ソウイウコトは早く言って 数日前、虎杖悠仁という男に告白をした。
恋愛なんてした事もなければ、誰かと付き合うという経験もない。だから最初は一回りも歳の離れた担任の男に抱く感情がそういう意味で好きなのかどうかなんてよく分かってはいなかった。それでも悠仁を独り占めしたいというガキのような小さな感情だけがいつしか手がつけられない程大きく成長していて、気付けば理性の言う事を聞かずにそれは一人で突っ走っていた。その結果、「俺はいつか好きでもない女と結婚させられて後継ぎを産まなくてはならないから、それまでに思い出作りをさせて欲しい」なんて半ば脅しのような言葉で強引に悠仁の恋人という立場を手に入れたのだった。
俺の卑怯な言動に仕方なく首を縦に振った悠仁とって、俺は周りにいる大勢の内の一人に過ぎないのだという事は理解していた。自分だけが特別で、自分だけを見てくれているわけではないと、自惚れてはならないのだと自分に言い聞かせていた。それでも良かったから。明朗快活で頼りになる上、紛れもない善人。この世界には珍しい根明の悠仁に一度でも接すれば関係者は皆口を揃えて「虎杖さんは素敵な人だ」と言う。そんな男の〝恋人〟という席に着いているのは、現状紛れもなく五条悟なのだ。どんなに卑しいと言われようが、その現実だけで十二分に幸せだった。
と、そんな風に頭では理解しつつも、俺の中に居座る欲張りな心は、自分の存在が悠仁の中で多少なりとも他とは違う形や大きさをしていたら良い、なんて考えてしまうのだ。己の器の小ささに辟易する。
あぁ、ほら。今もまた一人、最近新しく入ったという補助監督の女が悠仁と話しながら頰を赤らめている。
「チッ…天然誑しがよ」
少し離れた場所から二人の様子を眺めていた俺は、誰に届く訳でもない独り言を放ちながら眉を顰めた。
明らかに悠仁に対して好印象を抱いたであろうその女に浅はかな優越感を感じると共に、やっぱり男は無理だといつか悠仁から別れを告げられるんじゃないかという恐怖心がどろりと背筋を這っていく感覚に襲われ、俺は直ぐに二人から目を逸らした。
*
日付が変わる直前、数少ない同級生が二人して任務で高専を空けていた夜、暇を持て余していた俺の隣で携帯が静かに振動した。わざわざ連絡を寄越す相手なんて限られている。きっと同じように、任務先の土地で暇を持て余した例の親友からだろう。粗方予想をつけながら携帯を開くと、そんな予想に反して映し出された差出人の名に俺の心臓はぴくりと跳ねた。
──〝先生〟
簡素で味気のない二文字。告白した時に勢い余ってプライベートの連絡先まで聞き出した相手。虎杖先生、虎杖悠仁、悠仁……彼から強引に手に入れたアドレスを何という名前で登録しようかと至極どうでも良い事で悩んで、なんだか小っ恥ずかしくなりこの二文字にしたんだった。
想定外の相手にメッセージを開く指がほんの少しぎこちなくなる。
『お疲れ。もう寝たか?まだ起きてるなら少し会いたいんだけど』
白黒のシンプルな字面が彼らしい。悠仁は数日前から出張で高専を空けていて、確か今日帰ってくる予定だった。
会いたい──実際付き合ってるのだから何も間違ってはいないのだが、まるで恋人に向けるような甘い言葉に俺の心臓は更に忙しなくなる。
『起きてる。別に良いけど』
『サンキュー!すぐ部屋行くな』
咄嗟にどんなテンションで返せば良いのか分からなくて、全くもって可愛くない文面を送りつけてしまい小さな自己嫌悪に陥いるが、悠仁は何一つ気にしてないようで直ぐに返事は返ってきた。いつもなら隣で冷やかしてきそうな親友も今日はいないから、どうしたら良いのだと助言を求める事も出来ずに、俺はその場に立ち上がると意味もなく狭い部屋の中をふらふらと歩き回った。
