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    365nemuinerune

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    365nemuinerune

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    ※全年齢程度ですが、若干のホラー要素やメインキャラ以外の人死に、惨たらしい表現を含みます。
    ※オリジナルキャラが多数います。そんな設定聞いたことねーぞというものは大体捏造なのでそんなもんかな程度でお願いします。

    始まりは、きっと 静謐な月夜のことだった。
      
     朝から降り続いた雪がようやく止み、辺り一面の白亜を澄んだ青硝子のような夜の色が覆っていた。
     吐く息は白く、まろい頰に寒気が容赦なく突き刺さる。耳当てをしていても尚、耳の奥が冷たい。行く宛などなかったが、どうにも腹の中にある澱ようなものが絶えず小さな心を揺らしてざわつかせるため、やむなく歩き続けていた。まだそう大きくもないブーツに包まれた足が少しずつ疲労で重たくなっていくのを不安と共に押し殺して。
     迎えはこないだろう。家には自分と全く同じ姿をしたものが、今も姉たちのわがままに付き合っているはずだから。
     
     魔法を使えない二人の姉が、魔法の使える自分を良いように使おうとするのが、ケイトは歳を重ねるごとに面白くなくなっていった。エレメンタリースクールに通う頃になり、多くの同級生ができるとその傾向は顕著になった。今日だって、ケイトには関係のない悪戯の後始末を押し付けられて問答していたところを同級生のハンスに見られて揶揄われた。この歳まで姉とベタベタしているのは変だと、そう主張したいらしい。大方ハンスの好きな女の子がケイトの髪型を褒めているのを僻んだことによる言いがかりなのだろう。その女の子だって、どうせ転校生のケイトが珍しいだけなのだろうけど。
     だが、こんなことは一度や二度じゃなかった。正直なところ、ケイトはもううんざりしていた。母は姉たちが弟を「可愛がる」のをケイトがどんなに訴えても微笑ましそうに見ているだけ。父は仕事が忙しいから相談できないし、そもそも姉二人に甘いから味方にはなってくれないだろう。自分は真っ当に扱ってほしいだけなのに、それを口にすると「可愛くない」なんて言われて睨まれてしまう。四面楚歌だ。明るくて陽気なケイトじゃないと、ケイトは家族の仲間にすらなれないのだと幼心に肌で感じていた。
     なんだかそんな日々が続くとたまに嫌になって考えてしまう。ここではないどこか遠くに行ってしまいたいと。自分が姉たちの弟である限り、同じような状況が続くというのなら、いっそのこと弟なんてやめてしまいたいと。

     けど実際のところ、まだ未成年のケイトには自力でできることに限りがある。こうやって夜の散歩に出かけるのはせめてもの抵抗だった。自分は自由なのだと信じたかったのかもしれないし、この身の置き場のない疎外感を薄めたかったのかもしれない。そうすればちっぽけでひび割れた自尊心を僅かながらに癒すことができる気がした。魔力を持った子供は事件や犯罪に巻き込まれることも多いから無事帰れただけでなんだか自分がすごい人間に思えるのだ。そのちょっとしたスリルがまだ大人にはなれないケイトの気晴らしだった。
     
     針葉樹の広がる森の手前までたどり着いて、ケイトはその場に寝転がった。疲れてしまったのもあるけれど、こうやってひとけのない静かな場所で星空を見上げるのが好きだった。赤い星と青い星と白い星を指でなぞって、あのどこかに自分をそのままに受け入れてくれる場所があったらいいのになんて夢想しながら、潤んだ目を鼻を啜って、固く目を瞑り誤魔化した。
     
    「……迷子か?」
     
     聞こえるはずのない声にケイトは跳ね起きた。心臓が飛び跳ねて、臓腑に恐怖を薄めた培養液のような物が水位を上げて這い上がってくるような苦しさを感じた。振り向くと森の入り口に自分と同じくらいに子供がいて、こちらの様子を窺っている。それを見て、目に見えてケイトはほっとした。先ほどケイトの鼓膜に滑り込んだ声は大人のような深みを持っていた気がしたが、どうやら気のせいだったようだ。
     そうとわかれば。ケイトはまじまじと目の前の少年を観察した。冷たい空気でわかりにくいが、鼻腔を撫でた少し不思議な香りは白檀だろうか。そして物取りだとかそう言った子供にはどうしたって見えない品の良さがある。見覚えはないが、ケイトはここに越して間もないので、どこの子だとかそういったことはわからない。ただ声をかけてきた少年は一度見たらなかなか忘れられないと思うほどには特徴的だった。人間離れしているほどに端正な容姿。月に照らされて、闇夜に浮かび上がる白い肌は光り輝いている。そして月がなかったら暗闇に溶けてしまっていただろうと思える程に、髪も衣服も頭に生えたツノまで深い黒を隙なく纏っていた。ヤギか何かの獣人族の子供なのだろうかとケイトは思った。
     
    「違うよ。散歩してて休んでいただけ。こうやって寝転がって空を見るの、結構楽しいから」
    「そうか、人間の子どもがこんな夜更けにこのようなひとけのないところにいたら、人攫いに会うのではないか?」
    「それは言いっこなし。それにちょっとだけなら大丈夫。君もいるし、ね」
    「……そういうものか?」
    「そ。そーゆーもの」
     
     自分も子どもなのにおかしいことを言う子だなとケイトは思った。その癖、ケイトがぽんぽんと隣を叩くと、少年はいそいそと隣に来て先程のケイトの真似をして寝転がった。上等そうなコートの黒がたちまち雪の白とまだらになる。
     
    「…やはりこの姿だと、警戒心が薄れるのか」
    「ん?なんか言った?」
    「いや、何も?……そうか、人間はこうやって星を眺めるのだな」
     
     感心したように仰向けに寝転んだ少年が目を見開く。神秘めいた瞳の中でライムグリーンの光が星空のように瞬いていた。ケイトがくしゃみをすると、少年はケイトの方を見た。目が合って、少しだけ距離が近づいた気がした。
     
    「きみって、不思議な色をしているね」
    「……僕から見ればお前の方がよほど不思議な色だ。鮮やかで、まるで冬の中に春が咲くのを見た気分だ。……悪くないな」
     
     目を眇めて、悪くないなんて言われ方をされても、ケイトは面白い喋り方をする子だなという程度にしか思わなかった。少年はケイトの頬に指先で触れた。ひたりと輪郭を撫でたそれは少しも熱を持っていなかった。ケイト自身が寒い中に長時間いて感覚が麻痺しているというわけではなく、他者が触れている重さはあるのに熱だけを知覚できなかった。すっかり冷え切ってしまったのだと思い、ケイトが手袋を外してその指をきゅっと握ると、少年は僅かに目を見開いた。
     
    「手袋、半分こしよう」
     
     差し出した手袋を受け取って、少年は見よう見まねでそれを空いた手に被せた。どう?とケイトが聞くと、ややあってから悪くないなと穏やかな声が返ってくる。悪くないは彼の口癖なのかもしれない。ちょっとかっこいいなとケイトは思う。ケイトが言ったら何気取ってんのと姉たちに揶揄われそうだけど、目の前の少年の大人びた雰囲気にはよく合っていた。
     ぽつぽつと話をしながら空を眺めていたら不意に星がひとつ流れていった。ケイトが歓声を上げると少年は目をまあるくしてから「あれが見れたのがそんなに嬉しいのか」と尋ねてきた。
     
    「だってあんまり見れないから。消えちゃう前に願い事三回唱えたら、叶うんだって」
     
     うまく言えなかったなあとケイトが息を吐くと、納得したように少年は瞬きをした。それから上を見ているようにとケイトに言うものだから、ケイトは素直に空を見上げた。
     
    「わっ」
     
     刹那、星が流れていく。一つ、二つと始まって、次々に。少年が指をついと振ると、スコールのように星が流れる。キラキラと輝く瞳を向けられて、少年はまんざらでもないという顔で鼻を鳴らした。
     
    「すごいすごい!ねえ、きみは魔法が使えるの?」
    「まあな。あの程度、僕には造作にもないことだ」
     
     少年が起き上がる。そうしてケイトを覗き込むとにっこりしてこう言った。
     
    「願い事は叶いそうか?」

     願い事。ケイトは考えた。
     自分の願い事はなんだろうか。
     ここではないどこかへ行くこと?姉たちの弟をやめて他のおうちの子供になること?確かにそれは先ほどまで痛切に望んでいたものに違いなかった。思えば目の前の少年と出会うまで、ここで寝転がって星を見ていたケイトの心の中を占めていたのは冷たいくらいの悲しさだったから。でも今はどうだろうか。
     手袋をしていない小さな二つの手が繋がっているのをみて、ケイトは心の中の靄がスッと晴れていくのを感じた。靄が晴れると、温かい蝋燭の火が真っ暗な心を灯している。
     逡巡して、ケイトは小さく首を振った。ようやく答えが出たような気がした。きっとそのどちらも違う。きっと本当の願いは。
     
    「きっと、叶ったよ。…ありがと」
    「それは重畳だ」
    「きみの願いは叶った?」
    「……僕の願いか。考えたこともなかったな」
     
     ケイトの問いに対して、少年は指を顎にあてて考えていた。知的な仕草だが、ケイトの貸したノルディック柄のカラフルな手袋に包まれた手では可愛さが勝ってしまう。
     だとしても長いまつ毛や真っ黒で艶やかな髪は、ケイトが今まで出会ってきたどんな子よりもきれいだった。聡明そうな横顔が視線だけでケイトを捉えて、目が合うとまるで嘘みたいにあどけなく微笑んだ。それを見て、ケイトはふわふわとした空の雲を口に入れたらきっとこんな気持ちになるだろうと考えた。
     
    「ならお前が僕の願いを叶えてくれるか?」
    「オレが?…オレにできるかな」
     
     姉二人の我儘ばっかり聞いてきたからちょっとした魔法なら使えるけれど、目の前の少年にはきっとそんな程度の魔法を求めてはいないだろう。けれどできることなら叶えてあげたいと思った。だって、ケイトは叶えてもらったから。
     
    「僕に人の世のことを教えてほしい」
     
     ひとのよ、と口の中で復唱したが、それが具体的にどんなことを指すのかケイトには皆目検討がつかなかった。困った顔をして唇をきゅっと引き結んでは、もごもごと口籠もるのを繰り返すケイトを少年は柔らかい目で見ている。そして、落ち着いた声でそっと助け舟を出した。
     
    「……何でもいいんだ。最近起きた事件や、お前の普段の暮らしでも、好きな物でも、流行しているものでも、本当に何でも」
     
     そういえばケイトの母親が今夜の夕飯は何を食べたいかと尋ねた時、ケイトが何でもいいよと言うと少し困った顔で笑うのはきっとこんな気持ちだったからなんだろうとケイトは思った。実際のところは姉二人はあれがいいこれがいいと姦しいため、エレメンタリースクールにして空気を読みなんでも良いと言う末っ子男児に彼の母親は助けられていたのだが。
     なんにせよ当たり前のことを話すのはなかなか難しかったが、賑やかな姉が二人もいたことや、知っていれば転校先のクラスでも友達ができやすいこともあり、流行に関しては多少明るいことが功を奏した。同い年くらいの子どもの間で流行っているメディア、遊び、ファッション。少年は大人びていたので、楽しい話題なのかはわからなかったが、興味深そうには聞いていた。一度話せば何となく方向性が見えてくるもので、あれもこれもと話を繋げることができた。内容はお髭船長の冒険シリーズの話から、スマホのアプリ、ご近所で飼っていたリスが逃げ出して帰って来なかったこと、姉の応援していたアイドルの熱愛報道、果ては母親がニュースを見てはしきりに心配していた増税や児童連続誘拐事件の話まで多岐に渡り、全てを話終わる頃には月の位置も大分移動していた。
     
     
     翌朝、夜の散歩に出た後どうやって帰ったかも覚えていないケイトは、ベッドに伏せっていた。熱を出して寝込むそのときの彼は知る由もなかったが、リビングのテレビからは突如として観測された大流星についてのニュースがどのチャンネルでもしきりに流れていた。
     
     
      
     ✴︎ ✴︎ ✴︎
      

     –––ナイトレイブンカレッジの入学式は何かしら騒ぎが起こる。
     それはこの学園に通うものなら、誰だって一度は聞いたことのある由緒正しきジンクスである。
     果たしてケイト・ダイヤモンドの代の入学式でも、それはきっちりと効力を発揮して見せた。まだケイトが真新しい式典服の着こなしに戸惑っていたあの日、鏡の間はとある噂で持ちきりだった。

    「なんでもあのマレウス・ドラコニアが新入生としてナイトレイブンカレッジに入学してくるらしい」
     
     周りの様子を伺って、その噂を早いうちから耳にしていたケイトはふうんと内心冷めた心地で目を伏せた。荘厳な鏡の間はささめき聲の洪水で、噂を鵜呑みにした連中の中には周りを見渡して無遠慮にマレウスを探しているものもいた。
     しかし誰一人として、それらしい影を見つけることは叶わなかった。マレウス・ドラコニアの名を知らぬ魔法士なんて、きっとこの世にはいない。それくらい彼は有名で、なんといっても世界で五本の指に入るくらい強く、また規格外な存在だった。だが一方で、世間から隔絶された茨の谷の次期当主の姿を直接見る機会などそうあるものではない。各々頭に描いたマレウス•ドラコニアを見つけられなかった野次馬たちは、やがて一人また一人と諦めていった。
     彼らが再び色めきだったのは、濡羽色の妖しい仮面の男に挨拶もそこそこにこう説明されたときだ。
     
    「それでは寮分けを行いましょう。先頭から順番に前へ。寮分けはこの闇の鏡を使って行います。闇の鏡が貴方がたひとりひとりの魂の資質を見抜き、適切な寮へと振り分けてくれることでしょう。鏡に聞かれたら、名前を答えること。いいですね?」
     
     実際に進み出た生徒の一人が鏡の中の男にハーツラビュル寮と言い渡されたとき、これなら自ら探さなくとも噂の真偽はほどなくはっきりするじゃないかと先程野次馬根性を働かせた者たちは揃って肩をすくめたのだった。
     
     斯くして、マレウスは入学式には現れなかった。
     しかし結論から言えば噂は真実であった。寮選別がほどなく終わりに差し掛かった頃、濡羽色の男の一言でそれはほどなく明らかとなった。
     曰く、棺の鍵の数と鏡が寮分けした新入生の数が合わない。
     学園長と名乗る男は慌てた様子で鏡の間を後にし、辺りは一時騒然となった。誰かが興奮したように言う。マレウス・ドラゴニアが入学式で見当たらなかったのは、噂がガセだったからじゃない。とっくに棺から抜け出して鏡の間を立ち去った後だったからなのだ!
     
     結局入学式がお開きになった後で噂の渦中の人物、マレウスはあっさりと見つかった。同じく新入生でお目付け役のリリア・ヴァンルージュと共に優雅に庭園を散策していたらしい。そういうわけで、同級生にも関わらずケイトがマレウスの顔をちゃんと見たのはもう少し後のことだった。
     
     
     ✴︎ ✴︎ ✴︎
      
     
     秋が過ぎ去り、冬を通り越し、季節は春。ヒヤシンスは歌い、パーゴラはパステルピンクがたわわに溢れていた。透き通った水は緑色の波紋を作り、フラミンゴ達は淑やかに羽を伸ばしてはお喋りに興じるように鳴いた。少し葉を掻き分ければ、ずっしりとした芋虫が葉の上でパイプをふかせては輪っかになった煙を吐き出している。
     瑞々しい葉と花と水と土の香りに生き物が息づく華やかな庭園のはずれ。
     ケイトに言わせれば、正に映えるロケーションそのものというやつだった。先輩曰く、六月のきらめく昼下がりの賑やかさに勝るものはないとのことだが、それにしたってやはり春は良い。加えて休日の早朝ともなれば、人通りもあまりない。賑やかなのは嫌いじゃないけど、こういうとき邪魔が入らないのは大事なことだ。いい写真というのは被写体とじっくり向き合ってこそ生まれるものだから。
     
     なあんて、それっぽいことを考えてみたが、ケイトは別にプロでもなければ、その辺りのこだわりはあんまりない。撮った写真を誰かに見せたことなんて一度もなかった。無論、見せたいと思ったことも。だから誰にも迷惑をかけず、悲しませず、自分がハッピーになれればそれでいいのだ。今日だって、普段ならばスマホのカメラ機能を駆使するところだったけれど、買ったばかりの一眼レフを試すために朝一で散歩に出ていたに過ぎない。といっても、寮を出るには外出許可がいるから、寮周辺を撮影するに留めていたけれど。
     それにしても気持ちの良い朝だった。スニーカーで踏みしめる土も柔らかくて、たまに吹く風が木々に伸びる枝葉をくまなく揺らす。暫く宛もなく歩きながら、何となく良いなと思うものに気ままにファインダーを向けて遊んでいた。このまま歩いたらどこに出るのか。入学して半年経っても未知のままだ。そのような感じでハーツラビュルのどこまでも続く森の中をゆったりと歩いていたが、やがてケイトは不思議な風景に足を止めた。目先の景色には先客がいる。一面の春の中で、彼のいる一角だけがまるで冬を育て続けたかのようだった。
     
     
     
     ✴︎ ✴︎ ✴︎
     
     
     
     その人物と初めて言葉を交わしたのち、ケイトにはわかったことがいくつかある。まず、花々の鮮やかな春色の中にある黒も存外悪くないということ。それから噂では屈強でドラゴンのような見た目をしていると言われていたマレウスは、実の所人形のように美しい男であるということ。
     
     どんな花が一番映えるだろうか。薔薇は勿論、百合も良いだろう。パンジー、菫だと可愛らしすぎるかもしれない。オダマキ、クレマチス、サルビアはきっと似合うが面白みがない。極彩色の中だって彼は霞もしないだろう。姉の影響で花には詳しい。ケイトは頭の中であれやこれやと彼に似合う花を探した。名も知らぬ一等美しい被写体はすらりとした背丈で、漆黒の美しい髪の隙間からは二つの角が生えている。現実感が希薄で、ケイトの目には、まるで御伽噺の主人公みたいにみえた。
     男は手近な枝にとまる小鳥たちにそっと指先を差し出しているところだった。しかし小鳥たちはその指先を見るや否や次々と飛び立ってしまい、色とりどりの羽だけが彼の周りに舞い降りて地面へと着地した。少しだけ目を細め、男もおもむろに指先を地面へ向けて下ろした。あたかもこうなることはわかっていたかのような仕草だった。
     しかしその一連の情景さえ、どこか退廃的でケイトは目が離せなかった。そっとファインダーを覗き込んで、誰かの秘密を窺うみたいに息を潜めた。遮蔽物は何もない。ケイトを隠すものはなく、男からはケイトがよく見えた。男がケイトに話しかけてもケイトはそれが自分に対してだとは夢にも思わなかった。しかしここはナイトレイブンカレッジ。廊下に飾られた美しい絵画の中の人物だって、生徒たちに話しかけるのだ。
     
    「聞いているのか?」
     
     目に見えて不機嫌そうに細められたライムグリーンの双眸がカメラのレンズ越しのケイトを奥深くまで鋭く射抜いた。そういえば目の前に広がる全ては現実のものだった。そう思い出したケイトはカメラを胸元に下ろして瞬きをした。凍てつくような視線と共に目の前の男が頬を膨らませてみせた。今にして思えば、それはケイトの想像していたマレウス・ドラコニアよりも何倍も幼い表情に思えた。
     
    「えっ!ごめんごめん!あんまりに綺麗だから見惚れちゃってた!」
     
     我に帰ったケイトがすかさず謝罪と共に素直に告白すると、男はそのライムグリーンをまんまるにして何度か瞬きをした。
     
    「綺麗?それは僕に向かって言っているのか?」
     
     その物言いにわざとらしさも皮肉もなかった。彼は本当にケイトの言葉に心から驚いている。それから彼は逡巡の後にケイトの前に手を差し出した。
     
    「僕はマレウス。マレウス•ドラコニアだ。…お前の名を聞いても?」
     
     あんぐりと口を開けて瞠目したケイトを見て、マレウスはやっと微笑んだ。その笑みには些かいじわるな色が滲んでいた。
     
    「…マジ?」
     
     ケイトの様子に、マレウスは満足そうに頷いた。先程小鳥たちに尽く振られた手は、しかしマレウスの予想に反して今度は勢いよく握り返されたのだった。
     
    「本物?!ってか同じ学年だよね!あのマレウスくんに会えるなんて感激!けーくん朝からついてる〜!」
     
     マレウスの手を包んだ両手を上下に振って、ケイトが身を乗り出す。マレウスは目を白黒させた。近くで様子を見ていた鳥たちもケイトの声に驚いて再び羽を散らして飛び立った。
     
