2023.8.18 利き手が使えなくなると一番不便なのは何だろうか。多くの人はトイレと言うだろう。それも大のほう。思う存分尻を拭けない不便さといったら、この世にウォシュレットがあることを降谷は心から感謝した。ウォシュレットという偉大な文明を築いた僕の日本を僕は護る。
「いや、降谷さん。ウォシュレットを讃えてる場合じゃないでしょう」
風見は何ともいえない表情で憂いた。
「大丈夫なんですか、それ」
「何が」
「限りなく犯罪に近い気がするんですが」
「うーん。ちょっと過剰な介助だとは思う」
「監視とか軟禁みたいじゃないです?」
「確かにそう見えなくもないかな」
「そんな呑気な」
「どうもあいつ、僕から目を離したくないっぽい」
「大丈夫なんですか、それ」
「実害はないぞ」
実害があってからじゃ遅いでしょう、と風見は嘆く。
「赤井捜査官は降谷さんのトイレの世話までしようとしたんですよね?」
「流石にびびった」
朝、降谷が用を足しているトイレの扉越しに「手伝うか」と問う赤井に降谷は「こいつ正気か?」と思ったものだ。一体どんな心境の変化があったらさして親しくもない同年代の男のウンコを拭く気になるのだろう。当然降谷はウンコは拭かれたくないので丁重にお断りした。
「発言や行動自体が常軌を逸してません?」
「まあ、うん。そうかもな」
「そんな呑気な」
降谷本人よりも風見のほうが憂いて、降谷の報告に胃の辺りを摩っていた、可哀想に。
「大体、降谷さんが面倒臭がって何も言わないんでしょう。だから赤井捜査官も増長するんですよ」
「何で分かるんだ」
「分かりますよ。案外めんどくさがりなんだから」
「鷹揚と言ってくれ」
「降谷さんのは単に無精なだけです」
「言うようになったなあ、風見」
「感心してる場合じゃないでしょうに」
多分風見の言う通りだ。恐らく赤井は降谷が否と言えば絶対に踏み込まない。ただ、降谷が何も言わないからガン見だし手を出すしめちゃくちゃ近いというだけで。
「でも別に実害はないしなあ。意味は分かんないけど」
「降谷さんの着替えも毎回見てるんですよね?」
「ガン見だな」
「見るなって言わないんですか?」
「見られてるだけだしな」
「風呂まで着いて行くんですよね?」
「風呂上りに拭いて貰った」
「お触りは駄目でしょう」
「脇とか背中とかだぞ。あと髪乾かして貰った」
「全身触られてるじゃないですか」
「チンコは触られてない」
「って降谷さん、そういうこと言わないでください」
「チンコ?」
「うんこもです」
「いいだろ別に、チンコとウンコくらい」
「王子様でしょう」
「その呼び方ヤメロ」
現在降谷が密かに呼ばれている渾名だ。今まで影であった降谷は組織の件を経て表立つ立場へと変わってしまった、挙句がプリンス呼ばわりである。それが役割ならば応えるまでだが、流石にプリンスはない。
「僕を幾つだと思ってるんだか」
「降谷さんは鏡を見たことがないんですか」
「それ赤井にも言われたな」
「あなたたちの場合はお互い様でしょうけど」
因みに赤井秀一はキングと渾名されていて、笑ってやろうと思ったのに似合っているから腹が立つ。
公安のプリンス、FBIのキング。アイドルごっこと呆れるなかれ、主に女性陣からの黄色い声は今回の世界規模騒動への風当たりを和らげる一端となっているのだから馬鹿には出来ない。だから降谷は表立つ立場を受け入れた。赤井のほうは甚だ不本意そうだったが。
「降谷さんが下ネタを言うと私が怒られるんですよ」
「誰に」
「降谷さんのファンですよ」
「何で」
「その顔だからです。あーしかも厄介な取り巻きも増えた」
「取り巻き?」
「赤井捜査官に決まってるでしょう」
「あいつは別に取り巻きじゃないだろ」
「それよりタチ悪いですって」
唸る風見を横目に、降谷は今日のノルマをこなしていく。タイピングは出来ないためクリックで済む作業を中心に片付けていた。
昨日の今日。
午後から登庁の降谷に合わせたのか元々だったのか、赤井も同じ時間に家を出た。
結局降谷の髪は丁寧にタオルドライされた後にドライヤーをかけられ、地肌に触れる赤井の指先が心地良くて、降谷はすぐに就寝してしまった。疲弊していた降谷は昼近くまで寝ていたのだが、泊まった赤井は朝から活動していたらしい。降谷が起きると家中の掃除と洗濯が終わっていた。
ラスボスが有能過ぎて怖い。
「昼飯も美味かったしなあ」
「赤井捜査官って料理出来るんですね」
「めちゃくちゃ美味いぞ」
登庁前の昼食はおにぎりだった。これが最高だった。たらこに紅鮭、チーズおかか、胡麻昆布。どれも一口大で食べやすいが大量に作るのはさぞ面倒だっただろうに。おかずも全て一口大で手軽に食べられるよう楊枝が刺さっていて、赤井の惜しみない手間と心遣いを感じられた。
「全部美味かったけど、唐揚げは絶品だったなあ」
「降谷さんが褒めるのなら余程ですね」
「いや、僕より全然上手いと思う」