今から悠仁が会いに来る。ここに悠仁が来るのは初めてではないし、告白する前は何度か室内に入られたことだってある。だから今更緊張する理由なんて何も無いのにどうにも落ち着いていられなくて、俺は雑に床に積んであった親友から借りた漫画を一冊手に取り、パラパラと中を開いた。適当に開いたページを見渡して文字を目で追ってみるが、内容なんか一切頭に入ってこない。頭に浮かぶのは、「会いたいと言われた」「嬉しい」「何か急ぎの用なのか」「出張どうだったんだろう」「怪我なんかしてないよな」なんて悠仁の事ばかり。
好きな人間に会いたいと言われて、これから会う。ほぼ毎日顔を合わせているのに、会って話す、たったそれだけの事なのにどうしてこんなにも平静を保っていられないのだ。あれ、俺ってこんな女々しかったっけ。情けない自分をふと客観視した俺は開いていた漫画を閉じながらうんざりして小さなため息をこぼした。
程なくして、室内に二回響いた小さく乾いた音で我に帰る。
「五条、いるか?」
木製の部屋の扉を叩いた音の後、聞き馴染みのある明るい声が続いた。でも夜遅い時間帯だからかいつもより少しトーンを落とした落ち着いた声音。悠仁だ。
俺は急いで玄関に向かうがそこでふと自分の服装が気になった。今何着てたっけ……扉を開ける前に自分の身体を見下ろして確認すれば真っ白のTシャツにグレーのスウェットが目に入る。これから寝る人間の格好なんだから別に何もおかしく無いだろう。むしろデニムや制服を身につけている方が違和感である。Tシャツの皺を軽く手で叩いて伸ばし、ついでに髪の毛を手櫛で解かす。そんな無意識の行動にすぐさま気付くと、再び自分の女々しさを自覚して項垂れた。普段の自分はこんな些細な事いちいち気にしないし、同級生唯一の女子生徒相手にだって自分の身なりがどうだなんて意識した事もない。悠仁に告白してからというもの、時々自分が自分じゃないみたいでどうもむず痒くなる。
「……よぉ」
「お、悪いな。起こしちまったか?」
「別に、寝てない」
最後に一呼吸してから扉を開けると己の目線より少し低い位置にあるその双眸と視線がぶつかった。たった数日会っていなかっただけなのに、凄く久しく感じた。いつもよりどこか柔らかい悠仁の笑顔を前にして、ふわふわと心が宙に浮くような感覚になる。そして無意識に口角は上がりそうになるし、この腕は目の前の体躯へと伸びそうになった。主人の言う事を聞こうとしない己の身体を密かに叱責すると、俺はある事に気が付いた。
「あれ、今帰ってきたばっか?」
悠仁の背後から大きめのリュックが顔を出していた。自室に荷物を置かずに帰ってきた足でそのままこの部屋にやってきたという事だろう。
「まーな。今日夏油も家入もいないだろ?どうせお前寂しい思いしてんだろうなって思ってさ」
「ハァ?!」
ニヤニヤしながら揶揄う担任の言葉に俺は思わずムキになって声を荒げた。
「別にそんなんじゃねぇし。ガキ扱いすんなっつの」
確かにいつもの寮もタメがたった二人いないだけでやけに静かに感じていたし、する事がなくてつまらないのは事実だった。だが寂しいなんて事は断じてない。
「ははっ、そっかそっかまーそれなら良いんだけど」
不貞腐れる俺の様子に悠仁はけらけらと楽しそうに笑う。寂しくなんてなかった筈なのに、目の前の悠仁の姿に、声に、俺はどうしてか酷く安心感を覚えて心がほわほわと温かくなっていく。
「そうだ。ほい、これお土産」
そう言って悠仁は徐に持っていた紙袋を差し出した。反射でそれを受け取り中を覗くと、地方名物のお菓子のパッケージが印刷された小箱が二、三個、行儀良く詰められていた。
「お、さんきゅ」
「いつも甘いの多めでって言うからさ、五条専用な」
「マジ?これ全部俺食って良いの?」
「おう、夏油と家入のは別にあるから」
「やり〜」
最近は都心部の厄介な呪いを当てられる事が多く、地方に行く機会が少なくなっていた俺は、悠仁から貰ったお土産に心底嬉しくなった。
何をくれたんだろうと箱を取り出してパッケージを眺めていると急に悠仁が静かになった事が気になって徐に顔を上げた。すると彼は柔らかい笑みで眼を細めながらこちらを見つめていて、心臓が跳ねる。
「な、なんだよ」
