貴方との距離 「また来たのか……。別に、嫌とは言っていない」
統合失調症。そう診断された彼女は、歌舞輝町の路地裏で暴れていたところを七篠メイに発見され、一番街医院に運ばれてきた。先月のことだっただろうか。
雪原和哉は闇医者だ。であるから、統合失調症に効く薬を処方出来ない訳では無い。が、彼女にオーバードーズの癖がある事を前回の来院時に知ったのであまり強い薬は出さないようにした。
だと言うのにも関わらず、彼女は性懲りも無くオーバードーズを繰り返し、震える足で訪ねてきたのであった。
彼女は拒絶される事に酷く嫌悪感を覚えるようであるからなるべく優しい言葉を、と「嫌とは言っていない」と付け加えたことによってか、それとも敬語ではなく友人と話すかのような口調に変えたからかは分からないが、彼女に若干の安堵の表情が見えた。
患者のためなら普段の愛想のなさも何処へやら、雪原はなるべく笑顔で彼女に尋ねた。
「今回は何を飲んだんだ?こうしてここまで来られているという事は、恐らく過去のように大量に飲んだわけではないだろう」
「デパスを……4シート、と、あと、適当に余っていたものを……」
動きがふわふわとしてぎこちないのはそのせいか、と雪原が納得する。前回向精神薬を合わせて16シートも飲み干して運ばれ、胃洗浄を施した事に比べればかなり彼女の衝動は抑えられているのだろう。
だが、
「デパスは処方していない筈だが……。どこで手に入れた?以前聞いた時には飲み終えてしまって手元には無いとのことだったが」
びく、と彼女の華奢な肩が怯えたように跳ねる。
「FINEで、薬を売ってくれるって人に……も、もら、……買いました……」
いくら治安が以前よりもマシになったとはいえ、このように少年少女に処方に無い薬を売りつけて金にする輩は消えなかったようだ。特対か、あるいはハロー探偵事務所かに話をしてみるのもいいかもしれない。
怯えたように見上げる彼女の視線に自らのそれを合わせ、ゆっくりとその肩を掴む。
「素直に答えてくれてありがとう。それに、以前より飲む錠剤の数が減っている。衝動性が収まっているのかもしれないな」
偉い、と付け加えると彼女の口角が少しだけ上がった。
せんせい、と舌足らずに呼ばれる。
「どうした?」
「私がこうやって薬飲むの辞められたら、もっと褒めてくれる?」
******
雪原和哉は闇医者だ。であるが、何も法外な金額を患者には吹っ掛けたり等はしない。1人でも多くの人間を救うために、罪人だろうが誰だろうが救うための闇医者である。
1度この一番街医院という箱の中に入ってしまえば、その全ては等しく雪原の大切な患者だ。
医者と患者。それ以上と以下の関係にもなり得ないが、そこには確かな信頼が築かれている。
だが、このように下心をもった患者と接する事は多くはなかった。
せんせい、と自分の名前を呼ぶ声は、期待に満ちて弾むようだ。
思わず頭を抱えたくなるが、雪原は堪えて患者専用の作り笑顔を崩さないようにする。
医者と患者。だからこそ、雪原は患者に無償の愛と奉仕を与える事が出来るのだ。だと言うのに、今求められているのはそうではない、人と人の愛情の関係性だ。
大学の頃に少しばかり努力して身に付けた社交性によって彼女の好意に気がつくことが出来たが、それ故に雪原は困り果ててしまった。
患者のためと思って、黙って言うことを聞いて恋人のように褒めてやるのがいいのだろうか?それとも、患者は患者であるときっぱり断り、今までの関係を続けるべきなのか。
「褒めてやることは……できる。すると約束しよう」
やった!と声を弾ませる彼女に、「だが」と付け加える。
「それだけだ。君が薬を過度に飲まなくなったら褒める。病状が寛解に近づいても褒めると誓おう。だが、それ以上は俺に求めないでくれ」
