キラは、警察庁の地下へと向かう階段をゆっくりと降りていった。この空間には、キラが階段を下りる足音だけが響いている。わずかに、水滴がしたたる音がした。床のシミが少し濃く感じた。
キラが初めて「ここ」に来たのは、警察官になって、ノエルのそばにいられるようになってからだ。ノエルから特別な場所に案内する、そう言われたときの胸の高まりを、今でも鮮明に覚えている。
あのとき、ノエルが囚人の前で静かに、ゆっくりとノエル自身の思想を話したとき、たしかに、あの人に神のような気配を感じた。ノエルに出会ってからキラの日々は輝いていたが、その中でもより輝いていた日だった、と思う。そのように、覚えている。
キラが地下牢の前を歩くと、囚人たちが牢屋の中から手を伸ばしてきた。キラはそれをうまく避け、奥の部屋へと進んでいく。この地下には表向きには囚人用の地下牢しかないのだが、この奥に、少しだけ開けた場所がある。キラはそこに、用事があった。
しばらく歩くと、重々しい鉄の扉が見えてきた。
キラは胸ポケットからカギを取り出し、南京錠を開ける。そしてドアノブに手をかけ——少しためらって、聞こえやすく短いノックを三回して、それに対する返事がないことを確認して——ドアを開けた。電気をつけ、簡素な部屋を見回した。
それほど広くない部屋に、棚が窮屈に並んでいた。その一つ一つに、ぎっしりとファイルが詰められている。申し訳程度の小さな椅子と机も、なんだか狭そうにしている気がした。
棚に詰め込まれたファイルの中には、これまで地下に収監されていた囚人のデータが保管されている。まさに、ノエルがやってきたことの集大成ともいうべきものだ。打ち込んだのは、印刷したのは、ファイルに入れたのはノエルじゃないかもしれない。ここに持ち運んだのも、同じく合鍵を持っている人たちかもしれない。
でも、これはノエルの部下がやったことで、最終的にノエルの成果となる。もしそれが成果にならなかったとしても、そのようなことを行うように部下を育てたのは、他の誰でもないノエルだ。そう指示をしたのも、ノエルだ。このファイルそのものが、ノエルの努力によるもの。ノエルの部下をまとめる、ノエルの築き上げてきた、ノエルが努力して手に入れたスキルによるもの。そう思うと、この空間が非常に愛しく感じるのだ。
キラは適当なファイルを一つ手に取った。少しページをめくってみると、囚人の行動や罪状、収監期間などがテンプレートに沿って細かく記載されていた。その作業はパソコンでの手打ちで行われるが、キラの手に取ったものはなぜか、手書きで書かれている。
少し古い記録とはいえ、わざわざ手書きで書かれてるなんて、いつの話だろうととキラは思った。キラが警察官になり、署で勤めるようになった時にはすでに、全ての書類を打ち込みして完成させていた。手書きでもいいと言われたが、キラにとっては打ち込む方が好きだったので一度も手書きで書いたことはない。
キラは懐かしさを嚙みしめつつ、再びファイルのページをめくる。ふと、あるページが目に留まった。その筆跡を、キラはどこかで見たような気がした。報告書の記録者記名欄を見る。そこにあるくせがありつつも、美しい筆記体の文字を見て、キラはやっぱり、と眉間にしわを寄せた。
アルナ・エドニス。彼は、キラの知る限り、ノエルに最も近い人間だ。ノエルに育てられたキラにとって、二人がいわゆる幼なじみだということは、当たり前のことだ。昔、ノエルが忙しくてどうしても手が離せない時に、アルナに面倒を見てもらったことを覚えている。
彼とはノエルを信仰し、教祖だと仰ぐ仲。ノエルの写真を互いに譲りあったり、ノエルの誕生日などは一緒に過ごしたりしている。ただ、彼にあまり好ましい印象を抱かない。
彼との間柄は上司と部下、家にいる「一人の人」としてのノエルを知っているたった二人の人間。それだけで十分で、それ以上を求めることはあまりない。
できれば、いつもノエルのそばにいたいと願っているキラにとって、アルナの近さはうらやましさもあり、悲しさもあり、怒りの対象でもあった。
ノエル様の一番近い隣にいたいのは、キラなのに。キラがノエル様を一番愛しているのに。キラがいたいところに、幼なじみだからという理由で近くにいる、そんなアルナを少し恨んでいた。アルナのことが嫌いなわけではないが、キラにとっては少しだけ、ほんの少しだけ、アルナのそういうところが苦手だった。
ただ、キラがノエルのそばに立ってならないことは、キラが一番理解していた。ただの信者、部下としてでなければ、ノエルの近くにはいられないことを、キラは知っていた。
