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    ちゃっぷ

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    ちゃっぷ

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    現パロリーマン設定のデル竜が車の中でわちゃわちゃする本、の1話後の話になります。
    前作を知らなくても大丈夫です。
    ふわふわ現代設定をご了承ください。

    デートの約束ならドアの中で 1.5話「すみません。これ、デルウハ殿ですよね」
     同僚から差し出されたスマートフォン。フロントガラス越しに車内の様子が映されている。運転席にいるのはまごうこと無く自分の姿だ。隣にいる人間、と、画面の隅に見切れている派手な看板。こうなるのが嫌だったんだ、と天を仰ぎたくなる気持ちを抑え、顔色を変えずに肯定する。
    「そうですけど、何か?」
     デバガメのつもりだろうか。しらを切ればどうにかできやしないだろうか。上司とラブホテルの駐車場から出てきた瞬間を切り取った写真など。先週の中日、会社帰りに発生した不慮の事故だとしか説明ができないが、画像化された生々しさを目にして血の気が引く。
     分かりきった回答のはずなのに、肯定すれば目の前の口がひくりと震えた。次いで聞こえた言葉に耳を疑う。
    「まだ中学生の娘をホテルに連れ込むなんて……ッ!?」
    「今なんつった??」
     写真に写っているのは白黒ツートンの髪にネクタイを締めた紺色のスーツ。間違いなく、着任したばかりの係の所属長。直属上司の竜野新室長殿。その特徴的な容姿を見間違えるはずもない。
     口髭を蓄えた同僚――粉山の言葉に、今度はこちらの口角がぴくりと引き攣った。
     
     
     
     
     
     
     流石に、だらりと椅子へ腰を掛けて両手で持った端末を弄り倒している姿は目に余る。隣席の様子が目に入っては、自分の眉間に皺が寄った。
    「あと一時間くらい我慢できねーのか」
     苦言を溢せば、背もたれに首まで預けていた竜野新室長がちらりと目線だけを動かした。
    「遊んでたわけじゃないですよ。ニュースサイト見て市場の動向探ってました」
     どうだか。声をかけた途端に指先がスワイプして画面を切り替えたのは見えていた。
    「えーっとぉ、一週間前の殺人事件の犯人はまだ捕まってないから近隣住民の方は注意して欲しくて、茶臼山動物園のウォンバットに子供が産まれたから一般から名前を公募してて、国府町の交差点でタクシーの横転事故があったけど奇跡的に負傷者は居なくて……これ諏訪湖までドライブした日じゃん、巻き込まれなくて良かったですね、そんで来週vencyのライブあるからここの道路も通行規制が入るらしくて、僕この日は早上がりします、昨日まで毎日続いてた大雨も明日からしばらくは快晴だから洗濯物がよく乾くそうです」
    「それらの情報の、どこに我が社への影響が?」
    「特に影響がないことが分かって良かったですね。大雨の翌日に晴れると花粉多いんでそれは注意したいかも。明日午前中に耳鼻科行ってきていいですか?」
     個人的なニュースじゃねーか。お好きにどうぞ、と返事をしてスケジュール管理システムに『竜野 午前半休』と打ち込む。確定、登録完了。ぐるぐるとアイコンが回転している待機画面が終わるのを待ちながら、これ俺の仕事じゃなくね? と気づく。ため息を吐いて、ずるずると椅子にもたれかかったままの自分の上司を眺めた。
     株式会社シゲチカ工業、商品開発部イペリット研究開発課イペイペ係。ふざけた名前がついた配属先へ出向して一ヶ月が経つ。
     パワードスーツを開発している企業の新製品。付けられた名前が、なんの皮肉かマスタードガス――毒ガスを意味する『イペリット』だった。それをもじって付けられた係名は未だに耳へ馴染まない。
     イペリットの製品開発を担う新興チームは、取り仕切っているチームリーダーが今年入社したばかりの新卒新人とのことあって、進捗に不安がある。なんの因果か自分に白羽の矢があたり出向依頼を引き受けてから、有能さと扱いにくさが同居する男の世話係、もとい社長から直々に任命された補佐役になっていた。
    「そもそも今週って試作部の返事待ちだから暇なんですよ」
    「先週も同じこと言ってなかったか?」
    「造ったやつが早々に壊れちゃったらしくて。もう一回作り直してるらしいんです。破損分の予算は珍しく試作部持ちらしいんで、いくらでも作り直してどうぞって感じですね~」
     社運がかけられたわけでもない新プロジェクトは、どことなく気の抜けた雰囲気が漂っている。開発完了までの仮日程は引かれているが、遅れても差し障りはない。強いて言えば、この男の士気に関わるくらいだろうか。イペリットの完成は、気まぐれが服を着て歩いているようなこの男に委ねられているのだ。
    「だからまぁ、今は天気のお話でもしてのんびりしてていいんですよ」
     室長補佐の肩書は、世間話にも相槌を打たなくてはいけないのだろうか。
     終業間際はいつも腑抜けた空気が執務室の中に広がっている。けれど他の社員は、一応は業務に励んでいるふりをしてくれている。係の責任者たる新室長を除いては。
    「あ、明日僕がいない間に試作部から返事きたら受け取ってもらって良いんで。再検討も合否判定もデルウハ殿の裁量で進めちゃって良いですからね」
    「自分の仕事を部下に丸投げしすぎなんじゃないか?」
    「信頼されてるって受け取ってくれません? あなたの判断なら、よっぽどのことがない限り問題なんて起こらないでしょ」
     ニャハハ、と竜野が笑っている間に半刻が過ぎていた。終業の鈴が暇に飽きた耳へ響く。
     
     
     会社から支給されている内線が鳴ったのは、翌日出社し席に着いてからすぐのことだった。
     朝一で急を要する用件でもあっただろうか。予定を思い出そうにも半休を取得している上司が居ることしか浮かばない。
    「はい、イペリット研究開発課のデルウハです」
    「試作実験部の粉山ですが……」
     耳にした部署名に、昨日聞いた竜野の言葉が脳裏をよぎる。試作部へ依頼を出していると言っていた。検討用のイペリットが完成したから取りにこい、という依頼だろうか。だとしても、そんなことならメールの一本で済む話だろう。わざわざ電話をしてくるということは、判断に悩むような問題でも起きたのだろうか。自分の代わりに受けておいてほしいと告げられた言葉を思い出し、俺の仕事じゃねーんだよなと断る算段をつける。
    「竜野新室長から頼まれていた試作品の件ですか? 本人は午前不在なので、午後からなら伺えます。折り返すので連絡先を……」
     言われた通りの展開になるとはな。机の引き出しから付箋とボールペンを用意する。試作実験部、粉山。その情報の横へ、腕時計に刻まれていた時刻も追記した。
    「いえ、要件があるのはデルウハ殿です」
    「俺に?」
     用紙の上を滑らせていたペンがぴたりと止まる。業務の依頼どころか会議で顔を合わせたこともない。粉山、と表記する氏名すら本人から挨拶されたのではなく、課員名簿に記載されていたのを見て覚えた程度だ。
    「本日お時間をいただけますか?」
     真剣な様子で問われた言葉に、首を捻りながらも「昼飯の後でよければ」と返す。
     
