若者は戸惑っていた。
口煩い先輩が神妙な顔で「重要任務だ」などと言うのを信じた自分が馬鹿だった。
意気揚々と指定された場所へ行ってみると、そこには一面に置かれた水槽の数々。
先輩のオ・ソンシクはにやにやと笑いながら、新人の任務だよと言って鼻歌混じりで立ち去って行った。
小さくてもガラス製のそれはそこそこ重い。ぶつくさ独り言ちながらそれでも真面目に水槽の掃除を始めだすと時間などあっという間に過ぎていく。
「貴重な時間を」
汗だくになりながらワゴンに水槽を乗せ、各オフィスに配置して回る。
誰も自分に興味を示さないのがなおさら辛い。ソンシクも同じ思いをしていたのだろうかと思うも、何かにつけ自分に面倒事を押し付けてくる先輩の小生意気な顔つきを思い出して憐憫の情は捨てた。
最後の水槽を配置し終え、ワゴンを返却した時の事。
薄暗い備品室の隅から物音が微かに響く。
何事かと足音を忍ばせ音の元へ近づくと、どうやら人が揉めているような気配がする。
「っ、ちょっと、先輩!」
「静かに」
焦りを滲ませた声はソンシクのものだった。
そして彼の前にいるのは新人たちの憧れの存在であるイ・ジャンギルだ。
慌てた様子のソンシクを宥めるような楽しむような声色に、一体何事だろうと耳を澄ませる。
「う、んんッ」
苦し気な吐息が漏れたと思ったらあからさまに卑猥な水音がするではないか。
ソンシクとジャンギルが「そういう関係」だっただなんて信じられない!
突っ込むところが多すぎて情報処理が追い付かなかった。
ただ、ジャンギルに唇を奪われ口内を弄ばれているだろう先輩の鼻にかかった息遣いが妙に色めいていて、自分の心臓が早鐘を打つのが分かる。
逃げたい衝動に駆られるが足が思うように動かず、ただ茫然と二人のキスシーンを影から覗く羽目になってしまった。
普段意地悪く新人たちを扱き使うソンシクだが、ジャンギルの前ではこんなにもいじらしい態度をとるのかと思うと胸の奥がざわつく。
後頭部を大きな手で包み込まれ、逃げられないように腰を抑えられている。時折びくんと背が跳ねるのがとてもいやらしい。
ごくりと生唾を飲み込んだ瞬間、ジャンギルがこちらに視線を合わせた。
「!?」
最初から気づいていたのだ、この上司は。知りながらこんな破廉恥な行為に耽っているだなんて!
怒りが湧いて来るかと思ったが頭を掠めたのは戸惑いばかりだった。
まるで見せつけられている。
――こいつは俺のモンだからな。
まるでそう言われたような感覚に陥る。
挑発的なジャンギルの眼差しに気圧されすごすごと備品室をあとにした。
「おい、新人!重要任務だぞ」
「どうせ水槽掃除でしょう?」
「先輩に向かってなんだその言い草は」
あの日の出来事をソンシクは気づいていないらしい。
今日も今日とて先輩顔で面倒事を押し付けてくる。
ただ、違うのは……。
以前のようにソンシクを意地悪な先輩として見られなくなった事だ。
彼の顔を見るとあの備品室の秘め事を思い出してしまう。
甘い吐息を零すソンシクの表情を想像してしまい落ち着かなくなるのだ。
「ぼうっとしてどうした?腹でも痛いのか?」
自分よりも大分背の低いソンシクは自然と上目遣いになってしまい、気位の高い猫のような大きな瞳に覗き込まれ思わず上擦った声が漏れてしまった。
「いっ、いえ」
「ほらっ、早く行け!」
ばしんと尻を叩かれ急かされるが、内心それどころではない。
体温が上がり冷や汗が止まらない。
「ああ、何なんだよちくしょう」
思わず水槽を洗う手付きが荒くなる。
荒波のように自分を急き立てるこの感情に名前を付けるのが恐ろしい。