    「あっ!オレの名前はケイト・ダイヤモンド。けーくんとかケイトとか適当に呼んでね。それにしても、同学年なのに今初対面ってウケる!マレウスくんはどーしてこんなとこに?ディアソムニア寮じゃなかったっけ?」
     
     迷ったなら案内しよっか?とケイトはマレウスの顔を覗き込んだ。近づいてみたらマレウスは大分大きく、恐らくハーツラビュルでこんなに背が高い人物はいないだろうと密かに感心した。マレウスの視線がケイトの顔から手元に移る。握ったままのそれを見て、ケイトはまたあっごめん!と声をあげた。両手がぱっと離れ、ケイトの手の温度だけがマレウスの掌と甲に残った。
     
    「構わない。手を差し出したのは僕だ」
     
     視線は手に向かったまま、マレウスが首を傾ける。その仕草に合わせて黒いツノがゆらりと横に揺れた。黒の光沢に木漏れ日が映る。
     
    「それから先程の問いの答えだが、別に迷っていたわけではない。ハーツラビュル寮の薔薇は大層美しいと聞いていたからな。散歩がてら、見にきたんだ」
     
     その説明に、ケイトはにこにこと相槌を打った。薔薇の木の迷路は逆の方だとは気づいていたが、そこに触れるのは野暮だと思った。早朝の散歩で、とんでもないレアキャラを引き当ててしまったものだ。いつもだったら記念に一枚、一緒にスマートフォンで撮影することを持ちかけるのだったが、生憎敢えて部屋に置いてきてしまっている。だが、なんとなくそれで良かったと感じていた。
     
    「薔薇、好きなんだ?いいよね〜、ハーツラビュルはどこもフォトジェニックでしょ?」
    「ふぉとじぇ……?その言葉はよくわからないが、赤い薔薇が見事だった。さぞ手入れに手間をかけているのだろうな」
     
     思慮深さを窺わせる物言いやまっすぐと褒める素直さは彼の美徳なのだろう。噂に聞くより気さくで、ケイトはマレウスのことを好ましく思った。
     何か返そうと思った言葉は、しかし突如として強く吹いた風に掻き消えた。反射的に目を閉じて髪を抑える。ようやく収まった時、目をこわごわ開けて、途切れた会話の続きをと思ったケイトはしかし瞬きを繰り返した。
     
     冬の景色から、ぱらぱらと降り注ぐ春。
     少し離れた場所に植えられている木々に咲いていた花々だろうか。風に巻き取られたのか、雪のようにぽつぽつと二人の上から地面へと落ちていく。その花びらがマレウスの髪の毛に引っかかって、途端彼の周りは賑やかな春の彩りになっていった。なんだかそれはどこか懐かしい夢の景色によく似ていた。デジャブというやつだろうか。ケイトがくすりと笑ったのをマレウスが不思議そうに見ていた。
     
    「マレウスくんって、春が似合うね!」
     
     
     
     ✴︎ ✴︎ ✴︎


     
     黒歴史を生み出してしまった。
     何を隠そう昨晩のケイトは、少し狂っていた。喩えるなら、そう、何かに取り憑かれていたのかもしれない。
     今思えば同級生のスパーダがやり始めたチャネリング。あの辺りから雲行きが怪しくなり、眼鏡を光らせたトレイがフォーチュンクッキーを山のように積んだ皿を持ってきた時点で、もうダメだった。異様な熱気にあてられて、その頃にはケイトに限らず皆一様におかしくなってしまっていたのだ。きっとあれだ、スパーダのチャネリングがよくないものをおろしてしまったのだ。そうに違いない。昨晩の蛮行を思い返そうとすると決まって頭が痛むのも、きっとそのせい。

    「水、飲むか?」
     
     返事をする前にケイトの目の前にコップを置いた昨日の戦犯は、向かいの椅子に座って自分のコップを口元に傾けた。よくみると、頬に描かれたクローバーのスートは擦れも欠けもなく美しい。ハーツラビュルの白い寮服は皺が目立つ筈なのに、彼の身にまとうそれは皺一つないきれいなものだ。シャワーを浴びて、服も洗浄魔法をかけたのだろう。恨みがましい目で訴えかけると、起こしたぞ、でも起きなかっただろと笑われた。ケイトの経験則から言うと、この笑顔は断じて起こしてないときのそれだ。
     ともあれ、厚意には感謝を述べて、ケイトはトレイに倣いコップの中身を力なく一口ふくんだ。爽やかな香りと冷たさが喉を通り抜けて五臓六腑に染み渡る。ミントと柑橘類を入れたデトックスウォーターは外が明るくなる手前まで騒いだ体にはよく効く。ついでに除霊効果もないだろうか。ないか。流石にデトックスウォーターに期待しすぎか。ともあれ紅茶の気分ではなかったので、正直ありがたかった。
     長方形のテーブルやその下にはうつ伏せ、もしくは仰向けになった少年たちが道端の砂利のように転がり、死屍累々といった様相を呈している。さながらトランプ兵の墓場と化したテーブル一帯にはタロットカードやら、円盤やら、クッキーやら、何かが書き殴られた紙やらが散乱していた。あれなんだっけ?古代ルーン文字?元同室のフィリアの書いた字は下手くそすぎていつも読めない。本人曰く理系だから仕方ないらしい。理屈もよくわからない。
     昨晩の成果物のなりそこない、もとい祭りの後の残骸たちをケイトは頬杖をついて眺めた。
     
     きっかけは昨晩の夕餉後まで遡る。それは談話室でケイトが占星術の課題を片付けていたことだった。
     基礎を終えた占星術の授業は、数をこなせとばかりに対面で不特定多数を占う課題が多い。今回もそれは例に漏れず、寮内外問わず五十人以上を占って、統計学との関係性を考察したものをレポートにまとめて提出しなければならなかった。だからケイトは効率よく平日のうちに他寮生の生徒に声をかけて課題をこなし、あと二十人ほどのホロスコープを作成すれば資料も十分な数が揃うはずだった。
     
     ところでハーツラビュル寮生は、大概がノリがよく統率のとれたお調子者が多い。楽しいことが大好きで、狡賢く、学生らしい悪ノリもする。どうやら昔からそんな性格の生徒が集まりやすいらしい。流行にも敏感で、お祭り騒動になるとノリに乗ってしまう。そんな生徒たちだからこそなんでもない日のパーティなんてものが未だに伝統として脈々と受け継がれているのかもしれない。
     そう、だからケイト•ダイヤモンドが談話室で無償の占いをしているなんて知ったら、寮生たちが食いつかないはずがなかった。ケイトの占星術は同級生と一部の寮生の間ではよく当たると専ら評判が良いのだから。
     昨日だって、はじめは別のテーブルでポーカーに興じていた生徒たちがそれに気づいて、ケイトとトレイのいるテーブルに寄ってきた。そこから噂が広がり、お遊び感覚で俺もオレもと寮生が寄ってきてたちまち談話室は賑やかになった。
    (–––よし、計画通り!)
     ケイトはにっこりと承諾しながら、内心ではしめたとばかりにほくそ笑んだ。うまく行きすぎてなんだか怖いくらい。だって、ケイトのほうからわざわざ部屋を訪ねてお願いしなくとも、研究資料たちのほうからケイトの方にやってきてくれたのだから。
     狡賢いハーツラビュル寮生のことだ。仲の良い一人や二人ならともかく、不特定多数の人間に頼み事をするなんて後でとんでもない対価を要求してくる奴がでかねない。オクタヴィネルよかまだましなものの、ハーツラビュルもなかなかに現金でシビアな人間が多い寮なのだ。自覚があるかは別として、ケイトもそれは例には漏れないのだが。
     ともあれケイトの計略通り、「ハーツラビュル寮生分のホロスコープ作成まとめて終わらせちゃおう大作戦」は順調だった。満員御礼。たちまちのうちにあと十人、この調子なら余裕を持って間に合うだろうというところまで課題を進めることができた。だが先述のとおりハーツラビュル寮生はノリの良いお調子者が多いのだ。加えて明日は休日。するとどういうことがおこるか。
     結論から言おう。なぜかハーツラビュル寮の威信をかけた占い大会が急遽開催されてしまった。丁度、寮長のリドル•ローズハート含む一年が課外学習で三日間いないことが寮生一同の占いに対する熱意と勢いを加速させた。リドルは勤勉で真面目だが、厳格すぎる男で誰よりもハートの女王の法律を遵守し、また他者にもそれを当然の如く求めている。故に法律の取り締まりにおいては、些かやりすぎな面も否めないことから、寮生の間では不満が溜まりつつあった。そうでなくとも、上級生たちは下級生の前ではなかなか気が抜けない。年下には少しでもいいところを見せたいし、あわよくば尊敬されたいものだ。背伸びしがちなティーンたちが、この下級生のいない状況下でガス抜きの娯楽を求めるのは至極当然の流れだった。
     
     占星術、タロット、ペンタクル、トランプ、ペンデュラム…。キリがないのでまとめると、一通りやった。何をって、占いをだ。前述の通り、チャネリングを含むものから、魔力も何も関係ないエレメンタリースクールの子供がやるような類の眉唾物の占いにまで不用意に手を出した。運命の女神がいたら呆れて見向きもしなくなるであろうほど、とにかく占って占って占い、占いで占いを洗うほど占った。皆、開放感で馬鹿になっていた。今になって、何故あんなにも占ってしまったのかと思う程度には占った。人生には多分、一回くらいそういうときがある。
     つまるところケイトの課題への取り組みは横道に逸れて、いや、知見を広めるのに思いの外盛り上がってしまった。いかにも知的好奇心旺盛な学生らしい失敗だ。敗因は、平素なら周囲の悪ノリにそれとなく歯止めを効かせる筈のトレイ・クローバーが、今回に限ってその悪ノリに乗ってしまったことだろうか。途中退出した彼は、暫くして何でもない日のパーティーで使う中でも一番の大皿に山のようなフォーチュンクッキーを持って馳せ参じた。その命知らずさに寮生一同は拍手をもって彼の帰還を歓迎した。 
     しかも彼らは腐ってもそうでなくともエリート。悪知恵を働かせた一人が早い段階で談話室に防音魔法をかけた。それを見た別のものが認識阻害魔法をかけ、更に別のものが何となく近づきたくなくなるような類の印象魔法をかけた。三人の魔法士から贈り物を賜った談話室はたちまち秘密の祭り会場になってしまった。男たちは拍手喝采しトランプは宙を舞った。勿論のこと、夜明けを過ぎても寮監がこの部屋の異変に気づくこともなかった。


     ケイトは書きかけのホロスコープを人差し指と親指で摘みあげた。昨晩書いた力作は皺になって、ところどころ破けてしまい書き込みは判読できないほどかすれている。苦節一時間の力作たちはすっかりゴミ屑と化していた。
    「あちゃー…こりゃ描き直しだなあ〜」
     とほほと頬をかいたケイトは、明け方意識を失ったごく短時間の間見た春の夢をふと思い返した。あれはマレウス•ドラコニアと初めて会った日のことだ。後で知ったことだが、お互い授業には余程の理由がない限りはきちんと参加していたにも関わらず、二つの点と点が交わったのはあの時が初めてだった。ケイトはあの頃はまだ今ほど学園の情報通ではなかったが、だとしても何かと噂の尽きない同級生であるマレウスの顔すら知らなかったというのは今思えばおかしな話だった。
     
     そしてこれは余談だが、マレウスと出会ってからというもの、ケイトの日常はほんの少し不思議なものとなった。普段なら気にせず通り過ぎてしまうような、この世界と別の世界の小さな境目や通り道を見つけることができるようになった。そして逆にそれらの方もケイトを見つけることができるようになったらしかった。この小さな不思議をケイトはあまり気にしていなかった。魔法士ならそういうことはままあるからだ。この間だって、たまたま出会ったデュラハンの首探しを手伝ったけれど、後で肖像画のロザリアとの話の種にしたくらいだ。ロザリアは大層ケイトを不憫がって、少し鼻で笑った。
     
     それはそうと課題はやり直しとなったが、幸い休日である。休みの日にまで勉学に励むのはまだ年若い学生としては辛いところだが、いい点数を稼ぐのに占星術はうってつけだった。トレイはいつのまにやら元気に胡桃入りのパウンドケーキを焼いてきていて、寮生に切り分けた後、自分もあまりを摘んでいる。コップはティーカップに代わり、がっしりとした指先は大皿ではなくページの厚い本の背を支えていた。いつもならこんなところで読書なんてしないのに。今日は一年がいないから、トレイに頼み事をする人間もそうそういないのだろう。ここ最近ではそうあるはずもない穏やかな時間だった。

     麗かな休日がたちまちひっくり返ったのは午後のこと。
     それは爆発とも似ていた。忽ち暗くなったと思ったら、パッと辺りが光って、何かが縦に空をひび割れさせた。つんざくような轟音と共に地面に落ちたものが雷だったのだと気付いたのは、ビリビリと震える窓が漸く収まった頃だった。談話室であがった複数の短い悲鳴の主たちは、豪奢な机の下に潜り込んでじっと息を殺したまま暫く動けなかった。ややあって、机の下から恐る恐る顔を出した寮生の一人が、ケイトを見た。
     
    「すごい音だな…襲撃かと思った」
    「ね、激ヤバって感じ!一人で部屋にいなくて良かったあ…。トレイくんは……トレイくん?」
     
     ちゃっかり机の下に潜り込んでいたと思った友人は、椅子に腰掛けてまっすぐに窓の外を見ていた。しゃがんだまま机の下をくぐったケイトもそちら側に移る。肝が据わっているのか呑気なのか。トレイにはたまにこういうズレたところがある。呆れたものの、つられてケイトも彼に倣った。すぐに何かがおかしいと気づいた。
     
    「晴れてる…?」
     
     確かに先程落ちたのは雷だった筈だ。しかし外は雨どころか雲すらも見当たらなかった。
     
    「あー…ケイト。…お前、昨日のマジカルフォーチュンドローの結果、覚えてるか?」
     
     抜けるような青空が広がる窓の外からケイトへと視線をスライドさせたトレイが、自身の額に人差し指と中指をおしあてた。眼鏡に隠れて表情が見えないのが何だか不気味だ。もしかしたら彼だけ未だに何かに取り憑かれてるのかもしれない。
     
     マジカルフォーチュンドローとは、それ専用の白紙のカードに占いたいことを念じて、出てきた絵柄で結果を読み解く魔法士御用達の占いである。元々は紙ではなく水鏡を使うものだったが、それでは結果を残せないため今では専用の紙を使うのが一般的だ。最近ではバリエーションも増え、簡単なものなら五枚くらい入ったものが一つ百マドルストアでも購入できる。
     
     「前から思ってたんだが、お前の占いってさ、そこそこよく当たるんだよな」
     
     ケイトは昨晩の悪ふざけで遊んだそれを寮服のポケットから抜き出した。青空に雷。背筋が粟立つ。その下に描かれているのは羽が生えたトカゲに咥えられた猫。猫は男の生首を持っている。…いや、恐らくこれはトカゲではない。ドラゴンだ。そして、トランプのマーク、特にダイヤがまっすぐ雷に貫かれていた。昨日は意味がわからない!とその場が沸いたし、誰かがふざけてケイト死す!なんて囃し立ててケイトも珍しくふざけんなよ!と中指を立てて応戦していたが、今は昨日騒いだ誰もが血の気が引いた顔をしていた。談話室は沈黙し、静まり返っている。辺りが静かになったからか、部屋の外の音もよく聞こえた。特に目立ったのは、誰かが走って近づいてくる足音だった。
     
    「おいっ!ケイトはいるか!?」
     
     扉を乱暴に開けた男の焦り声が談話室に響く。いないですと即答しそうになって、ヒュッと息を呑んだ。トレイがケイトの頭を押し込むようにして、自らもしゃがみ込んだからだ。
     
    「何がどうなってるわけぇ…?!」 
    「俺だって知りたいさ。ケイト、昨日のお前の占いだ。思い出せ、お前、この結果を見てなんて解釈した?」 
     
     小声の応酬は周囲の困惑した空気に埋もれている。しかしここにケイトがいることがバレるのも時間の問題だ。頭を押し込まれた瞬間にケイトが落としたカードを拾い上げたトレイは、エメラルドの瞳の面前にそれを押し付けるように翳した。
     
    「雷が鳴って、招かれざる客が猫を片手にハーツラビュルに災いをもたらす。それから、えーっとえーっと…」
     
     昨日のことなんて覚えていない!だってケイトはよからぬ霊かなにかに取り憑かれていたに違いないのだから!
     
    「この生首何?!生首になるの?!誰が?オレが?!?!」 
    「落ち着けケイト、確かお前はあの時、」 
    「ダイヤモンドはここにいないのか?」
     
     刹那、音が止んだ。
     サァッ…と静まり返った女王の統べる哀れなる談話室。トランプ兵が男の姿を見て後退り、うち何人かは己のマジカルペンに指先をかけようとしたところで、男は眉一つ動かさなかった。恐ろしいほどの光を秘めたライムグリーンの目はまっすぐと中央の長テーブルの下辺りを見つめている。整った容貌には感情がなく、目的のもの以外は歯牙にもかける気がないことは誰の目から見ても明らかだった。 
     
    「マレウスくん?」
     
     ケイトは突然の闖入者に驚いた。立ち上がろうとして机に頭を強か打つ。ゴッと鳴った鈍い音にトレイは頭を抱えた。ケイトが涙目になりながらもマレウスに手を振る。
     
    「来てくれるのは大歓迎だけど、珍しいね?なんかあった…?…あっ!」 
     
     ぴん!とケイトの額に痛みと入れ替わりで天啓が降ってきた。ドラゴンといえば、ディアソムニアの象徴である。それに同じ部活のリリアによれば、マレウスは機嫌を崩すとよく雷を落としてしまうらしい。気象まで自然と操れてしまうとは、世界で五本の指に入る実力者と呼ばれるに相応しい魔力の持ち主だ。ケイトのマジカルフォーチュンドローはマレウスがハーツラビュルを訪ねてくることを示唆していたのかもしれない。
     

     
     
     ✴︎ ✴︎ ✴︎




     はじめは庭園を案内しようかと提案したのだが、マレウスは相談事のためにケイトの元を訪れたのだという。やんごとなき身分ながら、そういった気安さがマレウスにはままある。ならばせめてと庭園を臨むのに談話室の中で一等良い席をケイトはマレウスに勧めた。マレウスは薔薇を好むのだと、初めて出会った春の日に聞いていたから。
     トレイは寮生たちの警戒を解かせてケイトに目配せしたあと、談話室を出て行った。お茶の準備をしに行ったのだろう。寮長の不在時、そして急な来訪だとしても訪ねてきた他寮の寮長をもてなさないのは非礼にあたる。今や談話室には昨日のような煩さは跡形もなく消え去り、別の世界に来てしまったかのような静寂で空気は澄んでいた。気づけばケイトとマレウス以外の者は誰一人として室内にいなくなっていたが、マレウスはそこにはさして興味もなさそうである。トレイがお茶を持ってくる前だったが、彼は長い人差し指を持て余すようにして自分の顎に触れると口を開いた。 
     
    「相談といったが、どちらかといえば頼みたいことがあるといったほうが正しいだろう。それに実のところ、用があるのは僕ではないんだ」 
     
     マレウスがそう説明したのち、ケイトに示したのはまあるい毛玉だった。今の今まで気がつかなかったが、そこにいるということはマレウスが抱えてきたのだろう。直径は約三十センチほどだろうか。色はグレーでところどころに黒と白が混ざっている。ふわふわとしてやわこそうなそれはマレウスの腕の中でふるふると震えていた。
     