     
     そうして顔を合わせてみれば、スマートフォンで撮影しただろう不鮮明な写真を突きつけられた。
    「いや待て! 娘!? どこにそんなもんが写ってんだよ!?」
    「惚けないでください、ここに居るじゃないですか! 助手席に座っているはむつです!」
     初見の名前を耳にし、目を閉じて眉根を寄せる。誰だそいつは。本当に心当たりがない。
     スピードを感じさせる手ブレに、街路灯がガラス面に反射している影響で鮮明とは言い難い。色情報は識別できるが輪郭や詳細はボヤけていた。それだとしてもここに写っている人物は、自分と竜野に違いないのだ。
    「何見間違えてんだよ、これ竜野だぞ。残念ながら、俺の隣に居るのはあんたの娘じゃない」
    「確かに竜野新室長殿も似たような髪色ですが、実の娘を見間違えるはずがないでしょう! このふんわりと跳ねた髪も、愛らしい小さな顔も、守りたくなるような華奢な肩のラインも、細い指先を上品に口先へ当てる仕草だってむつの癖に間違いないですよ」
     そんなにこの男を褒めないでほしい。こんな風に形容されているのを耳にしたら絶対調子に乗る。そもそも口元に手を当てているのだって長時間のドライブで出た欠伸を噛み殺しているだけだ。体つきが細く見えるのも輪郭線がブレてしまっているせいだろう。男か女かもはっきりと判明しないボヤけた写真に、どうしてもこうも自身の判断を疑わずにいられるのか。
     それともあれか。自分が竜野の部下だから馴染みのある人物というだけで、他の社員には咄嗟には思い出せないような、そこまで社内で知られた顔でもなかったのだろうか。言うて新入社員だったな、と思い返す。四月の入社式から数えて在籍期間はまだたったの二ヶ月。他部署の人間から認知されていなくても不思議ではない。
    「他の写真もあります」
     粉山の指がスマートフォンの画面をスライドさせて、別角度からの写真へ切り替えた。
     続いて見せられた写真は、助手席のドアガラスを斜め後ろから追いかけるようなアングルだった。後方からの撮影で顔は映っていないが、先ほどの写真よりも対象物との距離が近く、はっきりとした写り方をしている。
     ヘッドレストからはみ出る藍色が混ざった髪色に、細くシャープな顎の輪郭。僅かな頬の膨らみは、恐らく車内に積んでいたガムでも食べていたような気がする。
    「どう見ても竜野じゃねーか」
    「違いますよ、ここを見てください」
     粉山の指先は、助手席のドアミラーを指差していた。角丸長方形のミラーには、車内の様子が反射され竜野の口元が写っている。
     注視したまま写真を拡大し、決定的とでも言うように言葉を突きつけられる。
    「むつの口元にはホクロがあるんです。こんなにはっきりと、右頬のホクロが写ってるじゃないですか」
     これサービスエリアで馬刺し食った時の汚れじゃねえかなあ。
     あの日は二人共やたらと色んなものを口にしていた。もしかしたらドライブスルーのハンバーガーを車内で食べていた際に頬へソースが付着した可能性もある。
    「そもそも、もしこれが竜野新室長殿だったとしても、どうしてお二人がこんな場所に居るんです?」
     それを説明するには、二二,六六〇字をかけて深夜のドライブを語る必要があるのだ。猜疑心に塗れた人間へ伝えるには非現実な文字数だった。
    「いや、だからこれは――」
     頑なに曲げようとしない誤認をどう説得しようか、と頭を抱え始めた時だった。
    「デルウハ殿~! おはよーございます!」
     渦中の人物からかけられた声に振り返る。白と紺に分かれた髪色、本人お気に入りのネイビーのスリーピース。花粉症のせいか顔の半分はマスクで覆われていたが、見慣れたその姿は竜野新室長に間違いない。午後から出社、のタイミングでちょうど食堂の前を通ったようだ。
    「おい竜野、これお前だよな?」
     粉山の手に握られたままのスマートフォンを操作し、最初に見せられたツーショットを表示させる。
     恐らく、視界に入れた時には自分も同じ顔をしただろう。不本意ながら部下とホテルから出てきた際の現場写真に、竜野がゲェ! と顔を歪ませた。
    「だから会社の人に見られたら最悪だって言ったじゃないですか! デルウハ殿の不運! 不幸体質! こっちに感染させないで!」
    「文句なら後で聞いてやる。今はこれにだけ答えろ。この時俺の隣に乗っていたのはお前だよな?」
     ふざけていた言葉も、同じ問いで圧を掛ければなりを潜めた。とにかく、こいつが一言でも証言をすれば消し飛ぶ話だ。未成年淫行の容疑者なんて立場は。
     肝心の証言者はゔ~~~と唸り、なかなか肯定しようとしない。写っている現場が現場だ。気持ちも分からなくはないが、結論は変わらないのだからこんな問答は早く終わらせてほしい。肘で薄い背中を突こうとすれば、背後から声をかけられた。
    「皆さんで何をしているんですか?」
     三人で顔を突き合わせて一台のスマートフォンを覗き込んでいる光景は、確かに異様だろう。
     近寄ってきた初老の男に向かって竜野が両手を振る。
    「所社長! いや、これはなんでもなくて……」
     そう言えばこいつ社長に対してめんどくさい拗らせ方をしていたな、と思い出す。
     株式会社シゲチカ工業の代表取締役、現社長の所重千加が残した功績は大きい。常識を逸した怪力を生み出せるパワードスーツ『ハントレス』の開発を成功させていた。
     入社した途端、競うように新プロジェクトを立ち上げたこの男が意識していないはずがない。向けている感情は尊敬か嫉妬か。その比重はどちらに偏っているのか。蚊帳の外から眺めている限りでは、本心は窺い知れないままだった。
    「その写真は……?」
     視界に入った途端に社長が眉根を寄せる。竜野が手で遮って画面を隠そうとはしていたが、到底間に合っていなかった。まともな成人であれば、この瞬間を切り抜いた写真の意味するところを理解できるだろう。
     フォーカスの当たった顔を確認するように、二人の顔の間に視線を彷徨わせ、青ざめた表情で口を開く。
    「もしかして、写ってるのはデルウハ殿と、」
    「僕じゃないです」
     食い気味に竜野の声が重なる。
    「助手席に写ってなかったかい?」
    「違います。見間違いです。デルウハ殿は確かに写ってましたけど隣いたのは僕じゃないです」
    「おい!?」
     保身に走った竜野の裏切りにより、話は拗れるばかりである。
     
