2024.12.5生きてます…………
少し早いけど年末年始のHappy Holidaysです
でもクリスマスも正月も関係ない話
怖くはない心霊系がちょっと出ます
いろいろいつものやつですご注意
生きてたらいつか続きも書きたいです
ぽちぽちくださったりしぶ覗いてくださったり
こんな過疎地に本当にありがとうございます
とてもとてもとても嬉しいです
やっぱりあむあか好きだなって実感してます
「運転は僕で構いませんか」
「構わんよ」
「どこか立ち寄るところは」
「ないな」
「そうですか」
降谷は頷くと運転席に乗り込んだ。続いて赤井は助手席へと身をおさめる。車は車高のあるライトバンで、団体で移動する職務の際に使っているものだ。車は閑散とした道を走った。建物がぽつぽつと点在するだけ、あとはたまに樹木、電柱。退屈な風景だが赤井は無心で窓の外を眺めた。それしかすることがなかった。
……気まずい。
二人きりでは気まずくなるのが目に見えていたため、車に乗ってすぐにラジオを流した。しかしそれでも気まずくなるのだから根は深い。
根。赤井と降谷の。
赤井は生まれてこの方、気まずさを感じることなどほぼ皆無である。だがしかし、この年齢になって初めて、降谷零という男によって気まずいという感情を覚えた。おのれ降谷零。やはり彼は恐ろしい男だ。
例の組織については収束が見え始めていた。FBIに所属する赤井は日本に留まり、その後も対応に当たり続けた。
そうした中で因縁のあった降谷との関係はどうなったかというと、どうにもすっきりしない転じ方であった。すでに互いに情報は開示し合っている。しかし面と向かって話し合う機会はないままだ。
今更話すことなどない。赤井はそう思っている。
しかし、話さないことを居心地悪くも思っている。
親しい訳じゃないのに互いに深い根があって、けれどその根は意味も理由も変わってしまった。それでも深い根は消えない。ずっと繋がったまま離れられない。遥か遠いのに誰よりも内側にある、奇妙な根だ。
赤井から降谷に声をかけるのもおかしな気がして、けれど降谷は赤井に何も言わないし、奇妙な感覚だけが募っていく。恐らく降谷はもう、赤井への過度な敵対心はないのだろう。実のところ降谷がどのように過去を清算して現在どのように思っているのかは知らないが、日々の業務は円滑であり、FBIと日本警察とのやり取りに支障はなかった。
それだけで十分だ。
なのに、赤井はどうにも居心地が悪い。距離が測れない。どうしたらいいか分からない。我が道を往く赤井にとっては生まれて初めての感覚だった。
機会を逃し、先延ばしにし、結局赤井は降谷とまともに会話を交わすことがないまま、もう何年も経過している。
そうして突然のこの状況。
赤井は、どうにも気まずくて仕方なかった。
ばつが悪いのとも少し違う。贖罪とか恐怖とか、そういった類の感情とも少し違う。面倒とか焦燥とも違う。照れ臭い、が近い気がして、赤井自身意味が分からなくて、余計に気まずくなった。
大体降谷も悪いのだ。降谷からも同じような空気を感じるのだ。久々に顔を合わせた降谷は何処か余所余所しくて、だけど拒絶や嫌悪はなくて、赤井はどうにもこうにも気まずくて困った。ソワソワする。落ち着かない。よく分からない。
「……」
「……」
「……本当に食うのか」
無言が車内を支配する中、赤井は不躾に問うた。
刹那降谷が少しばかり嫌そうな顔をしたことに赤井はほっとした。同時に、降谷から負の感情を向けられることに慣れた自分自身に悲しくなった。
「その様子だと本当のようだな」
「そもそも信じてるんですか」
「俺か?」
「ええ」
「俺自身が見たことはないからな。現時点では何とも言えんよ」
「意外ですね。否定的だと思った」
「ないことを証明は出来んだろう」
長々と走ってやっと信号で停まる。信号機もまばらな田舎へと車は向かっていた。そこには組織の残党が使っていた廃ビルがあり、処理はFBIが請け負っていた。