突き放してしまうときっと彼女の不安定な精神はすぐに地に落ちてしまうだろう。
ゆっくりと、だがなるべく早く、言葉を紡ぐ。
「君はあくまでも俺の患者。それを忘れずにいてくれるなら、俺は君に寄り添おう」
彼女の瞳が不安そうに揺れる。この人の言葉を信頼していいのか、見定めているような、そんな表情だった。
5秒ほど見つめあってから、彼女の瞳が柔らかく弧を描いた。
「先生が言うなら、それがいい。褒めて欲しいから……」
満足そうに笑う彼女の顔には、もう不安は残っていなさそうに見えた。
******
約束通り、彼女はオーバードーズをすることはなくなった。
あの時のやり取りから4回の定期検診──大体ひと月に2回ほど行っているので、2ヶ月間になるだろうか──が行われているが、その期間、彼女は見事オーバードーズをすることなく、雪原の言いつけ通りに処方された薬を適切に飲んでいた。
「今回もよく頑張ったな」
「えへへ、先生が褒めてくれるから頑張れるよ」
「なら良かった」
彼女を褒めると決めた自分の判断が間違っていなくて良くて。
そんな言葉はグッとこらえて、彼女の頭をぽんぽんと撫でる。
最初は雪原は患者の願いであろうと頭を撫でるなんて、と拒否していたが、きちんと約束を守った上での2回目の診察時にせがまれ、つい許可してしまったのだ。
心地よさそうに目を細める彼女の姿に、猫のようだと思う。
公園で餌を貪る鳩ではなく、猫。
患者はやはり自身の大切なものとは密接に結びつかない、線を引いた関係性であるのだと実感する雪原を他所に、彼女はもっと、と甘えるように頭を擦り付けた。
エスカレートしない程度にかわしていたつもりだが、彼女の思いは留まることを知らないようで、次々と要求が増えていく。
手を繋いで欲しいだの、病院の外で会いたいだの、患者のためと思えば出来なくはないお願いではあったが、他の患者と差をつけるようなことは雪原はしたくなかった。
だが、問題は彼女が統合失調症である事であった。
幻覚や幻聴はいつもの事であるが、その幻覚の中に雪原が現れたというのだ。
雪原に見捨てられ、邪険な扱いを受ける妄想に囚われる彼女は安定している時はこうして甘えてくれるものの、そうでない時は雪原に脅え、暴れるようになっていた。
そんな彼女を静める為によく効いたのが、雪原が彼女を抱きしめるという行為であった。
暴れるのを押さえ付ける為とはいえ、雪原のした行動がトリガーになり彼女はより一層雪原に心を開き、もっと触れて欲しいと願うようになってしまったのだ。
せんせい、と白衣の襟を掴まれ、その内側にくるまるように距離を詰めてくる彼女に、雪原は観念したようにその腰に腕を回した。
えへ、とはにかむ彼女の背をさすってやると、安心したように目を閉じる。
これ以上幻覚の類に惑わされて病状が悪化しないように、彼女の要望を聞きいれて「特別扱い」をしてやるべきなのか、雪原は判断に迷っていた。
******
それから半年が経った頃。彼女の容態は安定し、幻覚や幻聴も鳴りを潜めた。いや、安定した、と言うよりも消耗した、というのが正しいのだろうか。
統合失調症の寛解までの過程のうちの休息期に入ったのだ。
統合失調症は初期の頃は何となく不眠になったり、イライラしたりしていたのが以前の彼女のような急性期に入ると幻聴や幻覚が見えるようになり、不安で暴れ出すことが多くなる。
そして、休息期。これは幻覚などの目立った症状が消える代わりに、やる気や元気が起こらなくなってしまうのだ。
寛解に近づいたことは間違いない。
雪原が診察に来た彼女を褒めると、彼女はぼんやりとしながらもゆっくりと笑顔を作った。
「せんせい、お願いがあるの。聞いてくれる?」