     
     
     
     最近は自由恋愛の時代だからね。でも筆ヵ谷君のことはあまり悲しませないようにね。
     そう言いながら立ち去った顔は引き攣っていた。どんな認識であの背中が遠ざかって行ったのかはあまり考えたくない。食堂前の通路に取り残された三人の中で、最初に口を開いたのは粉山だった。
    「警察に通報します」
    「待て。いや待ってほしい。完全に誤解をされている」
    「誤解も何も、デルウハ殿の仰っていた竜野新室長殿は否定したじゃないですか」
     ただならぬ剣幕で詰めようとする粉山の様子に、自分の一言で事態を悪化させたのかと竜野が気づく。そろりと両手を上げ、言いづらそうに言葉を滑り込ませた。向けた手のひらは俺へのポーズだ。悪意はなかったと伝えたいらしい。
    「あの、そもそもどうしてデルウハ殿がここまで責められてるんです? この写真と粉山殿って何か関係ありましたか?」
    「助手席に居るのが自分の娘に見えるんだとよ」
    「ああ、むつちゃん! 言われてみれば確かに僕と似てますね」
     こいつには既知の存在だったのか。ハンズアップの姿勢のまま、竜野が続ける。
    「そもそもむつちゃんは何て言ってるんですか?」
    「娘には、まだ聞けておりませんが……」
    「こんな風に周りから証拠を固めるよりも、まず本人に聞けば済む話じゃない? ほら、お父さんだって本音トークは娘とした方が嬉しいでしょ? 今が父娘の親睦を深めるチャンスですよ! こんな都合のいい事しか言わない人の言葉なんかに惑わされてる場合じゃないですって!」
     ぐい、と体を乗り出す。弱いところが露見されれば、そこをひたすらにゴリ押しして是非と言わせる。他企業との会議でよく竜野が使っているやり口だった。
     もし隣に乗っているのが本当に粉山の思い込んでいる通り実の娘だったとして、こんな写真を父親から見せられ素直に口を割る娘がどこに居るだろうか。被害者だろうが加害者だろうが、ただならぬ関係を父親から暴かれて正直に肯定するわけがない。事実の通りであれば否定をするし、年頃の女子としても否定するほかない。どちらにせよ、粉山は「自分じゃない」と告げられた回答を持ち帰る羽目になるはずだ。
     じゃあまた明日むつちゃんに聞いた結果を教えてくださいね! と竜野が両手を下ろし粉山の肩を揉む。悪化させた責務は果たした、とばかりの顔でこちらを見上げているが明日になり無事に解決するまで許すつもりはない。
     帳消しのできない誤認が植え付けられたのなら、それを上回る事実で覆えばいい。
     竜野でなければこいつの娘でもなければいいのだ。世の中には似た人間が三人いると聞く。ドッペルゲンガーだろうが赤の他人だろうが、使えるものは使えばいい。ようやくこんなふざけた疑惑から解放されるのかと息を吐く。
     そうして。
    「むつが認めました。この車に乗っていたのは自分だと」
    「今なんつった??」
     翌日、青い顔で証言を重ねた粉山へ、言葉を失うしかなかった。
     
     
     
     
     