    「ダイヤモンド。これはケット•シーだ」
    「ケット•シー?」
    「…後は自分で話せ。僕は約束通り、ここまで連れてきただろう」 
     
     マレウスが目を細めて声をかけると、グレーの毛玉から三角耳の二つついた頭が生える。それは綺麗なグレーアイの猫だった。大きな目からこぼれそうな涙を堪えて、ケイトの方を見上げている。泣きそうな猫を抱えるマレウスくん、なんかいいなあとケイトはぼんやりと思った。
     ケット•シーとマレウスから紹介された毛玉は、すんと一度鼻を鳴らして涙を拭った。なんとなく庇護欲をそそる見た目だ。そして白い靴下を履いたような前足でマレウスの腕をふにふにと確かめるように押している。意外と命知らずだが、その愛らしさなら許されるのだろうか。猫はマレウスが頷くと心を決めたのか、彼の腕の中から抜け出した。そうしてきれいに着地をすると、ケイトの足に前足を重ねるようにして起き上がる。生き物の体温がボトム越しの膝につたわってこそばゆさを感じたが、嫌な感じではなかった。二足で立ち上がった猫はケイトを見上げて弱々しくケイト殿と鳴いた。そう、確かにケイト殿と鳴いたのだ。
     
    「喋るんだ……魔獣くん?」
    「これでも妖精だ」
    「…恐れ多くも王からご紹介賜りました通り、わたくしめは妖精です。ケット•シーというのは種族の名でございまして、わたくし個人の名はギベオンと申します。茨の谷では、女王をお守りする鋭き剣の一つとして身を捧げている者です。以後、お見知り置きを」
    「わぁ、結構しっかりめに喋るね…」

     ギベオンは尻尾をくるりと反らせて肩前足を胸に小さくお辞儀をした。礼儀正しい猫である。ケイトの一番間近にいる猫といえばトレインの使い魔のルチウスだろうか。あれはあれで愛嬌があるが、それとはまた違う種類の愛くるしさがある。
     
    「オレはケイト•ダイヤモンド。よろしくねギベオンくん。それで、オレに頼みたいことって何?」
     
     持ち前の順応性と社交性を発揮したケイトが手を差し出すと、ギベオンもどこかほっとしたように前足をケイトのそれに重ねた。やわこくてあったかい。微かに指を押し返した弾力のあるものは肉球だろうか。
     いつものケイトならここで一枚パシャっと記念にツーショットを収めるところだが、種族の違いを考慮して一旦保留にした。フラッシュやシャッター音が毛を逆立てるほど嫌いな妖精や魔法生物もいるからだ。
     
    「どんなものでも探してみせる名探偵のケイト殿に、是非わたくしめの探し人を探して頂きたいのです」 
    「ちょっと待って」
    「なんでしょう?」
     
     ギベオンは頭を横に揺らした。かわいいものが好きな女の子ならもれなく胸がきゅんとする仕草だ。マジカメにあげたものならバズり間違いないが、ケイトはそれどころではない。
     
    「名探偵って…?」
     
     探偵ですら全く身に覚えのないものなのに、頭に「名」がついてしまうなんて。人違いなのではと訝しむ。きっとそうに違いない。だって、実績ゼロの名探偵なんてこの世にいるはずがないから。
     身に覚えのない肩書きに一体どういうことなのかと困惑していると、ギベオンはマレウスを見上げた。マレウスが目を閉ざしてため息をつく。黒いまつ毛が青白く日焼けを知らぬ頬に影を落とした。
     
    「ダイヤモンド。数ヶ月前にデュラハンの首を見つけたと聞いたが、覚えは?」
    「…」
     
     正直なところ、めちゃくちゃ身に覚えのある話になってしまった。なんとなく頷けずにいたのを無言の肯定と捉えたマレウスが、慈悲もなく結論を述べる。
     
    「それ以来彼らの……ああ、それではわかりにくいか。僕のおばあさまが統べる闇の眷属の間で、お前は名探偵ということになっている。魔力を使っても探し出せなかったものを不思議な板一枚であっという間に見つけてみせた、とな」
     
     ケイトは頭を抱えた。偶然の積み重なりが、どうやらケイト自身の預かり知らぬところでかなり大きな勘違いへと発展していたようだ。
     
     
     
     ✴︎ ✴︎ ✴︎


     
     大体のところ、この話には一つ大きな誤解がある。
     デュラハンの首を見つけたのはケイトではないのだ。マジカメでバズっていた投稿がたまたまケイトのところにも流れてきた。それがそもそものことの始まりである。
     
     〈※閲覧注意※友人が迷子の生首見つけたので、持ち主いたらちょっと来て!〉

     あちゃーとケイトは目を眇めた。
     投稿者コメントにはその一文と、掲示板サイトへのリンク。それに#相談#閲覧注意#賢者の島とシンプルにまとめられたハッシュタグ。件の投稿はセンシティブな投稿にはよくあるワンクッション形式で、ケイトが見つけた時には既に結構な数の拡散済マークがつけられていた。
     
    (賢者の島ってことは学生かなあ…)
     
     周囲の反応を見るに、フィッシングなど詐欺の類ではないようだが、一般人の間ならまだしも魔法士の世界ではこういうことはたまにあるのでケイトはさほど驚きはしなかった。どうせ転移魔法の取り扱いに失敗した魔法士が首だけどっかに飛ばされてしまったとか、それを運悪くこういった場合の対処になれていない者か、一般人が見つけてしまい、騒ぎになってしまったとかそういうオチだろう。それならほどなくどこかの親切な魔法士が、投稿主に適切な処置を教えてくれるに違いない。本人が名乗り出るならそれが一番だろうけど、まあないだろうなあとケイトは結論づけた。だって首がない人間が、こういった投稿を見られる状態とは思えないから。
     そこまで己の頭で話をまとめてしまったら、途端に興味の熱も失せてしまって、ちょうどよく鳴り出した予鈴のチャイムにケイトは慌ててスマホを机の中にしまい、この話を思い出すこともなかった。
     


     
     ✴︎ ✴︎ ✴︎


     

     漆黒の馬が蹄を鳴らして駆けて行く。
     恐らく馬だろう。首がないからよくわからないが。フォルム的に多分そう。
     
     唐突だが、ケイトはどちらかといえば学生生活を謳歌しているタイプの学生である。謳歌というのは、部活であったり、校内行事であったり、寮の伝統行事であったり色々なことを交友関係を広げながらそれなりに楽しんでいる状態で、楽しんでいる内容の中にはまあ多少の勉学も含まれる。
     
     学生には学生のうちにしかできない人生の楽しみ方というのがあるとケイトは常々思う。
     例えばマジカルホイールの二人乗りなんかは卒業後、就職した職種によってはおいそれとはできなくなるだろう。魔力を使わない手動の昔の自転車の二人乗りなんてもっと無理だ。極端に体力を使うものだったり、勢いが必要だったり、あまり効率的とはいえないものだったり。幼さゆえの無知もあるだろうか。それが合理的かどうかを気にし始めてしまうと及び腰になるような楽しみというのはある。銀行に勤める父親を見ているとケイトは殊更にそう感じてしまうことがあった。
     だからこそ楽しめることは楽しめるうちに楽しみたいというのがケイトの持論だ。
     そういうわけで行きたい場所があればなるべく都合をつけて赴いたり、挑戦したいと思えば色々と挑戦したりレアな体験ができるとあれば参加するようにしてきた。けれど。
     
    (そういえば馬の二人乗りって人生で初めてかも〜!)
     
     ナイトレイブンカレッジには乗馬部があるにも関わらず、自身は馬に乗ったことがないことにケイトは初めて気がついた。二人乗りなんてもってのほかだ。幼い頃から大人に教えられてだとか、はたまたロマンチックなラブロマンスだとか姉が好きな少女漫画でならあり得るシチュエーションだが、いずれもケイトには縁遠い世界だった。だがしかしその相手が首のない騎士とくれば、恐らくだがこのツイステッドワンダーランドでも経験者はそういないだろう。そういう意味では、ケイトはいま非常にレアな体験をしている。心なしか胸が高鳴ってきた。恋が始まるかもしれない。
     
    (いやいやいや!始まらないから!流石に唇にキスできない恋人はけーくんも勘弁かなー!)
     
     それはさておき、魔法士ならば、こういった類の妖精や魔獣を見かける機会は稀にあるものだ。魔力のあるもの同士は惹かれあいやすい。だから学園裏の森で、ケイトのような魔法士がデュラハンに会うことはなんら不思議なことではない。まあ、そうそうあることではないかもしれないけど。ギターのピックを握り締めながら、ケイトはこの状況の打破を考えていた。
     
     天気が良いので久々に野外でお茶会、否、練習しようと言い出したのは誰だったか。そう、リリアだ。外は曇っていて、今にも雨が降り出しそうだった。天気がいいの定義を根本から塗り替える発言である。カリムがその案に食いついて、ケイトはなし崩しで彼らに付き合うこととなった。野外の開放感の中で楽器を演奏するのもきっと楽しいぜ!とにこにこ邪気のない笑顔を向けられると断るに断れなかった。カリムがリリアに教えを乞い、かき鳴らしたギターのピックを飛ばしてしまったのが今から体感的に数十分前のこと。時計を持った白いウサギを追いかける少女のような気分だった。考えてみたら何の変哲もないピックをなぜこんなにも必死で追いかけてしまったのか。何がケイトをそうさせてしまったのだろうか。若さ、だろうか。
     
    「ケイト、こんなところにいたのか。探したぞ」
     
     救いが現れたとケイトは思った。彩度の高い緑のベストを着た小柄な美少年が、いつのまにやら木の枝に逆さ吊りになってケイトのほうを見ていた。不思議そうな顔をしてケイトを眺めているが、そうしたいのはケイトの方である。
     
    「お主、そんなところで何をしとるんじゃ?しかもずぶ濡れじゃのう」
    「リリアちゃん〜!実はかくかくしかじかで………」
    「ほうほう!それはまた難儀な縁じゃのう…まあお主、常々映えとレアな経験を求めておるじゃろう?今の状況は映えと言われるとなかなかにあれじゃが、レアといえば正にそうじゃろう。何が不満なんじゃ?」
    「不満というか、同じところをぐるぐる回ってるのはなんでかなあって…」 
    「そりゃあれじゃ。同じところをぐるぐる回る理由なんて、体を乾かすか探し物をしているかぐらいしかなかろうて!」
     
     リリアが笑い転げる。リリアの笑いのツボがケイトはたまによくわからないときがある。

    「それにケイトよ、不満ならさっさと降りればよかろう」
    「いやあ…そうなんだけどさ、足が動かないんだよねえアハハ…」 
    「そりゃあまた呪われとるのう!アッハッハ!」 
    「も〜リリアちゃん、わかってて言ってるでしょ?」 
     
     流石にケイトがチラリと上目で睨むと、リリアはすまんすまんと謝った。いつのまにやら地面に着地して、ケイトの横に並んで付いてきている。曲がりなりにも馬は駆けているのだが。それにしても。
     
    「体を乾かすか、探し物をするか…?」
     
     意味深な言葉だ。何かが引っかかる。ケイトがずぶ濡れなのは先程局地的に雨が降ったからだ。ぐるぐる回っても乾く気配は一向にない。では、探すって何を?何が足りない?ケイトは考えて思い至る。
     
    「首…?」 
     
     デュラハンがその呟きに反応して、振り向いた。
     
     

     
     ✴︎ ✴︎ ✴︎
     
      
       
              
    (結局あのあと首は魔法省出張局に届けられていたことがわかって引き取りに行ったんだっけ…)
     
     リリアに言われなかったら未だにあそこでぐるぐる回っていたかもしれないと思うと背筋が粟立った。だが、これは余計にケイトの手柄ではないという気がする。それに実績一つで何でも探し出せる名探偵は流石に無理がある。しかも妖精の頼み事を安易に引き受けるのはあまり良いこととは言えなかった。彼らは人間に恩返しすることもあれば、なんてないことで、たとえば悪戯で人を殺してしまうこともある。人とは明らかに違う道理で生きているのだ。
     
    (そうだとしても…)
     
     ギベオンの期待に満ちた目を覗き込んでしまったら、口籠るしかないではないか。聞くだけ聞いてみようと、ケイトはギベオンに話を促した。聞くだけ聞いたら後戻りできなくなることに気づいたのはもう少し後のことだった。
     
     
     
      ✴︎ ✴︎ ✴︎




    「なるほど…。ねぇ、ギベオンくんはその子を探し出してどうしたいの?」
     
     事情を聞いたケイトがケット•シーのギベオンに尋ねる。グレーの毛玉は憂いを帯びて目を伏せた。毛艶の整った尻尾が萎れ花の茎のように垂れている。
     ギベオンがケイトに探して欲しいのは、少し前に世話になった人間の男の子だという。ギベオンが道に迷ったときに、三晩寝床を貸してミルクまでごちそうしてくれた恩人で名をスフェーンというそうだ。それ以来、ギベオンはたまに暇を見つけては少年に会いに行き、話をするようになった。だが、ある日些細なことでギベオンは彼を怒らせてしまった。何とかしてギベオンが仲直りをしたいと方法を考えているうちに、彼は何も言わずに忽然と姿を消してしまったそうだ。ギベオンはもう一度だけその少年に会いたかった。会えなくなる前に、贈り物をする約束をしていたからだ。せめてそれを渡して、もう一度お礼を言えたならそれで良いのだと言う。話を聞いて、ケイトは腕を組んで唸った。
     
    「うーん、でもさ、何でオレ?人探しならリリアちゃんだってマレウスくんだって、魔法でちょちょいっとできるんじゃないの?」
    「魔法では見つけられなかった。…いや、それでは正しくないな。正確には、それらしい人間が多く、特定がかなわなかったというところか」 
    「そっかー。うーん…力になりたいのは山々なんだけどねえ…」
     
     恐らく自分の強みであるネットでの情報収集は今の段階ではまだ活用できないだろうなとケイトは冷静に分析した。試しに幾つかの単語で検索をかけてみたが、ヒットしなかったり、ヒットしても無数にありすぎてもう少し情報を精査できる材料がほしいところである。
     聞いたところ、スフェーンは魔法が使えなかったらしい。この世界は、魔法が使える人間よりも魔法が使えぬ一般人の方が何十倍も人口が多いのだ。加えてスフェーンという名前自体もあまり珍しいものでもない。
     事実も虚実も入り混じるネットの海でたった一人の人間を探すのは大海にある砂一粒を探し出すのにも似ている。かといってこちらから呼びかけるのももってのほか。余計な雑音に苛まれ、却って大きな事件や要らぬトラブルの種を呼びかねない。ならば取れる方法はひとつ。もっと原始的な方法で手がかりを探すほかない。
     
    「じゃあさ、その家の近所の人に聞いてみよっか。何か知ってるかもよ?」
     
     マレウスがどこかほっとしたようにケイトとギベオンのやりとりを眺めていたのをケイトは知らない。闇の眷属たちは生来あまり人間とは縁がないものである。不吉をもたらすとされる存在の多くは人間にとって畏怖の対象とされ、いたずらに人間たちを怖がらせることを茨の谷の当主たちも良しとしていない。これは同じ人間ならば誰でも簡単にできる人間に頼るということが、彼らにはできないことを示している。一般人より身近にいる魔法士とて、彼らを警戒している者の方が多いだろう。だから、ケイトがその橋渡しをしてくれるというのは有り難かった。
     マレウスはそっとケイトの肩に触れた。そのままパッと左肩を数回埃を払うように叩き微笑む。笑うと、犬歯にしては鋭い歯が両端にのぞくのがなんだか少しかわいいなとケイトは思った。
     
    「……あまり変なものを連れないほうがいい。戻れなくなるぞ」
    「変なもの?」
    「…?気がついてなかったのか?ずっとお前の後ろに複数の「タンマタンマ!言わなくて大丈夫だから、ねっ!マレウスくん、ありがとう!」
    「……?ああ…」
     
     どうやら茨の谷の次期当主はお祓いもできるらしい。流石は世界でも五本の指に入る魔法士である。
     
     
     
     ✴︎ ✴︎ ✴︎


     
     結論から言うと、ケイトが件の家まで訪れても、少年の行方に関して何も手がかりは見つけられなかった。なぜなら件の少年の家はあろうことか森の中にあったからだ。辺りを木で囲まれた家の近所はやはり木しかなく、近隣の住民といえばリスだと鳥だの虫だのくらいしかいなかった。その家自体も、もう長年人が住んでいないのか、老朽化が進み朽ち果てかけていた。
     
    「まあ家は人が住まなくなるとあっという間に傷むって言うしね…」
     
     魔法を使える者が管理する建物ならば維持魔法をかけておくだろうが、ここに住んでいたのは一般人だ。こうなるのは仕方ない。おまけにこの辺りは冬になると雪が降り続ける。とはいうものの、ケイトは態度を取り繕いながらも不思議に思った。何が何でも傷みすぎではなかろうか。そして僅かながらに残っているのは。
     
    「魔法の痕跡…?」
     
     家人に魔法を使えるものがいたのだろうか。魔力は隔世遺伝する場合もあるので、スフェーンが使えずとも親が魔法士の可能性はある。
     ところどころ屋根や壁が欠け、蔦がはびこり、薄暗い森の中にぽつんと建っている不思議な家。打ち捨てられてしまっていることは確かだが、魔法を使えるものが家人にいたのに、維持魔法をはなからかけていなかったのはどうしてだろう。その癖、魔法の残滓、恐らくある一定の条件を満たすものしか、見えないようにするような目隠しの魔法がかけられていたような跡がある。その魔法とて、ほぼ解けてしまっているが。
     変な家だ。まるで予め打ち捨てることが決まっていたかのような。何かから逃げるための隠れ家のような。
     なんとなく不吉な予感がしたケイトは、まだ手がかりを探し足りないという顔をしたギベオンを連れて一度森を出た。森からほど近い場所にあるさほど大きくもない村の人間にそれとなく話を聞いてみたが、森の中の家を知っている人間は、案の定、誰一人としていなかった。
     
     
       ✴︎ ✴︎ ✴︎



     翌日の夜、ケイトは夢を見た。どこかに仰向けで寝かされている夢だ。見知らぬ木目の天井をぼんやりと眺めているだけの空虚な夢。体は動かせない。意識は曖昧で、自分がまるで人ではないようだった。なにか、とんでもなく大事なものをいくつも失ってしまったような、そんな喪失感とあとはただホッとしていた。だって少なくても、もうこれ以上痛い思いも怖い思いもしなくていい。だけれど、どうしてか無性に泣きたいような気もした。スッと突然目の前に影ができて、何か、とても大きなものが、自分を見下ろしているのがわかる。そしてやがてとてつもなく大きなもの–––それは人間の指だとケイトは思った–––に自分がつまみ上げられるのを感じた。今度は光に晒されて、下から覗き込まれている。
     
    (まるで、宝石ダイヤモンドにでもなった気分…)

     朝方、じっとりとかいた汗に眉を顰めて、ケイトは起こした上半身をぐったりと前に倒した。生きた心地がしないような悪夢を見た気がする。見ている時は悪夢だと気づかなかったが、こうして起きて覚えていることをいくつか思い出すとぞっとするような心地だった。自分の体をナイトウェアの上から触ると、随分とひんやりとしていた。腕をさすって、深呼吸する。いくつか、ギベオンやマレウスに確認することと報告することがある。
     
    (けど、今日はなんかもう、何もしたくないかも…)
     
     時計の長針が、自分の許可なく進むのが今はどうしても恨めしかった。この間見たマレウスと出会った春の日の夢。あの日差しの温かさが、窓の外に広がる朝の爽やかな眩しさよりも、妙に恋しく感じた。寝直したらまたあの鮮やかさを夢に見られるだろうか。
     
     
     
       ✴︎ ✴︎ ✴︎


    「ほら、昼食。あまり重いものは持ってこなかったけど、食べられそうか?」
     
     どこか気遣わしげな視線で、けれどそうは感じさせぬ軽い声色でトレイが紙袋を持ち上げて見せる。ケイトがお礼を言うとそのうちの一つを渡して、トレイはデスクチェアーを手前に引いて腰掛けた。自分もここで食べていくつもりなのだろう。休んだ手前我儘を言うわけにはいかないけれど、一人になるのもどうにも心細いところがあったのでありがたかった。
     
