盈月
グラス同士がぶつかる涼しげな音が、所在無さげに座布団に座る和久井譲介のすぐとなりの席から響く。にぎやかな笑い声、喧騒は他人事のように遠くに感じる。
以前診察した方の邸に招かれてご相伴にあずかり、予想どおり近隣の住民も寄りあう宴会と化していた。お邪魔するのは何度かあったがやはり馴染めないまま、注いでもらったジュースを飲み干していく。
この村に移住してきた頃よりも会話は弾むというより、譲介が口を開かなくともつづく相手のおしゃべりがスムーズになった、という有様であった。だがそうして少しずつ、自身の抱える複雑な歪みに向き合い、人として不足しているものを知ることができた。譲介自ら住民とコミュニケーションをとろうと四苦八苦し、名前を覚えられ、あいさつする住民たちの顔と名前、カルテの内容が一致するようになると、教科書の問題では決して得られぬ類いの、この村の一員になってきたのだと喜びを覚えた。
それでも酒が絡む席となると話は別である。狭い世界で過ごし、同世代以外との会話をする経験が乏しい譲介にとって社交的な振舞いは非常に気を使う。幼い頃、児童養護施設では降りかかる火の粉を避けるため愛想を振り撒いていた。しかし今、この村では誰も自分を害さない。笑顔の仮面で取り繕うのは不要だと思わないがここではあまり意味を成さななかった。自分の晒し方を未だつかみあぐねていた。
宵闇にぽつんと浮かぶ欠けた月が、田舎道を往く譲介のはるか頭上で輝いていた。
酒好きの住民にノンアルならどうだ、とアルコール度数がほぼ無い缶チューハイを勧められ、不良グループとつるんでいた時期に試したこともあり一本だけなら、といただいてしまったが今は後悔している。ノンアルコールといえど度数は完全にゼロではなく、缶にはアルコール度数1%未満と表示されていた。未だ馴染めない大勢の集まりに気疲れし、酔いがまわって軽い頭痛、胃もたれもおきている。
酒の席で、飲酒する譲介をみつけた他の住民が「こらっ、譲介くん、未成年っていってるでしょ!」と譲介に向けてではなく勧めた男を窘めた。大人の責任を己に課せられていない事実が、いくら医療の知識を振りかざそうとまだ自分は子どもだと言われているようでなんだか恥ずかしかった。
足元がおぼつかなくなる前に早々に辞去し、月明かりに照らされた畦道の帰路に着く。普段よりゆっくりと、一歩一歩脚を動かすうち譲介の歩んできた過去が脳裏に映る。血塗れのナイフを握りしめたみじめな子どもが必死に生きてきた、傷だらけの道程。
「ハァ……」
極小量のアルコールが悪さをし、くわえて人気の全くない暗闇が孤独感をいや増してくる。
絡みついてくる嫌な思い出を振り払うように早歩き、体がよけいにぶれる。
「……うわあっ」
地面から突出した木の根につまづき、盛大に砂利道へと全身をしたたかに打ち付けてしまった。
視界が急に低いところへ移り変わり、目を白黒させた。草と土の匂いが近い。数秒して状況を理解すると痛みがこみ上げてくる。左胸にある創傷にちょうど尖った石が食いこんでいた。
「うぐ……ぅ、あ……ッ」
肋骨を押される厭な鈍痛がひろがる。地面についた手のひらや膝の刺すような痺れに顔を顰めながら、恐る恐る上半身を起こし、服の中に手を入れる。出血はしていないようだった。自分でつけた傷痕も、彼の人が残した手術痕もしっかり縫合されている証左をみつけてしまい、なんだか笑いたくなってしまった。
「はは、はぁ……くそっ……いってぇ……」
痣をこさえただろう胸を抑えながら立ち上がる。強打した両膝が動きを拒んでいるが、叱咤するように脚をひきずり歩きはじめた。
もし自分がもっと幼かったら、まわりの目を気にせず泣き喚いただろうか。いたい、と愚直に叫べたら保護者がとんできて、抱きしめて慰めてくれただろうか。
──もぬけの殻となったマンションの一室に、今でも二人で住んでいただろうか。
そんな詮無いことを妄想し、頭を振り、先程より重くなった脚の痛みを誤魔化し道を歩く。