    「お前が、あそこで否定しなければ、ここまで、抉れなかった」
    「だからそれはごめんなさいって言ってるじゃないですか~! 二人がそんなこと話してるなんて知らなかったんですもん」
     ひたすらに愚痴が止まらない。
     粉山には「俺を訴えてもいいが、今年受験なんじゃないのか? 経歴に傷がついてもいいなら構わんぞ」と脅してどこにも駆け込ませないようにした。昨晩、父娘でどんな会話をしたのかは分からないが、こんな話題で碌な会話ができたとは思えない。被害者の立場だった、と言わなかったが故の、粉山の顔色に違いない。
     約束もしていない外回りの予定を打ち込み、静かに存在を消そうとしていた竜野を捕まえ、車の助手席に乗せて道案内を押し付けた。
     本来ならば必要が無いはずのない当事者、粉山むつの通う中学校へ向かうために。まだ下校前の時間だ。ぽつりと人気の途切れた時間帯の松本市内へ車を走らせる。
    「でも粉山殿の言うことも少しは分かるんですよね」
    「はあ?」
    「むつちゃんの通う学校の制服って紺色のブレザーなんですよ。リボンとネクタイが選べるらしいですけど、確かネクタイ選んでたんじゃないかな?」
     そう言って自分のスマートフォンを操作する。すぐ後に見せられた画面には、一人の少女の写真が表示されていた。紺色のブレザーに同系色のネクタイ。気の弱そうな笑顔で自信なくピースサインを向けている。
    「これは?」
    「弊社HPの福利厚生ページに掲載されてる家族ぐるみで親睦会を開いた時の写真でーす。こっちは所さん」
    「それはいらん」
    「言うと思った。でも、僕らちょっと似てるでしょ?」
     竜野が笑ってスマートフォンの画面を消灯させる。なるほどな。色情報だけが残る写真であれば、竜野とむつと、区別がつかないのも分からない話ではない。
     理解できないのはこんな容疑を肯定したむつの証言、それだけだ。知りもしない男と関係を持っている、なんて状況は女子中学生にとってどう考えてもメリットになりやしないだろう。
     何を持ってこの子供は「自分だ」と訴えているのか。
    「お前、粉山の娘と知り合いなのか?」
    「直接知り合ってはないですよ」
    「親しそうに名前呼んでんじゃねーか」
    「所さんがそうやって呼んでたので移っちゃっただけです」
     ああ、そう。戦力外通告か。連絡を取ることができなければ、こちらから赴いて顔を合わせ真意を尋ねるしかない。必要であれば、どんな手段を使っても説得するつもりだった。
    「……あ、犯人まだ捕まってないんだ。指名手配のポスターまで出てるの珍しい」
     ぽつりと呟いた独り言が耳に入る。停止信号に従い車を停めれば、すぐ横には交番があった。常設された掲示板に大判の顔写真が貼られている。
    『重要指名手配 お心当たりの方はご連絡ください』
     太文字のゴシック体の後には氏名や身長体重、当日着ていた衣服から犯行時の足取りまで事細かに記されていた。かなり特徴的な顔立ちだ。一目見れば忘れることもないだろう。
    「ここまで明かされてんのに捕まんねえのか」
     一週間前の一家惨殺事件。平日の真昼間に発生した凶行に、縁故の人間が割り出されるのは早かった。逐一追い詰めるような報道を見て、逮捕も秒読みだと社内で安心するような声を聞いたこともある。しかし市民の期待とは裏腹に警察が追い詰めたはずの犯人は忽然と姿を消した。姿の見えない殺人鬼がこの街のどこかに潜んでいる。そんな状況に街の中は緊迫した空気を醸していた。
    「市内の学校も一時期閉鎖になったみたいですよ。通学路でバッタリ、なんてことがあったらどうしようもないですしね。真中さんとか、お子さん持ちのお父さん達が騒いでました」
     子供の心配はするのに、自分が殺人鬼と遭遇するとは心配しないのもおかしな話だ。徒歩で移動する学生とは違い、車で出勤する社会人ならば安全だとでも言うのだろうか。
     じーっと、こちらの方を見ている竜野に「なんだ」と顔を向けないまま問いかける。
    「デルウハ殿ならサクサクと一家全員殺せそうですよね。運動もできるし頭の切り替えも早いし」
    「この時間なら俺にはアリバイがある。お前の横で会議に参加していた。パソコンに記録されているカメラのデータでも出そうか?」
    「冗談ですって。昨日から僕へのあたり強くない?」
     窓の向こうから掛け声と歓声のようなものが聞こえる。校庭で体育の授業を実施でもしているのか、雑多に聞こえる捉えどころのない歓声は車を走らせるたびに大きくなっていく。目当ての場所はもうすぐ着くようだ。
     校庭を囲む柵が途切れ、施設名が掲げられた門の前でブレーキを踏む。校門の正面でピタリと停めて、降りようとすればドアに手をかけた体を竜野が掴んだ。
    「もしかして、ここでむつちゃんを待つつもりですか」
    「いつ出てくるか分かんのなら、目の前で張り込むしかないだろう」
    「中学校の前で黒スーツ足長成人男性が待ち構えてるなんてカラオケへ行くヤクザにしか許されない行為ですよ! 本人を捕まえる前にデルウハ殿が学校に呼び出されちゃいます」
    「校内に入れるならチャンスじゃないか」
    「ただでさえ悪い心象をこれ以上悪くさせないで!」
     冤罪だと言うのに心象もくそもあるか。こっちには、証言を撤回させるためならどんな手段でも使う覚悟が決まっている。
     えーっとえーっと、と慌てながらスマートフォンを操作した竜野が画面を見ながら前方を指さす。
    「この先! ドトールあります! 粉山殿宅との直線距離上! 歩道に面したカウンター席なら店内から下校生徒の監視ができます!」
    「久しぶりに自分の上司が使える人間だったことを思い出したぜ」
    「久しぶりに自分の部下が目的のためなら手段を問わないことを思い出しました」
     口頭で案内された通りに車を走らせ、数メートル先の店舗を目指す。
     店の裏手にある駐車場へ車両を停めると、竜野がぽつりと溢した。
    「……ジャケット着てくのやめようかな」
     そうぼやいて、後部座席に置いていた自分の鞄を取り中身を漁る。
    「スーツ姿の僕がむつちゃんに間違えられてるわけじゃないですか。学校の近くにいたら、今度も見間違えられたりしそうだし」
     言われてみればそれもそうか。カウンター席に座っている竜野の様子を、道路を挟んだような遠い距離で目撃すれば粉山のように勘違いする生徒もいるかもしれない。
    「こんな厳ついおじさんと一緒にいるって思われちゃうのも可哀想だし」
    「あ”?」
     脱いだジャケットの代わりに、鞄から取り出したベージュの上着を羽織り始める。体の前にあるファスナーを首元まで締めれば、見覚えのある姿になった。
    「なんか……薄くないか?」
     自社製品であるパワードスーツ『ハントレス』。ぱっと見では一般的なスキーウェアのような様相のソレ、と同じであるはずなのに防寒に特化したような厚みがない。防寒着というよりは、マウンテンパーカーのような薄さだ。
    「ハントレスの抜け殻っていうか、試作中の肉抜き品です。中に詰める素材を変えたりとかね、そう言う検討に使うんですよ。この時期の上着にちょうど良くって」
     試作品をたまたま帰りしなに受け取ったのか、会社資産を私用化しているのか、判断に悩む。
    「なんですか、その目? 別に仕事をこっそり家に持ち帰ったりしてるわけじゃないんだからいいでしょ」
    「俺は何も言っていないが。家に帰ってからも仕事をするような、そんな奇特な奴がいるのか」
    「責任感ある人だとやらかしがちですね。あと気が弱い人なんかが、バレなければいいってサビ残でコンプラやらかすんですよ」
     そりゃ会社備品の無断持ち出しよりもコンプライアンス違反の方が問題にはなる。話題のすり替え。より重度のインシデントを持ち出して自分の行いを霞ませる。口が立つ上司、というのもほどほどに厄介だ。
     車から降りた姿をちらりと見やる。ラフな格好になるとより幼さが際立つ、というのは本人には言わない方がいいのだろう。未成年に手を出した疑いをかけられている自分にとって、若く見える男がそばに居るのも不利ではないか? と今更ながらに思う。
     人の杞憂を微塵も感じ取らないまま「とりあえずトースト類全部でいいですか?」と注文カウンターの前でいまだ謝罪の意思を示している竜野、に向かって「おう」と応えた。
     
     
     
