今際の際自分に残された時間があとどのくらいかはわからないが、いっそ僅かであって欲しい。
喘鳴を伴う呼吸は煩わしく、微熱が続いていた。
人は死が近くなると昔の事をよく思い出すと聞いたことはあったが、成程、こうも日がな天井か窓の外を眺めるしかやることがなければ必然的に昔の事を思い出しもする。教皇の三分の一程も生きてはいないが、自分にも蘇る記憶はある。
私は苦痛を伴う暇を持て余していた。
*
あの日の事はよく覚えている。
新しい仕事として遠目に示された双子座の候補生。
外界と隔てられたこの小さな集落では、知らない顔の方が珍しくはある。だが、それを差し引いてもその少年の存在は誰もが知っていた。
同年代と比較して小柄な事もあってか膂力は多少劣ってはいたが、それを補って余りある技術と運動センス、何より聡明さが彼には有った。座学の成績も良く、頭の回転も早い。通常、人間は極度の身体的・精神的負荷がかかっている状態では思考力も判断力も低下する。たとえ聖闘士といえど例外ではない。しかし、直情的な振る舞いをする者が多い聖域において、年齢にそぐわない彼の理知的な行動は目を見張るものがあった。
「アスプロスの指導役でしょうか…僭越ながら、自分には難しいかと…」
私は彼より一回り年上ではあるが重ねた修行の甲斐も無く、未だ聖衣を頂くには至らない。確かに、そこらの訓練生や雑兵よりは能力を認められてはいるが、身の程はわかる。最早自分が彼に勝っている事など体格と膂力くらいしかないのではないだろうか。
(それは上官も同じだろうが…)
「…いや、違う。お前の仕事は監視だ」
「は…」
言葉の意味は解ったが、仕事の意義が解らなかった。浮かぶ疑問を制したのは上官の次の句だった。
「アスプロスには凶星が付いている。それの監視だ」
生きる意味のない双子の弟だ、とも彼は付け加えた。
にわかには信じがたい話だった。
しかし、それからしばらくして私は彼を目の当たりにした。
アスプロスと体格も髪色も瞳の色も殆ど同一の少年だった。強いて言うなら肌の色の差くらいだろう。特殊な仮面で顔の大半は隠されていたが、伺える目元からはアスプロスと同様の整った容姿であろう事が容易に想像できた。
(なるほど…双子だ…)
呆けていると、上官は少年に躊躇なく拳をふるった。
「貴様 人前に姿を見せるなとあれほど言っておいたろう!」
無抵抗だった少年―デフテロスの身体は石壁に打ち付けられた。脆くなっていたとはいえ、大きな音と共に崩れる壁は衝撃の強さを物語っていた。普通の人間なら骨の一つや二つどうにかなっていただろうし、意識を失っていたかもしれない。だが、立ち上がる彼は怯える様子もなく、割れた額から滲む血を拭おうともせず、何も言わずに静かに怒りを湛えた瞳で上官を睨み付けた。
「…なんだその目は」
激昂した上官は鞭を振り上げた。
聖衣由来のものを除いて聖闘士に武器の使用は認められていない。それは雑兵も同じだ。つまり上官のそれは武器ではなく、牛馬を働かせる為の道具としての鞭だった。それを向けることは彼の人間としての尊厳すらも否定していてるようだった。
鍛え抜かれた筋力によって振り下ろされた鞭が大きくしなる。
瞬間、弟の盾のようにアスプロスは現れた。鞭は彼の肩を抉るように裂いたが、彼もまた怯む様子もなく「弟に手を出すな」と鋭く言い放った。
牽制する瞳は大きく見開かれ、激しい怒りが浮かんでいたが、けして声を荒げる事はなく冷静だった。
上官の言葉は双子座の候補生としてのアスプロスへの期待が滲んではいたが、その弟であるデフテロスの存在は悉く否定した。
恐らく、こんなことは一度や二度ではないのだろう。彼らの中には暴力に曝される恐怖ではなく確かな反発があったが、反撃すれば不利な状況になることを理解している。だからああしてじっと耐えているのだ。
(哀れなほどに、賢い…)
私は彼らに好感を持った。
夕過ぎ、彼らの住居の扉を叩いた。