    「熱は?」
    「んー、多分ないかな」
    「ならいいけど。今日はこのまま無理せず寝ておいたほうがいいぞ。寮内当番は変わってやるから」
    「有難いけど、後が怖いなーそれ」
    「はは、別に大したことは頼まないさ。大したことはな」
    「こき使う気満々じゃん!トレイくん、そういうとこ抜け目ないよねー!」
     
     袋の中身はサンドイッチのランチボックスとスープだった。サンドイッチにマスタードも入っていない辺り、オーダーするときに同じもの二つと言って作ってもらったことが容易に窺えた。あまり刺激物を食べたい気分でもなかったから、ちょうどよかった。このあまり人には知られていないトレイの雑さ加減がケイトは嫌いではない。
     
    「平気か、ケイト」 
    「何が?」
    「何がって…まあいいよ。何かあったら相談くらいはしてくれ」
    「えーなになにトレイくん。もしかして心配してくれてる?」
     
     近頃、体調を悪くするハーツラビュル寮生が多い。いずれも原因はストレスだと診断されている。なんとなくトレイはケイトもそうだと思っているのだと察することができた。
     あまりにも寝覚の悪い夢を見てしまったことを話せば、多少は安心するかもしれない。これは日頃のストレスではなく、一過性のものだと。いや、この場合、逆効果だろうか。逡巡したのち、ケイトは結局トレイには何も言わないことにした。午後からの授業に備えて、トレイが部屋を出ていく時も笑顔で手を振って見送った。その後にもう一度眠りについたが、今度は何の夢も見ることはなく、ただいつもより温かい心地がした。
     
     起きると、丸まって眠っていたケイトの腹横でギベオンが丸くなっていた。寧ろギベオンを避けるようにしてケイトが丸くなっていたといったほうが正しいだろうか。まるっきりケイトのベッドの真ん中を陣取っている。こうしてみると普通の猫のようだ。ドラコニア家の守護者とは思えぬのどかな姿に、ついつい笑みが溢れる。ケイトの起きるのを待っているつもりが、つられて眠ってしまったのだろう。
     逆にケイトは目が冴えてしまった。日中眠りすぎたのがよくなかったのだろうか。ギベオンを起こさないようにそっと天蓋のカーテンを潜ってベッドを抜け出すと、机の上のトランプを一枚取って、ケイトの代わりにベッドに寝かせた。これでギベオンが目を覚ましても、悪戯に寮内を歩き回って迷うことはないだろう。といっても、ここに来るのも迷わず来られたなら無用な心配なのかもしれない。
     ケイトは薄手のカーディガンを手に部屋を出た。出掛けに見たスマホの画面で時刻は既に夜の十一時を過ぎていることは確認している。もう消灯時間はとうに過ぎていた。
     薄暗い廊下は、しんと静まりかえっていて、談話室のピアノも眠っていることが窺えた。ケイトはピアノを起こさぬようにそっと談話室に足を踏み入れた。そうしてテーブルの下に手を伸ばし、天板の裏に隠された鍵を取るや、すばやくその場を後にした。その途中でキッチンに寄って、戸棚の奥から小瓶の飲み物と、缶の中のアイシングされたクッキーを一つくすねることも忘れずに。
     この時間に人知れず外に出るためには、気まぐれな逆さま螺旋階段を登らなくてはならない。そうして登っているうちにいつのまにか逆さまになり、階段を降りていることに気づくのだ。一年のうちはこの逆さ階段には手こずったけれど、二年ともなれば慣れたものだった。壁にある本棚の丁度中間に並べられた瓶から一つをとって、それを更にいくつか下の段に収める。一番下までついたなら、赤いカーテンで仕切られた向こう側に並んだ扉のうち、一番小さな扉から外に出ればいい。アイシングクッキーをほんの少しかじって、小さくなれば通れてしまう秘密の抜け道である。扉に手をかける際に「もう泣くのはよしてくれよ」とどこかから声がした。「また海に溺れちゃたまらない」とも。ハーツラビュルではよくあることである。
     扉を通り抜けて、今度は小瓶の中身を少し飲めば、背はたちまち元通りとなった。入学したてはこの塩梅がどうにもうまくいかず、トレイと練習しては大きくなり過ぎたり小さくなり過ぎたりしたのが既に懐かしい。こうやってあっという間に四年が過ぎて、やがて卒業するのだろう。今は普通に話しているリリアやカリムだって、他寮のヴィルだって、トレイとでさえ、会わなくなればたちまち過去の人となる。そうしてケイトはいずれ彼らから忘れ去られてしまう。でもそれは当たり前のことなのだ。今までがそうだったように、どんなに仲良くしていても物理的な距離ができてしまえば心もそれに伴い離れていく。再会して笑い合えても今の距離と全く同じように手を振り合うことはないだろう。少し前まで自分がいた場所が別の誰かの場所になる。それは悲しいことではない。生きている限り、当たり前のどこにでもあることなのだ。
     
     鏡舎は真っ暗だったが、抜けて仕舞えば満点の星空に迎えられた。特に行く宛はなかったが、虫の音や風のなでる温度が心地よく、気ままに学園内を歩いた。坂道を上り、今は使われていないためゴーストの住処と化している建物–––生徒たちからはオンボロ寮と呼ばれている–––まで足を運んだとき、歪なロートアイアンのフェンス付近にいくつもの緑色の光がチラチラと瞬いていることにケイトは気づいた。それがたちまち人の形を成し、丁度明日会いに行く予定の人物が現れたものだから、ケイトは思わず驚いた。マレウスはすぐにケイトに気づいたようだが、僅かに目を瞠ってケイトが駆け寄ってくるのをぼうっと見ていた。
     
    「マレウスくん、おつ〜!」
    「…ダイヤモンド。こんな時間に珍しいな。消灯時間はとうに過ぎているだろう」
    「それは言いっこなし。ちょっと夜風にあたりに来たんだ〜。マレウスくんは恒例の散歩ってやつ?」
    「ああ。こうやって廃墟を巡るのはなかなか趣深いぞ。ダイヤモンドも一度やってみると良い」
    「うんうん。楽しそー。なんか映える場所とかあれば教えて欲しいな」
     
     マレウスがどこか誇らしげに趣味を語るのをケイトは口を挟まず聞いていた。饒舌なマレウスは普段の影のある美妙さとはまた違う魅力がある。いつもはずっと年上のような達観した様子の彼が今はもっと年近い存在に思えて、ケイトは優しく眦を和ませた。
     それに加えて寮服姿のマレウスはやはりずっと見ていたくなるほどに華があった。
     漆黒とライムグリーンのナポレオン・カラーに銀糸のエギュレットをあしらったディアソムニアの寮服が、まるであつらえたようによく似合っている。寮服に合うようにデザインされたギャリソンキャップも恐らくケイトが被ればコスプレ感が否めないけれど、マレウスが身につければ髪の色と引き立て合い、より神秘的な美を体現していた。それに何より長身の影響もあるのだろうが、品のある仕草と相まって全体的にオーラがある。
     
    「?…なんだ、ダイヤモンド。僕の顔に何かついているか?」
    「ううん!楽しそうだから聞き入っちゃった。マレウスくん、結構色んなとこに行ってる感じ?何気、フットワーク軽いよね?ってか廃墟とかどうやって探すの?」
    「そうだな…言われてみればこの辺りの廃墟は一通り巡っているだろう…ん?」
    「え?」

     マレウスの手が唐突にケイトの肩を掴む。また何か憑いていたのだろうかとただでさえ気が気ではないのに、あろうことかケイトの首元に顔を寄せてきたので、ケイトは内心では飛び上がりそうになった。一日寝ていて、シャワーを浴びていないことも思い出してしまった。きっと汗臭いに違いない。しかしさりげなく身を捩って体を離そうとしても、マレウスの手は微動だにしない。
     その沈黙は気まずい心地で立ちすくむケイトにとって随分と長い時間に感じられた。ややあって、ケイトの首元から顔を離したマレウスは不思議そうな顔をした。それは喩えるならば、美味しそうだと期待して口にしてみたものが、然程美味しくなかったときのような顔だった。
     
    「ギベオンの匂いがする」
     
     一瞬、あまりの汗臭さに顔を顰められたのかと思ったケイトの不安は、その言葉にたちまちのうちに霧散した。動揺を隠すように、頬にかかる髪を耳にかけて襟足の和毛を指でなぞる。

    「そ、そうそう、起きたらベッド占拠されてたんだよね。まだ部屋で眠ってるかも」
    「……夜中にこんなところにいる理由はまさかそれか?」
    「えっ!いや全然!今日オレ、実はちょっと体調を崩して休んでたんだ。あったかくてよく眠れたし、来てくれて良かったよ。ただ寝過ぎて目が冴えちゃった。でもマレウスくんに会えたし、ラッキーだったのかも!なーんて…」
     
     焦ってフォローしたケイトを珍しげに眺めていたマレウスは、やがてほころぶように相好を崩した。
     
    「……フフ、なんだそれは…体調はもういいのか?人間は脆い生き物だと聞いていたが……」

     風に吹かれて乱れたケイトの前髪をマレウスの指先が横に流す。それは小さな子供にするような優しい仕草だった。ひんやりとした熱が額に触れるのをケイトは言い表せないくすぐったさで受け入れた。先程まで少し機嫌が悪そうにしたのに、今のマレウスはふと目にした枝先に小さな春を見つけた時のように目を細めている。マレウスの新しい顔を見ることができて、ケイトの心もやにわに弾んだ。しかし今の笑顔は自分の一言がきっかけなのかもしれないと思ったら、途端にその表情を直視するのが何故だか耐えがたい気持ちになりやや俯いた。
     
    「…うん。もう平気」
     
     誰にも会わないと思ってラフな格好で出てきてしまったことをケイトは今更ながら後悔していた。こんなことならきちんと身だしなみを整えてくればよかった。マレウスの指が離れた後、自然とその後をなぞるように指で触れてしまったことに気付いて、また照れ臭くなる。うまく言葉がでてこないのは、きっと体がまだ本調子ではないからだろう。
     しばらく言葉が途絶えて、二人の間に沈黙が流れた。このままでは今日はこれでお別れという流れになってしまうかもしれない。そう思えば、自然とケイトの口からは当たり障りのない話がこぼれ出ていた。
     
    「ギベオンくんってさ、人懐っこいよね。闇の眷属って正直よくわかんないけど、もっと気難しい感じかと思ってた」
    「たしかにケット•シーという種族は生来気高く、故に気難しい者が多いな。……ダイヤモンドは、何故あれが僕やおばあさまの守護をしていると思う?」
    「えっ!」
     
     期待しているような目を向けられて、ケイトはたじろいだ。この期待は、正答と誤答どちらに向けてのものなのだろう。
     
    「うーん……あ、癒し的な…?」
    「っふ…、」
    「ちょっとちょっと。マレウスくん、笑わないでよ〜。これでも結構真面目に考えたんだから…」
     
     両手を挙げて降参の意を示したケイトに、マレウスが微かに頷いた。マレウスの神秘的なライムグリーンの中に、夜空が浮かび上がっている。その中の一際美しい星が光を放つのがケイトの距離からだとよく見えた。
     
    「猫に九生ありという言葉を聞いたことはないか?」 
    「たしか、薔薇の王国の諺だったよね?」
     
     ケイトは転勤族の父親のおかげで色んな街に住んだ経験がある。どの国にも魔法士はいたが、薔薇の王国の魔法士は猫を使い魔にしていることが多かった。薔薇の王国では初心者向きの使い魔として猫は最もポピュラーなのだとトレイも話していた。その理由は見た目とは裏腹なタフさにあるのだとか。ギベオンくんもああ見えて、結構強いのかもと、ケイトはあのまあるい毛玉への認識を改めた。
     
    「そうだ。ああ見えてもギベオンの家系は古くからドラコニア家に仕えている。ギベオンも長きにわたる半生の大半を、正しくはその命の幾ばくを、ドラコニア家に捧げてきた。争いのない今では、あいつの仕事は専らおばあさまの膝の上で丸くなることだが……フフ」

     マレウスが家族のことを話す時、その低く冷えた声がやんわりと柔くなることに、きっとマレウス自身も気づいていないだろう。ほんの少しだけそれが羨ましいとケイトは思う。
     
    「……つまり正解だ、ダイヤモンド」
    「へ?…オレ、答えわかんなかったんだけど」
    「わからない、という答えこそ正しい。おいそれと正解されては護衛として意味をなさないからな」
    「…そういうもの?」 
    「ああ、そういうものだ」
     
     なんだか屁理屈を捏ねられたような気がする。ケイトを見下ろして、マレウスはまなこを細めた。それは悪戯が成功した子供のようなどこか得意げな顔にも見えた。
     きっとこのやりとりもマレウスにとってはさほど意味のないものなのだろう。彼曰く、長い生とやらの余興、言葉遊びにすぎない。人間と関わることは彼にとって戯れでしかないのだ。
     そう己の心に言い聞かせてるケイトの心を知ってか知らずか、マレウスは声を潜めて意味ありげにケイトへと囁きかけた。ここには二人しかいない筈なのに、密談をしているような、聞かせたくない相手が近くにいるようなそんなトーンだった。マレウスに呼応するように風に揺らされた木枝が葉をザワザワと揺らす。葉の擦れる音に混じり、りんと鈴のような音が一度鳴った気がした。

    「ならこれは知っているか?ケット・シーの心臓には宝石の花が咲いている」
    「宝石の花…?」
     
     マレウスの声に釣られて、ケイトも小声で聞き返した。妖精と人間の間には長い歴史の中で幾度も争いがあったという。ケイトの生まれた頃には既に昔話だったが、その爪痕はいまだに至る所に残っている。妖精の生態が人間にあまり知られていないのもそういった事情があるからというのは、ミドルスクールの歴史の授業では必ず触れられるくらい有名な話だった。これは自分の聞いていい話なのかと、囁きかけるマレウスの意図が分からずケイトは当惑していた。マレウスが頷き、構うことなく続ける。
     
    「『九つの花びら全てが砕けたとき、その役目を終えた蕚は土へと還り、再び蕾が膨らむまで眠りにつく。』ギベオンの蕚が支える花弁は残り三つだ」
     
     マレウス曰く、なくした七つの花弁の内、六つはドラコニア家、ひいては茨の谷にまつわる事象で。だがあとひとつ、本人も覚えていない何かしらで命を失い、生き返りを果たした痕跡があるらしい。
     
    「僕は今回の人探しはこれに関係しているのではないかと考えている」 
     
     ケイトの中で、件の家が浮かび上がる。ケイトから離れたマレウスは未だにケイトを興味深そうに眺めていた。まるで試されているようだと、そう感じた。
     
    「ダイヤモンド。僕の元にギベオンが訪ねてきた時、僕はあいつからおばあさまの手紙を受け取った」
    「マレウスくんの言うおばあさまって…つまり、茨の谷の女王様ってこと?」
     
     マレウスは首肯し、何もない空間に手をかざした。刹那、長く整った形の指と指の隙間に上質そうな白封筒が一つ現れる。恐らくそれは今の話に出てきた女王からの手紙なのだろう。丸く整った封蝋には何らかしらの紋章が押されていたが、夜の闇の中では、ケイトにははっきりとはよく見えなかった。
     
    「手紙にはギベオンをお前の元に案内するようにと書かれていた。だから僕はそれに従い、ギベオンをお前の元へと連れて行った」
     
     きっと今が夜でなければ、ケイトの顔がたちまち真っ白になっていく様がマレウスにも見てとれただろうに。それはケイトにとって完全なる予想外の流れだった。思わず左手を前に出して、話の制止を試みてしまうほどに。妖精の依頼というだけでも厄介なのに、女王が出てくるなんて聞いていない。しかし一度動き出した奔流はそんなものでは堰き止められずケイトはたちまち飲み込まれてしまう。マレウスは目の前の手をやんわりと包むと、観念を促すように下げさせた。
     
    「ちょっと、待って…うまく言えないんだけど、なんか…」
    「恐らく、今お前が抱いた違和感は僕のそれと同じ類のものだ。いくら人間の世事に疎いとはいえ、妖精族の中の問題に噂に聞いただけの情報でお前を巻き込むのは些か不自然だ。これはあくまで僕の推測に過ぎないが、ドラゴニア家、ひいては妖精族だけでは介入し切れない何かがあるのだろう」
     
     
     茨の谷の次期当主としての責任感や、ギベオンがいずれは自分の部下になるかもしれないなんて親身な理由でマレウスがこの事に首を突っ込んでいるわけではないことはケイトにもわかった。だって、マレウスは楽しそうだ。退屈を紛らわすための新しいおもちゃを見つけた子どものような顔をしている。
     このことからマレウスが自分にこの話をしたのは自分を逃さないためなのだと、そうケイトは解釈した。マレウスは妖精族を統べる長の血筋であり、ケイトとは異なる理で生きる者たちにほど近い存在らしい。はっきりとは聞いていないけれど、薄々彼の話からそれを察することはできた。なるほど、たまに垣間見せる無邪気で酷薄な様は、たしかにケイトやトレイといった「魔法が使える普通の人間」よか伝承に聞く神や妖精たちの気まぐれに近しいものがある。優しく労ったその手でもっと愉しませろとケイトの喉元に冷たい鋒を突きつけるのも、マレウスからしてみればなんて事のない戯れなのだろう。
     それに面倒ごとになるべく関わらないようにしたいという気持ちがケイトにはあるが、昨晩見たあの背筋が凍るような夢を思い出してしまえば関わらざるを得ない気もしていた。
     実の所、ケイトはギベオンと聞き込みに行った日の翌日、つまり昨日、いくつか調べ物をしてギベオンの探し人の行方はあらかた掴んでいた。しかし今のマレウスの話が本当なら。加えて昨晩のあの夢が、ただの夢でないとすれば。きっとケイトの手に入れたものはただの真実の一部でしかない。
     まだ他にどんなことが隠れているのか知らないが、一刻も早く解決しなくては、きっとあの夢はケイトの肌を這い、やがて臓腑を喰らいに現実へと侵食してくる。そんな予感がケイトの肌をじわじわと粟立たせる。そしてこういう時の彼の勘は嫌味なほどによく当たるのである

     (とすると、なんとかしてマレウスくんの力が借りられるように話を持っていかないとな…。)
     
     何があるかわからない分、自分一人の力では心許ない。しかし正面からマレウスやリリアの助力を乞うても、ギベオンに対する情を訴えかけても、彼らは首を縦には振らないだろう。ケイトは一度目を瞑り、深く息を吸った。客席に優雅に座るマレウスをなんとかしてこのふざけた舞台に引っ張り出してやらなくてはいけない。
     
    「オレね、マレウスくんに聞きたいことがあるんだ」
     
     マレウスは爛々と光る目を三日月のように細めた。今の機嫌ならば煙に巻くようなことは言わず、大抵のことに答えてくれるかもしれない。多少の意地悪は言われるかもしれないけれど。
     良心だとか、貸しだとかそういったもので動いてくれるような人物ではないであろうマレウスが、もしケイトに力を貸してくれるとするならば。それはきっと好奇心や面白いと感じたときに他ならないだろう。
     
    「無論、なんでも聞くがいい。僕にわかることなら答えよう」
    「さすがマレウスくん。じゃあ早速だけど。マレウスくんさ、以前妖精は人間よりも寿命が長いって言ってたよね」
    「そうだ。人間より大抵の妖精は寿命が長い。殊更闇の眷属は寿命や生という概念がないものも多いが、それが何かあるのか?」
     