    「むつちゃん、デルウハ殿のこと好きになっちゃったんですかね」
     三つめのサンドに齧り付いたところだった。耳に入った言葉へ、モグ、と咀嚼していた口が止まる。
     下校するブレザー姿の学生をカウンター席のガラス越しに眺めながら、何の気なく竜野が言葉を続ける。
    「さっきからずっと考えてるんですけど、『デルウハ殿と車に乗ってホテルに行った』のを女の子が肯定する理由ってもうそれしかなくないですか? 嘘ついて注意を引きたい的な」
    「出会ったことすらない男にそんな感情を向けるか?」
    「今は情報社会ですよ。顔写真くらいなら簡単に手に入ります。僕ですら、むつちゃんの写真を探すのなんて簡単にできるわけだし」
     車内で見せられた記念写真。赤の他人でも容易に入手できるものであるのは、ついさきほど目の前で見せられたばかりだ。はい、と竜野がスマートフォンを机の上に置く。点灯したままの液晶には、昼食を取る自分の顔が表示されていた。
    「……これは」
    「試作部に長髪で一つ結びの人いるでしょ? 彼のインスタでーす」
    「肖像権侵害だ。すぐに消させろ」
     画面を縮小させると中央に唐揚げの乗った定食が現れた。途端に、大写しにされていた自分の姿が豆粒ほどの小ささになる。
    「こういうご飯の写真にデルウハ殿が映り込んじゃうみたい。あの人いつも昼食の写真撮ってインスタにあげてるんですよ。画面構成の一割以下なら侵害に当たらないんじゃなかったっけ?」
     画面の上で指を横に滑らせれば、手をつけられていない食事の写真が流れていく。半数以上の写真にピンクの頭髪が写り込んでいるのが確認できた。叩き割ってやろうか、と思ったところで竜野がベージュ色のジャケットのポケットへしまいこむ。
    「どこに出会いがあるのかも今どきは分からないし、デルウハ殿の外見って女ウケいいし、何かの写真を見て一目惚れされた可能性もあるくないですか?」
     何が愉快なのか、にっこりと目を細めてこちらを覗き込んでくる。知りもしない人間から一方的に好意を向けられている状況の、どこに楽しいものがあるのか。仮にその可能性があったとして、年齢差を考えてはゾッとする。より最悪な方向へ話が転がっていく予感しかしない。
    「こんなことに巻き込まれるくらいなら、同僚の娘からは嫌われている方がよっぽどマシだ」
     ため息と共に吐き出した言葉へ、竜野が閃いたように声色を跳ねさせる。
    「それ!」
    「どれ?」
    「嫌われてるってやつ! 当たりかもですよ!」
     好かれているのでは、と推測した後に真逆の話を持ち出され、発想が飛ぶ奴だなと思う。食べ切れていないままのサンドが目に入り、とりあえず一口齧ることにした。
    「だって今、デルウハ殿めちゃ困ってるじゃないですか」
    「この虚言は俺を嫌っているむつが俺を陥れるためにしている、と?」
    「女子中学生を連れ回したなんて、立場のある社会人として致命的な状況でしょ。下手したら社会復帰だってできなくなるし。もしむつちゃんに嫌われてるなら、この動機だって筋が通ってますよ」
    「なら、なんで俺は会ったこともない子供にそこまで嫌われてるんだ?」
    「粉山殿から散々仕事の愚痴でも聞かされたか……」
     愚痴られるほど仕事には関わっていないはずだ。あるとするならば、この上司の無茶なリテイクの回数じゃないだろうか。
     名探偵の言葉を待っていれば、うーんと唸りながら首を傾げ、数分前の単語を繰り返した。
    「あるいは、大事な友達がデルウハ殿に一目惚れしちゃったから嫉妬した、とか? 出会いはどこにあるのか分かんないですからね」
     顔だけなら女ウケもいいんだし、と笑った顔はさっきも見たのだ。、
     知らない間にそんなややこしい人間関係へ巻き込まないでほしい。早いところ渦中の人物から真相を聞き出さなくては、また別の推理を嬉々として語り出すのだろうか。四つめのサンドをコーヒーで流し込んだ時だった。
    「むつ! こんなとこにいたの!?」
     背後から子供の呼び声がする。近い距離で叫ばれた、と思った時には、小さな手が竜野の肩を叩いていた。
    「え?」
    「あれ?」
     振り返った竜野の顔を見て、互いに目を丸くしている。声をかけたのは、毛先が跳ねたショートカットの少女だった。紺色のブレザーにネクタイ、ボックスプリーツのスカート姿は粉山むつと同じ学校に通う生徒だろう。
    「あ! ごめんなさい。後ろ姿が友達に見えちゃって……」
     腑に落ちないものを声に滲ませながら、謝罪の言葉を口にする。
     おかしい。
     こうはならないはずだった。
     竜野は、見間違えられないようにと、わざわざ学生服と似ているスーツは車内へ置いてきたのだ。身に纏っているものは制服とは似ても似つかない、ベージュのマウンテンパーカーであるというのに。
     何故、この姿の竜野を見て『むつ』と声をかけることになるのか。違和感が脳髄を覆う。何かを見落としているような焦りがじわりと燻ろうとした時、竜野が口を開いた。
    「ちょうどよかった! むつちゃんのお友達、ですよね?」
     さらりと、人好きのしそうな笑顔に切り替えてそう問いかける。
    「待ってる間にスマホの充電が切れて連絡取れなくなっちゃって。まだむつちゃんって学校にいます?」
    「……あんたむつの何?」
    「僕ら従兄弟なんです。結構似てるってみんなに言われるんですよね」
     よくもここまで滑らかに嘘を重ねられるものだ。両名を知る人間からこうも見間違えられていては、似ていると自称するのにも抵抗は無いだろう。似ているのは他人の空似であって、親族でもなんでもなくとも。
     自ら呼び間違えた状況は信憑性を増すのか、同級生の従兄弟、に少しは心を開いたらしい。
    「今日はもう帰っちゃったかも。私もむつを探してて――」
    「よみー! むついた~?」
     背後から、またもう一人の少女が近づいてくる。大きな三つ編みを肩に垂らし、ベタりとのしかかるように、よみと呼ばれた少女の背中に寄りかかった。
    「もう来週まで時間も無いしさあ、お父さんに僕らから直談判してみる?」
    「どうせ昨日説得できなかったんでしょ~? それが気まずくて避けてんじゃないのお?」
     追いつくように同じ制服の少女達が集まってくる。総数五名、竜野の姿を目にして「あ!」と声をあげた。
    「え? 何、むつのお兄さん?」
    「違う」
     竜野が口を開くよりも早く、よみが問いかけを両断する。
    「ここには居なかったからもう行こ。明日学校で聞こうよ」
     騒ぐ友人らを遮るようにぐいぐいと背中を押して、立ち去るように促した。嵐のように現れて同じように去ろうとする子供らの群れへ、あっけに取られる。こちらの都合など考慮もせず勝手に話が進んでいくのを、中学生とはこうまで騒がしい集団だったか、と遠巻きに見守った。
     急な解散にポカンと口を開けたままの竜野へ、よみが振り返った。
    「中学校ってスマホの持ち込み禁止なの。使えるなら私だってむつに連絡を入れてるわ」
    「そうなんだ、知らなかっ――」
    「親戚なら、そんなことは本人から聞いてるんじゃないの?」
     ピシャリと、跳ね除けるような声だった。
     
     
     
     
     