「何か?」
「軟膏と包帯だ、よければ使ってくれ」
差し出した包みを怪訝そうにアスプロスは受け取った。
「…新しい監視の方ですね」
「それは煮沸もしてある清潔なものだ。安心してほしい」
彼はため息を一つ吐いた。
「あの男が鞭をふるった時、貴方は苦虫を潰したような表情をされてましたね。もう少し、表情を繕う技術を身に付けた方が良いと思いますよ」
少し意地悪そうに微笑んだ彼は年相応に見えた。
「これ、ありがとうございます、ですが、今後こういった気遣いは無用です」
双子座の候補生のアスプロスと言葉を交わしたのはそれが最初で最後だった。
私の気遣いは彼にとって不必要な事だったのかもしれないが、もしかしたら、その言葉は私への気遣いだったのかもしれない、そう思ったのはこの日の事が露見し上官の拳を受けた時だ。
「貴様、余計な事はするものじゃない」
「申し…訳ございません」
この人にもこの人なりの信念が有っての言葉と行動なのだろうが、さすがにこの一日で辟易した。
双子の秘密を知ってしまった自分は恐らくこれからずっとこの役目、もとい上官からは逃れられない。そう思うと腹の底からうんざりした。
ところが、その任が解かれる日は早々にやってきた。間もなく私が血を吐いたからだ。
他者への感染の恐れがある不治の病に冒されていた私は聖域の外れの療養所で死を待つばかりの身となった。
僅か二ヶ月の短い在任期間だった。
*
双子座の聖闘士が決定して幾日か経った頃、かつての上官が命を落とした、と定期看護の者から聞いた。
屈強な男であったはずだが、あろうことか野犬に食い散らかされた遺体は眼も当てられず、任務から戻った双子座の聖闘士は一言「おかわいそうに」と言ったそうだ。
その日、思いがけない来訪者が現れた。
「…アス…プロス様…」
先頃話しに上った双子座の聖闘士だった。
最後に姿を見たのはいつだったか、成長期なのだろう随分身長が伸びていた。
(これでは、聖衣の調整が大変だ…)
「辛そうですね、そのままで結構です。すぐ行きます」と彼は薬と本を差し出した。
「これは…」
その本は私の郷里の言葉で記されたピカレスクだった。故郷の話など彼にしたことはない。というか言葉を交わしたのもあの一度きりだ。
「いつぞやの礼です」
(律儀なことだ…)
暇を持て余していた自分にとってこの上ない慰みだった。
「ありがとうございます…双子座、ご就任、おめでとうございま」
最後の言葉は血液混じりの咳に変わり咄嗟に布で口を押さえた。
布に付着した気泡混じりの鮮やかな赤を認めた時、ふと、上官の死を思い出した。
「監視の…班長が、亡くなった そうです」
「ああ、聞いています。おかわいそうに…」
「不謹慎ですが、私は……応報、とも思ってしまいました」
「それは…不謹慎ですね」
応える彼は、綺麗に笑ってみせた。
あの日、表情を繕う技術を身に付けた方がいいですよ、と少し意地悪そうに微笑んだ少年の面影はそこにはなかった。
「白湯を入れましょうか」
「ありがとう、ございます…ですが、お気持ちだけで十分です。長居は御身に障ります」
もう二度と会うことはない双子座の聖闘士の後ろ姿を開け放した戸口から見送りながら上官の死が頭を過った。
聖域に野犬はいない。それは外界を隔てる結界がここには張り巡らされているからだ。
しかし、
偶然綻んでいた結界の穴から、
偶然野犬が侵入し、
偶然近くにいた元上官に襲いかかった。
(それだけの事だ)
その後、新しく加わった監視の闘士は3ヶ月もしない内に落盤事故で命を落としたそうだ。かつての上官同様、デフテロスに度々暴力をふるっていた事は、見舞ってくれた昔の同僚から聞いた。
正直なところ真相等はどうでもよかった。
喘鳴を伴う呼吸はいよいよ苦しく、三日前からの高熱は最早下がる気配がない。
意識を手放す直前、信仰心の薄い自分の脳裏に浮かんだのは「不謹慎ですね」と綺麗に微笑む双子座の姿だった。