     ケイトは想定通りの答えに頷いた。
     以前マレウスとケイトは魔法史の共同課題で種族のルーツと分布についてレポートを書いたことがある。そのときにマレウスが話してくれた他種族の寿命や習慣、言語の変遷はケイトの興味を引くに値するほど面白く、機智に富んだ内容だった。その際にこっそりと教えてくれた妖精の寿命の話。どうやら寿命の問題というのは、度々争いの種になることから他種族においそれと漏らすのは亜人や妖精にとってタブーらしい。何故そんなセンシティブな話をマレウスがたかだか同級生なだけのケイトに告げたのかはわからないが、二人だけの秘密だと頬に指を滑らせて艶やかに微笑まれてしまえば、余計なことは聞かずに飲み込むしかなかった。埃っぽい匂いの中にほのかに溶ける白檀の記憶は、一つ掘り返すとあのときのことをするすると鮮明に思い出させる。あの非日常めいた不思議な空間の中でマレウスのふいに起こした気まぐれが、今こうしてケイトの役に立つこととなったのは僥倖といえた。
    「さっきの話、ギベオンくんは茨の谷の外で一度命を落としたってことだよね。そうだとして、ずっとドラゴニア家、特に女王様に仕えているギベオンくんの役割は守護者。それもマレウスくんのオレにした質問の答えを鑑みると女王様の側を片時も離れることを許されない立場のはず。これって、変じゃない?」
    「…成る程。僕の話が事実なら、ギベオンがスフェーンという少年の元にそう頻繁に通えるはずがないということか」
    「でもそれが可能な場合もあるんだ。たとえば、スフェーンくんの元にギベオンくんが通うこと自体が女王様から与えられた任務だった場合。あと、ギベオンくんと同じ立場の守護者が複数いる場合。それから、ギベオンくんがスフェーンくんと出会ったのは、まだギベオンくんが女王様の守護者になる前だった場合」
    「ふむ、なるほど…続けてくれ」
    「どの可能性が一番高いか、マレウスくんならわかるよね?その上で、これは完全にオレの憶測なんだけど…閉鎖的な茨の谷にいるギベオンくんが、最後に茨の谷を出たのはいつだか。マレウスくん実は知ってたんじゃない?しかもそれって、ここ何年かの話じゃないんじゃないかなーって」
     
       
     ✴︎ ✴︎ ✴︎


    「昨日、あの近くで一番大きな資料館に行ったんだよね。街の歴史とか昔の地図とか、所縁の何かがあるかなって。結果から言うと、ここ数年であの場所に家なんてなかった。あったのは百五十年以上は昔のこと、だって」
     
     ケイトはマレウスの様子を窺った。マレウスはどこまで知っていたのだろうか。というのも、ケイトはマレウスが敢えて語っていないことがいくつかあるのではないかと踏んでいた。彼は嘘のない言葉を話す人ではあるが、敢えて何かを語らないということはままあったから。
     加えて先程の手紙の話も不自然さが残る。マレウスは茨の谷の次期当主だ。そんな彼に大した事情も話さず小間使いのようなことをさせるなんて、いくら茨の谷の女王とてしないのではないだろうか。マレウスを協力させるのに納得する理由くらいは彼に説明していると考えた方が自然だろう。大体博識で全てを俯瞰に見ているような、超常的な存在に近しいマレウスがケイトでも思い至れるような可能性に気付かぬはずがない。大方面白がったかして敢えて伏せているといったところだろうか。ならば引き出せる情報は全て引き出してしまった方が都合がいい。だがケイトの予想に反して、目の前の男は驚いたように目をパチパチと瞬かせた。
     
    「……つまり探し人はもうこの世にはいないということか?」
    「…うん。普通ならもうお墓の中だと思う。しかもあの辺りは五十年前くらいから山から降りてきた熊が出るようになったらしくて、人も滅多に近寄らないみたい」
    「そうか……」
     
     俯いた彼が睫毛を伏せる。表情がはっきりと見えずともあからさまに気落したことがその姿からは窺えた。もしかして本当に何も知らなかったのだろうかと、伸ばしかけては引っ込めるを繰り返した手は、しかしある一点を見定めて宙で止まる。マレウスの肩。寮服を隙なく着込んだその双肩が、飾られたエギュレットが、震えていることに気づいたからだ。
     
    「……ふふふ」
    「あー…、やっぱり気づいてたってわけね」

     がくりと肩を落とした。マレウスのペースに振り回されかけるところだった。からかわれたことに不満そうな顔をすると、いよいよマレウスは声をあげて笑った。よほどケイトの動揺する様は愉快だっただろう。
     
    「嬉しいぞ、ダイヤモンド。お前は茨の谷の魔女の家来たちよりよほど優秀だな」
    「えー……それって、十五年間ゆりかごを探し続けたってやつ?」
    「ああ、そうだ。だが、僕を利用したいなら駆け引きはもっと上手く。そうだな、夢の中で踊るワルツのように軽やかでなければ」
     
     このときのケイトの複雑な心境をなんと喩えればいいのだろうか。とりあえずここ三年の中で一番しょっぱい顔をした自覚はあった。だが不謹慎なほど眩く、鋭く尖った歯を見せて破顔するマレウスはやはりどこか憎めないのだった。
     
     
       
     ✴︎ ✴︎ ✴︎


     
     つまりこうだ。ギベオンは茨の谷の女王の守護を務めるケット・シーである。他国とほとんど外交のない茨の谷の女王は、自治の関係から茨の谷を出ることはそう滅多にないらしい。それは守護者のギベオンも同じことだと言える。妖精や妖精族は人より長寿だとするならば閉鎖的な谷で過ごすギベオンの時間感覚は人のそれよりよほど早いのだろう。
     入学してそう間もない頃、ケイトはリリアから東の国に伝わる御伽噺を聞いたことがある。海岸で虐められていた亀を助けた青年が、礼にと海底の楽園へと誘われる話である。楽園で三日三晩を楽しく過ごした後、青年は故郷に帰ったがそこは既に六十年の月日が経過していたのだという。結末は忘れてしまったが、今回の件を調べていたときにふとこの話がケイトの頭をよぎった。
     ギベオンの言う「少し前に世話になった」の少しはきっとケイトと思うそれと体感が異なる。ずっと前にギベオンの恩人であるスフェーンは身罷っていて、ゴーストにもならなかったのだろう。
     
    「ただ残念ながら近くの墓地にスフェーンって名前はなかったんだよね。だから、もしかしたら何処かに引っ越した可能性はあるけど…」
     
     既に近くの村の住人たちから存在を忘れられているような家に住んでいた人間の居場所を追うことは、どちらにせよケイトの力では難しいだろう。ファミリーネームでも分かれば或いはと思ったが、ギベオンは知らないようだった。また資料館にもそこまで昔の住民の名前は残っていなかった。
     
    「僕が探しても道理で見つけられないはずだ。なんせもう探し人はこの世にいなかったんだからな」
    「うーん、ただギベオンくんがどうして死んだかはやっぱりちょっとわからないかも。確かに変な感じがする家だったし、魔法の痕跡もあったから何か特別な家だったのかもね。オレも行った後、変な夢見たし」 
     
     やや白々しいマレウスの言葉を流して、ケイトが肩を落としてそう言うのと、マレウスが柳眉を跳ね上げたのは数秒も変わらないことだった。
     
    「……家?」
    「うん。ギベオンくんの友達の…スフェーンくん?の家に行ったとき、なんか妙に嫌な感じがしたんだよね」
     
     笑って頬をかいたケイトをマレウスは凝視した。思わずケイトの足が半歩ほど退く。
     
    「……ダイヤモンド。先程お前はあの場所に家はないと、そう言ってなかったか?それに変な夢…とは?」
    「え?マレウスくんもギベオンくんから聞いてるよね?人は住んでいないっぽいけど廃墟は残ってたって…あれ?」
     
     認識の食い違いにケイトとマレウスは顔を見合わせた。聞けば、確かにギベオンはマレウスに一昨日のことを報告していた。しかし、ギベオン曰くあの場所は既に更地のようになっていて、家のようなものは見当たらなかったとのことらしい。ケイトと同時刻に同じ場所で同じものを見ていたはずにも関わらず、見えていたものが異なるなんてそんなことあるのだろうか。
     釈然としない表情で瞳を揺らすケイトとは対照的にマレウスは何か思い当たりがあるような顔をした。徐々に心拍数が上がっていく感覚にケイトは胸を押さえる。嫌な感じだ。何となく空気感でわかる。きっと今からマレウスはケイトがあまり望んでないことを言うつもりだろうと。
     
    「……確かめてみる必要があるな。案内を頼めるか?ダイヤモンド」
     
     ほぉら、言わんこっちゃない!
       
       
       
     ✴︎ ✴︎ ✴︎



     夜の繁る森は静寂に包まれていた。案内をと言われて、まさか今すぐの話だと思わなかったケイトはマジカルペンを部屋に忘れてきたことを理由に翌日への延期を提案してはみた。無論本当は持ち歩いていたので嘘だったのだが。しかしマレウスは無言で己のマジカルペンを振り、刹那ケイトは寮服を纏った姿で約十インチ以上身長差のある同級生に抱きかかえられていたのだった。その上隠し持っていたマジカルペンも見えるところにしっかり装備されているときたら、もう諦めて腹を括るしかない。
     茨の谷の時期当主に拐かされた件。
     ティーン向けのノベルにありがちなタイトルを思い浮かべたケイトは、あらゆる方面で己の力不足を感じて脱力した。慈悲なき夜は更けていく。

    「…この辺りか?その珍妙な廃墟とやらは」
     
     心なしかマレウスの声が弾んでいる。
     廃墟コレクターの心に火をつけてしまったことをケイトは心底悔やんでいた。昼ならまだしも、夜の森なんて何が出てくるかわからず恐ろしいことこの上ない。おまけにこの森、熊が出るらしいではないか。最初に訪れた時は知らなかったからまだしも、知ってしまった今となってはすぐそこの木の影から出てくるのではないかと気が気ではない。
     ケイトはさりげなくそのことをもう一度マレウスに伝えたのだが、マレウスは少し思案げな顔をした後、「シルバーを連れてくるべきだったか?あいつは昔から動物と心を通わせるのが上手いからな…」と小声で独りごちていた。マレウスにとっては、シルバーの眠っている時に周囲に集まる小動物もこのようなひとけのない場所に住む熊も皆等しく動物の括りなのだろう。ケイトはあまり面識はないけれど、確かにあの穏やかそうなシルバーならば熊と仲良くなれるかもしれない。なれるか?いや、無理では。
     やがて見えてきた件の家は、一昨日と全く同じようにケイトの目の前に現れた。辺りが暗いとより一層のこと趣の感じられる佇まいで、スマホのカメラを起動してレンズを向けるとマレウスが画面を興味深げに覗き込んだ。
     
    「…そこにあるのか?」
     
     画面と目の前の家と視線を何度かスライドさせていたが、どうやら例の家はマレウスの目には見えないらしい。む、と眉を寄せて食い入るように見つめる様は、身長六フィート以上の長身の男がやる仕草にしては些か幼く見えた。
     
    「うーん、何で見えないんだろうね…」
    「思うに、妖精よけの呪いでもかけられているのだろう。この僕の力を以ってしても魔法の痕跡すら感知できないほどとなると…ふふ、これをかけた奴はよほど妖精、ないし妖精族に見つかりたくなかったのか。或いは……」

     マレウスの焦点が、ケイトを真っ直ぐに捉えた。
     
    「逆もあるだろう。ダイヤモンドが視るための条件を備えているか、幻覚を見ているか」

     その神来のごとき一言に、ケイトは目を皿のようにして驚いた。たちまち粟立つ両腕をさすり、思い当たる節を後ろ手で隠しながら冗談であることを願うもどうやらマレウスは本気で言っているようだった。
     
    「え〜マジかあ…。でも確かに…ここから一番近い村の人もあの家の存在を知らなかったんだよね」
    「もし実際に在るのだとしたら、視える人間を選別しているということか。……もしかして、呪いをかけたのは妖精、闇の眷属かもしれないな」
    「えっなんで?」
    「気に入った人間を拐かす妖精の手口によく似ている。昔、糸車の針に指をついて眠りに落ちた姫がいたそうだ。姫は自室の暖炉が急に通路へと変わったことに興味を惹かれ、その通路をくぐってしまった……それが妖精の罠だと気が付かずにな。それに気づいたお付きの妖精たちが後を追いかけようとしたが、いざ通ろうとしたその瞬間に、通路は暖炉に戻ってしまったらしい」
    「へえ〜。目眩しとかじゃなくてオレはあの家に入れるけど、そもそもマレウスくんは入れないかもしれないってこと?」
    「そういうことだ。まあ妖精がしかけたのだとしたら、入ったところで二度と出てこられないかもしれないが…」
     
     さらりと恐ろしいことを言う男である。しかしケイトもここまできてしまった以上、何かを掴みたいという気持ちが恐怖よりも上回ってしまった。
     
    「うーん…オレのユニーク魔法を使っても中を偵察できないかな?」
    「どうだろうな。だが無闇に魔力を使って干渉するのはおすすめしない。中に何があるかわからないし、何を取られるかもわからないからな。…ふむ、僕が魔法で燃やしてみるのが手っ取り早いか?」
    「ちょっとちょっと。それ、森ごと燃えるやつ……」
     
     冗談だとマレウスは言ったが、本気のトーンだった。彼とここに来たことはある意味正解だったのではないかとケイトは思い始めていた。マレウスの知識の深さがなけれぱ、自分はあの家に安直に足を踏み入れていたかもしれない。その上、もし彼が後からここに訪れて魔法を使ったら……家ごと燃やされてしまっていた可能性だって否定できない。ここまで至って、そもそもマレウスに連れられなきゃこんな時間にこんなところに来ていないことを思い出して奥歯を噛んだ。危うく騙されるところだった。
     
    「だが、僕の見立てはあながち間違いではないだろう」
    「ギベオンくんは、ここで一度死んだってこと?」
    「ギベオンは元々件の家が見えていた筈だ。それがこの間訪れたときには…」
    「!見えなくなってた。そっか…ギベオンくんがここに来るのを邪魔に思った奴がいたんだとしたら、今こうして妖精よけのおまじないがかかっているのも納得がいくね…」 
    「ギベオンは古くからドラコニアに仕えている…ここにいることがドラコニアに知られたら困る者…?」
     
     マレウスはしばらくの間ぶつぶつと呟いていたが、やがてはっとした顔でケイトを見た。
     名前を呼ばれたのだと思った。マレウスの口の動きが象ったのは確かに自分のファミリーネームだと思った。しかし、それは音としてケイトの元へと届くことはなかった。
     一陣の風が、前髪を揺らす程度の微細の風が、妙な熱気を伴って二人の間を通過した。それがたちまちに立っているのも困難なほどの大きなうねりになり二人を引き裂こうと襲いかかる。マレウスの腕はなんとかケイトを引き寄せたが、引き剥がされるのは時間の問題とも思えた。不思議なことに森の木もマレウスも風の影響を受けていない。ケイトだけを絡めとり連れ去ろうとしている。
     マレウスが耳元で咄嗟に言った言葉を咀嚼する前に、ケイトの唇は包まれていた。それが柔いもので、もっといえばマレウスの唇であると、口付けられているのだと意識した刹那、熱が体に回る。吹き込まれた吐息がケイトの細胞を焼き尽くし、そうして新しい細胞へと生まれ変わるような感覚だった。
     
    「––––ぞ、ダイ…モ…」
     
     目が霞み、マレウスがぼやける。吹き荒れる風に引っ張られ、ケイトの体は取り上げられるようにマレウスから離れた。伸ばした手と手は触れ合わず、空を切る。そうして一瞬のうちにマレウスの姿は遠ざかり、忽ち更なる暗闇へと引き摺り込まれ。ケイトの元にはマレウスの言葉だけが取り残されたのだった。
     
     
     
       
     ✴︎ ✴︎ ✴︎
     
     
    「……?」 
     
     いくつもの気配がする。
     気がつくと、白い豪奢なアンティークチェアに腰掛けていた。
     足元には野花が綻び、柔らかい芝がどこまでも続いている。目の前には真っ白なテーブルクロスがかけられた長細いテーブル。テーブルの上にはパステルカラーで整えられたティーセットが行儀良く並び、その間には列を成すようにケーキスタンドにのせられたふわふわの生クリームのケーキやら三段トレーに飾りつけられたお菓子たちが鎮座している。
     ケイトは夜の闇から一転、眩いほどの青空の下にいた。どこかの庭園のようで、周りは動物の形に刈られた植栽やら蔦のまかれた白いアーチやら色とりどりの花の咲く花壇に囲まれていた。スロープには彫刻の彫られた白いタイルが埋め込まれ、タイルとタイルの間には水が流れている。水流は緩やかに奥の噴水の方へと吸い込まれ、動物に支えられた花の形の噴水口からは柔らかな放物線を描いた水のアーチがいくつも生み出されていた。それは一目見ただけでわかるほど、手のかけられた美しい庭だった。
     上座に位置するところに座したまま、ケイトは辺りをちらりと見た。エレメンタリースクールからミドルスクールくらいの歳の子どもたちがそれぞれデザインの違う椅子に座っている。ふっくらとした頬に薔薇色をのせて、隣の子とお喋りしたり、お菓子を食べたりと賑やかに花笑みを綻ばせていた。その中にはどこか見覚えのある子もちらほらと見受けられた。どこで見たかはまるで思い出せなかったが。
     
    (今、何時なんだろう…)
     
     ジャケットの裏ポケットからスマホを取り出して時間を確認しようとしたが、手に真っ先に当たった何かが気になって先にそちらを掴んだ。親指と人差し指の間にはまるで血溜まりのように赤い石が挟まれている。スピネルだとケイトにはわかった。以前錬金術の授業で習ったことのある石だったからだ。肝心のスマホは電源が切れていた。電源ボタンを長押ししても起動しそうもない。
     ポケットに石を戻して、ケイトは少年の一人に話しかけた。しかし反応がない。まるでケイトのことなど見えていないかのようだった。なんだかいっそ薄気味悪い。どうせならここがどこか聞いたり情報収集をしたかったのだが、無理ならそれはそれで辺りを散策したほうがいいのかもしれない。そう考えたケイトは立ち上がり、しかし動きを止めた。ケイトが立ち上がった瞬間、今までケイトのことなど見えないもののように扱っていた少年たちが一斉にケイトを見たからである。
     
    「あ〜…ちょっと散歩に行こうかなー…なあんて…」
     
     乾いた笑いで場の空気を濁そうとしたが、少年たちはじっとケイトを見つめている。何対もの目が体を貫くような視線を向けるものだから、ケイトはたじろいだ。それでも意を決してゆっくり、ゆっくりと後退り、テーブルから離れていく。追いかけてくるようならユニーク魔法を使って逃げるしかないだろうと心に決めながら。そうしてある程度の距離まで来たところで踵をめぐらすと徐々に普段の歩行スピードで歩き出した。去り際、ちらりと少年たちを振り返れば、彼らはケイトのことをまだ見ていたが、追いかけてくる気配はなかった。
     
    「なんだったんだろ、あれ」
     
     大体ケイトはあの家のある方へと吸い込まれるようにしてここに来たはずだ。ということは、ここは家の中なのだろうか。幻覚を見せられているのだろうか?何もわからない。しかしこのまま帰れないのは困る。帰るのが朝方になっても困る。ハーツラビュル寮の厳格な女王にバレでもしたら首を刎ねられかねないからだ。とすると、一刻も早くここから出るために出口を探さなくてはいけない。外ではマレウスが動いてくれているはずだ。流石にこのまま放置は恐らくないだろう。ないと思いたい。
     噴水の脇を通るときにその細部を見る機会を得てケイトははじめて気づいた。大きな花を支える動物の細工、その目の部分には宝石が嵌め込まれていた。柔らかい色合いの透明度の高いものばかりだったので、遠目からだと分かりづらかったのだろう。キラキラと水の輝きと波の動きを反射している。
     その輝きを見つめていたらふと意識が遠のき、気づけば広いクリケット場のような場所にいた。というか恐らくようなではなくクリケット場である。中央に長細い芝生が刈られた部分があるからだ。ハーツラビュル寮生でもなければわからなかっただろう。現代において、クリケットはケイトの住んできた街においてはどこもさほどポピュラーではなかった。ケイト一人しかいないクリケット場はがらんとして物寂しい。吹く風は爽やかな緑の香りがした。夢を見ているにしてはやけにリアリティがある。古典的だが、頬をつねればしっかり痛かった。
     丁度いいので、オレくんを出そうとケイトは思った。出口を探すならば人手は多い方がいい。ハーツラビュル寮生たるもの、ロゼットの下に隠れているポケットにはいつだってトランプを欠かさない。
     結果からいうと、ケイトはユニーク魔法を使えなかった。まるで魔力の泉が閉じられてしまったかのようにケイトのイマジネーションは魔法への変換が遮断され具現できなくなっていた。心中に生まれた焦りを何とか冷静さで押し殺す。ここで混乱してはいけないと言い聞かせた。
     こうなってしまうとますますマレウスが、マレウスの言葉だけがケイトにとって頼みの綱だった。
     とりあえずここは視界が良すぎて、誰かが来ても隠れられないと思い、ケイトは植栽の並ぶフィールド外へと移動した。そしてそれは最良の判断に違いなかった。暫くするといくつもの黒い影がクリケット場に現れたからだ。黒い影は皆一様に項垂れているようだったが、人の形をしていた。ゆっくりとした動作で何かを探すように徘徊している。ここから離れた方がいいと判断したケイトは、足音を立てずにそっと植栽の影を移動しようとした。トン、と後ろに何かが当たる。それが人だと気づいたときには腕を掴まれていた。
     