     車内に響く暗いため息が鬱陶しい。
     食べ終わったトレーを返してはひと息、店舗を出てはひと息、車に乗り込んではひと息、帰り道を走らせている間にもうひと息。ドアガラスに額を押し付けて虚空を見つめたまま、竜野が重たい息を吐く。
    「同僚の娘には嫌われた方がマシ、とか口が裂けても言えませんよ……もう女の子が怖い。何言われるか分かんないし何考えてるか分かんないし」
    「全く同じことをあっちも思ってるぞ」
    「僕がこうすることで喜ばない人間は居なかった……」
     そりゃ社内にはお前が存在するだけで喜ぶ人間ばかりだからな。歴代の天才をもてはやす社員で固めたチームの居心地は大層良いものだろう。
     あれほど分かりやすく他人から拒絶された経験がなかったのか、関係を断絶するようなよみの声が相当怖かったらしい。人から好かれて生きてきた人間というのも、打たれ弱く育つのか。取り繕うように表面だけを整えた嘘も笑顔も、全て逆効果だったようだ。
    「もうちょっと仲良くなれればむつちゃんの情報を引き出せたかもしれないのに……」
    「子供ってのは大人以上に嘘に目敏いからな。建前、をまだ理解していないんだ」
    「それにしても取りつく島もなかったし、本人からも話を聞けてないし、とんだ無駄足になりましたね」
    「いや、そうでもない」
    「満腹までご飯が食べれた、とか言わないですよね?」
    「あの中に俺のことを知ってる奴は一人も居ないことが分かった」
     竜野が披露した推理はどれもこれも的を外していた。
     あの五人の中で誰一人として、こちらを注視する人間はいなかった。好かれも嫌われても居ない。そもそも自分らは本当に一度も、あの子供らもむつに至っても、電子の中でさえ認識しあったことがない。ただ無関心の他人でしかなかった。
    「推理も外すし、よみちゃんには嫌われるし、デルウハ殿に許してもらえる気がしない」
    「今日はお前のおかげで助かったと思ってるよ。昨日の件はチャラにしてもいい」
     本心で答えたつもりだが、隣から疑うような視線を向けてくる。
     粉山むつは意図的に自分との接触を避けている。明日同じように張り込んだとしても、裏をかいて逃げるだろう。自分の容姿の事が目立つことは認識している。互いに面が割れてしまっている状況では、こちらが雑踏の中に紛れ込むむつを探すよりも、向こうがこちらのことを見つける方が早い。むつは自分がしていることを自覚した上で、逃げている。それが分かっただけでも収穫だ。
     近寄ろうとすれば逃げられる、のであれば、本人からこちらに近づかせるように仕向ければいい。
     交差点の手前でハザードを焚き、車両を停止させた。
    「このまま家まで送ってくれるんじゃないんですか?」
    「竜野、ここで降りろ」
    「全然チャラになってないじゃん」
    「策がある。こことお前が、この交渉の要だぜ」
     
     
     
     
     