「俺に出来ることなら」
「せんせいと、一日だけでいいから2人で過ごしてみたいの」
雪原の表情が眉に皺を寄せたまま固まった。
ここまで協力的に、実際にオーバードーズをすることも無く治療に励んできた彼女のお願いだ。
聞いてやりたいと思わないこともないが、急患というのはいつ来るものか分からない。それ故に雪原は医院の宿直室で寝泊まりし、ナースコールに迅速に対応するために麺の類は昼飯時に食べないよう気を遣っている。
つまり、雪原に「空いている一日」というものは存在しないのだ。休憩時に屋上でタバコを吸ったり、公園で鳩に餌をやる、その程度。
だというのに。
「前に言ったことを忘れているわけでは無いだろうな」
「忘れてないよ、せんせいの言ったことだもん。私は患者。せんせいの、ね」
はぁ、と思わずため息が出そうになるのをこらえる。患者の前で相手を不安にさせるような態度をとってはいけないという、雪原の矜恃がそうさせた。
「医者と患者が2人で出歩く?無理だろう、それは」
「無理じゃないよ、もし新しい患者さんが来たら先生は何時でも戻っていいよ。ちゃんと、待っていられるから。そうしたら、会えなかった時間だけ、別の日にでも埋めて欲しいな。」
2度目のため息をこらえ、雪原は眉間にグリグリと指を押し付ける。
「君がここまで順調に治療に協力してくれて、快方へ向かっているのは良い事だ。俺の治療だけでは……、君自身の力無しにはここまで早く回復する事は無かっただろう」
だとしても、ダメだ。
その言葉は、目に涙を溜めてうるうると見上げる彼女を見て引っ込んでしまった。
断らなければ、ならないのに。つい、その瞳に惹き込まれてしまう。
「ね、せんせい、」
約束、と右手の小指を取られ、掴まれる。
振り払えなかった。
「全部、せんせいの為に頑張ったの。患者扱いでいいから、一日だけそばにいて」
******
そうして、奇妙な一日が始まった。
先生はいつも休みを取らなさすぎるんですから、この機会に外に出るくらいしてくださいよ、と言う看護師達にお膳立てされてしまい、雪原に逃げ道は無かった。
本当に雪原の手が必要な急患でない限り連絡は取らない、と言われてしまえばどうすることも出来ない。
久しぶりに帰った実家で、普段着ているようなヨレたシャツではないあたたかなニットに袖を通す。
こんな服買ったっけか、などと思いながらも身支度を整え、彼女と約束をしたカフェへ向かった。
先月入院してきたあの男性はどうしているだろうか、一時退院を許可した女性は、と雪原の思考は患者の事でいっぱいであった。が、カフェの前で寒そうにしながらも待っていた彼女を見て、「彼女も自分の患者であった」と再確認し、笑顔を作った。
「おはよう。待ち合わせよりも随分早いんだな」
そう声をかけると、彼女の顔がぱあっと花開くかのように明るくなった。
「せんせい!えへへ、お外で会う先生だ!嬉しいな、おはよう!待ちきれなくって1時間前に着いちゃってました」
そう言う彼女の耳と手は真っ赤にかじかみ、微かに震えていた。
先に中に入っていればよかったものを、と思ったが、彼女に手を取られたのでエスコートするようにして店内へ入った。
さむーい!と震える彼女にコーヒーと紅茶どっちがいいか尋ねる。
ココアがいい、と言われたのでその通りにココアと、自分の分の緑茶を頼んだ。
「こんなに寒いのに緑茶なの?」
「普段からよく飲んでいるからな。それより君、どうしてこんなに寒いのにそんな服を着ているんだ」
気付いてくれた!?と目を輝かせ、彼女が今日のコーデの推しポイントとやらを語ってくれる。