     

       
     ✴︎ ✴︎ ✴︎
     


     気がつくと、白い豪奢なアンティークチェアに腰掛けていた。
     足元には野花が綻び、柔らかい芝がどこまでも続いている。目の前には真っ白なテーブルクロスがかけられた長細いテーブル。テーブルの上にはパステルカラーで整えられたティーセットが行儀良く並び、その間には列を成すようにケーキスタンドにのせられたふわふわの生クリームのケーキやら三段トレーに飾りつけられたお菓子たちが鎮座している。
     戻ってきてしまったのだと、徐々にはっきりとした意識の中でケイトは認識した。周りでは相変わらず少年たちがお喋りをしたり、本を読んだり、お菓子を食べたりしている。一つ違うところは、上座のケイトと反対側の席に人が腰掛けていたことだ。性別はわからない。男性にも女性にも見えた。藍色の髪はケイトより短く、年頃はケイトと同じかそれより幼く見えた。紅い生地に美しい刺繍の施されたマントのようなものを身につけている。それはケイトと目が合うとにっこりと微笑んだ。
     
    「お茶をどうぞ」 
     
     それが指をぱちんと鳴らすとケイトの目の前にティーカップが現れた。湯気を立てた紅茶が並々とカップの中を満たしていく。手をつけずにいると、それはふふと声を上げて笑った。笑い声は少年のようにも少女のようにも聞こえた。
     
    「そう緊張しなくていいよ。君は大事なお客様だ」
    「悪いけど、招待状を貰っていないお茶会には参加しない主義なんだ」
    「主義?今更主義なんて役に立たないのに、君は面白いね」
     
     ケイトが珍しく冷めた声でお茶を断っても、それはなんとも感じていない様子でにこにことしていた。しかしたまに見える金色の目でじっとりとケイトを観察しているのが気配でわかった。
     
    「その服、ナイトレイブンカレッジの生徒だよね。確かハーツラビュル寮。有名だから知っているよ。ということは歳は十六から十九ってところか。ふふ、まだまだ卵から孵ったばかりだね」
     
     その言葉を聞いて、やはり目の前の人間はマレウスの読み通り人間ではないのだとケイトは思った。マレウスやリリアにも同じようなことを言われたことがあったからだ。
     それは立ち上がるとケイトの前までやってきた。気安い様子でケイトの顎を掬い上げるとまじまじと覗き込む。品定めをするような目をしていた。赤い舌が唇を艶かしくなぞるように舐める。その様子にぞっとして離れようとしたが、同じような身長なのに力は強く、抵抗らしい抵抗はかなわなかった。嘲笑うかのようにそれがケイトの髪に指を巻き付けて引っ張った。馴れ馴れしいというより、まるで所有物にするような遠慮という概念自体がはなから存在していないのような仕草だった。

    「この髪の色はいいね。綺麗だ。目も澄んでる。角度を変えると少しオレンジが混ざるのもいい。スフェーン…はもう持っているな。それにどちらかといえばファイアオパール…うーん、魔力を見てから決めようか」

     スフェーン、その言葉にケイトはハッとした。スフェーンはもう持っている。その言葉の真意を探るべく食い入るように見つめるケイトに気づき、それは熱烈だねと喉を鳴らした。

    「不満なのはひとつ、芳しい薔薇の匂いに混ざってドラコニアの匂いがすることだ。そういえば末裔がナイトレイブンカレッジに通ってるんだっけ。親しいのかな」
     
     恋人なの?と揶揄うように尋ねられて、ケイトはカッとした。しかし五秒間、深呼吸を繰り返して平静さを装う。ここでは多少の動揺や怒りが身を滅ぼすのだとまざまざ肌で感じていた。伊達に魔法士養成学校に通ってはいない。近年では実戦することなど特殊な一部の職業を除きそうなくとも、命のやりとりをする場合も想定したカリキュラムが組まれている。
     それはケイトを解放すると、席に戻り足を組んだ。優雅に指を組み揃えると足の上に置いてふと思いついたような顔をした
     
    「でもそれならドラコニアに匿って貰えばいいことだ。僕は大歓迎だけど、何故ここに?」
    「何故って、君がここに連れてきたんだろ」
    「僕が?違うよ。ここに来たのは君の意志だ。他ならぬ君がここに来ることを望んだ」
     
     二人が、特にケイトが険のある応酬をしていても、周囲の少年たちはまるで気にしていなかった。目の前の人物の言葉の意味がわからず目を眇めたまま周囲を見渡したケイトを見遣ってそれがため息をこぼす。
     
    「ここに来られるのは選ばれた子だけなんだ。容姿が整っている人間であること、魔力がある、宝石の名前を持つ、そして周囲から疎外感を感じていたり、迫害をされていたり…特別な事情がある子。そういう子はここの入り口が見えるようになってる。最後に関しては虐待やいじめられていたり、どこかに消えちゃいたいと思っていたり、今の家族に不満があったり事情は様々だけどね」
     
     当てはまってるでしょう。うっそりと笑ったそれは両手を広げてみせた。まるで手品で手の中のコインを消してしまったときのように。ケイトは胸に何かがつっかえたような心地になり言葉が出なかった。
     
    「そういうかわいそうな子をここでは救済してあげている。ここにいる子、みいんなそうだよ。まあ容姿が綺麗な子も宝石の名前を持つ子も僕の趣味なんだけど…この世界にいる全ての不幸な子を助けることができたらどんなにいいことか。けれどそれは流石に難しい」
     
     ケイトは何も言わずに、大袈裟な仕草で首を振る人ならざる者を見つめていた。藍の髪をかきあげて、それは優しい顔つきで少年たちを順々に見ている。まるで母親のような穏やかさで彼らが幸せに笑っているのを見守っているようだった。
     一見、幸せそうな情景であった。ここには不幸な子供など一人たりともいないとそう訴えているような。どの子も自分の居場所を暖かい陽だまりに見つけたような。しかしケイトにとってにわかには信じられない話だった。そんな救済を無償で施す存在がそう易々といる筈がない。しかし目の前の子どもたちはきっと。一瞬でもその温かなまやかしを信じたのだろう。救われたいと、支えも拠り所もない細い腕を精一杯伸ばして。胸に広がる気持ち悪さで呼吸が荒くなる。そうしている間にもケイトの中で断片的な点と点がひとつに繋がり一枚の絵ができあがっていく。見えてきた真実に目の奥が熱くなるのを感じた。
     
    「……その子たち、どうなったの?」
    「見ての通りさ。今はここで穏やかに暮らしているよ。これからもずっとそうさ。幸せな夢を食べ続けて生きるんだ。ずっと永遠にね」
    「その子、」
     
     ケイトが示したのは奥から三番目に座る柔らかそうなアッシュブラウンの髪を緩くカールさせた男の子だった。彼は指先にとまる小鳥を愛でて微笑んでいる。
     
    「オレ、見たことあるよ。テレビで。街中の掲示板でも。一番初めに見たのはエレメンタリースクールの頃だった。…すこしも変わってない」
    「ここにいると時間が止まるんだ。彼は最も愛らしい時期に成長が止まった。ずっと愛でられ続ける彫刻の小鳥のようにね。ああ、なんて幸せなんだろう」
    「姿を消してから三ヶ月後、森の中で彼の毛髪と体の一部だけ見つかったって」
    「あの頃はまだ全てを使い切る技術がなかったんだ。君だって要らないものは屑籠に捨てるだろ?それと一緒だよ。でも何度も繰り返すうちにうまくできるようになった。今ではまるごと美しい姿で愛でてあげられる」
     
     何故今の今まで思い出せなかったのだろう。当時の輝石の国では連日騒がれていた事件だったはずだ。宝石の名前を持つ子どもが立て続けに失踪し、その中の一部のものは変わり果てた姿で発見された誘拐事件。宝石の名前を持つケイトと同じくらいの子どもが被害にあっていたことから殊更ケイトの母親は心配してケイトのことを姉たちと一緒にスクールまで送り迎えしていた。ただでさえ自分を良いように扱う姉たちと一緒にいる時間が増えてケイトはフラストレーションが溜まる一方だった。だからかいつしか夜中こっそり抜け出して散歩するというスリルを楽しむようになっていたのである。
     一つ見えてくれば、虚構はみるみるうちに剥がれ落ちていった。足元の芝生も野花も忽ちのうちに萎れていく。ケイトが立ち上がると座っていたアンティークチェアもシャビーシックとはとても言えないようなボロボロのものへと変化した。魔法の解けた長いテーブルの上は一言で言えば大惨事だった。
     欠けたティーカップや曇ったカトラリーが散乱し、ケーキスタンドの上には何やら汚らしいものがべったりくっついている。テーブルクロスは染みだらけで薄汚れていた。どれもこれも外にずっと放置されていたかのように曇り、汚れ、壊れている。ケイトの目の前に置かれていたカップもひび割れて既に使用されたと思われる茶渋がくっきりついていた。青い空は真っ白な空間へと変わり、幸せそうに笑っていた少年たちがいたところには代わりに黒い人の影がゆらゆらと揺れて首を柳のように垂れていた。後悔、悲しみ、憤り。それらを煮詰めたような感情がどうしようもなく渦巻いて彼らを形作っているようにケイトには見えた。それぞれの頭上には光り輝く宝石が輝いていて、赤いマントを揺らしたそれが指を一つ鳴らすと宝石たちはそれの元に集まっていった。
     
    「エメラルド、アクアマリン、シトリン、ああこのレッドベリルは思い出深いね。この頃はまだ失敗が多くて…今思えばとてもかわいそうな思いをさせてしまった。でも悲鳴をあげるのが可愛くてね、ついつい何度も手順を間違えてしまったよ。今でもこの美しい煌めきを見るとあの絹を引き裂くような声を鮮明に思い出す」
     
     うっとりとした表情で石に頬擦りする悪魔はぐりんと目玉だけでケイトを捉えた。鋭く尖った歯を見せて口の端をぐにゃりと吊り上げる。
     
    「そういえば君の名前をまだ知らないな?僕は名前からその子を何の宝石にするかインスピレーションを受けることも多いんだよ」

     テーブルクロスが宙を舞う。テーブルに敷かれていたそれを思いっきり横に引いたケイトは、すばやくそれを高く掲げて左側へと飛んだ。皿やかけたカップががらがと落ちる。叩きつけられたテーブルクロスに視界を奪われた人ならざる者がもがく。その隙にケイトは踵を返して疾駆した。スケートボードをやるからか瞬発力は悪くない方だと自負しているが持久力はさほどない。短期勝負になるだろう。周りを窺いながらも走り続けると、白い空間が徐々に溶けるように薄暗い廊下へと変わる。外への扉や窓は見当たらない。地下なのかもしれないが、階段らしきものも見当たらなかった。どこもかしこも異様な腐った臭いがする。走っていてもわかるのだから、立ち止まったら吐いてしまいそうだ。
     いくつもの角を曲がり、漸く階段を見つけて駆け上がる。木でできたそれは今にも割れて壊れてしまいそうだった。表の見た目からは想像できないほどに広い敷地だ。何とか隠れられそうな場所を見つけ、しゃがみ込む。何としてもここから脱出しなければ。スマホを確認したかったが、起動できたらできたで光が漏れて居場所がバレてしまいそうだとやめた。
     
    「かくれんぼか。懐かしいなあ」
     
     遠くてうっすらではあるが、随分と嬉しそうな声が確かにそう言うのが聞こえた。コツコツと、ヒール音がみるみる近づいてくる。ケイトは気配を殺し息を潜めた。地図さえあれば何とかなるだろうにと歯噛みする。どこかの扉を乱暴に開ける音が響く。このままでは見つかるのも時間の問題だと思われた。
     悲鳴を飲み込めたのは奇跡だった。薄暗がりの中でもはっきりとわかる黒い影がいつのまにかケイトをじっと見ていた。クロッケー場でのことを思い出す。黒い影たちは何かを探していたが、今思えばあれはケイトを探していたのだ。つまり目の前の影もそうに違いない。これでもう終わりだと絶望にも似た冷たい霜がケイトの心中に下りていく。 
        
     ✴︎ ✴︎ ✴︎
     
     埃っぽい部屋はカビ臭かったが、地下のあの吐き気を催すような惨状を思えばだいぶましだった。辺りを見回すと机と簡素なベッドがあり、そのどれも長く誰も使っていないのだと一目でわかるほど埃で真っ白であった。
     ともあれ、この部屋には先程いた部屋や地下とはあまりにも違う所が一つある。換気のための小さな窓があったのだ。辛うじて猫一匹くらいなら通れそうな小さな窓ではあったが、外に通じる出入り口がある部屋に来られたことは精神衛生上良かった。
     
    「転移魔法…?」
     
     影に見つかり、もう駄目だと諦めかけたケイトだったが、影は指のようなものを顔の前に立てるとそっとケイトを手招きした。そうして、部屋の端まで行くと壁の下辺りを指差した。その間も扉を開ける音は近づいてくる。どうやら木でできた背丈の低い本棚の裏に何かがあるらしい。何かを伝えようとする影の動きからケイトはそう察することができた。もうどうにでもなれ。そんな捨て鉢のような気持ちで、壁と本棚の間に手を入れると目の前の景色が切り替わったのだった。
     思うに先程本棚の裏には転移のための魔法陣か術式が書かれていたのだろう。発動するということは魔法が使えるのだろうか。というケイトの淡い期待はまたもや虚しくも打ち砕かれることとなった。ケイトがどんなに試してもやはりどんな簡易な魔法も発動する片鱗すら見せない。黒い影はそんなケイトをぼんやりと見ている。害意は今のところ見当たらないが、内心で警戒を解くことはなかった。いつ豹変するかわからないし、罠の可能性もある。あまり時間がないことには変わらない。どうか間に合ってほしいと一縷の望みに縋らざるを得ない。
     ふいに黒い影が動いた。ケイトも後ろ手にマジカルペンを構えて、しかし魔法は使えないのだと思い出した。逃れようとするケイトには意を介さず、黒い影はケイトの額に手をかざす。淡い光が弾け、鮮明なイメージが脳裏にたちまち流れ込んできた。利発そうな少年が柔らかくグリーンの目を細める。少年は手を伸ばすとベッドを堂々と占拠する猫を優しく撫で始めた。猫は満足そうにそれを甘受し、尻尾を丸めている。
     
    「……もしかしてスフェーンくん?」
     
     そのとき、目の前の黒い影は確かに柔らかく笑ったのだとケイトにはわかった。ケイトの言葉を肯定している。この時の気持ちをケイトはどう表現したらいいのかよくわからなかった。この目の前にいる少年が、どういった末路を辿り今こうしてここに変わり果てた姿でいるのか、ケイトにはもうわかっていたから。ケイトは恐る恐る黒い影に手を伸ばした。指先にその黒い端っこが触れるときに微かに焼けるような光が瞬いたが、指は何の感覚も掴めずすり抜けてしまう。触れられないのだろう。
     
    「ギベオンくんが、君を探してるよ」
     
     そう言うのがやっとだった。
     スフェーンが首を傾げるのが、どんな感情を表しているのか、ケイトにはわからなかった。ゴーストにもなれなかった少年。未練がなかったのではない。魂を取られてしまった。結果としてここに囚われどこにも還れなくなってしまった。未熟さゆえのあやまちに払う代償としてはあまりにも惨すぎるだろう。黒い影はおもむろにケイトの頭を撫でた。
     
    「渡したいものがあるって。約束、したからって。覚えてる?」
     
     スフェーンは何も答えなかった。そのかわりケイトの頭の中でぱっと光が瞬く。まるで映画を見ているように、鮮やかな映像だった。
     時間にすればそう経っていないはずだが、染み込む水のように全てがケイトの中に落ちてきた。感情も、出来事も、顛末も。

     ✴︎ ✴︎ ✴︎

     誰かの棺が埋められていく。
     幼い少年と女性が項垂れてそれを見ている。女性は歳の離れた姉か母親だろうか。黒い服で、表情はベールに包まれて見えない。だがどうやら埋められているのは少年の父親のようだった。
    やがて女性と少年は他の男性とその連れ子たちと暮らし始める。少年の家はたちまち賑やかになったが、幸せは永くは続かない。次第に少年は奴隷のように働かされ、暴力を振るわれるようになる。言わずもがな、この少年とはスフェーンのことだ。
     転機が訪れたのは豪勢な刺繍の施された紅く美しい衣を纏った中性的な人がスフェーンに話しかけたときだ。言葉巧みに誘われたスフェーンはあろうことか、その人物に差し出された手を取ってしまった。魔術師を自称する人物はスフェーンを森の中の家に連れて行き、そうしてスフェーンは囚われた。
    しかしこれらの記憶はケイトがエレメンタリースクールの頃よりずっと前の時代のことのように思えた。もしかしたら輝石の国で件の連続児童誘拐事件が騒がれる前から同じようなことを繰り返してきたのかもしれない。それまでは何らかの方法で上手くやり、明るみにでなかったのだろう。
     スフェーンは森の中の家で、主人に加え、迷い込んだ子どもたちの世話をする役目を与えられた。子どもたちに懐かれれば懐かれるほど、スフェーンは胸が切り刻まれるように痛かった。目の前の子どもがどんな恐ろしい目に遭うのか、もうその頃には知っていたからだ。こんな残酷な役目をこなすならいっそ命を自ら絶つほうがましとすら思えた。しかし死ぬことができなかった。そうはできぬように魔術が施されたスフェーンの体は彼がそうしようとしても意に反して死や老いから彼を遠ざけ続けた。本当のことを誰かに話すことも同様の理由でできない。生き地獄とはまさにこのことだろう。
     ある日スフェーンは迷い込んだ傷だらけの猫を匿うことになる。名をギベオンといい、人の言葉を喋る不思議な猫だった。きっと見つかれば甚振り殺されてしまうと思ったスフェーンはギベオンを自分の部屋に隠した。人間ならきっと到底できなかっただろうが、猫のギベオンを隠すことくらいなら辛うじてその細い腕でもできそうだった。
    ギベオンの世話をするうちに、スフェーンには今まで湧いたことの無かった不思議な気持ちが生まれた。ギベオンと何気ない話をするのは楽しかった。世間知らずではあったが、魔法のことに関しては見た目よりも博識で冗談もよく言うので話すとほっと心が和んだ。隔絶された世界の中で小さな窓から外を覗くような希望がそこにはあった。小さな体をそっと撫でて抱っこするのは温かくて心地よい。猫にしては人懐っこいギベオンはスフェーンにもよく懐いた。この小さな友人をスフェーンは心から愛した。スフェーンの人生で得た初めての友達だった。
     どういうわけかギベオンはこの家に自由に出入りができるようだった。ここに囚われた少年たちは魔法も使えなくなり、この家から逃げる事はおろか出ることもできないにもかかわらずだ。きっと出会った頃がもっと早かったら、出会ったばかりにこれらのことを知っていたら、どうにかしてギベオンに頼んでここにいる子どもたちを解放できないだろうかとスフェーンは考えただろう。しかし既に囚われた生活に諦念していたスフェーンはそんなことを考えられなくなっていた。監禁や虐待をする人間がまずすることは相手の自己肯定感を根こそぎ奪い取り、ここから逃げる事は不可能という感情を植え付けることなのだとケイトは聞いたことがある。悲しいが、スフェーンはとっくにそうなってしまっていたのだろう。
     スフェーンにとっての拠り所はたまに会いにくるギベオンと話すことだけだった。そのときだけはスフェーンは血に塗れた人殺しの片棒を担ぐ罪悪人からただのスフェーンという少年に戻れた気がしたのだった。
     だが、人生はどこまでも非常なものだ。ギベオンとの別れはすぐにやってきた。それもとびきり最悪な形で。