     
     DLしたばかりのSNSに一件の通知が届いていた。送信者と一対一のやり取りができる機能のメッセージ欄に返信が届いている。
    『明日お時間いただけますか?』
     こんなところも親子で似るのか。『昼飯の後でよければ』と父親に伝えた言葉を同じように打ってメッセージを返す。
     正午を回ってから大盛りのうどんと小皿に乗せられた天ぷらの盛り合わせを平らげ、会社の正面玄関を出た。自動ドアの先にあるタイルが並んだアプローチ。白い床の上に、小さなローファーが揃ってこちらを向いている。
     粉山むつが、両手を体の前にして鞄を抱え、こちらを見ていた。
    「初めましてだな」
    「取り消してください」
     近寄って片手を差し出せば、受けることもしないまま口を開く。
    「早くあの写真を消してください」
     一度目よりも語気を強くして同じ言葉を繰り返す。挨拶もない。初対面の気遣いもない。それほどまでに目の前の子供は焦っている。
    「そうしてほしいなら、そっちも証言を取り消してくれないか」
     ふるふると横へ首を揺らした。小さな肩を小刻みに震わしている様子が見える。
     粉山むつは、父親から聞いた話や竜野から見せられた写真よりも、実物の方が更に幼くか弱い存在に見えた。こんな風に大人と面と向かって対峙などできないような、守られるべき存在。
     これは、目の前にいる体は、ただの子供なのだ。
     大人から怒られることが怖い、そんなあまりにも単純な考えで動く体。更に言えば、知らない大人よりも、肉親から叱られることが世界で一番恐ろしいことだと考えている。
     その恐ろしいことが防げるならばと、目についたチャンスへ何の考えもなく無鉄砲に飛びついた。粉山むつはただの子供に違いなかった。
     交わされなかった握手に、ため息をついて手を引っ込める。単刀直入のやり取りで済むのなら話が早い。
    「粉山が持ってるはずの試作品はお前が持ってるんだろ? 証言を取り消してくれるなら、それを誰にもバレないようにこっちで預かってもいい」
     聞こえた言葉に目を見開いたむつが、両手で抱えた鞄を更に身へ寄せるように強く抱え込む。そんな物を内々的に処分するだけで終わることを、どうしてここまで引っ掻き回してくれるのか。
    「……どこまで知ってるの? 誰かから、私の話を聞いた?」
    「このことに気付いたのは俺だけだ」
     そう告げれば、少しだけむつが緊張を和らげた。
     ――造ったやつが早々に壊れちゃったらしくて。もう一回作り直してるらしいんです。
     ――別に仕事をこっそり家に持ち帰ったりしてるわけじゃないんだからいいでしょ。
     ――気が弱い人なんかが、バレなければいいってサビ残でコンプラやらかすんですよ。
     竜野の言っていたセリフの数々を思い出す。
     本人は自覚が無いだろうが、竜野からさらりと告げられる要望は試作部にとって負荷の高いものだった。それをこなそうとすれば就業時間内では終わらない。やむを得ず、規定違反だと理解していても仕事を家に持ち帰っていたはずだ。持ち帰ったはずの試作品をいつの間にか紛失してしまったと気付いた時には頭を抱えただろう。取り急ぎ破損したことにして、「もう一度作り直す必要がある」と竜野へ納期の延期を申し出た。
     先週の粉山に起こった不幸はこんなところだ。
    「父親が自宅へ持ち帰ったパワードスーツの試作品を勝手に持ち出し、巷を騒がせている凶悪な殺人鬼を捕まえようとしている。なんてことは誰も、気付いちゃいないさ」
     そしてその証拠とも言えるものを自宅に置いていては、いつ発見されるか分からない。見つかれば父親に怒られる。むつは、肌身離さず持ち歩くしかなかった。苦し紛れに出まかせで口にした粉山の言葉通りに、ジャケットは皮肉も本当に破損しているからだ。
    「だから、〝自分と似た背格好の人物がその試作品を着て外にいる写真〟なんかが出回っちゃあ、お前は困るんだよな?」
     むつの同級生が竜野の姿を勘違いしたのは、一度でもむつがこのジャケットを着用している姿を目にしたことがあったからだ。ナイロンでできたベージュのマウンテンパーカーならどこにでもある。ただし、銅と二の腕を分割するように太いラインが入った自社製品のデザインは珍しい。髪色や顔立ちよりも、見間違えられたのはこの衣装のせいだった。兄と例えられたのも衣服を共有する関係かと想定したからだろう。
     むつの同級生が口にした学校名や氏名でインターネットを検索をすれば、SNSのアカウントが特定できた。赤の他人でも、会ったことのない人間の情報は簡単に手に入る。あとは芋蔓式に知人の電子情報を辿るだけだ。それだけで、数日前から更新の止まっている粉山むつのアカウントは簡単に割り出せた。
    「先週起きた国府町の交差点での横転事故。横転するほどの衝撃のはずなのに、運転手に被害が無ければ加害車両も無いなんておかしな話だ。動かしてもいない車が勝手に転がるはずがない。怪力を持つ誰かが、持ち上げて動かしたりしない限りはな」
     唯一、それができる手段がある。株式会社シゲチカが産んだ奇跡の傑作。常識を逸出した怪力が発露できるパワードスーツ。企業向けパンフレットの写真ではトラクターを持ち上げていた。乗用車であれば、試作品であっても容易に持ち上げられたはずだ。
    「あの日タクシーを横転させたのは、ハントレスのジャケットを着たお前だろ。その時に無理な使い方で壊しちまったんだ」
    「……うん」
     断定的な問いかけに対し、むつは気まずい顔をしながらも頷いて肯定した。
     昨日、竜野をその事故現場の交差点で降ろし、ハントレスのジャケットを着せたまま写真を撮った。
     あえてはっきりとは映らないように、夜間の暗がりで人相が分からないように、思い込みで誰かが勘違いするように。どの角度なら竜野とむつが最も類似するのかは、以前粉山から見せられた写真で理解していた。あとはその条件に合うように、作為的にフレーム中へ切り取ればいい。写真の誤認で酷い目に遭ったことを、同じようにやり返す。
     メッセージを受け取ったむつは困惑したはずだ。父親の目に入れば勘違いされる。本当の自分が写っていなくとも、ジャケットを使用した可能性に紐づくようなことがあっては困る。
     スマートフォンで撮影した竜野の写真をむつのアカウントへ送付すれば、狙い通り自ら姿を現した。
     ごにょ、と口の中で言葉を躓かせながら、話し始める声へ静かに耳を傾ける。
    「えぇっと……お父さんが、夜に外出するのを許してくれなくて……例の殺人犯が捕まってないから、子供だけで外にいるのはダメだって。だから犯人が早く捕まれば良いんだって、そう思ったの」
     一週間前に起きた凶悪犯罪。いまだ逃走を続ける犯人の情報はパタリと途絶え、吉報が訪れる予感はない。
    「お父さんの会社がパワードスーツの開発をしているのは知ってたから、こっそり使わせてもらおうと思って。持ち出した日にちょうど犯人の姿を見つけたんだけど、雨が降ってたから他の人からは顔が見えにくかったみたい……あの時、今すぐ捕まえないと逃げられると思った」
     目立つ容姿は子供であっても覚えやすかっただろう。小柄なむつだけが傘の下から顔を覗くことができたとして、こんな子供に何ができるのかと警戒もしなかった犯人の様子が想像できる。
    「――Vencyのライブ、みんなで行くって約束したの。だから、こうするしかなかったのよ」
     気弱な雰囲気が、その言葉を口にして薄まった。何よりも大事なものだと、そう訴えるような視線が刺さる。
     最も理解できないのはその動機だった。
     Vencyと呼ばれるアイドルグループが来週バンドライブを開催するとは耳にしたことがある。同級生達の会話から想定はしていたが、本人の口から聞いた今になっても信じがたい。そんな要望のためにここまでのことをするとは。つくづく子供の思考回路とは分からない。
     友人達とライブに参加したくとも、夜間の外出は禁止されている。ならば元凶となっている殺人犯を捕まえればいい。そう考え親の物を持ち出し、使用した際に誤って破損してしまう。父親に話しかけられ、犯行がバレたのかと思えば、まるで見当違いな写真を見せられる。
     見せられた写真には、該当の時間に制服を着た自分が写っていた。むつからしたら、この勘違いに乗らない手はない。車で連れ回されたのなら、事故現場である交差点にも立ち寄れず、タクシーの横転事故にも関わっていないと言い張れる。父親が信じれば信じるほど、自分は怒られることがなくなるのだ、と、この単純な脳みそはたどり着いた。提示された写真が男女関係を深読みさせるものだとは一切理解もしていないせいで、父親の顔をあそこまで青ざめさせることになったのだが。
     おおよそ想定していた通りだった結末に額を抑えて息を吐く。