問題が発生したのは一週間前。人ならざるモノが出る、と捜査官たちが騒ぎ出したのだ。
宗教観からゴーストを怖がるアメリカ人は少ないが、デーモンを恐れる者は多い。ソレは姿を変え見る者を惑わせた。惑わせるモノは悪魔に属する。彼らは一様に悪魔を恐れ、業務に支障が出た。さてどうしたものか。
一応統括していた赤井が上司に相談すると、解決案として提示されたのがなんと降谷零であった。
降谷は人ならざるモノを食うらしい。
なんだそれ。
ともかく降谷を現場に連れて行けと言われた訳だ。気まずい赤井は他の捜査官に押し付けたかったが、誰も彼も悪魔を恐れて使い物にならなかったので仕方ない。
「で、本当に食うのか?」
赤井はわざと揶揄めかして言った。降谷に嫌な顔をされたほうが落ち着く。なのに降谷は困ったように微笑んだだけだった。
息を呑む。降谷が赤井と居て、こんな風に笑うと思わなかった。
「大概悪食でしょう」
「……役には立ってるんだろう」
「そうだといいけど」
「気が乗らないのか」
皮肉で揶揄う筈だったのに気遣う色の声が出た。赤井は窓の外を見て誤魔化す。
ああ、上手くいかない。
コントロールが上手く出来ない、そんなの、赤井は降谷にだけだ。
「気が乗らないっていうか、まあ、恥ずかしいだけです」
「何故」
「悪食でしょ」
「役に立つなら構わんだろ」
同じ会話を繰り返してしまった。馬鹿みたいだ。ああ、くそ。
「それとも、君に負担がかかるのか」
「いえ、負担らしき負担はないですね。胃もたれもないし」
「……本当に食うのか?」
「多分」
「曖昧だな」
「僕自身は腹に入れる実感があるけど証明は難しいですから。だからまあ、同行者に確認してもらう」
「食うところをか」
「ソレが消えるのを、ですかね」
「俺はデーモンだかゴーストだかは見たことがないぞ」
大半の捜査官が目にしたソレを、赤井は見たことがない。人生で一度もその手のものを認識したことはなく、だから否定も肯定もしないスタンスだ。
「僕が食べるところは視える、らしいです。多分」
「俺でもか」
「視えると思いますよ」
「ほう」
「だから見られるの恥ずかしい」
恥ずかしいのか。
降谷は、赤井に見られるのが。
誤魔化していた気まずさが猛烈に湧き出し、赤井は無意味に視線を巡らせた。会話を続けられなかったことに舌打ちしたくなる。打ち明けられた赤井のほうが恥ずかしくなるだろ、こんなの。おのれ降谷零め。
そのまま会話は途切れ、車は現地に到着する。
至って一般的な廃ビルを降谷は見上げた。降谷の視線は三階のある一点で止まり、そのまますっと右側へ移動する。驚いた。赤井は何も教えていないのに、そこは捜査官たちが証言した場所とぴたり一致していた。
「見えてるのか、君は」
「ええまあ」
「何が見える」
「あそこ」
降谷が屋上を指差したが、赤井には何も見えなかった。
「屋上にも居るのか」
「居ますね」
「何も見えん」
「視えないほうがいいですよ。僕も普段は視ないようにしてます」
「そんなことが出来るのか」
「僕の場合は食べようと思えば視えます。普通にしてたら視えない」
「……ああ、」
そうか。思い出した。
昔、降谷がバーボンを名乗っていた頃。気付けばキャラメルやらキャンディやらを口にしていた降谷に、赤井はガキかと悪態を吐いていた。悪意の掃きだめみたいな場所で無邪気に甘味を口にするバーボンが薄気味悪かったのだ。
もしやあれに意味があったのか。
「逆なのか」
「何が?」
「見えるから食べる、じゃなく、食べようとしたら見える、なのか」
「そうです。僕のコレは食べるの前提」
「空腹なら」
「そ。腹減ってたら無意識に視ちゃうことあるから間食する」
「ホー……」
「ガキみたいだって散々言われましたけどね」
「……悪かった」
散々言ったのは赤井だ。素直に謝罪した赤井に降谷は困ったように笑うから、そわ、と、赤井は困る。
「だから恥ずかしいんですよ。食いしん坊みたいで」