寒がりな雪原のために室内デートを提案した彼女は、そうなれば自然と座る回数の方が多くなるだろう、と上半身に装飾が着いた服装を選んできたらしい。なるほど確かにこうして向かい合って座っていても、そのフリルの数の多さが見て取れた。
「だとしてもその脚はないだろう」
「言い方ひどいよ〜!現役JKの生足だよ?ニーハイだよ?」
「そうか」
「かわいいって言ってよ〜!」
「可愛いんじゃないか」
っ、と饒舌だった彼女が言葉を詰まらせる。
「急に、そういうの……ずるい」
「言って欲しかったんじゃなかったのか。患者の期待には応える、それだけだ」
「そうだけど……そうじゃなくて……」
もごもごと何かを言いたそうにする彼女を他所に運ばれてきた緑茶に口をつける。
「でも、先生も今日、なんだかオシャレだよね。見た事ない服着てる……。意識してくれてた?」
ふごっ、と飲みかけていた緑茶を吹きかけて、雪原は気道に入った液体を取り除こうとゲホゲホ噎せる。
「っは、……そんなつもりでは無かったんだが……」
「あはは、でも嬉しいよ。本当に特別扱いされてるみたいで」
追加でハニートーストとミートパイを頼み、お昼ご飯とする。
黙々とミートパイを頬張る雪原に、ハニートーストの上に乗ったアイスが溶けるのもかまわず彼女は話題を投げかけた。
普段はどんな食事をしているのか、どんな服を着ているのか。患者という立場では知り得ない事を聞きたがる彼女に、雪原はなるべく愛想良くを心がけつつ、会話を躱していた。
「せんせい、あーん」
「……なんの真似だ?」
「食べきれないから。先生にも分けてあげる」
「せめてスプーンは自分のものにさせてくれ……」
カトラリーケースからナイフを取り、ハニートーストの周りを切り取って口に運ぶ。
「えっせんせぇそれ食べるの?」
「は?食べるだろう……。食パンは器じゃないんだから」
「でもハニートーストだよ?もうおなかいっぱい」
「勿体ないだろう。それに君は体重が軽い。自分で頼んだんだからせめて食べ切るべきだ」
診察時に薬の量を決めるために測った時の体重の事を言われているのであろう。
あくまで「患者」として扱われていることに彼女が俯いた。
「……俺も手伝うから」
「はぁい」
しぶしぶ、というように彼女もハニートーストをつつき始める。そうして2人で食べ進めれば、あっという間に完食してしまった。
「ご馳走様!」
「ご馳走様」
「どうだった?せんせい、このお店のメニュー全部美味しかったでしょ?」
「まあ……そうだな。たまになら悪くない」
そんな会話をしながら財布を取り出す雪原に、彼女が待ったをかける。
「せ、せんせい?私は割り勘のつもりでいたんだけど……」
「俺は俺が全部支払うつもりだった。少なくとも医者を続けている限り、金に困るなんて事は無いからな」
「お……とな、でカッコいいけど、対等が良かったな……」
「素直に甘えていろ。いつもの態度はどうしたんだ」
「はぁい…………」
2度目の彼女の気の無い返事を聞きながら、支払いを済ませて店の外で待っている彼女の元へ向かった。
「この後はどこに行きたい??」
「君に任せる」
「それなら……せんせ、寒いの苦手だよね。室内でスポーツ出来る所があるよ!私もこの格好だしあんまり派手なことは出来ないけれど……」
と、雪原の顔が不満げに歪んだ。
「えっと……せんせい、運動ももしかしてダメ……?」
「不慣れなだけだ」
本当はスクワットもままならないのだけれど。
「じゃあ、お買い物に行きたいな!今度こそ対等な関係でデートがしたいから」
「構わない。……君は、変なところで遠慮をするな」
「普段は無遠慮って事?」
雪原は無言で話の続きを待った。
「遠慮っていうか……折角の先生とのお出かけ、後悔したくないの。かわいい服を着て、2人でご飯を食べて、買い物をしてっていう、全部を楽しみ切りたいの。いっつも先生には迷惑ばかりかけてるから…………」