     ✴︎ ✴︎ ✴︎

     主人の声が地下に響くと、牢の子どもたちは皆怯えた。耳を塞ぐ子もいれば啜り泣く子もいた。歯向かうような気丈な子はすぐにここからいなくなり、代わりに主人の宝石コレクションがひとつ増える。天国から地獄に突き落とされ、夢から覚めた少年たちは、どうすればいいのか幼い頭で理解せざるを得なかった。
     なんて幸運なんだろう!と主人は大層ご機嫌だった。スフェーンの肩を抱き頬に何度もキスをするくらいには。
     
    「欲しいと思っていたものがまさかこんなに早く手に入るなんて!コレクターの間では、ケット・シーの宝石の花は希少で有名なんだよ!」
     
     主人の手に首を掴まれぐったりとするギベオンをその力無い肢体をスフェーンはまっすぐに見つめることができなかった。見なくてはいけない気がしていたのに、見たら頭が真っ赤になってしまう。ただ震える唇で呟いた。
     
    「ご主人様が、」
    「ん?」
    「ご主人様が、それを手にする代償にここの子どもやその猫を逃してもいいと思えるほどの宝石はこの世にあるのでしょうか?」
     
     珍しく質問をしてきたスフェーンに主人はにっこりと微笑むと、それから手を顎にあてて考えた。かわいい奴隷とたまにはこうやって言葉で戯れるのも悪くない気分だった。
     
    「茨の谷の当主に代々受け継がれる繁栄のティアラにあしらわれている一等大きなアレキサンドライトかな」
     
     スフェーンが唇を噛み締めたのと、ギベオンの体から何かが潰れるような粘性の高い水音が溢れたのち、宝石が引き抜かれたのは同時のことだった。赤ら顔の主人が興奮気味に叫ぶ。
     
    「見てよスフェーン!この猫、最期の一つだったみたい!すごくレアだ!」
        
        
     ✴︎ ✴︎ ✴︎


     主人の言葉を信じて、スフェーンは打ちひしがれた。しかし奇跡のようにギベオンはもう一度スフェーンの元に現れた。捕えられて宝石を引き抜かれたことは全く覚えていないようだったが、スフェーンと出会い、この部屋でそう短くもない時間を過ごした日々はしっかりと脳裏に焼き付いているようだった。スフェーンはギベオンと再び会えたことに大層歓喜したが、同時に恐ろしくなった。主人にまた捕まりでもしたら、今度こそ、この地獄から出してもらえなくなる。主人はあのあと、ギベオンがドラコニアと関係のある血筋と知り、大層気分を害していた。捕まればきっと前回よりも惨たらしく弄ばれるだろう。それは想像するだけで、何物にも変え難い痛みをスフェーンに植え付けた。
     もうギベオンがここに来ないようにしないといけない。そう考えるのはスフェーンにとって自然な事だった。
     スフェーンにはよくわからなかったが、ドラコニアというのはどうやら主人にとってとても厄介な相手らしい。ここを嗅ぎつかれると大変面倒なのだと書物を片っ端から漁りながらぼやいていたのだ。きっとそのドラコニアに見つからないように何らかしら仕掛けを施すつもりなのだろう。
     
     ただどうやってギベオンを説得したらいいのかスフェーンにはわからなかった。真実を話す事はどうやってもできない。もうここには来ないでほしいといってもきっと納得しないだろう。そんな折、ギベオンがスフェーンの部屋の花瓶を割ってしまった。ギベオンは物を直す魔法はあまり得意ではない。時間を巻き戻す魔法なんてもっての外。だから多少苦しい法螺話だって、きっとバレないだろうと思った。
     
    「この花瓶はとっても特別なんだ。魔法じゃとても直せないよ」
     
     スフェーンの様子に慌てたギベオンがどうすれば償えるかと尋ねてきた。スフェーンとて物の価値がわかるわけではなかったけれど、手が届かないほど高価な物をたった一つだけ知っていた。
     
    「茨の谷の当主に代々受け継がれる繁栄のティアラにあしらわれている一等大きなアレキサンドライトと同じくらいの価値があるんだ。君には無理だよ」 
     
     弁償できないならもうここには来ないで。怒ったような素気無い態度でギベオンを窓から放り出し、すぐに閉めた。胸が張り裂けそうで顎や喉が痛く、目頭がじっとりと熱くなった。
     
    「きっと、きっと償ってみせます…!だから…」
     
     窓越しに小さく聞こえたギベオンの声を無視して、膝を抱えた。別れより出会いを恨んでしまいそうなほどに、スフェーンの狭い世界の中で一番かなしいさよならだった。
     
     やがて主人が深夜にスフェーンを呼んだところで、この記憶は幕を閉じる。 
     

     ✴︎ ✴︎ ✴︎


     地下室の湿った空気と今にも吐き気を催すような酷い臭いは、吸い込むほどに気管や肺を腐敗させていくような心地がした。ケイトはゆっくりと辺りを慎重に見渡しながら進んでいく。そうして一番奥の牢に目当ての魔法陣を見つけると、すかさずナイフで抉り取った。家の中にはこの魔法陣がまだいくつもあるようで、これこそが外から見える人間を選別したり、中で魔法を使えないようにする仕組みそのものらしかった。既に四つほど無効化できたが、あとどれくらい残っているのか見当もつかない。その上黒い影を見かけたり、足音が聞こえてきたら即時退却を余儀なくされている。魔法が自由に使えたらもっとある程度踏み込めるのだが。しかしハッピービーンズデーでのサバイバル技術や知恵がこんなときに役に立つとは思わなかった。ケイトはバルガスに心から感謝した。きっと入学して以来、初めてのことだった。
     人ならざる者は徐々に苛立ってきているようだった。鼠をたかだか一匹見つけることなど赤子の手をひねるよか容易いと思っていたようだが、ケイトは上手いこと逃げおおせている。
     今頃は本当ならとっくにケイトを捕まえて好きにしている予定だったのだろう。
     微かな足音を捉えて、周囲を確認したのち反対方向に逃げる。遮蔽物は以前来た時に見つけておいたものも、再び来たら壊されている場合もあるので注意が必要だった。相手がどこで立ち止まったかはなるべく足音を慎重に聞いて覚えておく。まだ入ったことのない部屋だと魔法陣がある可能性が高い。見た目よりもずっと広い家だが、どうやら地下は二階、地上は三階まであることは確認できた。地の利が相手にある事は痛手だが、やることが見えている分まだ気が保てる。そのまま三階まで向かい、先程は入れなかった部屋に向かうと細心の注意を払って中に踏み込む。
     
    「……よし、ビンゴ」
     
     また一つ魔法陣を無効化できた。威力が多少弱まれば魔法が使えるようになるかもしれない。三階は地下とは打って変わって豪華な部屋が並んでいた。まるでゲストルームのようなロココ様式の美しい整った造りをしている。また幻覚の類いかもしれないと警戒を強めつつケイトは足をすすめた。
     その部屋から更に奥まったところに書斎らしき部屋があることに気づいた。中に入ると一面本棚には革装の本が並び、マホガニーのデスクが中央にどっしりと構えている。さほど広くない部屋だが、確か下の階も同じ作りの部屋があったはずだ。しかもここより倍近く広い。
     もしかしたら隠し部屋があるかも。
     そう考えたケイトは試してみる価値はあると、壁際の本棚を調べてみることにした。探る事しばらく、運良く引っ掛かりを見つけて内心でガッツポーズをする。指で軽く溝をなぞり、恐らく左右に開く仕組みだろうとあたりをつけた。まもなくして、引っ張り式のレバーが本棚の隅のカーテンに隠れているのも発見することができた。運がいい。地獄の夜ふかしの際に引いた、トレイのフォーチュンクッキーはアンハッピーなことしか書かれていなかった気がするけど。
     僅かに引いて隙間から扉の形状を探る。格子窓のついた厳しい木製の扉だとすぐに判別できた。窓枠部分に窓はない。占めたと思った。
     ハーツラビュル寮からくすねてきたクッキーと小瓶のドリンクがこんなところで役に立つとは思っても見なかった。幸いマレウスは部屋着のポケットの中身をそのまま寮服に移してくれていたようだった。流石は世界でも五本の指に入る魔法士である。
     人に触れられたくない大掛かりな仕掛けというのは、大抵家の一番奥にあるものである。
     ある程度小さくなって本棚や本を伝い、隠し扉の格子窓まで辿り着いてから、ケイトはもう一段階体を縮めた。これなら無理なく格子の隙間から中に踏み込める。中に入ると、すぐに体を元の大きさに戻して辺りを見回す。
     そこには案の定というべきか、部屋いっぱいに描かれた魔法陣が広がっていた。
     召喚術とかでよくみるやつだなとケイトは思った。書かれている文字はいくつか判別できたが、なかなか悪趣味なもので、禁術だということは一目でわかったので見るのをやめた。夢見がこれ以上悪くなるのは耐えられない。ギベオンに暫く添い寝を頼みたい気分だ。
     こういうのは緻密なもので、ほんの少し文字を書き換えたりしたら即失敗となるはずだ。それを綺麗に書き上げているのだから術師としての腕は相当なものだろう。サークルの中央に置かれた石は蝋燭の火に照らされてキラキラと輝いていた。切なくも儚い美しさはそれが元は何であるかを知っている人間には、ただひたすらに胸の内に膿が溜まるような哀しさと憤りをもたらした。
     ふいにケイトはぱっと飛び退った。ケイトのいた場所を獣のように乱暴に飛び出してきた炎が舐める。見れば本棚が二つに割れ、あと少しで扉が開かれようとするところだった。格子窓から魔法を打ち込まれたのだろう。
     
    「ようやく見つけたよ」
     
     ヒールを鳴らして入ってきたそれは歪に笑った。扉を背に、退路を絶ったことでもうケイトを逃さないと確信したのだろう。ケイトはマジカルペンを構えた。魔法を打てない魔法士。その滑稽さに腹を抱えて笑う悪魔を冷ややかな目で見下ろしている。
     刹那の衝撃。
     後ろから跳ねてきたフレイムブラストの眩い炎が悪魔に突き刺さる。火だるまが醜い叫び声をあげながら倒れて転がったところで、ケイトは真っ直ぐに魔法陣へと突き進むと宝石を掴み、代わりにポケットの中の赤い石を宙へと放った。
     
    「マレウスくん!」
     
     ケイトの声に呼応するように空中に緑の炎が浮かび上がった。それは茨の枝のように天に伸び上がると、一等煌めき、光の粉を降らせながらたちまちのうちに人の形に成る。
     コツンと石床に踵が着く。魔法陣の上に降り立った男は手の中の赤い石を見て勝ち気に美しく笑った。
     
    「呼んだな?僕を。……いいだろう、応えてやるぞ。ダイヤモンド」
     
     マレウスが足を触れたところから緑の炎があがり、魔法陣がたちまちのうちに焼かれていく。ケイトは慌てて魔法陣の外に飛び出して、ほっと息を吐いた。
     
    「やーほんともう駄目かと思ったよ。ありがとね、オレくん」
    「いやいや!オレくんが間に合ってくれて良かった〜いつバレるかってひやひやしちゃった!」
     
     炎に包まれていた悪魔は漸くケイトの魔法を振り切り、ボロボロになった上身を何とか腕で支えて起こした。和気藹々と騒ぐ男たちを睨みつけるも声は掠れている。
     
    「な、で…」
    「えっ結構本気だったんだけど生きてるの…ヤバ」
    「詰めが甘いぞダイヤモンド。…大方、僅かにためらったのだろう」
     
     冷静な指摘に、ケイトは和毛を引っ掻いて困ったように笑った。図星である。
     
    「アハハ…バレたか。実戦経験ほとんどないからさ〜流石に人の形をしているのを燃やすのって、勇気いるよ」
    「防衛魔法を選択授業でも取ったほうがいい。その甘さは命取りになるぞ。……さて、随分と不思議そうな顔をしているな?そんなにおかしいことが何かあったか?」
     
     マレウスがマジカルペンを一振りすると、茨の鎖が目の前のそれに深く絡みついた。先程とは打って変わり蛇に睨まれた蛙のような目でそれはマレウスを見た。対するマレウスもケイトの一歩前へと出て、珍しい虫を見るような顔でそれを観察している。
     
    「まほ…使えないはず…なんで二人……双子…?」
    「ブッブー。これはオレの魔法ってか、今回はマレウスくんとコラボしたって感じ?人の魔力は使えないからマレウスくんが魔力を分けてくれたんだよね。一回しか使えないからけーくん、使い所結構悩んじゃった」
    「オレくん!二階より下の魔法陣は多分これで全部無効化したよ♪」
    「うんうん、さっきフレイムブラスト使えたからオッケー!ありがとオレくん」
     
     扉からひょっこり顔を出したケイトが報告し、ケイトがマレウスの後ろから顔を出して手を振る。全てここに引きずられる前にマレウスがケイトに伝えた通りにことが進んだ。ケイトは家の中の全魔法陣を無効化してみせ、そのタイミングでマレウスが仕込んだスピネルを媒体に彼を呼び寄せた。たった一度の経口接触では渡せる魔力に限りがあったが、ケイトの機転とユニーク魔法が作戦を成功へと導いた。何より頼まれてしまったのだ。次期茨の谷の当主に。他ならぬ、マレウス・ドラコニアに。
     
     『–––頼んだぞ、ダイヤモンド!』
     
     世界でも五本の指に入る魔法士にそう言われることが魔法士としてどれだけ栄誉なことかは言われるまでもない。
     ナイトレイブンカレッジ生として、ここは失敗するわけにはいかなかった。仕損じようものなら寮生に笑い物にされ、他寮生には馬鹿にされた挙句噂のタネにされる。リドルなんかは情けない!なんて顔を真っ赤にして、死者の国まで首を刎ねに来るだろう。正直それが一番、怖い。
     
    「お前の罪状はたんまりあるぞ。ここで燃やし尽くしてしまってもいいが、それでは浮かばれない者もいるかもしれないな。さて、どうするべきか…」
    「ぼくはっ!間違った事は…していない!人間はすぐに欲を知り醜く老いる…汚れを知らない一番美しい時に時間を止めて愛でることの何が悪いんだ!僕はかわいそうな子たちを救ったんだ…っ、これは善行だ!」
    「…なるほど?御高説賜ったが生憎、僕はお前の欲まみれの善行などまるで興味がないな」
     
     マレウスの口調はあくまでも平静だった。朝方の森に降る雨のように、聞いていて落ち着く声色だった。しかしケイトは後ろから見ていて、マレウスの纏う空気がこの上なく冷たいことに気づいていた。まだ何か言い募るそれの言葉をマレウスは穏やかに制した。
     
    「もう口を閉じろ、妖精族の面汚しめ。僕が誰だかわからないのなら、その身に教えてやろう。……じっくりとな」
     
     ヴィランのような台詞をまるで深々と降り積もる雪のような穏やかな声がなぞるのは却って迫力がある。
     ゴオと吹雪が吹き荒れた途端、断末魔のような悲鳴があがり、反射的にケイトは目を瞑った。痛ましい嗚咽を溢しているのが、あの邪悪な人ならざる者なのだとは俄には信じ難い。まるで別人のようだった。スフェーンの記憶では、あんなにも子どもを無抵抗のままに嬲っていた悪魔が、今はゴミのように無抵抗に嬲られている。ケイトがもやもやと考え事をしているうちに、もう一度甲高い悲鳴があがり、やがて引き攣った呼吸以外はぱたりと止んだ。
     
    「…こんなところか。ドラコニア家の守護者を傷つけ、僕の…学友に手をかけようとした罰だ。精々苦しむがいい」
     
     風にあおられた霜がきらきらと降り注ぐ。マレウスは振り返って、ケイトに微笑んだ。どこか怯えや後悔を孕んだぎこちない笑みだった。
     
    「……帰ろう、ダイヤモンド」
     
       
     ✴︎ ✴︎ ✴︎
     
     
     真夜中、少しだけ遠回りをして帰ろうとマレウスが言った。体感時間的にはもう三日位起きているぐらいの心地だったが、まだ寮を出てから二時間程度しか経過していないらしい。もう寝不足だろうが何だろうがどうでもよくなってしまったケイトは、マレウスの提案に諸手を挙げて賛成した。少しだけ遠回りをというので、どうやってと尋ねたらマレウスはなんと箒を呼び寄せた。
     
    「………特別だ。後ろに乗ることを許そう」
     
     マレウス君も、箒の二人乗りとかするんだなあとケイトは思った。
     
        
     ✴︎ ✴︎ ✴︎

     マレウス号での帰路は、絵に描いたように快適な空の旅となった。ブランケットを呼び出したマレウスはそれをケイトの体に念入りに巻き付けた。マレウス曰く「人間はすぐに体を壊すからな」と、こういうことらしい。無数の星が今にも降りだしそうな夜の空を見上げて、ケイトはぼんやりとしていた。マレウスは何も言わず、ケイトからはどんな表情をしているのかすらわからない。丁度真下には民家が広がっていた。明かりはほとんど消えていたが、ぽつりぽつりと付いているところもある。あの中には家族に愛されて、幸せでお腹を満たして眠る子どももいれば、スフェーンのように居場所が無く膝を抱えて眠る子どももいるのだろう。風の音しか鳴らぬ透明な道の上で、やがてマレウスが一言、いい夜だと呟いた。
     
    「マジカメとやらはいいのか?上は満点の星空だぞ」
    「めっちゃそれなんだけど、この景色をあげたら流石にリドルくんに首を刎ねられちゃうんだよねえ」
    「ローズハートか。ふふ…確かにあいつは、ハーツラビュル寮に相応しい厳格な男だな。手を抜く事はないだろう」
    「それね〜」
     
     まあ、それでも記念に一枚。
     ピロリンと電子音が鳴ると、マレウスがローズハートに怒られるのではなかったのかと問うた。少し声色が意地悪だ。ケイトは星の光がブレた夜空を両手で握りしめた。
     
    「別にマジカメにあげなければ大丈夫でーす」
    「……そういうものか?」
    「うんうん、そーゆーもの♪」
     
     そういえばマレウスとこんなふうに並んで座る機会などそうない。もしかしたらこれきりでこの先は二度とないかもしれない。そう思えば、今かなりレアな体験をしているのだろうけど。ケイトの腹の中には重い鉛のようなものが沈んでうまく喜べなかった。正確に言えば喜んでいいのだろうかとためらうような複雑な心境だった。マレウスが気を遣っているのだから明るく振る舞いたいのに、申し訳ないのに、今ケイトから口を開くとその重い鉛玉を吐き出すための言葉を選んでしまいそうだった。だからぽつんと吐いた独り言も、きっとそんな沈んだ色をしていただろう。
     
    「……ギベオンくんに、何て言おう」
      
     宝石にされてしまった子どもたち。
     その悪趣味で残虐で、しかし哀しいコレクション達は、マレウスが然るべき場所に還してくれることになった。囚われていた黒い影たちも家の時間が動き出したと同時に、垂れていた首を伸ばして天にくゆる煙のように消えていった。きっと還るべき場所へと還れたのだろう。
     隠し部屋で魔法陣に据えられていたのは黄緑の柔らかい輝きを持つ宝石だった。その輝きが、記憶の中で見た利発そうで優しげな瞳の色と重なり、ケイトはこの宝石が元は誰だったのかを悟った。
     
    「マレウスくん、スフェーンくんはどうするの?」
     
     スフェーンが穏やかに眠れる場所はどこだろうか。
     結局、生者がゴーストにもなれない死者にできることは何もないのかもしれない。今こうやってケイトが考えているのだって、自己満足に過ぎなくて、このまま何もしないでは寝覚が悪いからそうしているだけだ。何か悪いことが起きた時に、責任転嫁して死者やその思い出を汚すのを恐れているだけ。
      
    「還りたい場所に送る、という返答では不服か?」
    「ううん。きっとそれが一番いいとオレも思うよ」
     
     ギベオンに何と伝えてもきっとギベオンは傷つくだろう。贈り物があると言っていた。あの人懐っこい猫のことだ。仲直りするためにきっと沢山の言葉を考えていたに違いない。
     なんて嫌な役回りなんだろうなと嘆きたくなる。ぐず、と鼻が鳴ったのをケイトはマレウスに聞かれたくなくて、下を向いて誤魔化した。
     
     
         