「別に……恥じるようなことではないだろ」
「そうですかね」
「美味いのか?」
「特に味はしないです。でも腹は膨れる」
「消化するのか」
「時間経過で。でもウンコに混ざってるかは分かんないや」
「ふ」
降谷のあけっぴろげな言い種に赤井は思わず笑んだ。目を丸くする降谷と目が合い、そわりと赤井は居住まいを正す。
いざ出陣。
赤井には何も見えないので降谷が先に立って中へと進む。エレベーターは稼働しておらず階段を使って三階まで昇ると、淀みなく降谷は進んだ。そしてある一室で足を止める。降谷の様子は何もない箇所をじっと見据える猫のようだ。
おもむろに降谷が言う。
「じゃあ食べます」
「……ああ」
ぱかり。降谷が口を開けた。瞬間、白い煙のような影が目の端に移り、赤井が目で捉える間もなく煙は流れる。降谷の口元へ、すうっと煙は吸い込まれ……こくん。降谷の喉元が動くと白い煙は消えてしまった。
「……え」
「視えました?」
「……、……食べた、のか?」
「ええ。食べました」
降谷がスーツの上から腹を摩って「成仏しろよ」と呟いた。妊婦のような仕種が、赤井には心臓に悪かった。妊婦にあるまじき台詞だが。
「……煙にしか見えなかったんだが」
「弱いやつでしたからね。屋上のだけ強いけど、他のは弱いです」
「他って幾つくらい居るんだ」
「ぱっと見で十くらい。強いやつに引っ張られて弱いのとか色々」
見渡すも、赤井にはやはり何も見えない。
その後四階、数階飛ばして八階と、同じことを数回繰り返しても赤井には微かな煙にしか見えなかった。不思議と言えば不思議だ。だが単なる煙の流れであり、赤井はやっぱり否定も肯定も判断のしようがない。
「悪魔祓いにしては地味だな」
率直な感想を告げた赤井に降谷が苦笑した。
「それで赤井は信じる気になりました?」
「いや。否定とも肯定とも言えんな」
「でしょうね」
「不思議ではある。マジックのようだが、君が俺に地味なマジックを披露する理由がないだろう」
「こんな地味なマジック、わざわざ披露しませんよ」
「ふふ」
某有名な怪盗などは派手な手品を繰り出すから。
つい笑った赤井の横顔に視線が刺さり、降谷がじっと赤井を見ていて、赤井はぎこちなく目を逸らした。降谷が身じろいだのが気配で伝わり、余計に意識してしまう。
「……喫煙の逆再生のようだな」
「そう視えるかも。そういえば赤井、煙草は」
「やめた」
「えっうそ」
あんまり降谷が驚くから赤井は言い繕う。
「妥協案だ。喫煙所が少なすぎる」
「病院に通ったんですか?」
「自力でやめた」
「へえすごい」
「案外できるものだ」
「いつやめたんですか」
「一昨年だったかな」
「その後は一度も?」
「吸ってない」
「すごいですね。食欲に走らなかったんですか」
「甘いものを食べるようになった」
「今まで食べなかったんですか」
「どちらかというと嫌いだったんだが」
「太らなかった?」
「太った」
「あんま変わらないですね」
「いや。腹がな」
さすさす。先程の降谷と同じ仕種で、赤井は己の下腹を摩る。未だ見苦しいまでは変化していないが確実に数年前より重量を増しているだろう。
またも降谷と目が合う。降谷はぎこちない素振りで逸らし、赤井も気まずくなって視線を泳がせる。
また二人の間には無言が落ちた。
なんなんだ。
赤井は嫌気が差していた。いや嘘だ。嫌ではない。だが困る。
なんなんださっきから。何度も微妙な空気を繰り返して距離がぐちゃぐちゃで、ああもう、いい歳をしてなんだこれ。気まずいのに奥底の本心は喜んでいて、ああ、赤井は降谷と久々に会えたことが、本当は嬉しいのだ。
降谷は。降谷はどうなのだろう。
「……じゃあ、あとはラスボスだけです」
「そ、うか」
「結構強そうなんだよなあ」
屋上までの階段を上がりながら降谷が言う。
「強いとは具体的にどう強いんだ」
「強いやつだと人の中に入り込んだりします。所謂憑依ってやつ。弱いやつは取り憑くだけなんですけど」