そんな彼女の告白──独白と言った方が近いだろうか。を聞いて、雪原はやっと今日の彼女の本来の目的に気がついた。
これは、彼女なりの恩返しなのだ。
彼女が一番街医院に運ばれてきてからずっと、雪原の恩を感じることはあれど彼女は医療費しか雪原に支払っていない。胃洗浄を施された時も、幻覚に怯えている所を宥めてもらった時も、患者として金という対価しか支払っていないのだ。
雪原と一緒にいたいという気持ちは本当だろうが、それとは別に「何かしら自分も雪原にしてあげられることがあれば」と思っての行動だった。
回りくどい上に下心の方が多いじゃないかとは思いつつも、雪原はやっと、患者向けではない本来の笑顔を見せた。
「それで、何処へ行きたいんだ」
「アルタとかどう?買いたいお洋服があるんだよね」
「わかった」
ぎゅ、と手を握られ、前を進む彼女の手を、いけないと分かっているのに振り解けない。
患者への愛情か、それとも目の前にいる女性への憐れみだろうか。
迷っているうちにも彼女は進んでしまうので、大人しく手を握り返すと、驚いたように彼女が振り向いた。
「どうしたんだ」
「……っ、なんでも、ない」
より強く握られた手を離さないように、早くなった彼女の歩幅に合わせて歩く。
脈が速いのは早歩きのせいか、それとも。
******
「見て!このお洋服すっごく可愛い!」
「今着ている物とどう違うんだ?」
「全然違うよ!こっちはジャンスカ!私が着てるのはワンピース!」
「形以外何も変わらないだろう、ほら、色とか」
そんな事ない、と試着室へ逃げるようにかけて行った彼女の手荷物を抱え直す。思っていたよりも重いそれに雪原の体力が削られていくが、必死に耐えたのは、店員からの目線も理由の一つだっただろう。
待っている間、こんな服を普段買っているのか、と興味本位で商品の値札を見ると、彼女の年齢や収入とはあまり釣り合わないような服であったことを知った。
きっと今日のために身なりの準備をしていたのだろう。
服なんて着られれば変わらないという持論は曲げないが、「後悔したくない」という彼女の覚悟の表れである事に気がついたので、これ以上このような事を彼女の前で言うのは辞めておこう、と密かに思った。
着替え終わったのか、しゃ、とカーテンを開けて彼女が試着室から出てくる。雪原の前にスキップするようにしながら飛び出し、その場で一回転する。
「どう?可愛いでしょ!」
「可愛いな」
ぴた、と彼女の動きが止まる。
俯いているのでどうかしたのかと思い顔を見ようとすると、露骨に避けられた。
「て、店員さんもいるのに……急にそういうこと言うの……」
「言って欲しいんじゃなかったのか」
「言って欲しいけど……」
先程から可愛いと言うことを求められ、それを返す度に同じような態度を取られているが何か気にでも障っただろうかと思ったが、彼女は「なんてね、」とこちらへ向き直った。
「褒めて貰えるのは嬉しいよ。せんせいの隣に立つために選んだお洋服だもん。でも、急に褒めるのはビックリするからナシ!」
「急ではなかっただろう」
「急だったよ〜!でも、ありがとう」
お会計してくるから、と手荷物を受け取ろうとする彼女にバッグを手渡す。ズシリとした重みが手から手へと移動したが、彼女はなんて事無いようにひょいとバッグを肩にかけてレジへ向かった。
軟弱な自覚は元々あるが、なんとなく何かに負けた気がした。戻ってきた彼女に、せめて今買った服は持とうと提案するも、対等がいいの、と断られる。
もう十分外の空気を吸って普段の生活から開放されたのだからそろそろ医者としての接し方に戻りたい気分もあったが、きっと彼女の中では雪原と別れるまでがお出かけなのだろう。