     ✴︎ ✴︎ ✴︎
     

    「マレウスよ、わしとてこんなことはお主に言いたくないぞ?しかしなあ、今回ばかりはちとやり過ぎじゃ。人の子はお主が思うよりもずっと弱い。お主が与えた試練は、ダイヤモンドにはまだ早かったじゃろうて」
     
     かわいそうにと首を振るリリアをマレウスは罰が悪そうに唇を尖らせて見つめた。存外幼い無言の抗議にリリアは盛大なため息で応える。少しは大人になったかと思ったが、いくつになってもまだまだ幼い。リリアからするとそれが愛いと思えることもあるのだが、いかんせんそれで学友を殺したとあっては救われないだろう。
     
    「……ダイヤモンドは?」
    「寝込んでおるよ。誰かさんの夜ふかしに付き合わされて、帰ってからぶっ倒れたようじゃ。それとも、学友だと思ってた男に無体でも働かれてショックで寝込んでおるのかのう?」
    「………僕は何もしていない」
    「なんじゃ、折角逢引まで持ち込めたのだからぶちゅっとしとけば良いものを!お主、思いの外意気地が無いのう!」
    「……親父殿、お戯れはほどほどに」
     
     あらまあと煽るリリアと玉座で肘ついた手に顎を乗せてむくれるマレウス。荘厳で冬しか知らないようなディアソムニアにしては明るい雰囲気だが、珍しく起きているシルバーはハラハラと二人の無意味な応酬を見守っている。まだセベクが入学していなくてよかった。きっとうるさい。絶対うるさい。ただでさえ平素からだいぶうるさいのだから。
     
    「のう、マレウス。お主これからどうする気じゃ?」
    「……どうもしないさ。ギベオンの花弁は本人に返した。お気に入りのお付きが手元に帰って来るのだから、おばあさまにもご満足いただけるだろう。めでたく大団円だ。…この手柄はダイヤモンドのものだな。なにか褒美を授けなくては…」
    「そのケイトのことじゃ。お主、ちといじわるがすぎるぞ。褒美どころかあんなに呪いが絡んで、本人が気にしてないのが不思議なくらいじゃ。そこまでして縁を持ちたいのなら、あの日に攫って来れば良かったじゃろうに。これじゃプレラーティのことも詰れんじゃろう」
    「……僕だけが選んだのでは、意味がない。それに外堀から埋めろと言ったのはリリアだ」
     
     欲しいのは本当のハッピーエンドただひとつだけ。厳しい冬は閉ざされた雪の中で、春が目覚めるのをずっと待っている。
     
    「大体、僕はダイヤモンドと恋仲になりたいわけではない」
    「へえ」
    「……親父殿。人前で鼻をほじるのはお控えになられた方がよろしいかと」
     
     猟奇殺人鬼と同じにされたのは流石に気に食わなかったのか、流石にムッとした様子でマレウスは言い返した
     ティッシュを差し出すシルバーから一枚受け取りながらも、目線は器用にマレウスに寄越したリリアは顎をしゃくった。話してみろということだろう。他の寮生がいなくて幸いだった。まさかマレウス・ドラコニアが随分拗らせた恋バナをしてるなんて、流石に茨の谷の威厳に関わる。
     
    「僕と恋仲になる相手は少なからず茨の谷に縛られるだろう。ダイヤモンドをそうしたいわけではない。あいつが自由に生きるなら、僕はその自由を何より愛しく思うことだろう」
    「なんか言っとる笑」
    「…」
    「……ただ」
    「これシルバー、ここで寝るな。…ただ?」
     
     背中を叩かれて、起きたシルバーの影が壁でびくりと揺れた。燭台の緑も真似するようにゆらゆらと上へ下へと揺れる。
     なんかこいつの言い草、誰かに似とるのよなあと、リリアは膨大な記憶を百年単位でひっくり返す。ほどなくして思い至った。推しのことを語るネクラ侍じゃ、と。いつもは口数少ないのに、言い訳する時と推しのことを語る時と蘊蓄たれる時だけ百倍くらいケイデンスを上げてくるところがそっくりだ。なかなか言い出さないマレウスをリリアは突いた。マレウスは珍しくちょっと嫌そうな顔をした。愛い。
     
    「……死後は多少好きにさせて欲しい」
     
     ウッワ!とリリアの盛大に引いた声が、神秘的かつ退廃的なディアソムニア寮の端から端まで響いた。
     
     
         
     ✴︎ ✴︎ ✴︎
     

     体が熱い。
     正確には、体の外側が熱い。そして中は驚くほど冷たい。
     何かに追いかけられる夢を見る。その癖、無理やり目を覚ますと部屋がぐるんぐるん回る心地がする。ルーレット台に乗せられているような気分だ。
     そんなこんなで夢を見ては目を覚ますのを繰り返すうちに、ケイトはすっかり気持ちが悪くなってしまった。やっと帰ってこられたとほっとしたいのに、眠らないと頭痛がする。トレイが珍しく心配した顔で頻繁に様子を見に来てくれるのが、とてもありがたい。とかく一人で部屋にいたくなくて、部活まで休んで看病してくれるのは申し訳ないのに、甘えてしまっていた。リドルも何度か顔を見に来ている。寮生はリドルの一から十までを恐れている者が大半だが、そうやってケイトの額に冷たい手で触れて毛布をかけ直してから黙って部屋を後にするリドルが、ケイトは嫌いになれない。元より長男気質のトレイやリドルと末っ子気質のケイトは結構相性がいいのだ。
     やがてまたケイトは夢へと飲み込まれていく。
     また悪夢を見るかもしれないと思いながらも、抗い難い眠気に誘われ、虚構の広げる腕に体を預けて目を閉じる。願いが通じたのか、今度の夢は先ほどまで見ていた夢とは様子が違った。
     白い白い空間でグレーの毛色の猫が美しいグレーアイでケイトを見ていた。一礼する猫に、ケイトも釣られて頭を下げる。白い靴下のような手にはきれいな黄緑の石が乗っていた。大事そうに大事そうに両手で宝石を持つ猫にケイトはそっと話しかけた。
     
    「それ、何?」
     
     ケイトがそれと言ったのは、黄緑の宝石の隣に並べられた青緑色の石だ。
     
    「お詫びの品にございます」
    「ああ、茨の谷の女王様のティアラの…」

     納得するケイトにグレーの猫、ギベオンはにこっと笑った。
     
    「ケイト殿、ご存知ですか?茨の谷の当主に代々受け継がれるのはティアラではなく、杖なのです」
    「えっ」
     
     ケイトは目を白黒させた。
     ギベオンはふふ、と微笑ましいものを見るかのようにまろく柔い声を上げた。
     
    「え、じゃあ…」
    「繁栄のティアラなんて、存在しないのですよ。これはわたくしめが採ってきたただのアレキサンドライト。スフェーンのことを想って採ってきた世界でただ一つの石にございます」
     
     ケイトは言葉が出なかった。感情だけが途方もなく渦巻いて、言語中枢が追いつかない。
     ギベオンは立ちすくむケイトの様子を気にすることもなく、ケイトの名前を呼んだ。
     
    「ケイト殿、ありがとうございました。やはり貴方様は素晴らしい探偵でございますね。マレウス様の仰る通り。お陰様でわたくしめはこうしてスフェーンと再び会うことができました」

     ギベオンの表情に嘘はない。心からケイトに感謝していることが窺えるような満足げな顔だった。猫が、ケット・シーという妖精がこんなに表情豊かなことをケイトは初めて知った。
      
    「…聞きたいことがあるんだ」
    「わたくしめに分かることでしたら何なりと」
    「どうして、ギベオンくんはそこまでしたの?」
     
     ふと、気になった。ケイトの知る友情と彼らのそれとはあまりに乖離がある。肉親ですらそこまで必死になれないと、ケイトは思っていた。ギベオンは少し照れくさそうにして、それから眩しいものを見るように目を細めた。
     
    「これは少しお恥ずかしい話ですが……わたくしは一族の中では少々浮いた存在なのです。ケット・シーはもう少し、こう、気位が高いくらいが一般的で……。いつもなよなよとしていたわたくしは一族からも馬鹿にされておりました。当時のわたくしはその所為で居場所がなかったのです」
     
     今はそんなことございませんよとギベオンは慌てて付け加えた。
     
    「スフェーンはわたくしめにとって、一番初めにできた友でした。わたくしを心から慈しんでくれた唯一の人でした。必死になる理由はそれだけで充分でございましょう?」
     
     ケイトはハッとして、目を瞬かせた。
     ギベオンの澄んだ瞳はケイトやスフェーンが思うより多くのものを見ていたのかもしれない。
     
    「でも、そんな大きな口を叩く資格は本当はわたくしめにはございません。わたくしは不甲斐ない存在です。彼の本当の願いに気づけませんでした。彼の心の叫びを理解できず、友だなんて烏滸がましいことです。わたくしめは自分を到底許せそうにないのです。きっと永遠にそうでしょう」
     
     そっとギベオンは手元を見つめた。そのグレーアイから溢れた一雫はグレーの毛を僅かに濡らした。
     
    「…ふふ、お見苦しいところを。暫くスフェーンはわたくしめがお預かりすることとなりました。茨の谷も名所が多いので、きっと彼も退屈しないことでしょう」
     
     それではさようならとギベオンは頭を下げた。ケイトも手を振って彼らを見送る。いつのまにか景色は青々とした空の下で、ケイトの胸のつっかえも薄れていた。
     
    「うん、きっとスフェーンくんも…喜んでるよ」
     
     呟いたケイトの声は柔らかい日差しの中に溶けて消えた。
     
     
     ✴︎ ✴︎ ✴︎

     
     マレウスはロンググローブを外した指先で、ケイトの額に触れた。ケイトの体温は、マレウスにとって人が感じるそれよりもよほど熱い。今に至っては下手したら火傷しそうだ。けれどケイトはマレウスの指先が気持ち良いらしい。無意識に額を押し当ててくるので、マレウスは心中がくすぐったくなるのを堪えきれずにくすりと笑った。
     
     ずっと考えていたことがある。
     今から数年前、マレウスからすれば瞬きの間にも似たほんの少し前。マレウスが閉ざされた雪の中で、初めて春に触れたあの日。一面の雪景色。満点の星空。流れる流星。本当はあの日、マレウスはケイトを拐かすつもりでいた。
     妖精は欲しいと思ったものを邪気なく持ち帰ってしまう。他者のことなんて考えないから。あの日だって、本当はケイトは森に呼ばれていた。他者に奪われるくらいなら自分が持ち帰りたい。マレウスがそう思うのは至極当然の流れだったように思う。長寿で思慮深く、他の妖精よりも理性はあれどマレウスもまた妖精族。他の誰にも渡したくないと思うくらいの執着を幼い少年に傾けていた。
     ケイトと同じくらいの少年の姿をしたのも警戒心を解かせるために他ならない。果たしてそれは上手くいったはずだった。
     しかし結果的にマレウスはケイトを攫わなかった。また会おうねと手を振るケイトに同じように手を振って、家の中にこっそりと戻るケイトをずっとずっと見ていた。妖精に出会ったことは一晩経てば子どもなんかすぐに忘れてしまう。そういう理なのだから、その理を捻じ曲げることなんてマレウスにはできない。それを心の底から悲しいと思っているくせに何もしなかった。
     その癖、朝には忘れてしまうであろう夢まで渡って幾度も会いに通った。
     何故だろう。
     再会して、やはりケイトはマレウスのことなど覚えてはいなかった。だからほんの少し、今度は忘れられないように、ケイトに縁を結びつけた。マレウスなりの祝福のつもりで。
     そうまでして、自分はケイトを欲しているという自覚がマレウスにはある。リリアには盛大に引かれ、鮮魚のように活きよく笑われてしまったが、おばあさまの手紙についても、マレウスはほんの少しケイトに嘘をついた。本当はおばあさまはケイトを指定してなんかなかった。信用できる人間の元へギベオンを連れていくようにと書いたのだ。マレウスの私欲でケイトを巻き込んでしまった。もしケイトがうまいことやれたら、ケイトと茨の谷の縁を深く結ぶことができる。そうやって自然な形で導かれるようにケイトがマレウスを受け入れ、選んでくれたなら、きっと。
     
     マレウスはケイトが欲しいのに、手に入れられるタイミングでことごとく手を引いてしまう。欲望とはまるで真逆のことをしている。マレウスはマレウスなりにその理由をわかっているつもりで、説明もできるがこれはリリアからするとまるでわかっていないらしい。その上、このままでは下手したらケイトを殺しかねないとまで言われればマレウスも考えを改めざるを得ない。

    『お主、この話は知っとるじゃろう。
     美しい娘を金で妻にもらった男が、ある日外出する折に妻に鍵束を渡してこう言った。
     
    「どこにでも入っていいが、この小さな鍵の部屋だけは入ってはいけない」
     
     しかし妻は好奇心から部屋を開け、先妻たちの死体を発見してしまう。
     
     さて、男は何のためにそんなことをしたのだとお主は思う?
     のう、マレウス。答えは一つではなく、感情の機微、その全てを正確に読み取ることはきっと誰にも出来んじゃろう。本人にしかわからんし、本人にもわからんかもしれぬ。しかしお主がもし、この男が単純に気が狂った殺人鬼で、妻を殺す理由が欲しかったからという以外の答えを見つけられるなら、きっとお主は……』
     
     
     マレウスはゆっくりと上身を前へと傾けた。
     二人分の体重を受け止めて、ベッドのスプリングが抗議のようにギッと鳴る。赤い天蓋ベッドの中で、眠るケイトは先ほどよりもよほど穏やかな顔をしているように見えた。額と額を合わせようとして、マレウスは困ったように微笑む。それが叶わなかった代わりにオレンジの髪を一房取って口付けた。
     ケイトの部屋へと向かってくる足音に気づくとマレウスはそちらの方へと目線をスライドした。せわしなく動く気配が誰かに呼び止められて立ち止まる。恐らく同室のトレイ・クローバーのものだろう。リリア曰く、部活を休んでケイトを看病しているらしい。マレウスはケイトの耳元で囁いた。
     
    「…ダイヤモンド。お前の寂しさに寄り添う友なら妖精族がうってつけだぞ」
     
     この程度の誘引は、きっと許されるだろう。マレウスはくつくつと笑って。そうして、邪魔が入る前にと、以前吸ったときよりも熱い唇に羽が触れるように口付けた。ブラウンのまつ毛の隙間から透明な雫が一つ、こぼれ落ちた。
     

     
     ✴︎ ✴︎ ✴︎

     
    「おっ起きたか」
     
     トレイが読んでいた本から顔を上げる。ケイトは焦点の合わないぼんやりとした顔で、目元をさすった。少し濡れていたのだ。
     トレイが体温計をケイトに渡す。素直にそれを受け取って脇に挟むケイトに、白いデスクの上に置かれたペットボトルの蓋も外して手渡すと、トレイは食欲があるなら何か持ってくるよと笑った。
     
    「んーなんかすっきりしたかも」
    「そりゃ良かった。スープでいいか?ついでに寮長にも報告してくるから、ちょっと待っていてくれ」
     
     ずっと心配してたぞと付け加えるとトレイは部屋を出て行った。ケイトはこの頃にはもうあらかた意識が覚醒していたので、トレイの言葉がくすぐったく感じられた。今のうちにマジカメをチェックしようと暫く触れていなかったスマホに手を伸ばす。メッセージがいくつか来ていて、ホッとすると同時に後ろめたい感情が首をもたげた。
     
    「あー…ここ最近全然いいの撮れてないんだよなあ…」
     
     ネタのストックが切れてきている。また探しに行かなくてはいけない。少しそれが億劫で、前に撮って忘れてるものはないかとフォト一覧をスクロールする。
     
    「…あれ?なんだろ、これ」
     
     全く身に覚えのない写真がライブラリの最も新しいところに表示されていた。星空を撮りたかったのだろうか。星らしきものがブレている。もしかしたら誤ってシャッターを押したのかもしれない。
     
    「容量食っちゃうから削除削除ってね♪」
     
     
     指先でゴミ箱のボタンをタップする。このデーターを削除しますか。いいえ。このデーターを削除しますか。いいえ。このデーターを削除しますか。いいえ。このデーターを
     
     

     ✴︎ ✴︎ ✴︎



    「ディアソムニア寮は……いたいた。あの食堂の奥に固まってるメンツ」
     
     ケイトがフォークで食堂の一番奥、階段の上をくるりと指す。トレイはそれを行儀が悪いと嗜めたが、エースとデュースら下級生はケイトの示した方を仰ぐようにして見た。
     
    「黄緑と黒の腕章が目印。あそこはなんつーか、超セレブっていうの?オレたち庶民が話しかけづらいオーラ放ちまくりなんだよね」
     
     ふぅん。とエースが小さく頷いた。デュースは首を傾げてケイトの話に耳を傾けている。
     
    「寮長からして近寄りがたさマックスっていうか……」
     
     ケイトが困ったように笑ったとして、ディアソムニア寮の集団とはだいぶ距離がある。
     エースが子どもが混じっていると目を剥く。それに対してすかさずトレイが訂正した。
     
    「彼は子どもじゃないぞ、俺たちと同じ三年生の……」
    「リリアじゃ。リリア・ヴァンルージュ」
     
     刹那、見た目よりも遥かに老成した声が、上から降ってきた。リリアが会話に混ざり、慣れない一年生が振り回される。トレイは同じクラスだし、ケイトは同じ部活なので、もう慣れっこである。リリアに一年生の相手を任せて、さっさと食事を進めた。トレイは人がいいのでたまにリリアに突っ込んでいたが、ケイトはこの隙にマジカメチェックを欠かさない。
     
    「遠くから見るだけでなく気軽に話しかけにくればよかろう。同じ学園に通う学友ではないか。我がディアソムニア寮はいつでもお前たちを歓迎するぞ」
     
     視線を感じたケイトが顔を上げる。それは食堂の奥側の方からで、何に気なしに視線の主を特定しようと見回していたら、遠くで食事をしているマレウスとふいに目があった。もしかして聞こえたのだろうか。普通は考えられないけれど、獣人族なんかは耳がとても良いと聞く。近寄りがたさマックスは流石に良くなかっただろうか。途端にケイトの心臓は早鐘を打ち始めた。とりあえずしれっと笑顔で手を振っておく。
    マレウスの反応は見えなかった。そこに割り込むように、リリアがついっとケイトに顔を近づけると、にっこりとそれはもういい笑顔で笑ったからだ。まるでルビーのように赤いラズベリーレッドの瞳が三日月を形作る刹那、意味ありげに瞬いた。

     
    「くふふ、食事中、上から失礼したな。“ではまた、いずれ”」



     
                               




        
                                                      おしまい
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    365nemuinerune

    TMP-SAVE※全年齢程度ですが、若干のホラー要素やメインキャラ以外の人死に、惨たらしい表現を含みます。
    ※オリジナルキャラが多数います。そんな設定聞いたことねーぞというものは大体捏造なのでそんなもんかな程度でお願いします。
    始まりは、きっと 静謐な月夜のことだった。
      
     朝から降り続いた雪がようやく止み、辺り一面の白亜を澄んだ青硝子のような夜の色が覆っていた。
     吐く息は白く、まろい頰に寒気が容赦なく突き刺さる。耳当てをしていても尚、耳の奥が冷たい。行く宛などなかったが、どうにも腹の中にある澱ようなものが絶えず小さな心を揺らしてざわつかせるため、やむなく歩き続けていた。まだそう大きくもないブーツに包まれた足が少しずつ疲労で重たくなっていくのを不安と共に押し殺して。
     迎えはこないだろう。家には自分と全く同じ姿をしたものが、今も姉たちのわがままに付き合っているはずだから。
     
     魔法を使えない二人の姉が、魔法の使える自分を良いように使おうとするのが、ケイトは歳を重ねるごとに面白くなくなっていった。エレメンタリースクールに通う頃になり、多くの同級生ができるとその傾向は顕著になった。今日だって、ケイトには関係のない悪戯の後始末を押し付けられて問答していたところを同級生のハンスに見られて揶揄われた。この歳まで姉とベタベタしているのは変だと、そう主張したいらしい。大方ハンスの好きな女の子がケイトの髪型を褒めているのを僻んだことによる言いがかりなのだろう。その女の子だって、どうせ転校生のケイトが珍しいだけなのだろうけど。
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