「どう違うんだ」
「憑依は丸ごと乗っ取られちゃう。取り憑くだけなら、まあ、ストーカーみたいなもんです」
「ほう」
「変に興味持たないほうがいいですよ。取り憑かれたら御祓いして貰うことになるから面倒でしょ」
「誰が祓うんだ」
「僕の知り合いに寺の住職が居ます」
「君は出来ないのか」
「出来るかもしれないけどやったことはないですね」
屋上の扉の前に立つ。降谷が手で制するため、赤井は一歩引いて見物することにした。
「うわ」
扉を開けた降谷が呟いた。
「どうした」
「時間かかるかも。結構強い」
「そうなのか」
降谷の視線の先を追うも、赤井には屋上のフェンスと曇り空しか見えない。
「強いと食べ難いんですよねえ」
「問題は」
「ないですよ。時間かかるだけ」
「危険は」
「ないですけど念のためアレにあまり興味持たないようにしてください。コミュニケーション取ろうとする意思がある人間に寄って来るから」
「そういうものなのか」
「霊感があってもなくても、無関心の人間には寄ってきませんよ」
「成る程」
「僕が居れば僕のほうに来るんで大丈夫です」
「君は」
「はい」
「もしかして凄腕なのか?」
振り返った降谷が笑った。
「全然。僕は大したことない。需要に対して供給が少ないんで、寺の住職に何度も誘われましたけどね」
「仏門か」
「仏門ていうか御祓いする人、かな。アメリカにも居るんじゃないんですか?」
「噂はあるな」
こんな職務に就いていると、どうしたって不可解な事象はあるものだ。そういった類は専門の部署に相談し、その部署から外部の何処かに、恐らく国家機関に案件は移動する。赤井は否定はしないが肯定もしておらず、そもそも興味も薄かったため、詳細は知らない。
今、降谷を見て、初めて興味が湧いている。
ゴーストやデーモンというより降谷のような存在にだ。
「日本警察にも存在するのか」
「正式なのは内部にないと思います。多分だけど」
「君は関わっているんじゃないのか」
「僕は体のいい雑用係ですよ。警察内でこういった面倒事があると僕のとこに話が回ってくるだけ。ほら、あいつ霊感あるんだって~みたいな噂って流れるでしょ。皆半信半疑ながら取り敢えず僕に丸投げする。その程度です」
「……」
「……なんで赤井怒ってんですか」
不思議そうに降谷が首を傾ける。
ムスリと赤井は返した。
「何故君が雑用を押し付けられるんだ」
「悲しい程縦社会ですからね、日本の役人は」
「別途手当が出て然るべきではないのか」
「ないない。何ならサービス残業。たまに気の良い先輩が珈琲奢ってくれるけど」
「は?」
「いやなんで赤井が怒ってんですか」
「能力を見込んで依頼しておいて、それに見合った対価が払われていないことが非常に不愉快だ」
「信じてないでしょ赤井」
「それとこれとは別の話だ。俺は否定も肯定もしない。俺自身が実際に見聞していないからな。だが、対価は支払われるべきだ。特殊案件だろう、これは。相応の対価が発生して当然じゃないのか。日本の文化だかなんだか知らんが、君は君の能力を安売りすべきではない」
「めっちゃ喋りますね」
「あ?」
「こっわ」
赤井の熱量に反し降谷は楽しそうだった。その顔が本当に朗らかな柔い笑みで、案外と降谷は裏表のない笑い方をするのだと、赤井は今日初めて知った。この笑顔が演技だとしたらたいしたものだ。
「赤井って口も態度も悪いし容赦も愛想もないけど、結構世話焼きですよね」
前半の的確さに閉口し、後半の的外れに眉を顰める。誰が世話焼きだ誰が。
「余計な世話と言いたいのか」
「余計じゃないよ」
視線が繋がった。どきりとした。
「ありがと」
「え」
「安売りしたつもりはなかったんだけどね。いや、無意識にしてたのかな。ありがとう、赤井」
「……余計な世話だったな」
「余計じゃないって」
柔らかに目を細める降谷に、赤井の鼓動は揺れる。