「えっそんなに?」
「うん。そんなに」
降谷も料理をする。するが、なんというか、赤井のほうがちゃんと生活に密着している気がするのだ。降谷が料理人なら赤井は主夫みたいな。
素直にすごいと思う。職としての料理人を貶める訳じゃないが日々の生活に必須の家事をこなす能力ほど有難くて尊いものはないと降谷は思っている。そして赤井の場合はしっかりと料理だけではなく掃除や洗濯にまで当て嵌まっていた。冗談じゃなく凄腕ハウスキーパーだ。
「降谷さん、胃袋で絆されてません?」
「そんなことないぞ」
「本当に?」
「唐揚げが二種類あったんだよ。醤油と塩麹。美味かった」
「もー……実害が出てからじゃ遅いんですからね?」
「そういや赤井って何処で寝たんだろ」
「はい?」
「いや、ソファがベッドになるって教えたし予備の布団の場所も教えたんだけどな。まあ教えなくても把握してるだろうけど。僕が目ぇ覚めたら赤井、目の前で僕のことガン見してたから」
「怖い怖い怖い」
風見は震え上がった。降谷もそこそこびびった。赤井の距離の近さには慣れてきたが寝起きはまだちょっとビビる。
「いや、降谷さん、それもうストーカーですって」
「それは言い過ぎだろ」
「完全に監視と軟禁ですって。洒落にならないですって」
「監視と軟禁はなあ。プロだろうしなあ、赤井は」
「怖い怖い怖い怖い」
「ていうかそもそも僕に赤井秀一を派遣したのは誰だったかな」
「うっ」
「赤井秀一を使えって言ったのは風見だったよな」
「うっ、うう」
さすさすと風見は胃の辺りを摩る。可哀想だからこの辺で許してやろう。
「実害はないし大丈夫だろ。精々赤井秀一に世話されるよ」
「だからストーカー案件は実害が出てからじゃ遅いんですって……あー失敗した……降谷さんを想ってのことが裏目に出ました……まさか赤井捜査官が降谷さん相手にストーキングとは……」
「あいつ僕には一切興味無いのになあ」
「降谷さんは呑気すぎます」
「風見は大袈裟なんだよ」
「実害が出る前の対策が大事なんですって」
「噂をすれば」
ラスボス登場だ。時刻はもうすぐ定時で、昨日と同じく赤井は降谷を迎えにきたのだ。
声にならない悲鳴を上げる風見を赤井は気にもせず、座っている降谷の頭から爪先までを確認するように見遣る。まるでスキャンだ。何の確認なんだろう。
「お疲れ様です」
「定時で帰れそうか」
「お陰様で。赤井は?」
「問題ない」
「今やってるのだけ終わらせちゃうんで少し待って貰っていいですか。すぐ終わるから」
「ああ」
傍らの椅子を勧めると赤井は腰を下ろした。
午後からだったのに定時に上がるのは忍びない。が、何故か降谷の送迎を当然とする赤井秀一が待ち伏せるよりは得策だ。赤井の迫力過多なオーラで公安一同の胃腸が死ぬ。
それに怪我の功名か黒あめ効果か、公安とFBIの連携が今まで以上に円滑になり業務消化率が上がっていた。昨日の今日でこれなのだからこの先更に改善されるだろう。
「赤井にも一応報告しますね」
「何だ」
「僕、明日から連休になります」
業務消化率の向上により負傷中の降谷は有給消化が可能になった。利き腕を使えない今回ばかりは降谷も恩恵を享受したい。
一応赤井に伝えると赤井はさして驚いた様子もなく「俺も丁度明日から連休だ」と宣った。再び風見が声にならない悲鳴を上げた。
「へえ。赤井も連休なんですか」
「ああ」
「何か予定でもあるんですか」
「いや。単なる有給消化だ」
「僕と被るなんて偶然ですね」
「偶然だな」
んなあほな。偶然な訳がないだろ絶対赤井が降谷の動向を探っただろ。とは面倒なので言わない。風見が声にならない何かを言ってるけれど無視だ。めんどくせえ。
赤井はというと、カチカチとマウスを動かす降谷の横顔を一心にじいと見ていた。あんまり赤井が降谷だけを見ているから寧ろ他の連中の居心地が悪そうだ。ちらりと赤井を見る。降谷と目が合っても赤井は大した反応を返さない。座っているだけなのに絵になるのだから憎らしい。
やっぱりストーキングとは違う気がした。じゃあなんだ。怒ってはいないと赤井は言っていた。怒ってないならじゃあなんだ。気合い、警戒、緊張とか?
「ああ。一つ予定はあった」
不意に赤井が呟く。
「引っ越した」
「誰が?」
「俺が」
「え、赤井マンション出るんですか?」
「もう出た」
「は?」
「もう引っ越した」
「え、いつ?」
「今日だ」
「え、引っ越したの? 事後? 今日?」
「荷解きはまだだが」
降谷の隣で風見が声にならない悲鳴を上げた。風見には胃薬を差し入れてやろう。
「まさか赤井」
「丁度君の家の隣が空いていたのでな」
「赤井、僕んちの隣に住むの?」
「ああ」
「なんで?」
「色々と便利だろう」
「昨日の今日で?」
「早いほうがいい」
「しかも事後?」
「早いほうがいい」
「まさかでしょ?」
「よろしく頼む」
「……まじで?」
降谷は頭を抱えた。