エスカレーターを降りたところでジュエリーショップが目に入った。彼女の視線がそちらへ向いているのを確認し、「気になるのか」と声をかけるが、彼女は首を横に振った。
「あそこ、ペアアクセサリーのお店だよ?それとも、せんせいが私とお揃いのリング付けてくれるの?」
揶揄うように笑う彼女に、雪原も笑った。
ペアアクセサリーなんて、「医者」と「患者」の関係性ではありえない。それを彼女もわかっているのだ。
それでも目を惹かれてしまった彼女にせめて何かプレゼントくらい最後にしてやろうかという気持ちにもなるが、本当にショーケースの中はペアのものでいっぱいであった。
「もう夜も遅いし、そろそろお別れかな、せんせい」
「ああ、送っていこう」
「大丈夫だよ。それよりも先生のことを今必要としてる人がきっといるんだから、私のわがままはここまで。ね?」
そう言ってイタズラに唇に人差し指を当てられる。
仕方の無いやつだ、と笑うと彼女も笑ってくれた。
医者として、患者が家に帰るまで送るのも責務のうちだと思っていたが、そう言われてしまっては仕方がない。
待っている他の患者たちと看護師の為に帰らなくては。
「楽しかったよ、せんせ。次はもう無いだろうけど、一生今日のこと忘れないね」
「ああ、俺も楽しかった。時間が許せば、これからも小康状態の患者と1日を過ごして状態を観察するのも悪くないかもしれないな」
「え?次があるの?」
「時間が許せば、と言っただろう。仕方のないやつだな……」
にへへ、と笑う彼女に手を振って、一番街医院への帰路についた。
医院の玄関口に戻った瞬間ニヤニヤと笑みを浮かべて今日はどうだったんですか、と聞いてくる看護師の頭を軽く叩いて、いつものシャツと白衣に袖を通した。
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次に彼女と会ったのはそのすぐ翌日、彼女が救急搬送されてきた時だった。
ガクガクと震える身体をベルトにより拘束された彼女は、文字通り血反吐を吐きながら錯乱していたが、意識はハッキリしていたようで必死に「せんせ、雪原、せんせい、」と助けを求めていたのが痛々しかった。
胃洗浄が出来ないほど薬を服用してから時間が経っていると判断し、雪原が血液透析の指示を看護師たちに出す。痛い、苦しい、と暴れる彼女を抱きしめるようにして押さえつけ、その間に管を口の中へ通した。
彼女の首には何者かに絞められたかのような痕が残っており、身体中アザまみれだった。
検査の結果、彼女が飲んだのは致死量の2倍の量のカフェイン剤であったことが分かった。
長時間の透析の甲斐あってカフェインはほぼ彼女の体の中から消え、あとは後遺症に苦しむ彼女を看護師達が入れ替わり立ち替わりに面倒を見て、必要があれば拘束を増やすぐらいであった。
なぜ、彼女は昨日の今日と言うタイミングでこんなことをしたんだろうか。
どうして、その兆候に自分は気がつけなかったのだろうか。
あの日、彼女を1番近くで見ていたのは雪原だ。
彼女の意識がハッキリと戻らないことにはこんなことをした理由を知りえない。が、あそこまで寛解に近づいていた彼女のことだ。なにかワケがあったに違いない。
雪原の手は自身の携帯に伸び、自然と七篠メイの、ハロー探偵事務所の電話番号を押していた。
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医師として最大限患者に尽くすとはいえ、それでも患者への感情には線を引いていた雪原がここまで関心を示すだなんて面白い、という理由でハロー探偵事務所はいとも簡単に昨日の彼女の様子についての調査依頼を受けてくれた。
結果はこうだ。