ただ、赤井は不愉快だっただけだ。降谷が不当に低評価を下されていることが。この件だけではない、同じ任務に就いたこの数年間の全てだ。降谷の功績は誰よりも讃えられて然るべきというのに、どうも日本警察から正当を感じ取れないのだ。
「あ。そろそろ食べれそう」
扉の向こうを見て降谷が頷く。
「ちょっと時間かかるかもしれないです」
「了解した」
降谷が口を開いた。赤井は少し離れてその様子を見物するも、先程のような煙は一向に発生しなかった。暫く口を開いていた降谷は一度閉じ、唇をぺろりと舐める。単に乾燥した故の仕種であろうが、赤井は気まずく目を逸らした。
さて。赤井には悪癖が多々あるが好奇心は悪癖とは思っていない。
しかし、好奇心は時に身を亡ぼすのだと、身を以て知る。
煙は未だ発生せず、降谷はふう、と溜め息を零す。指で己の頬を撫でる降谷を気の毒に思った。ずっと口を開いているのも疲れるものだ。
食べ難いとはどういった状況なのか、強いとは煙の量が増えるのかそれとも。確かに地味ではあるが非常に不思議な現象ではある。捜査官たちがデーモンに見えたソレは、降谷に食われる時だけ煙になるのだろうか。降谷の目にはどんな姿に映っているのだろう。そもそも、何故降谷はアレを食うに至ったのだろう。
訊ねたいが降谷の邪魔をする気はない。思案していた赤井は、何の気なしに真似てみた。
降谷の真似。
見えないアレに向き口を開いてこくんと飲んでみた。
その瞬間を赤井は説明することが出来ない。ただ、一瞬気が遠くなって五感を失ったような気がした。
「っ赤井!」
え。
降谷に呼ばれてはっとする。
鳩尾からゾワリと悪寒が走った。猛烈な鳥肌、天も地もなく竦む足。歯の根が合わず、脂汗が項から背に落ちる。
赤井を支配したのは恐怖だった。
「……ぁ……?」
「うそだろ、なんで赤井に、」
なに。
降谷の真似をした。
赤井の言葉は音にならず、ただ、赤井は唇を戦慄かせる。こわい。なんで。こわい。いつのまにか赤井は降谷に抱えられ、その場に蹲っていた。カタカタと歯が鳴る。怖い。赤井は微かに首を振った。恐ろしくて仕方なかった。いやだ。耐えられない。混沌とした恐怖が赤井を支配する。
「赤井、絶対になんとかする。絶対にだ」
「……、」
瞬くと視点が合わないほどに降谷が近かった。
降谷の、目。
声、気配、温度。
何ひとつ知らないのに誰よりも赤井の内側に棲む降谷零。
ああ。ふるやくんだ。
刹那、赤井を支配していた恐怖が少しだけ凪いだ。
赤井の虹彩が降谷を映す。
「……、……ぁ……」
「っ、赤井秀一、俺が分かるか、」
「……ふ、……やく、……」
「よし」
鬼気迫る降谷の表情が和らぐ。
恐怖は変わらない。だけど、赤井自身の恐怖を、赤井は自覚した。先程までは自覚もなくまるで発狂したような身の内だった。今は恐怖という感情を赤井が自覚している。自覚とは自我だ。自我を失いかけていたことに赤井はゾっとした。
降谷は片手で赤井を抱き寄せ、もう片手でモバイルを操作しているようだった。しかし「いや、間に合わないな」とモバイルを懐に仕舞う。
「絶対に赤井を助ける」
「ふる、やくん、」
「触るぞ」
降谷は赤井が着ていたジャケットを剥ぎ、シャツの上から赤井の身体に触れた。喉元から胸、腹。確かめるように、何かを辿るように触れていく。
今まで触れたことなどない降谷の手を、赤井は、安心して受け入れていた。恐怖が凪ぐ。身体が上手く動かない赤井はぐったりと降谷に凭れ、それを降谷が強く引き寄せる。赤井は安堵した。降谷の存在に、こんなにも安心していた。
怖い。でもだいじょうぶ。赤井は確信している。
それは自我だ。赤井ははっきりと意識を身の内に宿す。
「……ふ、るやくん、おれは、」
訳の分からぬモノに己を明け渡すつもりはない。明け渡すなら、そう、この世で唯一、降谷になら。
首を振って足を曲げる。動かない身体に抗う赤井に、降谷は険しい表情を一転ぱちりと瞬いた。
「赤井?」
「おれは、どうしたらいい、」
「……ふは」
