりと下ろした。
そしてそのまま、手のひらを握る。
「……ごめんね」
「分かってくれたなら、それでいいであります。……ぼくもごめんね、きつい言い方して。それに、断る断らないはズーマの自由なのに」
いつもの優しい声色に戻ってくれた方ことに、内心安堵した。
このあとはちゃんと謝って、たくさん愛を囁いて、溶けるほど可愛がってあげよう。
「断るに決まってるでしょ。僕が好きなのはロッキーだけだもん」
それを今から、嫌というほど教えてあげる。
手を繋いで、ゆっくりと歩き出す。二人きりで過ごすために用意した部屋の方へ。
無性に愛しさがこみ上げて、ふと思いついたことを、心のままに伝えてみる。
「お詫びに今日は、ロッキーの言うこと何でも聞くからね」
「……なんでも?」
「うん、何でも」
どんな可愛いおねだりが待っているのだろうか。
浮き足立つ気持ちで、次の言葉を待つ。
けれど返ってきたのは、まさかの一言だった。
「じゃあ、今日はぼく上がいい」
「えっ?」
耳を疑った。上って言った? 聞き間違いかな?
「えーと、今なんて……あ、上に乗ってくれるってこと? たまにはいいよねそういうのも」
「そうじゃないであります。ぼくが男役ってこと」
「ま、待って、え、嘘でしょ!?」
「本気だよ?」
さっと顔が青ざめる。そんなことを言われるなんて思ってもみなかった。
「で、でもほら、準備とかしてないしさ……さすがに無理じゃない?」
「ぼく慣れてるから教えてあげる。心配しないで」
目を細めて笑う顔は、最高に可愛いのに最高に恐ろしかった。
前を歩く役が逆転して、手を引かれたまま呆然とただ歩く。
数時間後、僕は思い知ることになる。
いつも好きなように組み敷かれていた恋人が、実は思いもよらぬ底力を隠していたことを。