その胸に抱く淡い想いを伝えることもかなわないと、キラは知っていた。だが、諦めることはできない。諦めるなんて選択肢は、そもそも、彼女にはないのだ。しかし、好きだなんて言う資格は、ノエルの隣に恋人として立つ資格は、キラにはない。
キラはため息をついた。もう、何回も考えて同じ結論を出している。今さら、その結論に落ち込んだって仕方ないのだ。昔から分かりきっていたことなのに、諦めきれない自分が悪いのだ。わざわざ苦しい道を自分で進んでいるのが、悪いのである。
キラはファイルを閉じて、元の場所に戻した。小さなイスに腰かけ、机に肘をつき、顔を両の手の平で覆う。こんなことして、落ち込んでいる暇もないほど忙しいというのに、自分はいったい何をしているのだろうか。キラは少し憂鬱になってきた。そもそも今日はあまりテンションの高い日ではない。寝起きも最悪だった。曲がり角で人にぶつかりそうになった。小石につまづいて、こけそうになった。それも人前で。
「だめね、今日……」
「なにがダメなの?」
その声に、思わず顔をあげた。息をのむ。
憂鬱な気持ちの(一部の)一因の、アルナが、こちらを心配そうに見ていた。その手には、きれいな新しいファイルがあった。
キラは落ち込んでいたのが悟られないよう急いで笑顔を作り、声のトーンを高くして、アルナに話しかけた。
「い、いつからいらしたんですか」
「ついさっき。キラがここに来るなんて、珍しいね。お邪魔だったかな?」
「いえ、そんなことはないです」
「だれか気になる囚人でもいた?」
アルナは壁に立てかけられていたパイプ椅子を出し、キラの正面に座る。手に持っているファイルを広げ、ページをめくった。
「びっくりするぐらいの美形なんて、いないはずなんだけど……」
「なに言ってるんですか。私にとっては、ノエル様が一番ですよ!」
「うんうん、そうだね」
僕もそうだよ、と言いながらアルナがファイルを閉じた。
この、軽々とした、ひょうひょうとした感じが苦手だ。どう取り繕っても、見透かされている感覚があって、少しだけ怖い。キラがアルナを苦手としているのも、きっと知っているんだろうな、と思うと、どうも心を開く気になれないのだ。
アルナは立ち上がり、ファイルをどこかへしまいに行く。静かな空間に、アルナの靴音だけが響いた。
アルナの姿が見えなくなった時、アルナはキラに話しかけた。
「どうして、ノエル様が一番って決めてるの?」
「え?」
その声がいつになく優しいように感じ、少し動揺する。
こんな声色で話しかけられたことなど、記憶にはない。幼い頃でも、こんな声色で話しかけられた経験はない。
少しだけ、警戒をする。なんでそんなことを聞くのか、分からなかった。
「いや、深い意図はなくてね。ただ単純に、気になっただけだよ」
「はあ……」
「怖いねぇ。ただ少し気になって、聞こうと思っただけなのに」
「そうですか……」
「僕は昔、ノエル様に神聖なものを感じたんだ。そこから僕は、ノエル様についていくと決めた。だから僕は、ノエル様のそばに居続けている。キラには、そういうのないの?」
「キ、キラは……」
なぜか、言葉が出てこなかった。
「別に無理しなくても。僕がいいって、言ってくれてもいいんだよ? 警察官だし、気遣いもできるいい男だし……」
「でもノエル様一番だからって、断るじゃないですか」
「う~ん、よく分かってるねえ」
アルナはそう言いながら、再び歩き始めた。地下室に靴音が響く。
キラ自身、どうしてノエルだけと決めてるのかと聞かれても、今のようにただ困るだけだ。ノエルに恋をしている、そのことを話すのは嫌だった。
なら、信者としての信仰を捧げているからとか、育て親だが本当の親のように思っていて、今の自分がいるのは彼がいてこそだからとか、そんなことを言えばいい。だが、うまく言葉にできない。それらがノエルが一番だという、うまい言い訳にならないのを、頭のどこかで分かっているから言わないような、そんな気がした。
キラはうまく考えがまとまらず、少し混乱していた。何か言わないと、と思うものの、うまく話すことができない。しばらく、キラは黙っていた。
「別に、無理して答えなくてもいいよ」
アルナの声が響いた。キラは少しムッとする。
「もう少しで結論出ると思うので、少し待ってください」
「いや無理しなくていいって。そこまでして聞きたいわけじゃないよ」
少し呆れたような声色だった。顔が見えないので、どんな表情をしているのか分からない。
「キラのことだから、拾って育ててくれたノエル様が本当の親みたいで、すごく感謝をしているんだろう?」
「は、はい」
「それを言えばいいのに。何をそんなに悩んでいるの?」
「え、ええと」
いい具合の、長い付き合いのあるアルナを納得させられるような言葉は、出てこなかった。再び、黙り込んでしまう。