降谷は破顔した。綺麗だな。そう思う。
「さすが赤井秀一」
「なんだ、それ……」
「うん。ここ、俺が触ってるの分かるか」
言うと降谷は赤井の腹を掌で撫でた。鳩尾の少し下辺り。赤井は小さく頷いた。
「そこ、」
「うん。ここ」
「こわい」
「うん。怖いよな。怖い思いさせてごめんな、赤井」
赤井の頭を引き寄せ、降谷の指が包んで撫でる。ほっとした。思わず頬を摺り寄せる赤井を降谷はしっかり抱えて離さない。
こわいなんて、赤井自身口にすると思わなかった台詞だ。それがあっさり吐露してしまった。降谷にならば構わないと、何処かでずっと思っていたからだろうか。
「大丈夫。ここ、俺が触ってるの、わかる?」
「……うん」
「俺が触ってる感覚、覚えて。意識しててね」
「……わかった」
「俺が触ったから赤井は大丈夫。絶対大丈夫だからな」
「うん……」
大丈夫。降谷が言うのだから絶対だ。赤井は頷いた。
「じゃあ一旦離すよ」
「ふるやく、っ、……!」
降谷が赤井の腹から手を離し、間髪入れずに赤井の身体ごと持ち上げる。
「ほんとは横抱きのほうが赤井の腹に負担かかんないんだけど、階段だと足元見えないから、この抱え方でごめんな」
所謂ファイヤーマンズキャリーという抱え方だ。赤井は降谷の頸に凭れかかるように抱え上げられた。
「ま、……っあるく、おろせ、」
「ごめん、ちょっとだけ我慢して」
「うそだろ……」
「俺が触ってるって出来るだけ意識しててね。変な感じがしたらすぐ教えるんだぞ」
触れた場所から降谷の声が響いた。まるで子供に言い聞かせるような優しい声、いや、まさかこんなでかい男を抱えて階段を下りるつもりなのか何階だと思ってるんだ。
しかし拒絶すれば余計降谷の負担になる。赤井は羞恥をぐっと抑え、降谷に凭れた。降谷の肩幅があるお陰で頭があまり下がらず、眩暈もない。降谷は赤井よりやや小さいと認識していたが、想像よりずっと逞しく安定感があった。
「赤井さあ、太ったってホント?」
「なに……」
「想像より結構軽いっていうか……失言か。ごめん」
「…………ばかじゃないのか……」
「ふはっ」
信じられないことに降谷は駆け足で階段を下った。馬鹿力。体幹の鬼。無茶苦茶だ。そういえば降谷は優等生然とした見目に反して割と腕っぷしで物事を解決するタイプだ。顔を合わせなくなって何年も経っていたが相変わらずその傾向にあるらしい。
「なんで赤井笑ってんの」
「なんで……」
「気配で笑ってるの分かるよ」
「いがいと……くちもたいどもわるい……」
「……俺のこと?」
「せわやき……あいそは、あるか……」
「誰にでも見せる訳じゃないよ」
一度止まり、降谷は赤井を抱え直す。なんで殆ど息が切れてないんだまったく恐ろしい男だな。また階段を駆け下りる。降谷の体幹に身を寄せると降谷の鼓動が伝わった。ああ。安心する。
「かくしてる、のか」
「隠してるつもりじゃないんだけどね」
降谷の声が笑った。
「俺が俺って言うのは、寺の住職にだけ」
「……おれは」
「今?」
「でんわで」
「……覚えてんの?」
「とうぜん……」
「赤井に俺の正体バレた時のことだろ?」
「うん……」
「よく覚えてるね」
「ふるやくんも」
「そりゃ覚えてるよ。普段は俺なんて言わないし。悔しかったし」
「なんで……さっき」
「そりゃお仕事ですから」
「なんで……いま」
「うーん……」
赤井へと言葉を返すために思案する降谷を、赤井は嬉しいと思った。きっと赤井の意識を降谷へと向けておくために会話し続けているのだろうが、それでも降谷と話すことが、とても嬉しかった。
再び立ち止まり、降谷は赤井を抱え直す。
ふ。降谷が息を吐く。
「……甘えてるのかな」
「え……」
「住職と赤井に甘えてるのかも。赤井には迷惑だろうけど」
あまえ。
降谷の地味な悪魔祓いのことを知る住職と、降谷の憎悪を向けられ続けた赤井だけが知る、降谷の側面。それが降谷の甘えだというのか。言葉通りの甘い意味ではないのだろう。大体あれは赤井が仕向けたことであり、赤井の都合と打算のために降谷を利用しただけだ。それを降谷は甘えと、己を律するのか。