「土産一つでそんな喜んでくれるなんて、あげ甲斐があるなと思ってさ」
そう言われて、お菓子の箱を掴む自分の両手が目に入って居た堪れなくなった。
「バカにしてんのかよ……」
「してないって!あ、でも一気には食うなよ、腹壊すから」
「しねぇよ!ガキ扱いすんなっつの!」
俺からすればお前はいくつになってもガキなんだよ、そう言って笑いながら悠仁は再び声を荒げる俺の頭をわしゃわしゃと撫で回した。悔しい、ムカつく、恥ずかしい、嬉しい……悠仁のせいで俺の感情は滅茶苦茶だ、くそ。
大型犬みたいに豪快に頭を撫でられていると、手に持っていた紙袋の中にお菓子とは別に包装された小さな包みが目に入った。
「何これ?」
「ん?あーそれな……」
安っぽいカラフルなデザインの包装紙。どうやら片手で収まるほどの小さな何か。悠仁が珍しく口籠っているのを不思議に思いながら簡単にテープで止められたそれを開いて中身を掌の上に出した。
「キーホルダー?」
「学長が好きそうなビジュアルだな〜と思って見てたらなんか気になっちゃって。…可愛くね?」
「……そうか?」
それはぽってりとしたシルエットが印象的な真っ白い猫のキーホルダー。何故か仁王立ちで、その立ち姿といい表情といいどこかふてぶてしい。言われてみれば確かに学長お手製の呪骸達に雰囲気が似ている。悠仁はあの呪骸を「キモ可愛い」と形容するが俺にはあまり理解できないところも、それに通ずるところがある気がした。
「因みに俺はこっちな」
「?」
そう言って突然くるっと90度横を向いた悠仁が何かを視線で誘う。その目線に釣られて俺もそちらを見遣ると彼の背負っていたリュックになんとも形容し難い虎のキーホルダーが揺れていることに気付いた。こちらは横になっておっさんのように床に肘をつくだらしのない格好をした虎だった。言われなくとも俺のキーホルダーと同じシリーズの物だと分かる。
「他のやつには内緒な?この歳でお揃いって流石にちょっと恥ずいし」
「おそろい……」
自身の頰をぽりぽりと掻きながらはにかむ悠仁を横目に、俺は悠仁の言葉を復唱する。デカくて顔に傷があり目つきも悪い、口を閉じれば途端に威圧感を感じてしまう少々厳ついこの男が、可愛いという理由でへんてこなお揃いのキーホルダーを買ってくるなんて。
「ふっ、」
「あ!何笑ってんだよ!」
「いやだって、お揃いって…しかもキーホルダー…っ顔に似合わねぇんだよ…」
「はあ?!文句があるなら返せ!」
堪えきれず吹き出した俺を見て、顔を真っ赤にした悠仁は吠えながら俺の手の中のキーホルダーを奪おうと試みる。
「やだよ!ふざけんな!こっち来んじゃねぇ!離れろ!」
悠仁に迫られ、もつれるように二人して室内へと入ってしまう。狭い玄関でデカい男二人がやいやい言いながら一つのキーホルダーを奪い合う。そうこうしてる内に俺は壁と悠仁に挟まれる形で身動きが取れない体勢になってる事に気付いた。悠仁の声、体温、呼吸、全てを至近距離に感じてしまい、俺の心臓は一気に暴れ始める。
「、ちけえよ…」
「あ、わり……」
悠仁も距離感の異常さに気付いたらしく、すぐに離れてくれたが、その耳は仄かに赤い。
「「……」」
勘違いで無ければ、狭い室内に色めいた空気が漂い始めた気がしてなんだか気まずい。湿度が少し上がったような気もする。着ていたTシャツが微かに肌に張り付いて思わず襟元をパタパタと煽いだ。何を言おうか考えていると先に悠仁が勢いよくその口を開いた。
「五条から好きって言われてちょっと浮かれちまってたわ、悪いな!気に入らなかったら別に使わなくて良いから!じゃあもう行くな、夜更かしすんなよ!」
いつもみたいに快活な笑顔で勢いよく捲し立てると、俺の肩をバシバシと叩いて悠仁はその勢いのまま部屋を飛び出して行ってしまった。
「……は?」
その時、俺はやっと理解した。悠仁の言葉と手の中の湿った温いキーホルダー。
俺が思っていたよりもずっと、ちゃんと、悠仁は俺のことをそういう意味で好きなのかもしれないと。