    「あとは犯人を警察に差し出すだけか。着いてこい」
     タイルの上を進み、従業員駐車場を目指す。自分の後ろを小さな歩幅のむつが必死に着いてくる。
     友人とのライブに参加できる、と確定するまでこいつは証言を撤回しないだろう。脅して無理やり否定させれば、それこそ後からどんな風評が着いて回るか分からない。であれば、夜間の外出を禁止にさせられている元凶、殺人事件の犯人が捕まれば良いだけだ。
     通勤に使用している黒いSUVに乗り込み、隣へむつが座るのを待ってから口を開く。
    「それで、犯人はどこにいるんだ? お前が捕まえた犯人の場所を教えてくれれば、後のことは俺が始末してやる。それでこの件は終わりにしよう」
     シートベルトをカチリと締めると、むつが困った顔をした。
    「……もう居ないわ」
    「は?」
    「だから困ってるの」
    「逃げられたのか?」
    「逃げられてはいなんだけど、居なくなっちゃったから、警察に説明ができなくなくて……」
    「怪力で捕まえてどっかに監禁しているから警察への言い訳が上手くできない、じゃないのか?」
     捕まえることはできても、子供の身分で突き出せば父親から勝手に借りたパワードスーツの説明をする羽目になる。壊れたジャケットを差し出せば叱られる。その勇気がないからここまで困っているのだと、そう予想していた。
     むつは小さな手を口元に当て、粉山から聞いていた通りの癖を目の前で見せてから首を傾げた。
    「タクシーで押し潰しちゃったから、ぺちゃんこに潰れてこの世から居なくなっちゃったの」
     そこまでやれとは言っていない。気がついたらむつと同じように自分の口元を手で覆っていた。
     尋常でない怪力が出せるのだ。一般車両の重量は約千キロ。持ち上げた車を逆さにした状態で振り下ろした時の衝撃とは、一体どれほどのものだったのか。
    「骨や、血はどうなった?」
    「よく分からないけど、もう一度車を持ち上げた時には血溜まりしか残ってなかったわ……多分粉々に砕けたんだと思う」
     道路と鉄板に挟まれた衝撃は逃すところがなくなると人間の体を粉にするのか。密閉された中で爆発したようなものだと思えば、木っ端微塵となった死体に個人が識別できそうな証拠が残されている可能性は低い。
    「大きな血溜まりができてたけど、それも大雨ですぐに下水溝へ流れてて……」
     ―― 昨日まで毎日続いてた大雨も、明日からしばらくは快晴だから洗濯物がよく乾くそうです。
     竜野が読み上げた天気予報を思い出さずとも、ここ数日が土砂降りの大雨だったことは身に沁みて覚えている。道路の上に散らばっていたかもしれない骨や肉片も、全て綺麗に排水溝の先へ流れ切ったことだろう。
     これ、詰んでねーか?
     こんなに嬉しくない完全犯罪があるのか。凶悪犯罪は実行者が捕まらなけば解決には至らない。解決の報道がされなければ依然として街は警戒態勢が続き、粉山は娘の夜間外出を認めないだろう。
     粉山むつは、ライブに行けなければホテルへ連れて行かれたという証言を取り下げない。
     いっそ、犯人によく似た人間の写真をSNSへでっち上げて、遠く離れた県へ逃亡したと思い込むように仕向けようか。そうしたところでこちらに足がつき下手に炎上でもすれば目も当てられない。
     一体、この世から存在が抹消された犯人を、どうやって警察へ突き出せば良いのか。
    「ずいぶん可愛い子を乗せてますけど今からドライブデートですかぁ~?」
     呑気な声が、換気用に開けていた運転席側のサイドガラスから滑り込んでくる。ご機嫌な顔でコンビニ袋を手に持っている姿は、我らがエースの竜野新室長殿。
    「殺すぞ」
     咄嗟に本音が出てしまった。「おー怖」と肩を竦める手に引っかかったままの白い袋を指摘する。
    「飯ならさっき食堂で食ってたんじゃないのか」
    「僕は誰かさんみたいに一日に五食も食べないでーす。間食用のおやつでーす。一応デルウハ殿のもありますよ」
     聞こえた言葉に窓を開ければ、ドアフレームに身を乗り出し車内に向かってにこやかに手を振った。
    「むつちゃん初めまして~。お父さんからよくお話しを聞いてますよ」
    「こんにちは……」
    「よみちゃんは元気にしてる? この前たまたまお店で会って、むつちゃんのこと心配してるの聞きましたよ」
    「……そう、ですか」
     おおよそ、仲を取り持ってもらうか、今後不利益にならない程度の関係性にしておきたいと考えているに違いない。この街のどこかで、またピシャリと拒絶されることがないようにと手を回そうとしているらしい。
     そんな思惑とは違い口にした名前がどれほどむつを落ち込ませるのかを、竜野は知らない。
     ものごとが解決せず、その友人らと顔を合わせられないからこそ、むつは困っているのだ。
     手渡された菓子を受け取った後、薄いビニールの中には細長い紙が残っていた。
    「その封筒は?」
    「そうそう、聞いてくださいよ! Vencyのライブ、アリーナの最前列だったんです! やばくないですか!? さっきコンビニで発券して、もう嬉しくて仕方がなくて~!」
     封筒の中からアイドルグループの名称が記載されたチケットを取り出し見せつけるようにしてかざす。どこに何が書いてあるのかもよくわからないが、堂々と指に挟んでいる様子から希少価値の高い紙切れらしい。
     竜野に見せられた二名分の入場チケット。無言で指を差してむつの方へ振り返れば、しっかりと首を縦に振っていた。嬉しそうに口角を緩ませている竜野へ向き直り、チケットの端を掴む。
    「おい竜野。それ筆ヵ谷と行く予定なんだろ? もうデートの約束は取り付けたのか?」
    「いや、席番が出てからにしようと思ってて。変な席だったら誘っても最悪じゃないですか」
    「そうか、良かった良かった。あいつのことはあまり悲しませるなと、つい先日社長に言われたばかりだったからな」
    「ですよね~! これは筆ヵ谷さんも喜んでくれますよ……で、なんでデルウハ殿の指はチケットを掴んでるんですか?」
    「むつの父親がな、子供だけで夜に出歩くのを禁止してんだよ」
    「最近物騒だから仕方ないですね」
    「つまり子供だけじゃなかったら、大人が側にいるなら良いってことだよな?」
    「ええ、それはそうだと思いますけど……ん?」
    「これで全部まるっと解決すると思わないか?」
    「待って、指離して! 今アリーナ最前って言ったの聞いてましたよね!? その時キョウミネーって顔してましたよね!? 価値の分からない人に譲るのマジで無理なんですけど!?」
    「むつ、ライブの開催日時はいつだ?」
    「来週……六月一九日の水曜日……」
     奇しくも自分の誕生日だと思い出す。妙な記念日になるようだ、と思いながら最近誕生した生き物が頭をよぎった。
    「茶臼山動物園のウォンバットに子供が産まれたって言ってたよな。あいつとはアレ見に行ってこいよ。この前ウォンバットが好きだって言ってたぜ」
    「なんで僕が知らない筆ヵ谷さんの情報を持ってるんですか!?」
     気が緩んだのか竜野の指から力が抜ける。あ! と青ざめた顔で叫んでいたが、既に遅い。譲られたチケットをスーツの胸元にある内ポケットへしまい込んだ。
     左隣にある助手席へ向き直り、手を差し出す。
    「ちょうどお前の父親とライブ観戦がしたいと思ってたんだ。来週のその時間に俺が待ってるって伝えておいてくれるか? 場所が分からんかもしれんから、お前が一緒に着いてやってくれよ」
     デートの約束を口にすれば覚悟を決めたむつが、小さな手のひらで握手に応じた。
     一家を惨殺させた殺人鬼は未だに捕まっていない。
     姿の見えない犯人に「近隣住民の方はご注意ください」とアナウンサーは繰り返し告げている。けれどむつは父親に「お父さんの気を引きたくて嘘をついたの」と謝罪をし、何の疑いもなく粉山はその台本を信じ込み、最悪な疑いを裏付ける証言は撤回された。
     むつが否定したのならば果たして誰が助手席に乗っていたのかは、もはや関心の外だろう。いつか何かの折に問われることがあったとして、竜野とむつ、二人ともから「自分では無い」と言われているのだ。姿の見えない三人目のドッペルゲンガーでもでっち上げようか。
     
     
     
     
     六月一九日の水曜日。朝のニュース番組では、どこか悪魔に似た響きを持つ有袋類の赤ん坊に、アンドレアと名前がついたことを報じている。テレビから流れるアンドレアの生誕を祝う人々の声を聞き、八つ当たりになってねーぞと苦笑しながらトーストを齧った。
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