再び降谷は走り出す。
どうしようもなく赤井は泣きたくなった。腹が疼いた。降谷は不穏を感じ取るのか、抱える力が強くなる。
「もうすぐだからな。もうちょい赤井、頑張って起きててね」
やさしい降谷の声に泣きたくなった。泣く資格などない。降谷は赤井を赦さないだろうと思っていた。もしくは完全に赤井を遮断するとも予想した。しかし実際はそのどれでもなく、降谷は赤井と対話し、笑う。
「たりない……」
「何が?」
「めいわくじゃ、ない」
「……そっか」
「おれのほうが、ずっと」
「ん?」
「ずっと、あまえてる……」
「……、」
急に視界が明るくなり、外に出たと分かった。そのまま降谷は車へ駆け寄ると後部座席を開け放ち、赤井を押し込める。
「お待たせ、赤井。もうちょっとだからな」
降谷も後部座席に乗り込むと座席を倒して赤井を寝かせた。相変わらず赤井の身体は自由が利かない。されるがまま後頭部に柔らかなものが差し込まれたのは畳んだブランケットだろうか。
カーテンを閉め灯りを点けると、赤井と降谷しか居ない狭い空間だ。赤井は酷く安堵した。あの建物自体の空気が澱んでいたのだと、赤井は初めて気が付いた。
「いきができる……」
「うん。ビルに色々集まり出してたから、空気悪かったよな」
「あつまって……」
「赤井の中に入ったやつに呼ばれてまた集まってる」
「……おれの、なか」
「赤井秀一の自我が強いから憑依はされてない。絶対俺が何とかする」
「……うん」
赤井が頷くと降谷は笑った。不思議と恐怖は霧散していた。絶対に大丈夫だと確信している。
「でもごめん。赤井の中に入ったやつを俺が食う。これしか方法知らないんだ」
不快だった腹に降谷の掌が当てられた。凪いでいるのは一時的なもので、まだそこには何かが居る。それを降谷は食うと言う。
食う。どうやって。
「赤井が吐いてくれたらいいんだけど……」
吐く。吐くのは構わない、喉に手を突っ込んでも腹を殴られても構わないが、まさか吐瀉物を降谷に食わせるというのか。
赤井は何度も首を振った。
「それか、赤井の口から直接食う」
口から直接。赤井が連想したのはキスと何ら変わらない絵面だった。まさか降谷にキスさせるというのか。
「ごめんな。食うしか方法知らないんだ」
「なんで、きみがあやまる、すまん、おれがまねをしたから」
「真似? 真似って何を?」
「ふるやくんの、」
「俺の?」
「くちをあけて、のんだから、」
「……真似って、赤井は俺の食う真似したってこと?」
「うん……」
「……は?」
「わ、るかった……」
「あそこで口開けて飲んだの?」
「うん……」
「俺の食う真似したの?」
「……うん……」
申し訳なさそうな顔だった降谷は、みるみるうちに怒りの表情に変わった。やはり赤井にはこの顔のほうが見慣れている。
「おっまえ……馬鹿か!」
怒鳴られた。
慣れた筈の降谷の憤怒、でも憎悪の混じらないコレは慣れていない。
「ばっかやろ……ああくそ、だからか! おかしいと思ったんだよ、俺がいるのに赤井に憑依するとか! おっまえ好奇心も大概にしろよ興味持つなっつっただろ! 俺の真似って、下手したらおまえの自我が壊れるんだぞ、っ大学生の肝試しかっつうの……俺の所為で赤井秀一をこんな目に遭わせたかと……、この馬鹿……」
「……ふ、るやくん、すまん、」
「覚悟しろよ後で説教だからなまじふざけんな」
「す、まない、その、」
「あーもうじゃあ赤井の自業自得だ、俺にキスされても文句言うなよ」
「き、」
むにゅっ。降谷の指が赤井の頬を鷲掴みにした。乱暴な仕種なのに全然痛くなくて丁寧で、赤井は降谷を見上げる。降谷は怒っているのに優しい顔だと、言ったら怒るだろうか。降谷に叱られてちょっと嬉しいような擽ったいなんて言ったら、降谷は怒るだろうか。
「治療だと思って諦めろ」