診療所の玄関上にある電灯が青白く光っていた。帰りが遅くなると言付けていたので目印に点けていたのだろう。小さな気遣いが身に沁みる。
なるべく音を立てないように戸を開け、手を洗ってからまっすぐ自分の部屋へ向かう。今すぐ横になりたいため、通り過ぎた一室の扉から細く明かりが漏れていたのも気付かずに。
帰りついた自室は当然ながら静かであった。泥だらけのズボンとトレーナーを脱ぎ捨て、一目散にベッドに潜りこんだ。冷えたシーツが肌の温度を奪い、譲介は体を丸め、悪寒や吐き気、体の彼方此方でうったえる疼痛をむりやり無視して目を瞑った。
色の無い夢をみる。譲介は薄暗闇の路地を歩いていた。譲介のからだは現在よりも縮み、視界のはるか上から誰かの声がきこえる。誰かと手を繋ぎ、切羽詰まった様子で早歩きになり、後方から耳障りな車のブレーキ音が鳴る。複数人の荒々しい怒号も追いかけてくる。幼くて弱い時分の譲介はうずくまって耳を塞ぐ。手を繋いでくれた人はいつの間にか消え、目前では電車が何本も横切っていく。胸に刺さったナイフが氷のように冷たい。誰もいない。とてつもなく、寒かった。
***
窓辺からかすかな月光が差し込む部屋で、凍えて震える譲介を見下ろす者がいた。物音を立てぬよう壁際に杖を立て掛けてベッドのそばに膝を着き、苦悶に満ちた顔を覗き込む。長いまつ毛が濡れて、涙滴を蒼褪めた頬に散らし、指先が白くなるまでシーツを握りしめている。
「……」
明らかに尋常ではない寝相に、白いコートを着た侵入者は起こそうか逡巡する。迷いながら、頑なに握る手を大きな手で包みこんだ。凍りついた指先を両手であたため、ひとつずつほどいていく。
慰めや同情だけで彼の手を取れやしない。己にそんな資格は無いと悟っている。医師としての自負が見過ごせないだけ、と言い訳めいたことを考え、自嘲した。
ただ手をにぎっただけ──にぎる方は真剣な、彼の平穏を祈るような想いでいた──で効果があったのか、譲介の表情は和らぎ、呼吸もゆるやかになった。
もう頃合いだろうと、そっと手を離す。ぬくもりは儚く冴えた空気の温度と同化していく。
譲介のまぶたが時折ふるえ、流れる涙を拭おうと指を伸ばしたところ、
「うぅ……ん……」
時間切れだ。杖を掴んで立ち上がり、ベッドに背を向けた。
「…………て……」
振り返らずに、扉に手をかける。
「まって……」
部屋を出る直前になって一瞥する。譲介のまぶたは閉じられており、先ほどよりはマシな顔だが眉間に皺を寄せ、譫言を呟いていた。
去ることは慣れているはずなのに、脚が動きを拒むように重い。
「……独りに、しないで……」
譲介の言葉が脚を縛り、心を締めつける。それでも杖で床を押し、弾みをつけて歩きだす。この不安定な子どもに必要なのは慢性化した毒のような己ではない。人生で何度も味わった小さな絶望に見ないふりをし、ドクターTETSUは目的地を定め、愛車を駆って早々に村を出立した。探し出さなければ。譲介のための劇薬を。
***
声が嗄れるまで何度も呼びかけるが、彼は一度も振り返らず去っていった。
あの広い背中を夢にみる。生きる術を教えてくれたひと。様々な初めてを、生き方を教わった。膚だけでなく、目に見えない胸の奥が引き裂かれる痛みも残していってしまった。夢の中で振り返りもしないあなたが憎くて憎くて、寂しくてたまらない。
日が昇り、呆けた頭で起床する。起き上がる時に胸の痣が引き攣れ、昨夜の不名誉な出来事をいやでも思い起こさせる。二日酔いには運良く見舞われなかった。
習慣で、どんなに夜更かししてもまるで寺の修行のように早朝六時には起き、日課の掃除、終わりしだい勉強を始める。
無力な自分が心底嫌いだった。弱い者は、強い者に搾取される運命だから。だが今は、泣くことしかできなかった幼子は自らの力で立ち上がり、彼の背中を追いかけずとも彼を目指し歩み続ける。
窓からのぞく青空には、昨夜より月齢を重ねた白い三日月が浮かんでいた。