「そんなに言葉選びに時間がかかるなんて、何だか珍しいね」
「……うまく言葉にできなくて」
正直に、言葉にしてみる。顔が見えないので、ほんの少し言い出しやすかった。
「僕も、ノエル様への感情はうまく言い表せないよ。上司として、教祖として尊敬してるし、幼なじみだけど家族みたいにも思っている。どことなく母性本能をくすぐられるから——まあ僕男だけど。赤ちゃんみたいとも思う。複雑だよ」
「そうなんですね」
「もし僕が、ノエル様に対して、だれにも言えないような感情を抱えているとするよ?」
アルナは一つ呼吸を置いた。
少しドキッとした。キラと同じ状況だ。だれにも言えない、恋情という感情を抱えている。
アルナにもそのような気持ちがあるのだろうか。少し、気になった。
「それがノエル様に対する唯一の感情だとしても、それは言わなくてもいいって僕は思うし、言わないように気を付けると思う。言ったでしょ、無理しなくていい。だれに、どんな秘密があってもいい。それはキラも同じだ。もちろん、ノエル様もね」
アルナが本棚の陰から顔を出した。こちらに寄ってきて、パイプ椅子に座る。狭い机の下で、キラとアルナの足がくっつきそうだった。足を少し下げた。
「君も、自分で物事を考えられる年になった。僕やノエル様が手取り足取り、物事を教える必要はなくなった。答えること、答えないことは選んでいい。僕には言えない、それが答えでもいいんだよ。もう一回聞くけど……キラはノエル様のこと、どう思ってるの?」
アルナはキラの目を見て、にっこりと笑った。
心のどこかで感じていた不安を取り除かれた気がして、少し肩が軽くなる。キラは少し息を吸った。
「その質問には、答えませんよ」
アルナは少し嬉しいような、悲しいような顔をした。
そんな顔をされるとは思っていなくて、キラは少し驚いた。やっぱり何か言おうかと口を開きかけるが、やめた。
アルナは少しふてくされたような顔をして、机に両肘をついた。
「あ、やっぱり? ……自分で言わなくていいって言ったけど、そう言われると気になるなあ」
「言いませんよ、答えなくていいって言ったのはどちらさまでしたっけ?」
「ぼくでーーす」
アルナはだるそうに答えた。机の上に両腕を組み、その上に頭を置く。
今からここで寝るのだろうか。なら、とキラは立ち上がった。アルナが少し驚いたような顔をしていた。
「あれ、どこ行くの?」
「そろそろ、デスクに戻ろうと思いまして。これ以上、残業時間が増えては困るので」
「わあ、偉いねえ。僕はもうちょっとここにいようかなあ」
昨日遅かったし、と話すアルナ。少しだけ上げられた顔からわずかに見える、目の下にかすかにクマがあるのが見えた。
「最近外回り多くなってさあ。上司に嫌われてんのかなあ。やんなっちゃうよ」
「上司はノエル様ですよね? ノエル様がそんなことをするはずないと思いますけど」
「じゃ、なんでかなあ」
「単純に、なにかを警戒でもしてるんじゃないですか?」
「このあいだ、例の宗教に突入したいとか、なんとか言ってたよ」
「じゃあ、それですね」
常にノエルと一緒にいる、アルナがぼやいた。例の、というのはノエルが目の敵にしている宗教のことだ。どうして目の敵にしているのか、キラには分からない。ノエルに直接聞いたこともないし、噂話も聞こうとはしなかった。
世の中には、知らなくてもいいことが、言わなくてもいいことがあることを、キラはよく知っていた。アルナが眠る気でいるのも、業務をサボろうとしているのも、見て見ぬふりして業務に戻る。キラにできるのは、それだけだ。
キラはアルナに向かい、敬礼をする。
「失礼いたします」
「ん~、そんなにかしこまらなくてもいいのに」
「いえ、上司なので」
形式上、アルナはキラの直属の上司になる。いくら昔からの顔なじみとはいえ、組織の中ではかしこまるべきだ。キラはノエルに、そう教わった。
「昔からの仲なのに。非公式の場くらい、かしこまらなくてもいいんだよ」
「じゃあ、あなたはノエル様と職場でも、非公式の場なら親しくしますか?」
「人目がなければね」
「……聞くんじゃなかった」
キラは心の中で舌打ちしながら、一礼した。棚の間を縫って、ドアノブを握る。
「……ちょっとくらい、勇気出してみてもいいんじゃない?」
アルナの一言で、一瞬固まる。すぐにドアノブを回し、ドアを開けた。
囚人のうめき声が聞こえる。そういえば、囚人の間でちょっとした風邪が流行っているんだった。熱にうなされているものがいると、ノエルが話していたのを思い出す。
「風邪にはお気をつけて」
「心配してもらって、どうも」
部屋から出て、ドアノブを回す。ガチャ、と重みのある音がした。