「ふるやくんに、めいわく、」
「ふはっ」
おまけに降谷は笑うのだ。
「まじふざけんなとは思うけど迷惑じゃないよ。一周回って流石赤井秀一だわ」
「なんだそれ……」
赤井を覗いていた降谷は横たわる赤井の体躯へと更に覆い被さった。近い。降谷の前髪が赤井の顔に触れそうで赤井はどきりとした。降谷に圧し掛かられて殴られたことはあれど、こういったシチュエーションではなかなか心臓に悪い。
目が合って、赤井はぎこちなく逸らしてしまった。
気まずさ再び。ああもう、いい歳をしてなんだこれ。
「赤井は出来るだけ身体の力抜いて、俺が触ってるって意識してて。ここ、俺が触ってるの分かる?」
「……うん」
あたたかな掌が赤井の腹を撫でた。腹筋が跳ねてしまったことが、とてもとても気まずい。
あたたかな掌は赤井の目元も隠す。視界を失うことは厭う筈なのに、ちっとも不安じゃない。
「深呼吸して、息は止めないで。うん。上手」
「……ん」
「今度は寝そうになったらそのまま寝てもいいよ。怖くなったら我慢しないで教えてね」
「……うん」
「絶対に赤井秀一は大丈夫。約束する」
「……すまん」
「ふ。後で説教の続きな」
「たばこ、」
「吸いたいの?」
「やめてよかった……」
「ふは。匂い?」
「めいわく」
「迷惑じゃないよ」
柔い声で降谷が囁いた。
「赤井。口あけて」
呼気がかかる。触れる。重なる。
赤井の奥底が爆ぜた。心臓が跳ねて項が燃えるように熱い。降谷の唇が赤井の唇を塞ぎ、離れた。ただ表面が触れて、離れて、繰り返す。口付けのようだが降谷の仕種は慎重な動きで、けして性や情の類ではない。だというのに鼓動を上げる赤井は何とも気まずく、申し訳なかった。
だって。
降谷零とキスをするなんて。
「辛かったら言ってね。ゆっくり息しながら」
「……ん……」
「うん、上手だよ。そのまま力抜いててね」
「……、」
子供にするように褒められ、なんだか妙な心地だ。腹を撫でられ目元は隠されているから余計に。
降谷に触れられているところ全てを意識する。気配、感覚、すべてを降谷に向けると、赤井の鼓動は次第に緩やかになってきた。だって心地良い。降谷の口付けは労わりばかりで、赤井は身も心も預けてしまう。だって気持ち良かった。
粘膜が触れてしまっても心地良さは変わらない。びくりと震えた赤井の腹を、降谷はゆっくりと柔らかに撫でて、摩る。
こわくない。
きもちいい。
ふるやくん。
身も心も任せるというのは、きっとこういうことなのだろう。
と、腹の中が動いた感覚に赤井は身震いする。
「っ……!」
「ん。もう大丈夫」
「……ぇ」
「よかった。すぐ食べれた」
「もう……?」
「ちゃんと食べたよ」
赤井の瞼を覆っていた掌が外された。視点が合わず瞬き、目前の降谷と目が合った。
「……ふるやくん」
「赤井が上手に身体預けてくれたからすぐ終わったよ。おつかれさま」
「……やはり」
「なにが?」
「すごうで……」
「ははっ、ありがと。そのまま寝ちゃっていいよ、身体も神経も疲れてるだろ」
「……うん……」
こくん。赤井は素直に頷いた。
ふわふわと、まだ夢の中にいるみたいだ。
指を動かしてみると赤井の意思でちゃんと動いた。伸ばして降谷の上着の裾を摘まむ。伸ばした赤井の指は降谷が握ってくれて、嬉しくて赤井は笑った。
「まだ触ってたほうが落ち着くかな」
「ふるやくん」
「うん」
「さわりたい」
「大丈夫。赤井が寝るまでずっと撫でてる」
降谷の掌が赤井の腹をやさしく覆った。
「入ってた痕跡はちょっと残ってると思う。でも赤井が回復したら痕跡も綺麗さっぱり消えるから大丈夫だよ。一日……二日くらいで消えるかな」
「ふるやくん」
「ん?」
「ありがとう」
「ふふ、どういたしまして」
「……ねむい……」
「寝ていいよ。もう大丈夫」
「こわくない…………」
もう怖くない。降谷が触れて、笑って、嬉しくて赤井も笑う。
「赤井が眠るまでこうしてるから怖くないよ」