雪原と別れた後、彼女は自身の勤務しているコンセプトカフェへ向かうも、他の男とジュエリーショップを眺めていたことを理由に客に激昂されたらしい。
その内容と言えば、提供品である酒を頭の上からかけられ、その瓶で殴打された挙句所持品を全て奪われ、ビルの窓から下のゴミ捨て場へと投げ捨てられのだという。
勿論、その中には雪原と共に彼女が買った服も入っている。
その辺りで警察に客の身は引き渡され、現在特別対策課が事件について調べているとの事だ。
彼女は容態が安定したことを期に復職することを決め、それが丁度昨日だったという。
だが事件が起き、安定していた彼女の心は急速に閉ざされ、自宅に帰った後に買い貯めていたカフェイン錠剤を全て飲んだそうだ。これは彼女の自宅の痕跡と、彼女を心配して家まで様子を見に来た同僚から証言が取れている。
ここ半年の彼女は今までよりも見るからに覇気がなくやる気もなく、それを理由にコンセプトカフェでの勤務を一時的に停止していたようだが、そんな風には昨日の彼女は見えなかった。
雪原と会う時だけ無理をしていたのだろうか。
だが、雪原といた時の彼女は心の底から幸せそうに笑っていた、そんな気がしていた。
ならば、彼女の心を殺したのはその客ではないか。
そうして彼女を追い詰めて、雪原が褒めてくれるから、と辞めていたオーバードーズを引き起こし救急搬送されるような自体を招いたのであれば、これは魂の殺人であると言っても過言ではない。
コンコン、と宿直室のドアが控えめにノックされる。
集中治療室にいた彼女の容態が落ち着いたとの事だった。
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窓から差し込む月明かりに照らされてた彼女は、虚ろな目をして空を見つめていた。
「起きて、いたのか」
「せん、せ、」
横たわったまま管に繋がれた彼女の頬に、涙が一筋溢れ落ちる。
「ごめ、なさ、……ひ、う、ごめん、なさい…………」
掠れた声ではくはくと口を動かし、やっとの思いで言葉を紡ぐ彼女の目元の雫を拭い、よしよしと頭を撫でる。
「謝らなくていい。君は悪くない」
「でも、わ、私……、やくそく……まもれ、なかった、」
「君のせいじゃない。全部知っている」
「私が、あんなワガママ言ったから、だから…………」
「俺とは本当に店を見ていただけだ。気にするような事じゃない」
ひぐ、う、と声にならない呻き声と共に涙を流す彼女を見て、もっと大声で泣きじゃくっていいんだと、自分を1番大事にして欲しいと、心底抱きしめたい気持ちに駆られた。
暴れているからではなく、泣き止んで欲しいから。もしくは、やるせない気持ちを無くしてあげたいから。
あくまで医師として。それでも、最愛の人を抱きしめるように。
拘束の少なくなった彼女の肩を抱いてやれば、もぞりと彼女が身動ぎをした。
「落ち着かせようと、してくれてるの?」
「そうだ」
「私、泣いてるだけで、暴れてないのに、」
「俺がしたくてしているんだ。君は君の感情を最優先していい。約束なんかより、君自身の健康が大切だ」
「でも、だって、」
そう言って大粒の涙をポロリと零してから、彼女はうわぁん、と大声を上げて泣いた。
「せ、折角せんせいと楽しい思い出が作れて、病気も治ってきて、お仕事頑張れるって、おも、思ってた、のに、」
「ああ、楽しかった」
「指輪だって、欲しいけれどそんなの絶対無理だって、分かってたのに、なのに、」
「ああ、そうだな」
「う、ひっく、辛いよ……痛いよ……!!全部、全部……!!」
「我慢しなくていい。全部さらけ出して良いんだ」
「もうしないって、決めてたのにまたこんなことして、せんせいのところに運ばれた自分が、1番、1番大嫌い……!!」
「…………」
薬物依存や行動依存は、そう簡単に治るものではない。
それは精神的な理由もあるし、1度依存に陥ってしまった体が満たされないと分かると患者の意志に関わらず不調になってしまう事も理由に挙がっている。
オーバードーズのように量を増やしてしまえば、再度依存の兆候が現れた際に更に多くの量を欲してしまう。辞めようとしても、離脱症状に囚われてしまうことも多い。
そんな中、「褒めて欲しい」という理由ひとつで8ヶ月を耐えきった彼女の精神力は異常な程だった。
だからこそ、こうして再度オーバードーズに手を出してしまった自分に嫌悪感と自責の念を抱いてしまうのは仕方がない事だろう。
それでも、
ぎゅう、と抱きしめる力をさらに強くすると、彼女の鼓動がバクバクと脈打っているのが聞こえた。
カフェインの後遺症。この状況。そのどちらもがそれに影響しているだろう。
「……君は、君のことが1番嫌いだと、そう言ったな」
「っ、……うん、大嫌い。折角、治したのに、」
「俺は医者だからオーバードーズの事については咎める事しか出来ない。だが、」
上体を起こして、彼女と目を合わせる。
「君にとって、君を1番大切にする術がオーバードーズしか無かったんだろう。と、個人的にはそう思う。だから、君は本当に悪くないんだ」
ゆっくりと諭すようにそう言えば、彼女の荒い呼吸が少しずつ収まっていく。
「俺は俺の患者に、自分を大切にして欲しいんだ。他にもっと方法を教えてやれなくて、すまなかった」
「ちが……そんな、こと、」
「ある。すまなかった……」
「じゃあ、最後に、一つだけ、ワガママ良い?」
「もちろんだ」
名前を呼んで欲しい、そんな健気なお願いに、雪原は笑顔で応えた。
「────、君が無事でよかった。生きていてくれて、ありがとう」
******
彼女は、助かった。雪原や看護師達の懸命な治療により、後遺症を残すこと無く自力で歩行が出来るほどにまで回復を遂げた。
統合失調症の治療の為にまだまだ一番街医院に通うことにはなるが、コンセプトカフェへの復職も叶い、通信の高校の授業にも戻ることが出来た。
そんな彼女の回復を誰よりも嬉しく思っているのは他でもない雪原自身だった。彼女を救うことが出来て、医者という仕事をしていて良かったと心の底から誇らしく思っていた。
「せんせ、定期検診来たよ」
「よく来た。茶くらい出すからゆっくりして行ってくれ」
「そういう訳にはいかないよ。私は患者、先生は医者だもん。検診だけしてちゃんと帰るよ」
「ああ、分かった」
彼女はあの事件があって以来、雪原に褒めてもらうことを強請ることが無くなった。なんなら、頭を撫でて欲しいとも、抱きしめて欲しいとも言わなくなった。
「これで、満足しているのか?」
何を、とは彼女も今更返さなかった。満面の笑みで、こう答える。
「あの時先生に名前を呼んでもらったから。他にはもう、なんにも要らない。大好きな人に抱きしめられて名前を呼んでもらって、嬉しかった。だから、もういいの」
私のワガママに付き合ってくれてありがとう、とはにかむその顔に嘘はなかった。
「私、先生のおかげで自分を大事にできてるよ。病気も治ってきたし、オーバードーズももうしてない。学校にもバイトにもちゃんと行って、自分の力で歩いてる」
今までありがとう、これからもよろしくお願いします。
そう言って、彼女は診察を受けると直ぐに診察室を出た。
「医者」と「患者」の関係。たったそれだけの関係。
その距離感が、今まで体験したどんな関係よりも彼女にとって心地よかった。強請って得たあの距離感よりも。
廊下を歩く足取りは軽く、以前のような気だるさはもう見えない。
今日も彼女は歌舞輝町で、大切な人との思い出を胸に息をする。